身延山御書
身延山御書
建治元年八月。五十四歳。於身延山著。
内一八ノ一。遺一九ノ四一。縮一二九七。類四一一。 誠に身延の栖は、ちはやふる神もめぐみ(恵)を垂れ、天下りましますらん。心無きしず(賤)の男、しずの女までも心を留めぬべし。哀れを催す秋の暮には、草の庵に露深く、檐にすだく(集多)さゝがに(蜘蛛)の糸玉を連き、峰の紅葉いつしか色深うしてたえだえ(断断)に伝ふ、懸樋の水に影を移(映)せば、名にしおふ龍田河の水上もかくやと疑はれぬ。又後ろには蛾蛾たる深山そびへ(聳)て、梢に一乗の果を結び、下枝に鳴く蝉の音滋く、前には湯湯たる流水湛えて、実相真如の月浮び、無明深重の闇晴て法性の空に雲もなし。かゝる砌なれば、庵の内には昼は終日に一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす。伝へ聞く釈尊の住み給ひけん鷲峰を我が朝此の砌に移し置きぬ。霧立ち嵐はげし(烈)き折折も山に入りて薪をこり(伐)露深きにも草を分けて深谷に下りて芹をつみ、山河の流もはや(速)き巌瀬に菜をすゝぎ、袂しほれ(濡)て干わぶる思ひは、昔の人丸(麻呂)が詠じける、和歌の浦にもしほ(藻汐)垂つつ世を渡る海士もかくやとぞ思ひ遺る。つくづくと浮身の有様を案ずるに、仏の法を求め給ひしに異ならず。昔釈尊楽法梵志としては、皮をはぎ(剥)て紙とし、髄の水を取りて硯の水とし、肉を割きて墨とし、骨を摧きて筆として、下方の迦葉仏に値ひ奉りて「如法応修行、非法不応行、今世若後世、行法者安穏」云云と、此文を伝へ給ふ。薩垂王子としては飢えたる虎のために身を与へ、雪山童子としては半偈のために身をなげ(投)、尸毘王としては鳩のために肉を秤にかけ、乞眼婆羅門には眼をくじりて取らせ給ひき。又仏大国の王と御座し時は宿善内に催し、月卿雲客の政を忘れ、百官万乗に仰がれ給ふ十善の楽も、風の前の灯、あだなる春の夜の夢、籬につたふ槿華の日影をまつ程ぞかし。然るに過去の戒善いみじきに依りて、今生には大国の王たりと云へども、無常の殺鬼にさそわれて一期空しくて後、修するところの善なくんば阿鼻大城の炎の底に沈み、刹利も須陀もかはらぬためし(例)にて三熱の炎にまじはり、鉄縄五体をしばり、三熱のまろかし(弾丸)を口に入れ、阿防羅刹、三鈷のひしほこを手に取り邪見の音をあららかにして、五体身分を取取に責るならば音を天に響かし叫ぶとも地に伏して歎くとも、百官万乗も来つて助くることなく、親類、眷属も来つて救ふことなからん。又錦帳の内にしてよなよな(夜々)のねざめの牀にして天にあらば比翼の鳥、地に住まば連理の枝とならんと、月日を送り年を重ねて契りし妻子も、来つて訪ふ事はあらじなんどと、様様に思ひつゞけ給ひて、自ら蔵を開きて金銀等の七珍万宝を僧に供養し、象眼妻子を布施し、然して後大法の螺をふき大法の鼓を撃つて、四方に法を求め給ふ。爾時に阿私仙人と申す仙人来つて申しける様は、実に法を求め給ふ志御坐さば、我が云はん様に仕へ給へと云ひければ、大に悦んで山に入つては果を拾ひ薪をこり、菜をつみ水をくみ、給仕し給へる事千歳なり。常に御口ずさみには「情存妙法故身心無懈惓」とぞ唱へ給ひける。文の心は常に心に妙法を習はんと存ずる間、身にも心にも仕うれども、ものうき事なしと云へり。此の如くして習ひ給ひける法は即ち妙法蓮華経の五字なり。爾時の王とは今の釈迦牟尼仏是なり。仏の給仕して法を得給ひし事を、我が朝に五七五七七の句に結び置きけり。今如法経の時伽陀に誦する歌に、法華経を我が得し事は薪こり菜つみ水くみつかえてぞえし。此歌を見るに今は我身につみしられて哀れに覚えけるなり。実に仏になる道は師に仕ふるには過ぎず。妙楽大師の弘決の四に(弘会四ノ四十一)云く「若し弟子有つて師の過を見さば、若は実にも若は不実にも其の心自ら法の勝利を壊失す」云云。文の心は若し弟子あ(有)て師の過を見さば若は実にもあれ、若は不実にもあれ、已に其の心有るは身自ら法の勝利を壊り失ふ者なり云云。又止観の一(止会一ノ二十九)に云く「如来慇懃に此の法を称歎し給へば聞く者歓喜す。常啼は東に請ひ善財は南に求め、薬王は手を焼き普明は頭を刎らる。一日に三たび恒河沙の身を捨つるとも尚を一句の力を報ずること能はず。況や両肩に荷負すること百千万劫すとも寧ろ仏法の恩を報ぜんや」云云。文の心は如来ねんごろに此法を称歎し給へば、聞く者即ち歓喜す。常啼菩薩は東に法を請ひ、善財菩薩は南に法を求め、薬王菩薩は臂を焼き普明王は頭を刎られたり。一日に三度恒河の沙の数程身をば捨つるとも、尚一句の法恩を報ずる事あたはじ。況や二の肩に荷負て百千万劫すとも、寧ろ仏法の恩を報ずる事あるべからずと云へる心なり。止観の五(止会五ノ一十一)に云く「香城に骨を粉き雪嶺に身を投とも、亦何ぞ以て徳を報ずるに足らんや」と云へり。弘決の四(弘会四ノ四十)に云く「昔毘摩大国と云ふ国に狐あり、師子に追はれて逃けるが水もなき渇井に落ち入りぬ。師子は井を飛び越へて行きぬ。彼の狐井より上らんとすれども、深き井なれば上る事を得ざりき、既に日数を経るほどに飢死なんとす。其の時狐文を唱へて云く「禍かな、今日苦に逼められて、便ち当に命を丘井に没すべし。一切万物皆無常なり。恨むらくは身を以て師子に飼はざれることを。南無帰命十方仏、我心の浄くして已むことなきを表知し給へ」文。文の心は禍なるかな今日苦にせめられて即ち当に命を渇井に没すべし。一切の万物は皆是無常なり、恨むらくは身を師子に飼はざりけることを。南無帰命十方仏、我が心の浄きことを表知し給へと喚りき。爾時に天の帝釈狐の文を唱ふる事を聞き給ひて自ら下界に下り。井の中の狐を取り上げ給ひて法を説き給へと、の(宣)給ひければ、狐の云く、逆なるかな弟子は上に師は下に居たる事をと云ひければ、諸天笑ひ給へり。帝釈誠にことわり(理)と思食して、下に居給ひて法を説き給へとの給ひければ又狐云く、逆なるかな師も弟子も同座なる事をと云ひければ、帝釈諸天の上の御衣をぬぎ重ねて高座として登せて法を説かしむ。狐説いて云く「人有り生を楽ひ死を悪む。人有り死を楽ひ生を悪む」云云。文の心は人有りて生くる事を楽つて死せん事をにくみ、又人有りて死せん事を楽つて生きん事をにくむと。此の文を狐に値ひて帝釈習ひ給ひて狐を師として敬はせ給ひけり。天台の御釈(止会四ノ四九)に云く「雪山は鬼に随ひて偈を請ひ天帝は畜を拝して師となす。嚢臭きをもて其金を捨つる事なかれ」と釈し給へり。されば何に賤しき者なりとも実の法を知りたらん人を、いるがせ(忽)にする事あるべからず。然れば法華経の第八に云く「若実若不実此人現世得白癩病」云云。文の心は法華経の行者のとがを、若は実にもあれ、若は不実にもあれ云はん者は現世には白癩の病をうけ、後生には無間地獄に堕つべしと説かれたり。是等の理を思ひつづくるに大地の上に針を立てて大梵天宮より糸を下して、あやまたず糸の針の穴に入る事は有りとも我等が人間に生るる事は難く、又億億万劫不可思議劫をば過ぐるとも、如来の聖教に値ひ奉る事難し。而るに受け難き人間に生をうけ値ひ難き聖教に値ひ奉る。設ひ聖教に値ふと云えども、悪知識に値ふならば、三悪道に堕ちん事疑ひあるべからず。師堕つれば弟子堕つ、弟子堕つれば檀那堕つと云ふ文あるが故に、今幸に一乗の行者に値ひ奉れり。皮をはぎ肉を切り千歳仕へざれども、恣に一念三千、十界十如、一実中道、皆成仏道の妙法を学ぶ。実に過去の宿善拙くして末法流布の世に生れ値はざれば、未来永永を過ぐとも解脱の道難かるべし。又世間の人の有様を見るに口には信心深き事を云ふといえども、実に神にそむる人は千万人に一人もなし。涅槃経に云く「仏法を信ぜずして悪道に堕せん者は大地の土の如く仏法を信じて仏に成らん者は爪上の土の如し」と説き給へるも理なり。昔仏摩耶の恩を報じ給はんがために俄に人にも知られ給はずして、?利天へ四月十五日に昇らせ給ひて御坐けるに、五天竺の国王大臣を始めとしてあやしのしづ(賤)の男しづの女までも、仏を失ひ奉りて啼き悲みける歎き限りなく、誠に子を失ひ親にをくれたるが如し。いとをし(愛)き妻を恋ひ、男を恋ふる思の暗すら忍び難し。何に況や大覚世尊の「三十二相八十種好紫磨金色」の粧ひ厳くして、迦陵頻伽の御声を以て一切衆生を皆仏に成し給はんと御経を説かせ給ふ。慈悲深重に御坐す仏の御余波、惜み進らする歎き思ひ遺るに、上陽人の上陽宮に閉じ籠られて歎きし歎きにも勝れ、尭王の娘、娥皇、女英の二人舜王に別れ奉りて歎きし歎きにも勝れ、蘇武が胡国に流されて十九年、雪中に住みけん思にも勝れたり。余の御恋しさに木を以て仏の御形を作り奉るに、三十二相の一相をだにも作り似せ奉らず。爾時に優填大王と申しける王、赤栴檀と云ふ木を以て、?利天より毘首羯摩天を請して作り奉りける、仏の?利天へ本仏の御迎へに参らせ給ひけるも優填大王の信心深き故なり。是こそ一閻浮提に仏を作り奉りける始めなれ。又須達長者と云ひける人あり、仏は?利天に御坐すが、七月十五日に天竺へ下り給ふべきよし聞えければ、御儲に御堂を作らんとしけるに御堂造るべき地を持ざりければ、波期匿王の太子祇陀太子と云ひける人、祇陀林と云ふ苑を持ち給ひたりけるに広さ四十里有りける。此苑に人太刀刀を持ちて入れば折砕ける苑なり。須達、祇陀太子に値ひ奉りて此苑を売らせ給へ、御堂を造らんと云ひければ、太子の(宣)給ふ様、此苑四十里に金を厚さ四寸に敷給はば売らんとの給ひけり。須達之を買ふべき由を申しければ、太子の給はく、戯れにこそ云ひつれ、実には叶ふまじとの給ひけり。須達申しける様は天子に二言なしと云ふ。争か仮染の戯にも虚言をし給ふべきと申して、波期匿王に此由を申しけり。大王の給はく、祇陀太子は我位を継ぐべき者なり。争か仮染の戯にも虚言をすべきと仰せられければ、太子力なく売らせ給ひけり。須達四十里に金を四寸に敷いて買ひ取りて悦んで御堂を造らんとしけるに、舎利弗来りて縄をひき地をわり(割)けるに、舎利弗空を見上げてわらひけり。須達が云く、大聖は威儀を乱さざる理なり、いかにわらわせ給ふぞと怪み申しければ、舎利弗の云く、汝此堂を造らんとすれば六欲天に軍起る。かゝる大善根を修する者なれば我が天へこそ迎へんずれとて、互に諍をなす事のをかしと覚ゆるなり。汝は一期百年の後には兜率の内院に生るべしとぞの給ひける。然して後此堂を作り畢れり。其の名を祇園精舎と云ふ。此の祇園精舎へ七月十五日の夜、仏入らせ給ふべき由有りしかば、梵天、帝釈は?利天より金、銀、水精の三つの橋をかけたりける。中の橋を仏は入らせ給ふに、仏の左には梵天、右には帝釈互ひに仏に天蓋を指しかけまいらせ、仏の御後には四衆、八部、迦葉、迦栴延、目連、須菩提、千二百の羅漢、万二千の声聞、八万の菩薩等を引具して下り給ひけるに、五天竺に有りと在る人皆たえだえ(分分)に随つて油を儲けてともしけり。万灯をともす人もあり千灯をともす人もあり、或は百灯、乃至一灯をともす人もありけるに、此に貧女と云ふ者ありけり。貧しき事譬ふべき方もなし。身に纏ふ物とてはとふ(十府)のすがごも(菅薦)にも及ばざる藤の衣計りなり。四方に馳走すとも一灯の代を求むるにあたはず。空しく歎き思ひつもれる涙、油ならましかば百千万灯にともすとも尽きじ。思ひの余に自髪を切り、手づからかづら(鬘)にひねりて油一灯にかへてわづかにぞともしたりけるに、仏神も三宝も天神も地神も納受を垂れ給ひけるにや、藍風、毘藍風と申す大風吹て灯を吹き消しけるに、貧女が一灯計りぞ残りたりける。此の光にて仏は祇園精舎へ入らせ給ひけり。之を以て之を思ふにたのしくて若干の財を布施すとも、信心よはくば仏に成らんこと叶ひ難し。縦ひ貧なりとも信心強ふして志深からんは、仏にならんこと疑ひあるべからず。されば無勝徳勝と云ひける者は土の餅を仏に供養し奉りて、此の功徳に依て閻浮提の主阿育大王と生れて、終に八万四千の石塔を造り国国に送り給ひ、後に菩提の素懐をとげ給ふ。されば法華経にて四十余年が程きらはれし女人も仏に成り、五逆、闡提と云はれし提婆も仏になりけり。然れば末代濁世の謗法、闡提、五逆たる僧も俗も尼も女も、此経にて仏に成らん事疑ひなし。然れば法華経代七に云く「於我滅度後応受持此経是人於仏道決定無有疑」云云。此文こそよによに憑敷候へ。此等をさまざま思ひつづけて観念のとこの上に夢を結べば、妻恋ふ鹿の音に目をさまし、我身の内に三諦即一、一心三観の月曇りなく澄みけるを、無明深重の雲引覆ひつつ昔より今に至るまで、生死の九界に輪廻すること、此の砌にしられつつ自らかくぞ思ひつづける。
立わたる身のうき雲も晴ぬべしたえぬ御法の鷲の山風。
建治元年八月二十一日 日蓮花押