兵衛志殿御返事
執筆年:建治三
真筆あり
兵衛志殿御返事(池上第三書)
建治元年八月。五十四歳作。真蹟京都在立本寺。
外九ノ三六。遺一九ノ五〇。縮一三〇六。類九二六。 鵞目二貫文、武蔵房円日を使にて給候畢んぬ。
人王三十六代皇極天皇と申せし王は女人にてをはしき。其時入鹿臣と申す者あり。あまりおごりのものぐるわし(狂)さに王位をうばはんとふるまいしを、天皇、王子等不思議とはをぼせしかども、いかにも力及ざりしほどに、大兄王子、軽王子等なげかせ給て、中臣の鎌子と申せし臣に申しあわせさせ給しかば、臣申さく、いかにも人力はかなうべしとはみへ候はず。馬子が例をひきて、教主釈尊の御力ならずば叶がたしと申せしかば、さらばとて釈尊を造奉りていのりしかば、入鹿ほどなく打たれにき。此中臣の鎌子と申人は、後には姓をかへて藤原鎌足と申し内大臣になり大職冠と申す人、今の一の人(藤原)の御先祖なる。此釈迦仏は今の興福寺の本尊なり。されば王の王たるも釈迦仏、臣の臣たるも釈迦仏、神国の仏国となりし事も、えもんのたいう(右衛門大夫)殿の御文と引合て心へさせ給へ。今代の佗国にうばわれんとする事、釈尊をいるかせにする故なり。神の力も及べからずと申はこれなり。各各二人はすでにとこそ人はみ(見)まらせ(進)しかども、かくいみじくみへさせ給はひとひ(偏)に釈迦仏、法華経の御力なりとをぼすらむ。又此にもをもひ候。後生のたのもしさ申ばかりなし。此より後もいかなる事ありとも、すこしもたゆむ(弛)事なかれ。いよいよはりあげてせむべし。設ひ命に及ともすこしもひるむ事なかれ。あなかしこあなかしこ。恐恐謹言。
八月二十一日 日蓮花押
兵衛志殿御返事
(微九上ノ四一。考四ノ一一。)