諸宗問答鈔

建長七(1255)

 問て云く 法華宗の法門は天台・妙楽・伝教等の釈をば御用ひ候哉如何。
 答て云く 最も此の御釈共を明鏡の助証として立て申す法門にて候。
 問て云く 何を明鏡として立てられ候ぞや。彼の御釈共には爾前権教を簡び捨てらる事候はず。随て或は初後仏慧円頓義斉とも、或は此妙彼妙妙義無殊〔此の妙、彼の妙、妙義に殊ることなし〕とも釈せられ、華厳と法華と、仏慧は同じ仏慧にて異なること無しと釈せられ候。通教別教の仏慧も法華と同じと見えて候。何を以て偏に法華勝れたりとは仰せられ候哉。意得られず候、如何。
 答て云く 天台の御釈を引かれて候は定めて天台宗にて御坐候らん。然らば天台の御釈には教道・証道とて二筋を以て六十巻を作られ候。教道は即ち教相の法門にて候。証道は則ち悟りの方にて候。只今引かれ候釈の文共は教証の二の中には何れの文と御得意候て引かれ候や。若し教門の釈にて候はば、教相には三種の教相を立て候。爾前・法華を釈して勝劣を判ぜられたり。三種の教相には何哉と之を尋ぬべし。若し三種の教相と申すは一には根性の融不融の相、二には化導の始終不始終の相、三には師弟の遠近不遠近の相也と答へば、さては只今引かるゝ御釈は何れの教相にて引かれ候哉と尋ぬべき也。根性の融不融の下にて釈せらると答へば又押し返して問ふべし。根性の融不融の下には約教・約部とて二法門あり何れ哉と尋ぬべし。若し約教の下と答へば又問ふべし。約教・約部に付けて与奪の二の釈候。只今の釈は与の釈なる歟、奪釈なる歟と之を尋ぬべし。
若し約教・約部をも与奪をも弁へずと云はば、さては天台宗の法門は堅固に御無沙汰にて候けり。尤も天台法華の法門は教相を以て諸仏の御本意を宣べられたり。若し教相に闇くして法華の法門をいへば ̄雖讃法華経還死法華心〔法華経を讃むると雖も還て法華の心を死(ころ)す〕とて、法華の心を殺すと云ふ事にて候。其の上 ̄若弘余経不明教相 於義無傷。若弘法華不明教相者 文義有闕〔若し余経を弘むるに教相を明らめざるも、義に於て傷つくることなし。若し法華を弘むるに教相を明さざれば、文義闕けることあり〕と釈せられて、殊更教相を本として天台の法門は建立せられて候。仰せられ候如く、次第も無く偏円をも簡ばず、邪正も選ばず法門申さん物をば信受せざれと、天台堅く誡められ候也。是れ程知食せられざる候ひけるに中々天台の御釈を引かれ候事浅{暖(日→けものへん)}御事也と責むべきなり。
但し天台の教相を三種に立てらるゝ中に、根性の融不融の相の下にて相待妙・絶待妙とて二妙を立て候。相待妙の下にて又約教・約部の法門を釈して仏教の勝劣を判ぜられて候。約教の時は一代教を蔵通別円の四教に分けて、之に付けて勝劣を判じける時は、前三為・、後一為妙とは判ぜられて、蔵通別の三教をば・教と簡び、後一をば妙法と選び取られ候ども、この時もなほ爾前権教の当分の得道を許し、且つ華厳等の仏慧と法華の仏慧とを等しからしめて、只今の初後仏慧円頓義斉の与の釈を作られ候也。然りと雖も、約部の時は一代の教を五字に分けて五味に当て、華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と立てられ、前四味為、後一を為妙と判じて、奪の釈を作られ候也。然らば奪の釈に云く ̄細人人二倶犯 過随過辺説倶名人〔細人人、二倶に犯す。過随過辺、倶に名づけて人と説く〕と立て了ぬ。此の釈の意は華厳経にも別円二教を説いて候間、円の方は仏慧と云はる也。方等部にも蔵通別円の四教を説き候間、円の方は又仏慧也。般若部にも通別円の後三教を説いて候間、其れも円の方は仏慧也。然りと雖も、華厳は別教と申す悪物を連れて説かれ候間、悪物に連れたる仏慧なりとて簡ばるなり。方等の円も前三教の悪物を連れたる仏慧なり。然る間、仏慧の名は同じと雖も、過辺に従ひてと云はれて、わるき円教の仏慧と下され候也。之に依て四教にても真実の勝劣を判ずるときは、一往三蔵名為小乗 再往三教名為小乗〔一往は三蔵を名づけて小乗となし、再往は三教を名づけて小乗となす〕と釈して、一往の時は二百五十戒等の阿含三蔵教の法門を總じて小乗の法と簡び捨てらるれども、再往の釈の時は三蔵教と、大乗と云ひつる通教と、別教との三教皆小乗法と、本朝の智証大師も法華論の記と申す文を作りて判釈せられて候也。
次に絶待妙と申すは開会の法門にて候也。此の時は爾前権教とて嫌ひ捨てらるゝ所の教を皆法華の大海に収め入るゝ也。随て法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌はる者無き也。皆法華の大海の不可思議の徳として、南無妙法蓮華経と云ふ一味にたゝきなしつる間、念仏・戒・真言・禅とて別の名言を呼び出すべき道理かつて無きなり。随て釈に云く ̄〔諸水入海 同一鹹味 諸智入如実智 失本名字〔諸水、海に入れば同一の鹹味なり。諸智、如実智に入れば本の名字を失ふ〕等と釈して、本の名字を一言も呼び顕すべからずと釈せられて候。世間の天台宗は開会の後は相待妙の時斥ひ捨てられし所の前四味の諸経の名言を唱ふるも、又諸仏菩薩の名言を唱ふるも、皆是れ法華の妙体にて有る也。大海に入らざる程こそ各別の思ひなりけれ。大海に入て後に見れば日来悪し善と斥ひ用ひけるは大僻見にて有りけり。斥はるゝ諸流も、用ひらるゝ冷水も、源はたゞ大海より出でたる一水にて有りけり。然れば何水と呼びたりとても、ただ大海の一水に於て別々の名言をよびたるにてこそあれ各別々々の者と思ひてこそ過はあれ、只大海の一水と思ひて何れをも心に任せて有縁に随て唱へ持つに苦しかるべからずとて、念仏をも真言をも何れをも心に任せて持ち唱ふるなり。
今云ふ 此の義は与へて云ふ時はさも有るべき歟と覚ゆれども、奪って云ふ時は随分の堕地獄の義也。其の故は縦ひ一人此の如く意得、何れをも持ち唱ふるとても、此の心子を得ざる時は、只例の偏見偏情にて持ち唱ふれば、一人成仏するとも万人は皆地獄に堕すべき邪見の悪義也。爾前に立つる所の法門の名言と其の法門の内に談ずる所の道理の所詮とは、皆是れ偏見偏情によりて入邪見稠林 入邪見稠林〔邪見の稠林 若しは有若しは無等に入り〕の権教也。然らば此れ等の名言を持て持ち唱へ、此れ等の所詮の理を観ずれば偏に心得、心得ず、みな地獄に堕すべし。心得たりとて唱へ持つ者は牛蹄に大海を収めるもの、是の如きは僻見の者也。何ぞ三悪道を免れん。又心得ざる者の唱へ持つは本より迷惑の者なれば、邪見権教の執心に依て無間大城に入らん事疑ひ無き者也。開会の後も教と斥ひ捨つるなり。悪法をば名言をも所詮の極理をも唱へ持つべからず。
弘決二の釈に云く ̄相対絶待倶須離悪。円著尚悪。況復余耶〔相対絶待倶に須らく悪を離るべし。円に著する尚お悪なり。況んや復余をや〕云云。此の文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須らく悪法をばはなるべし。円に著する尚お悪也。況復余耶〔況んや復余をや〕と云ふ文也。円とは満足の義也。余とは闕減の義なり。円教の十界平等に成仏する法をすら著したる方を悪ぞと斥ふ。況んや復十界平等に成仏せざるの悪法の闕たるを以て執著をなして、朝夕受持読誦解説書写せんをや。仮令爾前の円を今の法華に開会し入るゝとも、爾前の円は法華と一味となる事無し。法華の体内に開会し入れられても、体内の権と云はれて実とは云はれざるなり。体内の権を体外に取り出だして且く_於一仏乗。分別説三〔一仏乗に於て分別して三と説きたもう〕する時、権に於て円の名を付けて三乗の中の円教と云はれたるなり。
之に依て古へも金杖の譬へを以て三乗にあてゝ沙汰する事あり。譬へば金の杖を三に打ち折りて一づゝ三乗の機根に与へて、何れも皆金なり、然らば何ぞ同じ金に於て差別の思ひを成して勝劣を判ぜんやと談合したり。此れはうち開く所はさもやと覚えたれども、悪く学ぶ者の心得なり。今云ふ 此の義は譬へば法華の体内の権の金杖を仏三根に宛て、三度打ち振り給へる其の影を機根が見付けずして、皆真実の思ひを成して、己が見に任せたるなり。其れ真実には金杖を打ち折りて三になしたる事が有らばこそ、今の譬へは合譬とは成る。仏は権の金杖を折らずして三度振り給へるを、機根有りて三に成りたりと執著し心得たるは、返す返す不心得の大邪見也、大邪見也。三度振りたるも法華の体内の権の功徳を体外の三根に宛て三度振りたるにてこそ有れ。全く妙体不思議の円実を振りたる事無きなり。然れば体外の影の三乗を体内の本の権の本体へ開会し入るれば、本の体内の権と云はれて、全く体内の円とは成らざるなり。此の心を以て体内体外の権実の法門をば意得弁ふべき物なり。 次に禅宗の法門は或は教外別伝 不立文字と云ひ、或は仏祖不伝と云ひ、修多羅の教は月をさす指の如しとも云ひ、或は即身即仏とも云ひ、文字をも立てず、仏祖にも依らず、教法をも修学せず、画像木像をも信用せずと云ふなり。
 反詰して云く 仏祖不伝と候こそ、月氏二十八祖・東土六祖とて相伝はせられ候哉。其の上迦葉尊者何ぞ一重だの花房を釈尊より授けられ、微笑して心の一法を霊山にして伝へたりとは自称する哉。又祖師無用ならば何ぞ達磨大師を本尊とする哉。修多羅の法無用ならば何ぞ朝夕の所作に真言陀羅尼をよみて、首楞厳経・金剛経・円覚経等を読誦する哉。又仏菩薩を信用せざれば、何ぞ南無三宝と行住坐臥に唱ふる哉、と責むべき也。
 次に聞知せざる言を以て種々申し狂はば云ふべし、およそ機には上中下の三根あり。随て法門も三根に与へて説く事なり。禅宗の法門にも理致・機関・向上とて三根に宛て法門を示され候也。御辺は某が機をば三根の中には何れと知り分けて聞知せざる法門を仰せられ候哉。又理致の分歟、機関の分歟、向上の分に候歟、と責むべきなり。理致と云はば下根に道理を云ひきかせて禅の法門を知らする名目なり。機関とは中根の者には何なるか本来の面目と問へば、庭前の柏樹子なんど答へたることばづかひをして禅法を示す様なり。向上と云はば上根の者の事なり。此の機は祖師よりも伝へず、仏よりも伝へず、我として禅の法門を悟る機也。迦葉霊山微咲の花に依て心の一法を得たりと云ふ時に是れなほ中根の機也。所詮の法門と云ふ事は迦葉一枝の花房を得たりしより以来出来せる法門也。抑そも伝ふる時の花房は木の花歟、草の花歟、五色の中には何さま色の花哉。又花の葉は何重の華哉。委細に之を尋ぬべきなり。此の花を有間に云ひ出だしたる禅宗有らば、実に心の一法をも一分得たる者と知るべきなり。たとひ得たりとは存知すとも真実の仏意には叶ふべからず。如何となれば法華経を信ぜざる故也。此の心は法華経方便品の終りの長行に委しく見えたり。委しくは引いて拝見し奉るべき也。
 次に禅の法門は何としても物に著する所を離れよと教えたる法門にて有る也。さあと云へば其れは情也。かうと云ふも其れも情也。あなたこなたへすべり、止まらざる法門にて候也。夫を責むべき様は、他人の情に著したらん計りをば沙汰して、己が情量に著し封せらる所をば知らざる也。云ふべきさまは、御辺は人の情計りをば責むれども、御辺の人情ぞと執したる情をなど離れずと反詰すべき也。凡そ法として三世諸仏の説きのこしたる法は無き也。汝仏祖不伝と云ひて仏祖よりも伝へずとなのらば、さては禅法は天魔の伝ふる所の法門なり、如何。然る間、汝断常の二見を出でず、無間地獄に堕せん事疑ひ無しと云ひて、何度もかれが云ふ言にて、やゝもすれば己がつまる語也。されども非学匠は理につまらっずと云ひて、他人の道理をも自分の道理をも聞知せざる間、闇証の者とは云ふ也。都て理におれざる也。譬へば行く水にかずかく(書)が如し。
 次に即身即仏とは、即身即仏なる道理を立てよと責むべし。其の道理を立てずして、無理に唯即身即仏と云はば、例の天魔の義也と責むべし。但即身即仏と云ふ名目を聞くに、天台法華宗の即身即仏の名目づかひを盗み取りて、禅宗の家につかふと覚へたり。然れば法華に立つる様なる即身即仏なる歟、如何とせめよ。若し其の義無く押して名目をつかはば、つかはるゝ語は無障礙の法也。譬へば民の身として国王と名乗らん者の如く也。如何に国王と云ふとも、言には障りなし。己が舌の和やかなるまゝに云ふとも、其の身は即ち土民の卑しく嫌われたる身也。又瓦礫を玉と云ふ者の如し。石瓦を玉と云ひたりとも曾て石は玉にならず。汝が云ふ所の即身即仏の名目も此の如く有名無実也。不便也、不便也。[p0029-0030]
 文字は是れ一切衆生の心法の顕れたる質也。されば人のかける物を以て其の人の心根を知りて相する事あり。凡そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相する也。然らば文字は是れ一切衆生の色心不二の質也。汝若し文字を立てざれば、汝が色心をも立つべからず。さてと云ふも、かうと云ふも、有と無との二見をば離れず。無と云はば無の見也とせめよ。有と云はば有の見也とせめよ。何れも何れも叶わざる事也。
 次に修多羅の教は月をさす指の如しと云ふは、月を見て後は徒者と云ふ義なる歟。若し其の義にて候はば、御辺の親も徒者と云ふ義歟。又師匠は弟子の為の徒者歟。又大地は徒者歟。又天は徒者歟。如何となれば父母は御辺を出生するまでの用にてこそあれ、御辺を出生して後はなにかせん。人の師は物を習ひ取るまでこそ用なれ、習ひ取りて後は無用也。夫れ天は雨露を下すまでこそあれ、雨ふりて後は天無用也。大地は草木を出生せんが為也、草木を出生して後は大地無用也と云はん者の如し。是れを世俗の者の譬へに、喉過ぎぬればあつさわすれ、病癒えぬれば医師をわすると云ふらn譬へに少しも違はず相似たり。[p0030-0031
 ]所詮修多羅と云ふも文字也。文字是三世諸仏気命也〔文字は是れ三世諸仏の気命なり〕と天台釈し給へり。天台は震旦の禅宗の祖師の中に入りたり。何ぞ祖師の言を嫌はん。其の上御辺の御辺の色心也。凡そ一切衆生の三世不断の色心也。何ぞ汝本来の面目を捨て不立文字徒云ふ耶。是れ昔し移宅しけるに我が妻を忘れたる者の如し。真実の禅法をば何としてか知るべき。哀なる禅の法門かなと責むべし。 次に華厳・法相・三論・倶舎・成実・律宗等の六宗の法門、いかに花をさかせても、申しやすく返事すべき方は、能く能くいはせて後、南都の帰伏状を唯よみきかすべき也。既に六宗の祖師が帰伏の状をかきて桓武天皇に奏し奉る。仍て彼の帰伏状を山門に納められぬ。其の外内裏にも記されたり。諸道の家家にも記し留めて今にあり。其れより以来、華厳宗等の六宗の法門、末法の今に至るまで一度も頭をさし出ださず。何ぞ唯今事新しく捨てられたる所の権教無得道の法にをいて真実の思ひをなし、此の如く仰せられ候ぞや。心得られずとせむべし。 次に真言宗の法門は、先づ真言三部経は大日如来の説歟、釈迦如来の説歟と尋ね定めて、釈迦の説を云はば、釈尊五十年の説教にをいて已今当の三説を分別せられたり。其の中に大日経等の三部は何れの分にをさまり候ぞと之を尋ぬべし。三説の中にはいづくにこそおさまりたりと云はば、例の法門にてたやすかるべき問答也。若し法華と同時の説也、義理も法華と同じと云はば、法華は是れ純円一実の教にて曾て方便を交へて説く事なし。大日経等は四教を含用したる経也。何ぞ時も同じ義理も同じと云はんや、謬り也とせめよ。
 次に大日如来の説法と云はば、大日如来の父母と、生ぜし所と、死せし所を委しく沙汰し問ふべし。一句一偈も大日の父母なし、説所なし、生死の所なし。有名無実の大日如来也。然る間、殊に法門せめやすかるべき也。若し法門の所詮の理を云はば、教主の有無を定めて、説教の得不得をば極むべき事也。設ひ至極の理密・事密を沙汰すとも、訳者に虚妄有り、法華の極理を盗み取りて事密真言とか立てられてあるやらん、不審也。
 次に大日如来は法身と云はば、法華よりは未顕真実と嫌ひ捨てられたる爾前権教にも法身如来と説かれたり。何ぞ不思議なるべきやと云ふべき也。若し無始無終の由を云ひていみじき由を立て申さば、必ず大日如来に限らず、我等一切衆生螻蟻蚊虻に至るまでみな無始無終の色心也。衆生に於て有始有終と思ふは外道の僻見也。汝外道に同ず、如何と云ふべき也。 次に念仏は是れ浄土宗所用の義也。此れ又権教の中の権教也。譬へば夢の中の夢の如し。有名無実にして其の実無き也。一切衆生願ひて所詮なし。然らば云ふ所の仏も有名無実の阿弥陀仏也。何ぞ常住不滅の道理にしかんや。されば本朝の根本大師の御釈に云く ̄有為報仏夢中権果 無作三身覚前実仏〔有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏〕と釈して、阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大にいましめ、捨てをかれ候也。既に憑む所の阿弥陀仏有名無実にして、名のみ有りて其の体なからんには、往生すべき道理をば、委しく須弥山の如く高く立て、大海の如くに深く云ふとも、何の所詮有るべきや。又経論に正しき明文ども有りと云はば、明文ありとも未顕真実の文也。浄土の三部経に限らず、華厳経等より初めて何の経教論釈にか成仏の明文無からん耶。然れども権教の明文なる時は、汝等が所執の拙きにてこそあれ、経論に無き僻事也。何れも法門の道理を宣べ厳り、依経を立てたりとも夢中の権果にて無用の義に成るべき也。返す返す。