南條殿御返事
執筆年:建治二年
かたびら一・しを(塩)いちだ・あぶら五そう(升)給候ひ了んぬ。
ころもはかん(寒)をふせぎ、又ねつをふせぐ。み(身)をかくし、みをかざる。法華経の第七やくわうぼんに云く_如裸者得衣〔裸なる者の衣を得たるが如く〕等云云。心ははだかなるもののころもをえたるがごとし。もんの心はうれしき事をとかれて候。ふほうぞう(付法蔵)の人のなかに商那和衆と申す人あり。衣をきてぬまれさせ給ふ。これは先生に仏法にころもをくやうせし人なり。されば法華経に云く_柔和忍辱衣等云云。
こんろん山には石なし。みのぶのたけ(嶽)にはしを(塩)なし。石なきところには、たま(玉)よりもいしすぐれたり。しをなきところには、しをこめ(米)にもすぐれて候。国王のたからは左右の大臣なり。左右の大臣をば塩梅と申す。みそ・しをなければ、よ(世)わたりがたし。左右の臣なければ国をさまらず。
あぶらと申すは涅槃経に云く 風のなかにあぶらなし。あぶらのなかにかぜなし。風をぢ(治)する第一のくすりなり。
かたがたのものをくり給ひて候。御心ざしのあらわれて候事もうすばかりなし。せんずるところは、こなんでうどの(故南條殿)の法華経の御しんようのふかかりし事のあらわるゝか。王の心ざしをば臣のべ、をやの心ざしをば子の申しのぶるとはこれなり。あわれことの(故殿)のうれしとをぼすらん。
つくし(筑紫)にをゝはしの太郎と申しける大名ありけり。大将どのの御かんきをかほりて、かまくらゆいのはま、つちのろう(土牢)にこめられて十二年。せしはじめられしときつくし(筑紫)をうちいでしに、ごぜん(御前)にむかひて申せしは、ゆみや(弓箭)とるみ(身)となりて、きみの御かんきをかほらんことはなげきならず。又ごぜんにをさな(幼)くよりなれ(馴)しが、いまはなれん事いうばかりなし。こあれはさてをきぬ。なんし(男子)にても、によし(女子)にても、一人なき事なげきなり。ただしくわいにん(懐妊)のよしかたらせ給ふ。をうなご(女子)にてやあらんずらん。をのこと(男子)にてや候はんずらん。ゆくへをみざらん事くちをし。又かれが人となりて、ちゝ(父)というものもなからんなげき、いかがせんとをもへども力及ばず、といでにき。
かくて月ひ(日)すぐれ、ことゆへなく生れにき。をのこごにてありけり。七歳のとしやまでら(山寺)にのぼせてありければ、ともだちなりけるちごども(兒共)、をやなしとわらひけり。いへ(家)にかへりてはゝ(母)にちゝをたづねけり。はゝのぶるかたなくしてなく(泣)より外のことなし。此のちご申す。天なくしては雨ふらず、地なくしてはくさをいず。たとい母ありともちゝなくばひと(人)となるべからず。いかに父のありどころをばかくし給ふぞとせめしかば、母せめられて云く わちご(和兒)をさなければ申さぬなり。ありやうはかうなり。此のちごなくなく申すやう、さてちゝのかたみはなきかと申せしかば、これありとて、をゝはし(大橋)のせんぞの日記、ならびにはら(腹)の内なる子にゆづれる自筆の状なり。いよいよをやこひしくて、なくより外の事なし。さていかんがせんといゐしかば、これより郎従あまたともせしかども、御かんきをかほりければみなちりうせぬ。そののちはいきてや、又しにてや、をとづるる人なし、とかたりければ、ふしころびなきて、いさむるをももちゐざりけり。はゝいわく、をのれをやまでら(山寺)にのぼする事は、をやのけうやうのためなり。仏に花をもまいらせよ。経をも一巻よみて孝養とすべしと申せしかば、いそぎ寺にのぼりていえゝかへる心なし。昼夜に法華経をよみしかば、よみわたりけるのみならず、そらにをぼへてありけり。
さて十二の年、出家せずしてかみ(髪)をつゝみ、とかくしてつくしをにげいでて、かまくらと申すところへたづねいりぬ。八幡の御前にまいりてふしをがみ申しけるは、八幡大菩薩は日本第十六の王、本地は霊山浄土、法華経をとかせ給ひし教主釈尊なり。衆生のねがいをみ(満)て給はんがために神とあらわれさせ給ふ。今わがねがいみてさせ給へ。をやは生きて候か、しにて候かと申して、いぬ(戌)の時より法華経をはじめて、とら(寅)の時までによみければ、なにとなくをさなきこへ(声)ほうでん(宝殿)にひびきわたり、こゝろすご(凄)かりければ、まいりてありける人々も、かへらん事をわすれにき。皆人いち(市)のやうにあつまりてみければ、をさなき人にて法師ともをぼえず、をうなにてもなかりけり。おりしもきやう(京)のにゐ(二位)どの御さんけいありけり。人めをしのばせて給ひてまいり給ひたりけれども、御経のたうとき事つねにもすぐれたりければ、はつるまで御聴聞ありけり。
さてかへらせ給ひてをはしけるが、あまりなごりのをしさに、人をつけてをきて、大将殿へかゝる事ありと申させ給ひければ、めして持仏堂にして御経よませまいらせ給ひけり。
さて次の日又御聴聞ありければ、西のみかど(御門)人さわぎけり。いかなる事ぞとききしかば、今日はめしうどのくびきらるゝとのゝしりけり。あわれ、わがをやはいままで有るべしとはをもわねども、さすが人の頚をきらるゝと申せば、我が身のなげきとをもひてなみだぐみたりけり。大将殿あやしとごらんじて、わちご(和兒)はいかなるものぞ、ありのまゝに申せとありしかば、上くだんの事一々に申しけり。をさふらひにありける大名小名、みす(翠簾)の内、みなそでをしぼりけり。大将殿かぢわら(梶原)をめしてをほせありけるは、大はしの太郎というめしうどまいらせよとありしかば、只今くびきらんとて、ゆい(由比)のはまへつかわし候ひぬ。いまはきりてや候らんと申せしかば、このちご御まへなりけれども、ふしころびなきにけり。をゝせのありけるは、かぢわらわれとはしちて、いまだ切らずばぐ(具)してまいれとありしかば、いそぎいそぎゆいのはまへはせゆく。いまだいたらぬによばわりければ、すでに頚切られんとて、刀をぬきたりけるときなりけり。
さてかぢわらをゝはしの太郎を、なわつけながらぐ(具)しまいりて、をゝには(大庭)にひきしへたりければ、大将殿このちごにとらせよとありしかば、ちごはしりをりて、縄をときけり。大はしの太郎はわが子ともしらず、いかなる事ゆへにつかるともしらざりけり。
さて大将殿又めして、このちごにやうやうの御ふせたび(給)て、をゝはしの太郎をたぶ(給)のみならず、本領をも安堵ありけり。大将殿をほせありけるは、法華経の御事は、昔よりさる事とわききつたへたれども、丸は身にあたりて二つのゆへあり。一には故親父の御くびを、大上(政)入道に切られてあさましともいうばかりなかりしに、いかなる神仏にか申すべきとをもいしに、走湯山の妙法尼より法華経をよみつたへ、千部と申せし時、たかを(高尾)のもんがく房、をやのくびをもて来りてみせたりし上、かたきを打つのみならず、日本国の普請大将を給ひてあり。これひとへに法華経の御利生なり。二つにはこのちごがをやをたすけぬる事不思議なり。大橋の太郎というやつは、頼朝きくわいなりとをもう。たとい勅宣なりともかへ(返)し申して、くびをきりてん。あまりのにくさにこそ、十二年まで土のろうには入れてありつるに、かゝる不思議あり。されば法華経と申す事はありがたき事なし。頼朝は武士の大将にて、多くのつみつもりてあれども、法華経を信じまいらせて候へば、さりともとこそをもへとなみだぐみ給ひけり。
今の御心ざしみ候へば、故なんでうどのはただ子なれば、いとをしとわをぼしめしけるらめども、かく法華経をもて我がけうやうをすべしとはよもをぼしたらじ。たとひつみありて、いかなるところにをはすとも、この御けうやうの心ざしをばえんまほうわう(閻魔法皇)ぼんでん(梵天)たひしやく(帝釈)までもしろしめしぬらん。釈迦仏・法華経も、いかでかすてさせ給ふべき。かのちごのちゝのなわ(縄)をときしと、この御心ざしかれにたがわず。これはなみだをもちてかきて候なり。
又むくり(蒙古)のをこれるよし、これにはいまだうけ給はらず。これを申せば、日蓮房はむくり国のわたるといへばよろこぶと申す。これゆわれなき事なり。かゝる事あるべしと申せしかば、あだかたき(仇敵)と人ごとにせめしが、経文かぎりあれば来るなり。いかにいうともかなうまじき事なり。失もなくして国をたすけんと申せし者を用ひこそあらざらめ。又法華経の第五の巻をもて日蓮がおもて(面)をうちしなり。梵天・帝釈是れを御覧ありき。鎌倉の八幡大菩薩も見させ給ひき。いかにも今は叶ふまじき世にて候へば、かゝる山中にも入りぬるなり。各々も不便とは思へねども、助けがたくやあらんずらん。よるひる(夜昼)法華経に申し候なり。御信用の上にも力もをしまず申させ給へ。あえてこれよりの心ざしのゆわ(弱)きにはあらず。各々の御信心のあつくうすき(厚薄)にて候べし。たいし(大旨)は日本国のよき人々は一定いけどりにぞなり候はんずらん。あらあさましや、あさましや。恐々謹言。
後三月二十四日 日 蓮 花押
南條殿御返事