十章抄

執筆年:文永八年
真筆あり
 華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一也。而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云。法相・三論も又々かくのごとし。天台宗彼の義に同ぜば別宗と立つなにかせん。例せば法華・涅槃は一つ円也。先後に依って涅槃尚おおとるとさだむ。爾前之円・法華円を一とならば、先後によりて法華豈に劣らざらんや。詮するところ、この邪義のおこり、此妙彼妙円実不異、円頓義斉前三為・等の釈にばかされて起こる義なり。止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ。又二の巻の四種三昧は多分は念仏と見えて候なり。  源濁れば流れ清からずと申して、爾前之円と法華経の円と一つと申す者が、止観を人に読ませ候ば、但念仏者のごとくにて候なり。但し止観は迹門より出たり、本門より出たり、本迹に互ると申す三つの義いにしえよりこれあり。これは且くこれをおく。故知一部之文共成円乗開権妙観〔故に知る一部之文共に円乗開権の妙観を成す〕と申して、止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり。爾前の経々をひき乃至外典を用いて候も、爾前・外典の心にはあらず。文をばかれ(借)ども義をばけづりすてたるなり。境雖寄昔智必依円〔境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る〕と申して、文殊門・方等請観音の諸経を引いて四種を立つれども、心は必ず法華経なり。散引諸文該乎一代文体 正意唯帰二経〔諸文を散引して乎一代の文体を該れども 正意は唯二経に帰す〕と申すこれなり。  止観に十章あり。大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり。前六重依修多羅〔前六重は修多羅に依る〕と申して、大意より方便までの六重は先四巻に限る。これは妙解迹門の心をのべたり。今依妙解以立正行〔今妙解に依って以て正行を立つ〕と申すは第七の正観十境十乗の観法、本門の心なり。一念三千此れよりはじまる。一念三千と申す事は迹門にすらなお許されず。何に況んや爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限るべし。  されば円の行まちまちなり。沙をかずえ、大海をみる、なお円の行なり。何に況んや爾前の経をよみ、弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。但これらは時々の行なるべし。真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり。これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり。法華経に十七種の名あり。これ通名なり。別名は三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり。阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき。口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり。  此れ等をしらざる天台・真言等の念仏者、口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあいだ、在家の者は一向に念うよう、天台・真言等は念仏にてありけり。又善導・法然が一門はすわすわ天台・真言の人人も実に自宗が叶いがたければ念仏を申すなり。わづらわしくかれを学せんよりは、法華経をよまんよりは、一向に念仏を申して浄土にして法華経をもさとるべしと申す。此の義日本国に充満せし故に天台・真言の学者、在家の人々にすてられて六十余州の山寺はうせはてぬるなり。九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりおこり日本国の誹謗は爾前之円與法華円一〔爾前之円と法華円と一つ〕という義の盛んなりしよりこれはじまれり。あわれなるかなや。  外道は常楽我浄と立てしかば、仏、世にいでまさせ給いては苦空無常無我ととかせ給いき。二乗は空観に著して大乗にすすぎまざりしかば仏誡めて云く 五逆は仏の種、塵労の疇〈たぐい〉は如来の種、二乗の善法は永不成仏と嫌わせ給いき。常楽我浄の義こそ外道はあしかりしかども、名はよかりしぞかし。而れども仏、名をいみ給いき。悪だに仏の種となる。ましてぜん(善)はとこそおぼうれども、仏二乗に向かいては悪をば許して善をばいましめ給いき。  当世の念仏は法華経を国に失う念仏なり。設いぜんたりとも、義分あたれえりというとも、先ず名をいむべし。其の故は仏法は国に随うべし。天竺には一向小乗・一向大乗・大小兼学の国あり、わかれたり。震旦亦復是の如し。日本国は一向大乗の国、大乗の中の一乗の国なり。華厳・法相・三論等の諸大乗すら猶お相応せず。何に況んや小乗の三宗をや。  而るに当世にはやる念仏宗と禅宗とは源方等部より事おこれり。法相・三論・華厳の見を出づべからず。南無阿弥陀仏は爾前にかぎる。法華経においては往生の行にあらず。開会の後仏因となるべし。南無妙法蓮華経は四十余年にわたらず、但法華八箇年にかぎる。南無阿弥陀仏に開会せられず。法華経は能開、念仏は所開なり。法華経の行者は一期南無阿弥陀仏と申さずとも、南無阿弥陀仏並びに十方の諸仏の功徳を備えたり。譬如如意宝珠〔譬えば如意宝珠の如し〕。金銀等の財備えたるか。念仏は一期申すとも法華経の功徳をぐすべからず。譬えば金銀等の如意宝珠をかさねざるがごとし。譬えば三千大千世界に積みたる金銀等の財も、一つの如意宝珠をばかうべからず。設い開会をさとれる念仏なりとも、猶お体内の権なり。体内の実に及ばず。何に況んや当世に開会を心えたる智者も少なくこそおわすらめ。設いさる人ありとも、弟子・眷属・所従なんどはいかんがあるべかるらん。愚者は智者の念仏を申し給うをみては念仏者とぞ見候らん。法華経の行者とはよも候わじ。又南無妙法蓮華経と申す人をば、いかなる愚者も法華経の行者とぞ申し候わんずらん。  当世に父母を殺す人よりも、謀反をおこす人よりも、天台・真言の学者といわれて、善公が礼讃をうたい、然公が念仏をさいづる人々はおそろしく候なり。此の文を止観読みあげさせ給いて後、ふみのざ(文座)の人にひろめてわたらせ給うべし。止観よみあげさせ給わば、すみやかに御わたり候え。  沙汰のことは本より日蓮が道理だにもつよくば、事切れん事かたしと存じて候しか。人ごとに問註は法門にはにず、いみじうしたりと申し候なるときに、事切るべしともおぼえ候わず。少弼殿より平の三郎左衛門のもとにわたりて候とぞうけ給わり候。この事のび候わば問註はよきと御心え候え。又いつにてもよも切れぬ事は候わじ。又切れずは日蓮が道理とこそ人々はおもい候わんずらめ。くるしく候はず候。当時はことに天台・真言等の人々の多く来て候なり。事多き故に留め候い了んぬ。