是名五郎太郎殿御返事

執筆年:文永四
 漢の明、夜夢みしより迦竺二人の聖人初めて長安のとぼそに臨みしより以来、唐の神武皇帝に至るまで、天竺の仏法震旦に流布し、梁の代に百済国の聖明王より我が朝の人王三十代欽明の御宇に仏法初めて伝ふ。其れより已来一切の経論・諸宗・皆日域にみてり。  幸いなるかな生を末法に受くるといへども、霊山のきゝ耳に入り、身は辺土の居せりといへども、大河の流れ掌に汲めり。  但し委しく尋ね見れば、仏法に於て大小・権実・前後のおもむきあり。若し此の義に迷ひぬれば、邪見に住して、仏法を習ふといへども、還りて十悪を犯し、五逆を作る罪よりも甚だしきなり。爰を以て世を厭ひ道を願はん人、先づ此の義を存ずべし。例せば彼の苦岸比丘等の如し。故に大経に云く_若し邪険なる事有らんに、命終の時当に阿鼻地獄に堕つべしと云へり。  問ふ 何を以てか邪見の失を知らん。予不肖の身たりといへども、随分後世を畏れ仏法を求めんと思ふ。願はくは此の義を知らん。若し邪見に住せば、ひるがへして正見におもむかん。  答ふ 凡眼を以て定むべきにあらず。浅智を以て明らむべきにあらず。経文を以て眼とし、仏智を以て先とせん。但恐らくは、若し此の義を明さば、定めていかりをなし、憤りを含まん事を。さもあらばあれ、仏勅を重んぜんにはしかず。其れ世人は皆遠きを貴み近きをいやしむ。但愚者の行ひなり。其れ若し非ならば遠くとも破すべし。其れ若し理ならば近くとも捨つべからず。人貴むとも非ならば何ぞ今用ひん。 伝へ聞く、彼の南三北七の十流の学者、威徳ことに勝れて天下に尊重せられし事、既に五百余年まで有りしかども、陳隋二代の比、天台大師是れを見て邪義なりと破す。天下に此の事を聞いて大きに是れをにくむ。然りといへども、陳王・隋帝の賢王たるに依て、彼の諸宗に天台を召し決せられ、邪正をあきらめて、前五百年の邪義を改め、皆悉く大師に帰す。又我が朝の叡山の根本大師は、南都・北京の碩学と論じて、仏法の邪正をただす事皆経文をさきとせり。 今当世の道俗貴賎、皆人をあがめて法を用ひず、心を師として経によらず。之に依て或は念仏権教を以て大乗妙典をなげすて、或は真言の邪義を以て一実の正法を謗ず。此れ等の類豈に大乗誹謗のやからに非ずや。若し経文の如くならば、争でか那落の苦しみを受けざらんや。之に依て其の流れをくむ人もかくの如くなるべし。  疑て云く 念仏・真言は是れ或は権或は邪義、又行者或は邪見或は謗法なりと。此の事甚だ以て不審なり。其の故は弘法大師は是れ金剛薩・の化現、第三地の化身なり。法然上人は大勢至菩薩の化身なり。かくの如きの上人を豈に邪見の人と云ふべきや。  答て云く 此の事本より私の語を以て是れを難ずべからず。経文を先として是れをただすべきなり。真言の教は最極の秘密なりと云ふは、三部経の中に於て蘇悉地経を以て王とすと見えたり。全く諸の如来の法の中に於て第一也と云ふ事を見ず。凡そ仏法を云ふは、善悪の人をゑらばず皆仏になすを以て第一に定むべし。是れ程の理をば何なる人なりとも知るべきことなり。若し此の義に依らば経と経とを合せて是れを糺すべし。今法華経には二乗成仏あり。真言経には之なし。あまつさへ、あながちに是れをきらへり。法華経には女人成仏之あり。真言経にはすべて是れなし。法華経には悪人の成仏之あり。真言経には全くなし。何を以てか法華経に勝れたりと云ふべき。 又若し其の瑞相を論ぜば、法華には六瑞あり。所謂雨華地動し、白毫相の光り上は有頂を極め下は阿鼻地獄を照らせる是れ也。又多宝の塔大地より出で、分身の諸仏十方より来る。しかのみならず、上行等の菩薩の六万恒河沙五万四万三万乃至一恒沙半恒沙等大地よりわきいでし事、此の威儀不思議を論ぜば何を以て真言・法華にまされりと云はん。 此れ等の事委しくのぶるにいとまあらず。はづかに大海の一滴を出だす。爰に菩提心論と云ふ一巻の文あり。龍猛菩薩の造と号す。此の書に云く ̄唯真言法中即身成仏故是説三摩地法。於諸経中闕而不書〔唯真言法の中のみに即身成仏する故に是の三摩地の法を説く。諸経の中に於て闕けて而も書かせず〕と云へり。此の語は大に不審なるに依て、経文に就いてこれを見るに、即身成仏の語は有りとも、即身成仏の人全くなし。たとひありとも、法華経の中に即身成仏あらば、諸教の中にをいて、かい(闕)て而もかゝずと云ふべからず。此の事甚だ以て不可なり。但し此の書は全く龍猛の作にあらず。委しき旨は別に有るべし。設ひ龍猛菩薩の造なりとも、あやまりなり。故に大論に、一代をのぶる肝要として、般若は秘密にあらず二乗作仏なし。法華は是れ秘密なり。二乗作仏ありと云へり。又云く 二乗作仏あるは是れ秘密、二乗作仏なきは是れ顕教と云へり。若し菩提心論の語の如くならば、別しては龍樹の大論にそむき、総じては諸仏出世の本意、一大事の因縁をやぶるにあらずや。 今龍樹・天親等は皆釈尊の説教を弘めんが為に世に出づ。付法蔵二十余人の其の一也。何ぞ此の如き妄説をなさんや。彼の真言は是れ般若経にも劣れり。何に況んや法華に竝べんや。爾るに弘法の秘蔵宝鑰に、真言に一代を摂するとして、法華を第三番に下し、あまつさへ戯論なりと云へり。謹んで法華経を披きたるに、諸の如来の所説の中に第一なりと云へり。又已今当の三説に勝れたりと見えたり。又薬王の十論の中に法華を大海にたとへ、須弥山にたとへたり。若し此の義に依らば、深き事何ぞ海にすぎん。明らかなる事何ぞ日輪に勝れん。高き事何ぞ須弥山に越ゆる事有らん。諭を以て知んぬべし。何を以てか法華に勝れたりと云はんや。大日経等に全く此の義なし。但己が見に任せて永く仏意に背く。 妙楽大師曰く ̄請有眼者委悉尋之〔請ふ、眼有らん者は委悉に之を尋ねよ〕と云へり。法華経を指して華厳に劣れりと云はば、豈に眼ぬけたるものにあらずや。又大経に云く_若し仏の正法を誹謗する者あらん、正に其の舌を断つべしと。嗚呼誹謗の舌は世世に於て物云ふことなく、邪見の眼は生生にぬけて見ること無からん。加之、若人不信 毀謗此経 乃至 其人命終 入阿鼻獄〔若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 乃至 其の人命終して 阿鼻獄に入らん〕の文の如くならば、定めて無間大城に堕ちて無量億劫のくるしみを受けん。善導・法然も是れに例して知んぬべし。誰か智慧有らん人、此の謗法の流れを汲みて共に阿鼻の焔にやかれん。行者能く畏るべし。此れは是れ大邪見の輩也。 所以に如来誠諦の金言を按ずるに云く 我が正法をやぶらん事は、譬へば猟師の身に袈裟をかけたるが如し。或は須陀・・斯那含・阿羅漢・辟支仏及び仏の色心を現じて我が正法を壊らんといへり。今此の善導・法然等は種種の威を現じて、愚痴の道俗をたぶらかし、如来の正法を滅す。 就中、彼の真言等の流れ、偏に現在を以て旨とす。所謂畜類を本尊として男女の愛法を祈り、荘園等の望みをいのる。是の如き少分のしるしを以て奇特とす。若し是れを以て勝れたりといはば、彼の月氏の外道等にはすぎじ。彼の阿竭多仙人は十二年の間恒河の水を耳にたたへたりき。又耆菟仙人の四大海を一日の中にすひほし、・留外道は八百年の間石となる。豈に是れすぎたらんや。又瞿曇仙人が十二年の程、釈身と成り説法せし、弘法が刹那の程にびるさな(毘盧遮那)の身と成りし、其の威徳を論ぜば如何。若し彼の変化のしるしを信ぜば即ち外道を信ずべし。当に知るべし、彼威徳ありといへども、猶お阿鼻の炎をまぬがれず。況んやはづかの変化にをいてをや。況んや大乗誹謗にをいてをや。是れ一切衆生の悪知識也。近付くべからず。畏るべし畏るべし。 仏曰く_悪象等に置いては畏るゝ心なかれ。悪知識に於ては畏るゝ心なかれ。悪知識に於ては畏るゝ心をなせ。何を以ての故に、悪象は但身をやぶり意をやぶらず。悪知識は二共にやぶる故に。此の悪象等は但一身をやぶる、悪知識は無量の身無量の意をやぶる。悪象等は但不浄の臭き身をやぶる、悪知識は浄身及び浄心をやぶる。悪象は但肉身をやぶる、悪知識は法身をやぶる。悪象の為にころされては三悪に至らず。悪知識の為に殺されたるは必ず三悪に至る。此の悪象は但身の為のあだ也。悪知識は善法の為にあだ也と。故に畏るべきは大毒蛇・悪鬼神よりも、弘法・善導・法然等の流れの悪知識を畏るべし。  略して邪見の失を明かすこと畢んぬ。此の使あまりに急ぎ候ほどに、とりあへぬさまに、かたはしばかりを申し候。此の後又便宜に委しく経釈を見調べてかくべく候。穴賢穴賢。外見あるべからず候。若し命つれなく候はば仰せの如く明年の秋下り候て且つ申すべく候。恐恐。 十二月五日 日 蓮 花押 星名五郎太郎殿御返事