兵衛志殿御返事
執筆年:建治三年
真筆あり
鵞目二貫文、武蔵房円日を使いにて給候ひ了んぬ。
人王三十六代皇極天皇と申せし王は女人にてをはしき。其の時入鹿臣と申す者あり。あまりのをごりのものぐるわしさに王位をおばはんとふるまいしを、天皇・王子等不思議とはをぼせしかども、いかにも力及ばざりしほどに、大兄王子・軽王子等なげかせ給ひて、中臣の鎌子と申せし臣に申しあわせさせ給ひしかば、臣申さく、いかにも人力はかなうべしとはみへ候はず。馬子が例をひきて教主釈尊の御力ならずば叶ひがたしと申せしかば、さらばとて釈尊を造り奉りていのりしかば、入鹿ほどなく打たれにき。
此の中臣の鎌子と申す人は後には姓かへて藤原の鎌足と申し、内大臣になり、大職冠と申す人今の一の人の御先祖なり。此の釈迦仏は今興福寺の本尊なり。されば王の王たるも釈迦仏、臣の臣たるも釈迦仏。神国の仏国となりし事もゑもんのたいう(右衛門大夫)殿の御文と引き合わせて心へさせ給へ。
今代は他国にうばわれんとする事、釈尊をいるがせにする故なり。神の力も及ぶべからずと申すはこれなり。各々二人はすでにとこそ人はみしかども、かくいみじくみへさせ給ふは、ひとへに釈迦仏・法華経の御力なりとをぼすらむ。又此れにもをもひ候。後生たのもしさ申すばかりなし。此れより後もいかなる事ありとも、すこしもたゆむ事なかれ。いよいよはりあげてせむべし。たとい命に及ぶとも、すこしもひるむ事なかれ。あなかしこ、あなかしこ。恐恐謹言。
八月二十一日 日 蓮 花押
兵衛志殿 御返事