新尼御前御返事
執筆年:文永十二
真筆あり
あまのり(海苔)一ふくろ送り給了んぬ。又大尼御前よりあまのり畏こまり入て候。
此の所をば身延の嶽と申す。駿河の国は南にあたりたり。彼の国の浮島がはらの海ぎはより、此の甲斐の波木井の郷身延の嶺へは百余里に及ぶ。余の道千里よりもわづらはし。富士河と申す日本第一のはやき河、北より南へ流れたり。此の河は東西は高山なり。谷深く、左右は大石にして高き屏風を竝べたるがごとくなり。河の水は筒の中に矢を射出したるがごとし。此の河の左右の岸をつたい、或は河を渡り、或時は河はやく石多ければ船破れて微塵となる。
かかる所をすぎゆきて、身延の嶺と申す大山あり。東は天子の嶺、南は鷹取の嶺、西は七面の嶺、北は身延の嶺なり。高き屏風を四つついたて(衝立)たるがごとし。峯に上りてみれば草木森森たり。谷に下りてたづぬれば大石連連たり。大狼の音山に充満し、猿猴のなき谷にひびき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひびきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬になる。たまたま見るものはやまかつ(山人)がたき木をひろうすがた、時時とぶらう人は昔なれし同法(朋)也。彼の商山の四皓が世を脱れし心ち、竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ。
峯に上りてわかめやを(生)いたると見候へば、さにてはなくしてわらびのみ竝び立ちたり。谷に下りてあまのりやをいたると尋ぬればあやまりてやみるらん、せり(芹)のみしげりふ(茂伏)したり。古郷の事はるかに思ひわすれて候ひつるに、今此のあまのりを見候て、よしなき心をもひいでて、う(憂)つらし。
かたうみ(片海)・いちかわ(市河)・こみなと(小湊)の礒のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず。など我が父母かはらせ給ひけんと、かたちがへ(方違)なるうらめ(恨)しさ、なみだをさへがたし。
此れはさてとどめ候ぬ。但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされておもひわづらひて候。其の故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候ひしあまたの三蔵、漢土より月氏へ入り候ひし人人の中にもしるしをかせ給はず。西域等の書ども開き見候へば、五天竺の諸国寺寺の本尊皆しるし尽くして渡す。又漢土より日本に渡る聖人、日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候寺寺の御本尊、皆かんがへ尽くし、日本国最初の寺元興寺・四天王子等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば、其の寺寺の御本尊かくれなし。其の中に此の本尊はあへてましまさず。
人疑て云く 経論になきか。なければこそそこばくの賢者等は画像にかき奉り、木像にもつくりたてまつらざるらめと云云。
而れども経文は眼前なり。御不審の人人は経文の有無をこそ尋ぬべけれ。前代につくりかかぬを難ぜんとをもうは僻案なり。例せば釈迦仏は悲母孝養のために・利天に隠れさせ給ひたりしをば、一閻浮提の一切の諸人しる事なし。但目連尊者一人此れをしれり。此れ又仏の御力也と云云。仏法は眼前なれども機根なければ顕れず。時いたらざればひろまらざる事、法爾の道理也。例せば大海の潮の時に随て増減し、上天の月の上下にみち(盈)かく(虧)るがごとし。
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し、神力品嘱累に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利、兜史多天宮の弥勒菩薩、補陀落山の観世音、日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。是れ等は智慧いみじく、才学ある人人とはひびけども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり。此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひ、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難竝びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること、雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火災を脱るべしと仏記しおかせ給ひぬ。
而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存して、此の二十余年が間此れを申す。此の法門弘通せんには如来現在。猶多怨嫉。況滅度後。一切世間。多怨難信と申して第一のかたきは国主竝びに郡郷等の地頭領家万民等也。此れ又第二第三の僧侶がうつたへについて、行者を或は悪口し、或は罵詈し、或は刀杖等云云。
而るを安房の国東條の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給ひてこそありしかども、国王は八万加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源の右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の下宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給ひけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ひぬ。此の人東條の郡を天照太神の御栖と定めさせ給ふ。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房の国東條の郡にすませ給ふか。例せば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国男山に移り給ひ、今は相州鎌倉鶴が岡に栖み給ふ。これもかくのごとし。
日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東條の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり。随て地頭敵となる。彼の者すでに半分ほろびて今半分あり。
領家はいつわりをろかにて或時は信じ、或時はやぶる不定なりしが、日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給ひき。日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり。日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために、此の御本尊をわたし奉るならば、十羅刹定めて偏頗の法師とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我が身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん。此の由をば委細に助の阿闍梨の文にかきて候ぞ。召して尼御前の見参に入れさせ給ふべく候。
御事にをいては御一味なるやうなれども、御信心は色あらわれて候。さどの国と申し、此の国と申し、度度の御志ありて、たゆむけしきはみへさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候なり。それも終にはいかんがとをそれ思ふ事、薄氷をふみ、太刀に向ふがごとし。
くはしくは又又申すべく候。それのみならず、かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候人人も、いまは世間やわら(和)ぎ候かのゆへに、くゆる人人も候と申すに候へども、此れはそれには似るべくもなく、いかにもふびんには思ひまいらせ候へども、骨に肉をばか(替)へぬ事にて候へば、法華経に相違せさせ給ひ候はん事を叶ふまじき由、いつまでも申し候べく候。恐恐謹言。
二月十六日 日 蓮 花押
新尼御前御返事わす。西域等の書とも開見候へは、五天竺の諸国寺々と