除病御書

建治元(1275)

其の上、日蓮の身竝びに弟子等、過去謗法之重罪未だ尽くさざる之上、現在多年之間、謗法の者と為り、亦謗法の国に生まる。当時、信心深からざる歟。豈に之を脱れん乎。但し貴辺、此の病を受くる之理、或人之を告ぐ。予、日夜朝暮に法華経に申し上げ、朝暮に青天に訴ふ。除病之由、今日之を聞く。喜悦、何事か之に過ぎん。事事見参を期せん。恐恐。#0202-300 上野殿御消息(本門取要鈔 与南条氏書)建治元(1275)
上野殿御消息(上野第八書)(本門取要鈔)(与南条氏書)
     建治元年。五十四歳作。
     外九ノ一八。遺二〇ノ三二。縮一三六六。類九六九。 三世の諸仏の世に出させ給ても皆皆四恩を報ぜよと説き、三皇、五帝、孔子、老子、顔回等の古の賢人は四徳を修せよと也。四徳と者、一には父母に孝あるべし。二には主に忠あるべし。三には友に合て礼あるべし。四には劣れるに逢て慈悲あれと也。一に父母に孝あれとはたとひ親はもの(物)に覚えずとも、悪ざまなる事を云とも、聊かも腹も立ず誤る顔を見せず親の云事に一分も違へず。親によき物を与へんと思てせめてする事なくば一日に二三度えみ(笑)て向へと也。二に主に合て忠あるべしとは、いさゝかも主にうしろめたなき(後痛)心あるべからず。たとひ我身は失はるとも主にはかまへ(構)てよかれ(善)と思べし。かくれ(隠)ての信あればあらはれ(顕)ての徳ある也と云云。三には友にあふて礼あれとは、友達の一日に十度二十度来れる人なりとも、千里二千里来る人の如く思ふて礼儀いさゝかをろか(疎)に思べからず。四に劣れる者に慈悲あれとは、我より劣りたらん人をば我子の如く思て一切あわれみ慈悲あるべし。此を四徳と云ふ也。是の如く振舞を賢人とも聖人とも云べし。此の四の事あれば余の事にはよからねどもよき者也。如是四の得を振舞ふ人は外典三千巻をよまねども読たる人となれり。一仏教の四恩と者、一には父母の恩を報ぜよ。二には国主の恩を報ぜよ。三には一切衆生の恩を報ぜよ。四には三宝の恩を報ぜよ。一に父母の恩を報ぜよとは、父母の赤白二?和合して我身となる。母の胎内に宿る事二百七十日、九月の間三十七度死るほどの苦みあり。生落す時たへがたしと思ひ念ずる息、頂より出る煙り梵天に至る。さて生落されて乳をのむ事一百八十余石、三年が間は父母の膝に遊び、人となりて仏教を信ずれば先づ此父と母との恩を報ずべし。父の恩の高き事須弥山猶ひきし、母の恩の深き事大海還て浅し。相構て父母の恩を報ずべし。二に国主の恩を報ぜよとは、生れて已来衣食のたぐひより初て、皆是国主の恩を得てある者なれば「現世安穏後世善処」と祈り奉るべし。三に一切衆生の恩を報ぜよとは、されば昔は一切の男は父なり女は母なり、然る間生生世世に皆恩ある衆生なれば皆仏になれと思ふべき也。四に三宝の恩を報ぜよと者、最初成道の華厳経を尋れば経も大乗、仏も報身如来にて坐ます間、二乗等は昼の梟夜の鷹の如くして、かれを聞といへども耳しい目しいの如し。然る間四恩を報ずべきかと思ふに女人をきらはれたる間母の恩報じがたし。次に仏阿含小乗経を説給し事十二年、是こそ小乗なれば我等が機にしたがふべきかと思へば、男は五戒、女は十戒、法師は二百五十戒、尼は五百戒を持て三千の威儀を具すべしと説たれば、末代の我等かなふ(叶)べしともおぼえねば母の恩報じがたし。況や此経にもきらはれたり。方等、般若四十余年の経経に皆女人をきらはれたり。但天女成仏経、観経等にすこし女人の得道の経有といへども、但名のみ有て実なき也。其上未顕真実の経なれば如何が有けん。四十余年の経経に皆女人を嫌れたり。又最後に説給たる涅槃経にも女人を嫌はれたり。何れか四恩を報ずる経有と尋れば、法華経こそ女人成仏する経なれば、八歳の龍女成仏し、仏の姨母?曇弥、耶輸陀羅比丘記別にあづかりぬ。されば我等が母は但女人の体にてこそ候へ。畜生にもあらず、蛇身にもあらず。八歳の龍女だにも仏になる、如何ぞ此経の力にて我母の仏にならざるべき。されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずる也。我心には報ずると思はねども此経の力にて報ずる也。然る間釈迦、多宝等の十方無量の仏、上行、地涌等の菩薩も、普賢、文殊等の迹化の大士も、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王、日月等の明主、諸天も八部王も、十羅刹女等も日本国中の大小の諸神も、総じて此法華経を強く信じまいらせて、余念なく一筋に信仰する者をば、影の身にそふが如く守らせ給ひ候也。相構て相構て心を翻へさず一筋に信じ給ふならば、現世安穏後世善処なるべし。恐恐謹言。
                             日蓮花押
  上野殿
(微上ノ二四。考四ノ五。)