上野殿御返事
執筆年:建治元
上野殿御返事(上野第四書)
建治元年五月。五十四歳作。与上野太郎書
外八ノ一一。遺一八ノ一。縮一一七三。類九三六。 さつきの二日にいも(芋)のかしらいし(石)のやうにほされ(乾)て候を一駄、ふじ(富士)のうへの(上野)よりみのぶ(身延)の山へをくり給て候。仏の御弟子にあなりち(阿那律)と申せし人は、天眼第一のあなりちとて十人の御弟子のその一。迦葉、舎利弗、目蓮、阿難にかた(肩)をならべし人也。この人のゆらひ(由来)をたづねみれば、師子頬王と申せし国王の第二の王子にこくぼん(斛飯)王と申し人の御子。釈迦如来のいとこ(従弟)にておはしましき。この人の御名三候。一には無貧、二には如意、三にはむれう(無?)と申す。一一にふしぎの事候。昔うえ(飢)たるよ(世)にりだそんじや(利咤尊者)と申せしたうとき(貴)辟支仏ありき。うえたるよに七日とき(斎)もならざりけるが、山里にれうし(猟師)の御器に入て候けるひえ(稗)のはん(飯)をこひてならせ給ふ。このゆへにこのれうし(猟師)現在には長者となり、のち九十一劫が間人中天上にたのしみをうけて、今最後にこくぼん(斛飯)王の太子とむまれ(生)させ給ふ。金のごき(御器)にはん(飯)とこしなへ(永久)にたえ(絶)せず。あらかん(阿羅漢)とならせ給ふ。御眼三千大千世界を一時御らんありていみじくをはせしが、法華経第四の巻にして普明如来と成べきよし仏に仰をかほらせ(蒙)給き。妙楽大師此事を釈して云く「稗飯軽しと雖も所有を尽し及び田勝るゝを以ての故に故に勝報を得る」と云云。釈の心かろきひえのはんなれども、此よのほかにはもた(持)ざりしをたうと(貴)き人のうえておはせしに、まいらせてありしゆへにかゝるめでたき人となると云云。此身のぶ(延)のさわは石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば民のいとまも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに山里の事ををもひやらせ(思遺)給てをくりたび(送給)て候。所詮はわがをや(我親)のわかれ(別)をしさ、父の御ために釈迦仏法華経へまいらせ給にや。孝養の御心か、さる事なくば梵王、帝釈、日月、四天その人の家をすみか(栖)とせんとちか(誓)はせ給て候は、いふにかひなきものなれども、約束と申事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人人はいかでか仏前の御約束をばたがへさせ給べき。もし此事まことになり候はば、わが(我)大事とをもはん人人のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此事かなう(叶)べきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。さるほどならば聖霊仏になり給べし。成給ふならば来てまほり(守)給べし。其時一切は心にまかせんずるなり。かへすがへす人のせいし(制止)あらば、心にうれしく(嬉)おぼすべし。恐恐謹言。
五月三日 日蓮花押
上野殿御返事
(微上ノ二一。考三ノ四四。)