上野殿御返事

執筆年:弘安三
真筆あり
上野殿御返事(上野第卅三書)(報南条氏書)      弘安三年十二月。五十九歳作。      内三二ノ一七。遺二九ノ三七。縮二〇一八。類一〇一二。 鵞目一貫文送給畢ぬ。御心ざしの候へば申候ぞ。よく(慾)ふかき御房とおぼしめす事なかれ。仏にやすやす(易々)となる事の候ぞ、をしへまいらせ候はん。人のものををしふると申は、車のおも(重)けれども油をぬればまわり、ふね(船)を水にうかべてゆきやす(行易)きやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃にかわけ(渇)るものに水をあたへ、寒冰にこごへ(凍)たるものに火をあたふるがごとし。又二なき物を人にあたへ、命のたゆ(絶)るに、人のせ(施)にあふがごとし。金色王と申せし王は、其国に十二年の大旱魃あ(有)て、万民飢死る事かずをしらず。河には死人をはし(橋)とし、陸にはがいこつ(骸骨)をつか(塚)とせり。其時金色大王大菩提心ををこして、おほきに施をほどこし給き。せ(施)すべき物みなつきて蔵の中にただ米五升だにのこれり。大王の一日の御くご(供御)なりと臣下申せしかば、大王五升の米をとり出て一切の飢たるものに或は一りう(粒)二りう、或は三りう(粒)四りうなんどあまねくあたへさせ給てのち、天に向せ給て朕は一切衆生のけかち(飢渇)の苦にかはり(代)て、うえじに(飢死)候ぞとこえをあげてよばはらせ給しかば、天きこしめし(聞召)て甘呂(露)の雨を須臾に下し給き。この雨を手にふれ(触)かを(顔)にかかりし人、皆食にあきみちて一国の万民せちな(刹那)のほどに命よみがへ(蘇)りて候けり。月氏国にす(須)達長者と申せし者は七度貧になり七度長者となりて候しが、最後の貧の時は万民皆にげうせ(逃失)死をはりてただめおとこ(夫妻)二人にて候し時五升の米あり、五日のかつて(糧)とあて(当)候し時、迦葉、舎利弗、阿難、羅?羅、釈迦仏五人次第に入せ給て、五升の米をこひ(乞)とらせ給き。其日より五天竺第一の長者となりて、祇園精舎をばつくりて候ぞ。これをも(以)てよろづを心へ(得)させ給へ。貴辺はすでに法華経の行者に似させ給へる事、さる(猿)の人に似、もちい(餅)の月に似たるがごとし。あつはら(熱原)のものどものかく(斯)をしませ給へる事は、承平の将門、天喜の貞当(任)のやうに此国のものどもはおもひて候ぞ。これひとへに法華経に命をすつるゆへ也。またく(全)主君にそむく人とは天御覧あらじ。其上わづかの小郷にをほくの公事ぜめ(責)にあてられて、わが身はのる(乗)べき馬なし、妻子はひきかかるべき衣なし。かゝる身なれども法華経の行者の山中の雪にせめられ、食ともし(乏)かるらんとおもひやらせ給て、ぜに(銭)一貫をくら(送)せ給へるは、貧女がめおとこ(夫婦)二人して一の衣をきたりしを乞食にあたへ、りだ(利咤)が合子の中なりしひえ(稗)を辟支仏にあたへたりしがごとし。たうとし(貴)たうとし。くはしく(委)は又又申べし。恐恐謹言。  十二月二十七日               日蓮花押  上野殿御返事 (啓三四ノ二〇。鈔二三ノ四五。語四ノ四七。音下ノ四〇。拾七ノ二三。扶一三ノ二三)