諸法実相鈔

文永十(1273.05・17)


諸法実相鈔
     文永十年五月。五十二歳著。与最蓮房日浄書。
     受二ノ一一。遺一四ノ五三。縮九五八。類六八四。 問て云く、法華経の第一方便品に云く「諸法実相(乃至)本末究竟等」云云。此の経文の意如何。答へて云く、下地獄より上仏界までの十界の依正の当体、悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり。依報あるならば必ず正報住すべし。釈に云く「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云。又云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」云云。又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾ず」云云。此等の釈義分明なり。誰か疑網を生ぜんや。されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし。釈迦、多宝の二仏と云も妙法等の五字より用の利益を施し給ふとき、事相に二仏と顕はれて宝塔の中にしてうなづき(点)合ひ給ふ。かくのごとき等の法門、日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず。天台、妙楽、伝教等は心には知り給へども、言に出し給ふまではなし、胸の中にしてくらし(暮)給へり。其れも道理なり。付属なきが故に、時のいまだいたらざる故に、仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首上行、無辺行等の菩薩より外は、末法の始めの五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給ふのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし。是即ち本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり。されば釈迦、多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にてはおはし候へ。経に云く「如来秘密神通之力」是れなり。如来秘密は体の三身にして本仏なり。神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。然れば釈迦仏は我等衆生のためには主、師、親の三徳を備へ給ふと思ひしに、さにては候はず、返て仏に三徳をかふら(蒙)せたてまつるは凡夫なり。其故は如来と云ふは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏、迹仏の通号なり」と判じ給へり。此釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依て。倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。実相と云ふは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云ふ事なり。地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり。餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり。天台云く「実相の深理、本有の妙法蓮華経なり」と云云。此釈の心は実相の名言は迹門に主づけ、本有の妙法蓮華経と云ふは本門の上の法門なり。此釈能能心中に案じさせ給へ候へ。日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等をまづ作り顕はしたてまつる事、予が分斉にはいみじき事なり。日蓮をこそにくむとも内証にはいかが及ばん。さればかゝる日蓮を此島まで遠流しける罪無量劫にもきへぬべしともおぼへず。譬喩品に云く「若説其罪窮劫不尽」とは是れなり。又日蓮をも供養し、又日蓮が弟子檀那となり給ふ事、其功徳をば仏の智慧にてもはかりつくし給ふべからず。経に云く「以仏智慧籌量多少不得其辺」といへり。地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり。地涌の菩薩のかずにもや入りなまじ。若日蓮地涌の菩薩のかずに入らば、あに日蓮が弟子檀那地涌の流類にあらずや。経に云く「能窃為一人説法華経乃至一句。当知是人則如来使、如来所遺行如来事」。あに(豈)別人の事を説き給ふならんや。さればあまりに人の我をほむるときはいかやうにもなりたき意の出来し候なり。是れほむる処の言よりをこり候ぞかし。末法に生れて法華経を弘めん行者は、三類の敵人あて流罪死罪に及ばん。然れどもたえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほう(覆)べきぞ。諸天は供養をいたすべきぞ。かた(肩)にかけ、せ(背)なかにをう(負)べきぞ。大善根のものにてあるぞ。一切衆生のためには大導師にてあるべしと。釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏菩薩、天神七代、地神五代の神神、鬼子母神、十羅刹女、四大天王、梵天、帝釈、閻魔法王、水神、風神、山神、海神、大日如来、普賢、文殊、日月等の諸尊たちにほめられたてまつる間、無量の大難をも堪忍して候なり。ほめ(讃)られぬれば我身の損ずるをもかへりみ(顧)ず、そしられ(毀)ぬる時は又我身のやぶるるをもしらず。ふるまう事は凡夫のことはざ(諺)なり。いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一
門となりとをし(通)給べし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊の久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云く「我従久遠来教化是等衆」とは是れなり。末法にして妙法蓮華経の五字弘めん者は男女はきらふべからず。皆地涌の菩薩の出現にあらずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第にとなへつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義にあらずや。剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地をまととするなるべし。ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給べし。釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏、菩薩、虚空にして二仏うなづきあひ、さだめさせ給しは別の事にはあらず。ただひとへ(唯偏)に末法の令法久住の故なり。既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来にたてまつり給し時、妙法蓮華経のはた(旛)をさし顕はし、釈迦、多宝の二仏大将としてさだめ給し事、あに(豈)いつはり(偽)なるべきや。しかしながら我等衆生を仏になさんとの御談合なり。日蓮は其座には住し候はねども、経文を見候に、すこしもくもりなし。又其座にもやありけん、凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり、又未来は決定として当詣道場なるべし。過去をもこれを以て推するに虚空会にもやありつらん、三世各別あるべからず。此の如く思ひつづけて候へば、流人なれども喜悦はかりなし。うれしき(嬉)にもなみだ、つらき(厭苦)にもなみだ(涙)なり。涙は善悪に通ずるものなり。彼の千人の阿羅漢、仏の事を思ひいでて涙をながし、ながしながら文殊師利菩薩は妙法蓮華経と唱へるを、千人の阿羅漢の中の阿難尊者はなき(泣)ながら如是我聞と答ふ。余の九百九十人はなくなみだを硯の水として、又如是我聞の上に妙法蓮華経とかきつけしなり。今日蓮もかくの如し。かゝる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり。釈迦仏、多宝仏、未来日本国の一切衆生のために、とどめ(留)をき給ふ処の妙法蓮華経なりと。かくのごとく我も聞きし故ぞかし。現在の大難を思ひつづくるにもなみだ、未来の成仏を思ふて喜ぶにもなみだせきあへず。鳥と虫とはなけ(鳴)どもなみだをちず、日蓮はなかねどもなみだひまなし。此のなみだ世間の事にはあらず、たゞひとへに法華経の故なり。若しからば甘露のなみだとも云つべし。涅槃経には父母、兄弟、妻子、眷属にわかれ(別)て流すところのなみだは、四大海の水よりもをゝし(多)といへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。法華経の行者となる事は過去の宿習なり。同じ草木なれども仏とつくらるるは宿縁なるべし。仏なりとも権仏となるも又宿業なるべし。此の文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。よくよく見ほどか(解)せ給へ、意得させ給ふべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへてあひかまへて信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給ふべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへ(絶)なば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたら(談)せ給べし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。恐恐謹言。
  五月十七日                 日蓮花押
 追申候。日蓮が相承の法門等前前かき進らせ候き。ことに此文には大事の事どもしるし(記)てまいらせ候ぞ。不思議なる契約なるか。六万恒沙の上首上行等の四菩薩の変化歟。さだめてゆへあらん。総じて日蓮が身に当つての法門わたしまいらせ候ぞ。日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん。南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり。経に云く「一名上行(乃至)唱導之師」とは説かれ候はぬか。まことに宿縁のをふところ予が弟子となり給ふ。此文あひかまへて秘し給へ。日蓮が己証の法門等かきつけて候ぞ。とどめ畢んぬ。
   最蓮房御返事