爾前得道有無御書

執筆年:正元二
 爾前当分跨節得道有無の事。  仏滅後、月氏には一千年之間、論師は心に存じて之を弘めず。仏法漢土に渡りて、五百余年、二千六十余の訳者・人師も此の義無し。陳隋の初めに天台智者大師一人始めて此の義を立て給ふ。日本国には欽明より桓武に至るまで二百余年、又此の義を知らず。伝教大師始めて之を覚り、粗之を弘通したまへり。其の後、今に至るまで四百余年、漸漸に習ひ失せて、当世は知る人之無し。纔かに之を知れども、夢の如く囈語(ねごと)の如し。今日蓮宿習有りて、粗之を覚り知らす。此の国の道俗の習ひ、高慢無智にして日蓮を蔑如して之を習はず。然るに国主は狂へるが如く、万民は、矜を為し、終に苦海に沈まん歟。諸人未だ之を知らず。余宗余家の学者が此の義を習はん時は、先づ爾前の経経に当分跨節之得道之由、粗之を知らしめて、復返りて彼の義を破して之を建立する也。  所謂、天台宗の意は、四教を立て一代を摂尽す。四教とは、蔵通別円是れ也。蔵に三有り。所謂、阿含の蔵・方等の蔵・涅槃の蔵也。尽くして一の蔵と為し、三蔵教と称す。通に三有り。所謂、方等の通・般若の通・涅槃の通也。束ねて一の通と為す。別に四有り。所謂、華厳の別・方等の別・般若の別・涅槃の別なり。束ねて一の別と為す也。円に五有り。所謂、華厳の円・方等の円・般若の円・法華の円・涅槃の円なり。束ねて一の円と為す也。一代を以て、四教に摂尽するに、一句一字も残らず。此の四教の中に三蔵は、小乗教也。七賢七聖を立つ。七賢は未断見思の位也。然りと雖も、忍世第一に入れば、不退の位に住して、永く四悪趣に還らず。世世生生に人天に往き生まれて終に七賢に入る。七聖とは、已断見思の位也。所謂、見惑を破する故に四悪趣を離ると、思惑を破する故に三界の生を離ると、是れ也。縁覚も此の如し。菩薩も亦見思を断じて、成仏す。当分の得道とは是れ也。  通教は大乗の初門也。十地有り。乾慧と性地との二地は、賢位にして未断見思也。三蔵の七賢の如し。第三地より第十地に至るまで、八地有り。声聞は三地より七地に至るまで見思を断じ畢る。縁覚は第八地に留まり、菩薩は第九地・第十地に至りて見思を断尽して分に成仏す。是れも又当分の得道也。  別教は、五十二位を立つ。所謂、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚也。十信に見思を伏す。蔵の七賢、通の初地・二地の如し。十住は初住に見を断じ、二住より七住に至るまで思惑を断尽す。蔵の七賢・通の下の八地の如し。十住の下の三住に上品の塵沙を断じ、十行・十回向に中品の塵沙を尽くす。十回向の後心に無明を伏し、初地に至るまで一品の無明を断じ、乃至等覚・妙覚に十二品を断ず。此の仏は、二種の生死を超過す。  円教にも同じく五十二位を立つ。其の名は別教の如し。其の義は水火の異なり也。第一の初心に見惑を断じ、第二信より第七信に至るまでに思惑を断ずること、蔵通の七聖下の八地と、別の十住の初住より七住に至るまでの如し。八・九・十の後の三信は次いでの如く、上中下の三品の塵沙を断ず。第十信の後心には無明を伏すること、別の十回向の後心の如し。十住・十行・十回向・十地・等・妙には四十二品の無明、之を断尽し畢んぬ。此れは即ち爾前の三の円の跨節の得道也。  今浄土の三部経は天台の意に依れば、前四味之中には方等部也。具さに四教を説く。観経の中に蔵を以ては阿含・方等・涅槃の三蔵教を摂尽す。通を以ては方等・般若・涅槃の通、之を摂尽す。別を以ては華厳・方等・般若・涅槃の別、之を摂尽す。円を以ては華厳・方等・般若・法華・涅槃の円、之を摂尽す。一代聖教をば観経に摂尽し、八万法蔵をば阿弥陀の三字に収蔵す。末代の凡夫に南無阿弥陀仏と唱へしむ。豈に大善根に有らず乎。其の上、観無量寿経之心は、末代の悪世を以て面と為し、未断惑の凡夫に六字の名号を唱へしめ、他力本願に乗じて同居の浄土に往生せしむ。此れ偏に天台大師の本意、龍樹菩薩の所欲也。三国一同の正義也。  但し二乗作仏と久遠実成計りは観経に之無し。末代の凡夫は二乗作仏に非ず。久遠実成の教主釈尊の事も我等は之を沙汰して何か為せんと。此の外、華厳宗・三論宗・法相宗・真言宗・禅宗・浄土宗等は天台の教相を一分も之を用ひず。各正に我が宗の元祖を崇重し、曾て自宗の依経を重すること、宛も天台の法華経を信仰するが如し。  所謂、華厳宗は、法華経を以て華厳経の方便と為し、方便の法華経すら尚お得道有り。真実の華厳経、何ぞ成仏無からん乎と。真言宗は、顕密の二道を分かてり。法華経は顕教にして釈尊の所説なり。民の万言の如く空拳を捧げて小兒を誑かすが如し也。密教は大日如来の所説なり。天子の一言の如し也。猶お雲霧を払ひて満月を見るが如し。空拳の方便たる法華すら尚お当分之得道之有り。最上秘密之真言経に豈に跨節の成仏、之無からん乎。秘密は三国大同治国の法、諸宗一帰の密宗也と。法相宗の云く 法華の一乗は方便の教、深密の五意は真実の教なり、等と云々。三論宗の云く 般若経は三世諸仏の智母、一切衆生の慈父なり。後生は且く之を置く。今生を以て之を案ずるに、帝釈・龍王、修羅と戦ふ之時、何れの経をか用ひん。仁王経是れ也。普明の死を脱する、豈に仏力に非ず乎。現を以て当を推するに、第一の秘法也。月氏・漢土・日本、異なると雖も、三国一同に最初の本宗也。何ぞ邪義を以て当分跨節の得道之無しと為さん乎。其の上、法華・涅槃の二経を見聞するに、爾前の得益、之を許すこと之多し。序分に列ぬる二界八番の衆、皆爾前得道の人人也。舎利弗、方等の時を挙げて云く_我昔従仏。聞如是法。見諸菩薩。授記作仏〔我昔仏に従いたてまつりて是の如き法を聞き、諸の菩薩の授記作仏を見しかども〕。譬諭品に云く_羊車。鹿車。牛車〔羊車・鹿車・牛車〕。涌出品に云く_始見我身。聞我所説。即皆信受。入如来慧〔始め我が身を見我が所説を聞き、即ち皆信受して如来の慧に入りき〕云云。涅槃経に云く_我初成道等云云。天台の云く ̄此妙彼妙義無殊〔此の妙、彼の妙、義において殊なることなし〕云云。或は云く ̄初後仏慧円頓義斉〔初後の仏慧、円頓の義ひとし〕云云。或は云く ̄他経但記菩薩不記二乗〔他経は但菩薩に記して二乗に記せず〕等云云。又妙楽の云く ̄菩薩処処得入〔菩薩は処々に得入す〕等云云。爾前の得道、之を許すの文、釈以て此の如し。其の上一大事の大難之有り。法華已前、四十余年之間の得道の人人は、如何。此の如き重重の大難之有り。此れ等の諸難一一に之を挙げて条を取るに大火に乾草を投げ、大海に小火を入るゝが如し。自宗・諸宗、重重の不審を打ち滅し畢んぬ。爾前の経経には一分も得道無しと申し候也。然りと雖も身に当りて易き事国土に之を知らざる歟。諸人不審を残し候歟。我慢を捨てゝ之を学ばゞ何ぞ之を悟らざらん乎。 日 蓮 花押