四条金吾殿御返事

執筆年:弘安三
四条金吾殿御返事(四条第廿八書)      弘安三年十月。五十九歳作。      外二ノ五。遺二九ノ七。縮一九八五。類九〇八。 自殿岡米送給候。今年七月盂蘭盆供の僧膳にして候。自恣の僧、霊山之聴衆、仏陀、神明も納受随喜し給らん。尽せぬ志、連連の御訪、言を以て尽しがたし。何となくとも殿の事は後生菩提疑なし。何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模国龍口にて頸切れんとせし時にも、殿は馬の口に付て足歩赤足にて泣悲み給事実にならば腹きらんとの気色なりしをばいつの世にか思忘るべき。それのみならずさどのしまにはなたれ、北国のゆきのしたにうづまれ、北山のたけの山おろしにいのちたすかるべしともをぼへず、年来のどうほうにもすてられ、こきやうへかへる事は、大海のそこのちびきの石のおもひして、さずがに凡夫なればいにしへの人人もこひしきに、在俗の宦仕隙なき身に、此経を信ずる事こそ希有なるに、山河を凌ぎ蒼海を経て遥に尋ね来給ふ志、香城に骨を砕き雪嶺に身を投し人人にも、争か劣り給べき。又我身はこれ程に浮び難かりしが、いかなりける事にてや、同十一年の春の比赦免せられて鎌倉に帰り上りけむ。倩事の情を案ずるに今は我身に過あらじ。或は命に及ばんとし、弘長にはいづの国、文永にはさどのしま、かんげうさいさんに及べば留難てうでうせり。仏法中怨のかいしやく我はやはやまぬかるらん。しかれば今山林に世を遁れ、みちを入る事をすゝみおもひしに人人のかたるさまざまなりしかども、旁存ずるむねあるによりて、当国当山に入てすでに七年の春秋ををくる。又身の智分をば且く置ぬ。法華経の方人として難を忍び、疵を蒙る事は漢土の天台大師にも越え、日域の伝教大師にも勝たり。是は時の然らしむる故なり。我身法華経の行者ならば霊山の教主釈迦、宝浄世界の多宝如来、十方分身の諸仏、本化の大士、迹化の大菩薩。梵釈、龍神、十羅刹女も定て此砌におはしますらん。水あれば魚すむ、林あれば鳥来る。蓬莱山には玉多く、摩黎山には栴檀生ず、麗水の山には金あり。今此所も如此。仏、菩薩の住給ふ功徳聚の砌也。多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度度の御参詣には、無始の罪障も定て今生一世に消滅すべきか。弥はげむべしはげむべし。   十月八日                 日蓮花押    四条中務三郎左衛門殿御返事 (微上ノ七。考二ノ二。)