其中衆生御書
執筆年:文永十
其中衆生御書(原文漢文)
身延山録外写本。縮、続九六。類一七一三。「其中衆生悉是吾子、而今此処多諸患難、唯我一人能為救護」等云云。此の経文は釈尊は三義を備へ、阿弥陀等の諸仏は三義闕けたり。此の義前前の如し。但し唯だ我一人の経文は小乗経の語にも非ず、諸大乗経の帯権赴機の説にも非ず、多宝、十方の仏の証明を加へし金言なり。今の念仏者等の賢父の教言なり。明王の奉詔なり、聖師の教訓なり。三義に背き二十逆罪を犯し入阿鼻獄の人と成る事、悲しむべし悲しむべし。是は法華経の初門の法門なり、次第に深く之を説く云云。迹門には三千塵点已来、娑婆世界の衆生は、阿弥陀等の諸仏に棄てられ畢んぬ。化城喩品に云く「爾時聞法者各在諸仏所、(乃至)以是本因縁今説法華経」云云。此の如き経文は(文に云く)、娑婆世界の衆生は過去三千塵点已来一人として阿弥陀等の十方の十五仏の浄土へは生るる者これなし。天台(文会十六之四十四)云く、旧西方無量寿仏を以て以て長者を合す、今之を用ひず。西方は仏別に縁異なり、仏別なり、故に穏顕の義成ぜず。縁異なり、故に子父の義成ぜず。又此経の首末全く此旨なし、眼を閉じて穿鑿せよ。妙楽云く「西方等とは〇、況や宿昔の縁別に、化道同じからざるをや。結縁は生の如く成熟は養の如し、生養の縁異なれば子父成ぜず」等云云。此の如き文は十方の諸仏は養父、教主釈尊は親父なり。天台に多くの釈ありと雖も、此の釈を以て本と為すべし。所所に弥陀を讃むる事は且らく依経による。例せば世親等の阿含経を讚めたるが如し。本門を以て之を論ずれば五百塵点已来釈尊の実子なり。然りと雖も或は世間に著して法華を捨て、或は小乗、権大乗経に著して法華経を捨て、或は迹門に著して本門を知らず、或は当説に著して法華を捨て、或は十方の浄土に心を懸け、或は弥陀の浄土に心を懸くる等。今七宗、八宗等の悪師に遇ふて法華を捨つるの間今に五百塵点を歴たり。涅槃経の二十二に云く、天台(玄会六下之六十二)云く「若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」。疑って云く、本迹二門の流通たる薬王品に弥陀の浄土を勧めたり、如何。答へて云く、薬王品の弥陀は爾前迹門の弥陀に非ず、名同体異とは是なり。無量義経に云く「言辞是一而義別異」云云。妙楽(記会二十九 四十五)云く「更に観経等を指すことを須ひざるなり」と。一切之を以て知るべし。所詮発起、影向等の深位の菩薩は、十方の浄土より娑婆世界へ来り、娑婆世界より十方の浄土へ往く。