蒙古使御書(与大内氏書)
執筆年:建治元
蒙古使御書(西山第二書)(与大内氏書)
建治元年。五十四歳作。与西山高橋入道書。
外二ノ七。遺一九ノ六〇。縮一三一八。類一〇四三。 鎌倉より事故なく御下の由承り候てうれしさ申計なし。又蒙古の人の頸を刎られ候事承り候。日本国の敵にて候念仏、真言、禅、律等の法師は、切れずして科なき蒙古の使の頸を刎られ候ける事こそ不便に候へ。子細を知ざる人は勘へあてて候を、おごり(?)て云と思ふべし。此二十余年の間、私には昼夜に弟子等に歎申、公には度度申せし事是也。一切の大事の中に国の亡るが第一の大事にて候也。最勝王経に云「害中極重者無過失国位」等云云。文の心は一切の悪の中に国王と成て政悪くして、我国を佗国に破らるるが第一の悪にて候と説れて候。又金光明経に云「由愛敬悪人治罰善人故、乃至佗方怨賊来国人遭喪乱」等云云。文の心は国王と成て悪人を愛し、善人を科にあつれば必ず其国佗国に破らるると云文也。法華経第五に云「為世所恭敬如六通羅漢」等云云。文の心は法華経の敵の相貌を説て候に、二百五十戒を堅く持ち迦葉、舎利弗の如くなる人を、国主これを尊て法華経の行者を失なはむとするなりと説れて候ぞ。夫大事の法門と申は別に候はず。時に当て我が為国の為、大事なる事を少も勘へたがへざるが智者にては候也。仏のいみじきと申は、過去を勘へ未来をしり三世を知しめすに過て候御智慧はなし。設ひ仏にあらねども龍樹、天親、天台、伝教なんど申せし聖人、賢人等は仏程こそなかりしかども、三世の事を粗知しめされて候しかば、名をも未来まで流されて候き。所詮万法は己心に収りて一塵もかけ(闕)ず、九山八海も我身に備りて日月、衆星も己心にあり。然といへども盲目の者の鏡に影を浮べるに見えず、嬰児の水火を怖れざるが如し。外典の外道、内典の小乗、権大乗等は、皆己心の法を片端片端説て候也。然といへども法華経の如く説ず。然れば経経に勝劣あり、人人にも聖賢分れて候ぞ。法門多多なれば止候畢。鎌倉より御下りそうそうの御隙に使者申す計なし。其上種種の物送り給候事悦入て候。日本は皆人の歎き候に日蓮が一類こそ歎の中に悦び候へ。国に候へば蒙古の責はよも脱れ候はじなれども、国のために責られ候し事は天も知しめして候へば、後生は必ずたすかりなんと悦候に、御辺こそ今生に蒙古国の恩を蒙らせ給て候へ。此事起らずは最明寺殿の十三年に当らせ給ては御かりは所領にては申す計なし。北条六郎殿のやうに筑紫にや御坐なん。是は各各の御心のさからせ(忤逆)給て候也。人の科をあてる(当)にはあらず。又一には法華経の御故にたすからせ給て候ぬるか。ゆゆしき御僻事なり。是程の御悦まいりても悦びまいらせ度候へども、人聞つゝましく(包兼)候てとどめ候畢。 乃時
日蓮花押
西山殿御返事
(微上ノ五。考二ノ三。)