兵衛志殿女房御書
執筆年:建治三
兵衛志殿女房御書(第一書)
建治三年三月。五十六歳作。
外一〇ノ一七。遺二二ノ二四。縮一五三六。類九二八。 先度仏器まいらせさせ給候しが、此度此尼御前、大事の御馬にのせさせ給ひて候由承り候。法にすぎて候御志かな。これは殿はさる事にて女房のはからひか。昔儒童菩薩と申せし菩薩は、五茎の蓮華を五百の金銭を以てかいとり、定光菩薩を七日七夜供養し給ひき。女人あり瞿夷となづく、二茎の蓮華を以て自ら供養して云く、凡夫にてあらん時は世世生生夫婦とならん、仏にならん時は同時に仏になるべし。此ちかひ(誓)くちずして九十一劫の間夫婦となる。結句儒童菩薩は今の釈迦仏、昔の瞿夷は今の耶輸多羅女。今法華経の勧持品にして具足千万光相如来是也。悉達太子檀特山に入給ひしには金泥駒、帝釈の化身。摩騰迦、竺法蘭の経を漢土に渡せしには、十羅刹化して白馬となり給ふ。此馬も法華経の道なれば百二十年御さかへの後、霊山浄土へ乗り給ふべき御馬なり。恐恐謹言。
建治三年丁丑三月二日 日蓮花押
兵衛志殿女房
(微上ノ二七。考四ノ二四。)#0241-300 六郎次郎殿御返事(報二檀越書)建治三(1277.03・19)
六郎次郎殿御返事(各別書)(報二檀越書)
建治三年三月。五十五歳作。
外一〇ノ二七。遺二二ノ二五。縮一五三七。類一六九六。 白米三斗、油一筒、給畢ぬ。いまにはじめぬ御心ざし申つくしがたく候。日蓮が悦候のみならず釈迦仏定て御悦候らん。「我則歓喜諸仏亦然」は是也。明日三位房をつかはすべく候。その時委細申すべく候。恐恐。
建治三年丁丑三月十九日 日蓮花押
六郎次郎殿
次郎兵衛殿
(考四ノ二四。)#0249-200 頼基陳状(三位房龍象房問答記)建治三(1277.06・25)
頼基陳状(答江馬入道書)
建治三年六月。五十六歳作。
内二九ノ一。遺二三ノ九。縮一六〇一。類五六五。 去六月二十三日御下文。島田左衛門入道殿、山城民部入道殿両人の御承りとして同二十五日謹で拝見仕り候畢ぬ。右仰下之状に云く「龍象御房の御説法の所に被参候ける次第、をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍く一方ならず同口に申合候事驚き入候。徒党の仁、其数兵杖を帯して出入す」云云。此条跡形も無き虚言也。所詮誰人の申入候けるやらん、御哀憐を蒙りて被召合実否を糾明され候はば可然事にて候。凡そ此事の根源は去六月九日、日蓮聖人御弟子三位公、頼基が宿所に来り申て云く、近日龍象房と申す僧京都より下て大仏の門の西桑谷に止住して日夜に説法仕るが申て云く、現当の為仏法に御不審存ぜむ人は、来て問答可申旨説法せ令むる間、鎌倉中の上下釈尊の如く貴み奉る。しかれども問答に及ぶ人なしと風聞し候。彼へ行向て問答を遂げ、一切衆生の後生の不審をはらし候はむと思候。聞給はぬかと被申しかども折節官仕に無隙候し程に思立たず候しかども、法門の事と承りてたびたび罷り向て候へども頼基は俗家の分にて候。一言も不出候し上は悪口に不及事厳察可足候。こゝに龍象房説法の中に申て云く、此見聞満座の御中に御不審の法門あらば可被仰と申されし処に、日蓮房弟子三位公問て云く、生を受しより死をまぬかるまじきことはり始てをどろくべきに候はねども、ことさら当時日本国の災?に死亡する者数を不知、眼前の無常人毎に思しらずと云ふ事なし。然る所に京都より上人御下あて人人の不審をはらし給よし承りて参て候つれども、御説法の最中骨無くも候なばと存じ候し処に、可問事有らむ人は各各不憚問給へと候し間悦び入候。先ず不審に候事は末法に生を受て辺土のいやしき身に候へども、中国の仏法幸に此国にわたれり。是非可信受処に経は五千、七千数多也。然而一仏の説なれば所詮は一経にてこそ候らむに、華厳、真言、乃至八宗、浄土、禅とて十宗まで分れてをはします。此等の宗宗も門はことなりとも所詮は一かと推する処に、弘法大師は我朝の真言の元祖、法華経は華厳経、大日経に相対すれば門の異なるのみならず、其理は戯論の法、無明の辺域也。又法華宗の天台大師等「諍盗醍醐」等云云。法相宗の元祖慈恩大師の云く「法華経は方便、深密経は真実、無性有情永不成仏」云云。華厳宗の澄観の云く「華厳経は本教、法華経は末教、或は華厳は頓頓、法華は漸頓」等云云。三論宗の嘉祥大師の云く「諸大乗教の中には般若教第一」云云。浄土宗の善導和尚の云く「念仏は十即十生、百即百生、法華経等は千中無一」云云。法然上人の云く「法華経を念仏に対して捨閉閣抛、或は行者は群賊」等云云。禅宗の云く「教外別伝不立文字」云云。教主釈尊は法華経をば「世尊法久後要当説真実」。多宝仏は「妙法蓮華経皆是真実」。十方分身の諸仏は「舌相至梵天」とこそ見て候に、弘法大師は法華経をば戯論の法と被書たり。釈尊、多宝、十方の諸仏は「皆是真実」と被説て候。いづれをか信じ候べき。善導和尚、法然上人は法華経をば「千中無一、捨閉閣抛」。釈尊、多宝、十方分身の諸仏は「無一不成仏皆成仏道」と云云。三仏と導和尚、然上人とは水火也。雲泥也。何をか信じ候べき何をか捨候べき。就中彼導、然両人所仰双観経の法蔵比丘の四十八願の中に第十八願に云く「設ひ我仏を得るとも唯だ五逆と誹謗正法とを除く」云云。たとひ弥陀の本願実にして往生すべくとも、正法を誹謗せむ人人は弥陀仏の往生には除かれ奉るべき歟。又法華経の二の巻には「若人不信其人命終入阿鼻獄」云云。念仏宗に詮とする導、然両人は経文実ならば阿鼻大城をまぬかれ給ふべしや。彼上人地獄に堕給はせば末学、弟子、檀那等自然に悪道に堕ん事疑なかるべし。此等こそ不審に候へ。上人は如何と問給はれしかば、龍上人答て云く「上古の賢哲達をばいかでか疑ひ奉るべき。龍象等が如くなる凡僧等は仰で信じ奉り候」と答へ給しををし返して、此仰こそ智者の仰とも不覚候へ。誰人か時の代にあをがるる人師等をば疑ひ候べき。但涅槃経に仏最後の御遺言として「依法不依人」と見えて候。人師にあやまりあらば経に依れと仏は説れて候。御辺はよもあやまりましまさじと被申候。御房の私の語と仏の金言と比べんには、三位は如来の金言に付まいらせむと思候也と申されしを、象上人、人師にあやまり多しと候はいづれの人師に候ぞと問はれしかば、上に申つる所の弘法大師、法然上人等の義に候はずやと答へ給ひ候しかば、象上人は鳴呼叶ひ候まじ、我朝の人師の事は忝くも問答仕るまじく候。満座の聴衆皆皆其流にて御座す、鬱憤も出来せば定てみだりがはしき事候なむ。恐あり恐あり。申されし処に三位房の云く、人師のあやまり誰ぞと候へば経論に背く人師達をいだし候し憚あり、かなふまじと仰せ候にこそ進退きはまりて覚え候へ。法門と申は人を憚り世を恐て、仏の説給ふが如く経文の実義を不申者愚者の至極也。智者、上人とは覚え給はず。悪法世に弘りて人悪道に堕ち国土滅すべしと見へ候はむに、法師の身として争かいさめず候べき、然ば則ち法華経には「我不愛身命」。涅槃経には「寧喪失身命」等云云。実の聖人にてをはせば何が身命を惜みて世にも人にも恐れ給べき。外典の中にも龍蓬と云し者、比干と申せし賢人は頸をはねられ胸をさかれしかども、夏の桀、殷の紂をばいさめてこそ賢人の名をば流し候しか。内典には不軽菩薩は杖木をかほり師子尊者は頭をはねられ、竺の道生は蘇山にながされ法道三蔵は面に火印をさされて江南にはなたれしかども、正法を弘めてこそ聖人の名をば得候しかと難ぜられ候しかば龍聖人の云く「さる人は末代にはありがたし。我我は世をはばかり人を恐るる者にて候。さやうに被仰人とてもことばの如くには、よもをはしまし候はじと候しかば、この御房争か人の心をば知給べき。某こそ当時日本国に聞え給ふ日蓮上人の弟子として候へ。某が師匠の聖人は末代の僧にて御坐候へども、当世の大名僧の如く望で請用もせず人をも諂はず、聊か異なる悪名もたたず。只此国に、真言、禅宗、浄土宗等の悪法並に謗法の諸僧満満て上一人をはじめ奉りて下万民に至まで、御帰依ある故に法華経教主釈尊の大怨敵と成て、現世には天神地祇にすてられ他国のせめにあひ、後生には阿鼻大城に堕ち給べき由、経文にまかせて立給し程に、此事申さば大なるあだあるべし、不申者仏のせめのがれがたし。いはゆる涅槃経に「若善比丘見壞法者当知是人仏法中怨」等云云。世に恐て不申者我身悪道に可堕と御覧じて身命をすてて、去る建長年中より今年建治三年に至まで二十余年が間あえてをこたる事なし。然れば私の難は数を不知、国王の勘気は両度に及びき。三位も文永八年九月十二日の勘気の時は共奉の一行にて有しかば、同罪に被行て頸をはねらるべきにてありしは、身命を惜むものにて候かと申されしかば、龍象房口を閉て色を変候しかば、此御房申されしは是程の御智慧にては、人の不審をはらすべき由の仰無用に候けり。苦岸比丘、勝意比丘等は我正法を知て人をたすくべき由存ぜられて候しかども、我身も弟子、檀那等も無間地獄に堕候き。御法門の分斉にてそこばくの人を救はむと説給ふが如くならば、師、檀共に無間地獄にや堕給はんずらむ。今日より後は如是御説法は御はからひあるべし。加様には申まじく候へども悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責顕はさずば返て仏法の中の怨なるべしと、仏の御いましめのがれがたき上聴聞の上下皆悪道にをち給はん事、不便に覚え候へば如此申候也。智者と申は国のあやうきをいさめ人の邪見を申とどむるこそ智者にては候なれ。是はいかなるひが事ありとも、世の恐しければいさめじと申されむ上は力不及。某文殊の智慧も富楼那の弁説も詮候はずとて被立候しかば諸人歓喜をなし合掌、今暫く御法門候へかしと留め申されしかどもやがて帰り給ひ了ぬ。此外は別の子細候はず。且は御推察あるべし。法華経を信じ参せて、仏道を願ひ候はむ者の争か法門の時、悪行を企て悪口を宗とし候べき。しかしながら御ぎやうさく(?迹)可有候。其上日蓮聖人の弟子となのりぬる上、罷帰りても御前に参りて法門問答の様かたり申候き。又た其辺に頼基しらぬもの候はず。只頼基をそねみ候人つくり事にて候にや。早早召合せられん時其隠れ有る可からず候。又被仰下状に云く「極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉る」。此条難かむ(堪)の次第に覚え候。其故は日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御座候聖人を、頚をはねらるべき由の申条を書て殺罪に申し行はれ候しがいかが候けむ、死罪を止て佐渡の島まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや。其訴状は別紙に有之。抑生草をだに伐べからずと六斎日夜説法に被給ながら、法華経正法を弘むる僧を断罪に可被行旨被申立者、自語相違に候はずや如何。此僧豈天魔の入れる僧に候はずや。只此事の起は良観房常の説法に云く、日本国の一切衆生を皆持斎になして八斎戒を持たせて、国中の殺生天下の酒を止めむとする処に日蓮房が謗法に障られて、此願難叶由歎き給ひ候間、日蓮聖人此由を聞給て、いかがして彼が誑惑の大慢心をたをして無間地獄の大苦をたすけむと仰ありしかば、頼基等は此仰法華経の御方人大慈悲の仰にては候へども、当時日本国別して武家領食の世きらざる人にてをはしますを、たやすく仰ある事いかがと弟子共同口に恐れ申候し程に、去る文永八年(太歳辛未)六月十八日大旱魃の時、彼御房祈雨の法を行ひて万民をたすけんと付申候由、日蓮聖人聞給ひて此体は小事なれども此次でに、日蓮が法験を万人に知らせばやと仰ありて、良観房の所へ仰つかはすに云く、七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成て二百五十戒持つべし。雨ふらぬほどならば彼御房の持戒げ(気)なるが大誑惑は顕然なるべし。上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し。所謂護命と伝教大師と、守敏と弘法と也。仍て良観房の所へ周防房、入沢入道と申す念仏者を遣す。御房と入道は良観が弟子、又念仏者也。いまに日蓮が法門を用る事なし。是を以て勝負とせむ。七日の内に雨降ならば本の八斎戒、念仏を以て往生すべしと思べし。又雨らずば一向に法華経になるべしといはれしかば、是等悦て極楽寺の良観房に此由を申候けり。良観房悦びないて(泣)七日の内に雨ふらすべき由にて、弟子百二十余人頭より煙を出し声を天にひびかし、或は念仏、或は請雨経、或は法華経、或は八斎戒を説て種種に祈請す。四五日まで雨の気無ければたましいを失て、多宝寺の弟子等数百人呼集て力を尽て祈たるに七日の内に露ばかりも雨降らず。其時日蓮聖人使を遣す事三度に及ぶ。いかに泉式部と云し淫女、能因法師と申せし破戒の僧、狂言綺語の三十一字を以て忽にふらせし雨を、持戒持律の良観房は法華、真言の義理を極め、慈悲第一と聞へ給ふ上人の数百人の衆徒を率て七日之間にいかにふらし給はぬやらむ。是を以て思て給へ。一丈の堀を不越者、二丈三丈の堀を越けんや。やすき(易)雨をだにふらし給はず、況やかたき往生成仏をや。然れば今よりは日蓮怨み給ふ邪見をば是を以て翻し給へ。後生をそろしくをぼし給はば約束のまゝにいそぎ来給へ。雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ。七日の内に雨こそふらし給はざらめ、旱魃弥興盛に八風ますます吹重りて民のなげき弥弥深し。すみやかに其いのりやめ給へと第七日の申時、使者ありのまゝに申処に良観房は涙を流す、弟子、檀那同じく声をおしまず口惜がる。日蓮御勘気を蒙る時此事御尋ね有しかば有のまゝに申給き。然れば良観房身上の恥を思はば跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまゝに日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を構て殺罪に申し行はむとせしは、貴き僧かと日蓮聖人かたり給き。又頼基も見聞き候き。佗事に於てはかけはく(掛畏)も主君の御事畏入候へども、此事はいかに思候ともいかでかと思はれ候べき。又仰下状に云く「龍象房、極楽寺長老、見参の後は釈迦、弥陀とあをぎ奉る」と云云。此条又恐入候。彼龍象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由令露顕間、山門の衆徒峰起して世末代に及て悪鬼国中に出現せり。山王の御力を以て対治を加むとて住所を焼失し、其身を誅罰せむとする処に自然に逃失し、行方を不知処にたまたま鎌倉中に又人肉を食之間、情ある人恐怖せしめて候に仏、菩薩と仰ぎ給ふ事、所従の身として争か主君の御あやまりをいさめ申さず候べき。御内のをとなしき人人いかにこそ存じ候へ。同下状に云く「是非につけて主親の所存には相随はんこそ仏神の冥にも世間の礼にも手本」と云云。此事最第一の大事にて候へば私の申状恐入候間本文を引べく候。孝経に云く「子以て父に争はざる可からず、臣以て君に争はざる可からず」。鄭玄曰く「君父不義有らんに臣子諌めざるは則ち亡国破家の道也」。新序に曰く「主の暴を諌めざれば忠臣に非ざる也。死を畏れて言はざるは勇士に非ざる也」。伝教大師云く「凡そ不誼に当っては則ち子以て父に争はざる可からず。臣以て君に争はざる可からず。当に知るべし、君臣父子師弟、以て師に争はざる可からず」文。法華経に云く「我不愛身命但惜無上道」。涅槃経に云く「譬如王使善能談論巧於方便奉命他国、寧喪身命終不匿王所説言教、智者亦尓」文。章安大師云く「寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」文。又云く「仏法を壞乱するは仏法の中の怨なり、慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼の怨なり。能糾治する者は彼の為に悪を除くは則ち是れ彼が親なり」文。頼基をば傍輩こそ無礼なりと思はれ候らめども、世事にをき候ては是非父母主君の仰に随ひ参らせ候べし。其にと(取)て重恩の主の悪法の者に、たぼらかされ(誑)ましまして悪道に堕ち給はむをなげくばかり也。阿闍世王は提婆、六師を師として教主釈尊を敵とせしかば、摩竭提国皆仏教の敵となりて闍王の眷属五十八万人仏弟子を敵とする中に、耆婆大臣計仏弟子也。大王は上の頼基を思食すが如く仏弟子たる事を、御心よからず思食ししかども最後には六大臣の邪義をすてて、耆婆が正法にこそつかせ給ひ候しが、其の如く御最後をば頼基や救ひ参らせ候はんずらむ。如此令申候へば阿闍世は五逆罪の者也。彼に対するかと思食しぬべし。恐にては候へども彼には百千万倍の重罪にて御座すべしと、御経の文には顕然に見させ給て候。所謂「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子」文。文の如くば教主釈尊は日本国の一切衆生の父母也、師匠也、主君也。阿弥陀仏は此三の義ましまさず。而るに三徳の仏を閣て佗仏を昼夜朝夕に称名し、六万八万の名号を唱まします。あに不孝の御所作にわたらせ給はずや。弥陀の願も釈迦如来の説せ給しかども終にくひ返し給て「唯我一人」と定め給ぬ。其後は全く二人、三人と見候はず。随て人にも父母二人なし。何の経に弥陀は此国の父、何の論に母たる旨見へて候。観経等の念仏の法門は法華経を説せ給はむ為のしばらくのしつらひ也。塔くまむ為の足代の如し。而るを仏法なれば始終あるべしと思ふ人大僻案也。塔立てて後足代を貴ぶほどのはかなき者也。又日よりも星は明と申す者なるべし。此人を経に説て云く「雖復教詔而不信受其人命終入阿鼻獄」。当世日本国の一切衆生の釈迦仏を抛て阿弥陀仏を念じ、法華経を抛て観経等を信ずる人、或は如此謗法の者を供養せむ俗男、俗女等、存外に五逆、七逆、八虐罪ををかせる者を智者と竭(渇)仰する諸大名僧並に国主等也。「如是展転至無数劫」とは是也。如此僻事をなまじいに承りて候間次を以て令申候。官仕をつかまつる者上下ありと申せども分分に随て主君を重ぜざるは候はず。上の御ため現世後生あしくわたらせ給べき事を秘かにも承りて候はむに、傍輩世に憚て申上ざらむは、与同罪にこそ候まじき歟。随て頼基は父子二代命を君にまいらせたる事顕然也。故親父(中務某)故君の御勘気かふらせ給ける時、数百人の御内の臣等心かはりし候けるに、中務一人最後の御供奉して伊豆国まで参て候き。頼基は去る文永十一年二月十二日の鎌倉の合戦の時、折節伊豆国に候しかば十日申時に承りて唯一人、筥根山を一時に馳越て御前に自害すべき八人の内に候き。自然に世しづまり候しかば于今君も安穏にこそわたらせ給ひ候へ。尓来大事、小事に付て御心やすき者にこそ思含れて候。頼基が今更何につけて疎縁に思まいらせ候べき。後生までも随従しまいらせて頼基成仏し候はば君をもすくひまいらせ、君成仏しましまさば頼基もたすけられまいらせむとこそ存じ候へ。其に付ひて諸僧の説法を聴聞仕りて何か成仏の法とうかがひ候処に、日蓮聖人御房は三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使、上行菩薩にて御坐候ける事の法華経に説れてましましけるを信じまいらせたるに候。今こそ真言宗と申す悪法日本国に渡て四百余年、去る延暦二十四年に伝教大師日本国にわたし給たりしかども、此国にあしかりなむと思食し候間宗の字をゆるさず。天台法華宗の方便となし給ひ畢ぬ。其後伝教大師御入滅の次をうかがひて、弘法大師、伝教に偏執して宗の字を加えしかども叡山は用ゆる事なかりしほどに、慈覚、智証短才にして二人の身は当山に居ながら、心は東寺の弘法に同意するかの故に、我大師には背て始て叡山に真言宗を立てぬ。日本亡国の起り是也。尓来三百余年、或は真言勝れ法華勝れ、一同なむど諍論事きれざりしかば王法も無左右不尽。人王七十七代後白河法皇の御宇に、天台の座主明雲一向に真言の座主になりしかば、明雲は義仲にころされぬ。「頭破作七分」是也。第八十二代隠岐法皇の御時、禅宗、念仏宗出来て真言の大悪法に加て国土に流布せしかば、天照太神、正八旛(幡)、百の王、百代の御誓やぶれて王法すでに尽ぬ。関東の権大夫義時に天照太神、正八旛の御計として国務をつけ給ひ畢ぬ。爰に彼の三の悪法関東に落下りて存外に御帰依あり。故に梵釈、二天、日月、四天いかりを成し、先代未有の天変地夭を以ていさむれども、用ひ給はざれば隣国に仰付て法華経誹謗の人を治罰し給ふ間、天照太神、正八旛も力及び給はず。日蓮聖人一人此事を知食せり。如此厳重の法華経にてをはして候間、主君をも導きまいらせむと存じ候故に、無量の小事をわすれて于今仕はれまいらせ候。頼基を讒言申す仁は君の御為不忠の者に候はずや。御内を罷出候はば君たちまちに無間地獄に堕させ給べし。さては頼基仏に成り候ても甲斐なしとなげき存じ候。抑彼の小乗戒は富楼那と申せし大阿羅漢、諸天の為に二百五十戒を説き候しを、浄名居士たんじ(弾)て云く「穢食を以て宝器に置く事無かれ」等云云。鴦崛摩羅は文殊を呵責し、「鳴呼、蚊蚋の行は大乗空の理を知らず」。又小乗戒をば文殊は十七の失を出し、如来は八種の譬喩を以て是をそしり給ふに、驢乳と説き蝦蟆に譬られたり。此等をは鑑真の末弟子は伝教大師をば悪口の人とこそ嵯峨天皇には奏し申し候しかども経文なれば力及び候はず。南都の奏状やぶれて叡山の大戒壇立候し上は、すでに捨られ候し小乗に候はずや。頼基良観房を蚊虻蝦蟆の法師也と申すとも、経文分明に候はば御とがめあるべからず。剰へ起請に及ぶべき由、蒙仰之条存外に歎き入候。頼基不法時病にて起請を書き候程ならば、君忽に法華経の御罰を蒙らせ給ふべし。良観房が讒訴に依て釈迦如来の御使日蓮聖人を流罪し奉りしかば、聖人の申し給ひしが如く百日が内に合戦出来りて、若干の武者滅亡せし中に、名越の公達横死にあはせ給ひぬ。是偏に良観房が失ひ奉りたるに候はずや。今又龍象、良観が心に用意せさせ給ひて、頼基に起請を書しめ御座さば、君又其罪に当らせ給はざるべしや。如此道理を不知故歟。又君をあだし奉らむと思ふ故歟。頼基に事を寄せて大事を出さむとたばかり候人等、御尋ねあて可被召合候。恐惶謹言。
建治三年丁丑六月二十五日 四条中務尉頼基 請文
(啓三三ノ二二。鈔二ノ五三。語四ノ八。拾六ノ四九。扶一二ノ四四。)