聖愚問答鈔
聖愚問答鈔上
夫れ、生を受けしより死を免れざる理りは、賢き御門より卑しき民に至るまで人ごとに是れを知るといへども、実に是れを大事とし是れを歎く者、千万人に一人も有りがたし。無常の現起するを見ては、疎きをば恐れ親しきをば歎くといへども、先立つははかなく、留まるはかしこきやうに思ひて、昨日は彼のわざ今日は此の事とて、徒らに世間の五欲にほだされて、白駒のかげ過ぎやすく、羊の歩み近づく事をしらずして、空しく衣食の獄につながれ、徒らに名利の穴にをち、三途の級里に帰り、六道のちまたに輪回せん事、心有らん人、誰か歎かざらん、誰か悲しまざらん
嗚呼、老少不定は娑婆の習ひ、会者定離は浮き世のことはりなれば、始めて驚くべきにあらねども、正嘉の初め世を早うせし人のありさまを見るに、或は幼き子をふりすて、或は老いたる親を留めをき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣く心の中、さこそ悲しかるらめ、行くもかなしみ、留まるもかなしむ。彼楚王伴神女残情於一片之朝雲 劉氏値仙客慰思於七世之公胤。如予者縁底休愁〔彼の楚王が神女に伴ひて、情けを一片の朝の雲に残し、劉氏が仙客に値ひし、思ひを七世の公胤に慰む。予が如き者、なにによりて愁ひを休めん〕。
かゝる山左(やまかつ)のいやしき心なれば身には思ひのなかれかしと云ひけん人の古事さへ思出られて、末の代のわすれがたみにもとて、難波のもしほ草をかきあつめ、水くきのあとを形の如くしるしをく也。悲しい哉、痛ましい哉。
我等無始より已来、無明の酒に酔ひて六道四生に輪回して、或時は焦熱・大焦熱の炎にむせび、或時は紅蓮・大紅蓮の氷にとぢられ、或時は餓鬼飢渇の悲しみに値ひて、五百生の間飲食の名をも聞かず。或時は畜生残害の苦みをうけて、小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる、是れを残害の苦と云ふ。
或時は脩羅闘諍の苦をうけ、或時は人間に生まれて八苦をうく。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五盛陰苦等也。
或時は天上に生まれて五衰をうく。此の如く、三界の間を車輪のごとく回り、父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず、夫婦の会ひ遇へるも会ひ遇ひたる事をしらず、迷へる事は羊目に等しく、暗き事は狼眼に同じ。我を生みたる母の由来をもしらず、生を受けたる我が身も死の終りをしらず。
嗚呼、受け難き人界の生をうけ、値ひ難き如来の聖教に値ひ奉れり。一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし。今度、若し、生死のきづなをきらず、三界の籠樊を出でざらん事かなしかるべし、かなしかるべし。
爰に或智人来りて示して云く 汝が歎く所、実に而なり。此の如く、無常のことはりを思ひ知り、善心を発す者は麟角よりも希也。此のことはりを覚らずして、悪心を発す者は牛毛よりも多し。汝早く生死を離れ菩提心を発さんと思はば、吾最第一の法を知れり。志あらば汝が為に是れを説きて聞かしめん。
其の時、愚人、座より起ちて合掌して云く 我は日来、外典を学し、風月に心をよせて、いまだ仏教と云ふ事を委細にしらず。願はくは上人、我が為に是れを説き給へ。
其の時、上人の云く 汝耳を伶倫が耳に寄せ、目を離朱が眼にかつて、心をしづめて我が教えをきけ。汝が為に之を説かん。
夫れ、仏教は八万の聖教多けれども、所習の父母たる事、戒律にはしかず。されば天竺には世親・馬鳴等の薩、唐土には慧曠・道宣と云ひし人、是れを重んず。我が朝には人皇四十五代聖武天皇の御宇に、鑒真和尚、此の宗と天台宗と両宗を渡して、東大寺の戒壇、之を立つ。爾しより已来、当世に至るまで、崇重年旧り尊貴、日に新たなり。
就中、極楽寺の良観上人は上一人より下万民に至るまで、生身の如来と是れを仰ぎ奉る。彼の行儀を見るに、実に以て爾也。飯嶋の津にて六浦の関米を取りては、諸国の道を作り、七道に木戸をかまへて人別の銭を取りては、諸河に橋を渡す。慈悲は如来に斉しく、徳行は先達に超えたり。汝早く生死を離れんと思はば、五戒・二百五十戒を持ち、慈悲をふかくして物の命を殺さずして、良観上人の如く道を作り橋を渡せ。是れ第一の法也。汝、持たんや否や。
愚人、弥いよ合掌して云く 能く能く持ち奉らんと思ふ。具さに我が為に是れを説き給へ。抑そも五戒・二百五十戒と云ふ事は、我等未だ存じせず。委細の是れを示し給へ。
智人云く 汝は無下に愚か也。五戒・二百五十戒と云ふ事をば孩児(おさなご)も是れを知る。然れども汝が為に之を説かん。五戒とは、一には不殺生戒、二には不偸盗戒、三には不妄語戒、四には不邪婬戒、五には不飲酒戒、是れ也。二百五十戒の事は多き間、之を略す。
其の時に、愚人、礼拝恭敬して云く 我、今日より深く此の法を持ち奉るべし。
爰に予が年来(としごろ)の知音、或所に隠居せる居士、一人あり。予が愁歎を訪はん為に来れるが、始めには往事渺茫として夢に似たる事をかたり、終には行末の冥冥として弁へ難き事を談ず。欝を散らし思ひをのべて後、世に問ひて云く 抑そも人の世に有る、誰か後生を思はざらん。貴辺、何なる仏法をか持ちて出離をねがひ、又、亡者の後世をも訪ひ給ふや。
予、答て云く 一日、或上人来りて我が為に五戒・二百五十戒を授け給へり。実に以て心肝にそみて貴し。我深く良観上人の如く、及ばぬ身にもわろき道を作り、深き河には橋をわたさんと思へる也。
其の時、居士、示して云く 汝が道心、貴きに似て愚か也。今談ずる処の法は浅ましき小乗の法也。されば仏は則ち八種の諭(たとへ)を設け、文殊は又、十七種の差別を宣べたり。或は螢火日光の諭を取り、或は水精瑠璃の諭あり。爰を以て三国の人師も其の破文、一に非ず。
次に行者の尊重の事。必ず人の敬ふに依て法の貴きにあらず。されば仏は依法不依人と定め給へり。我伝へ聞く、上古の持律の聖者の振る舞いは ̄言殺言収有知浄之語。行雲廻雪作死屍想〔殺を言ひ、収を言ふには知浄の語あり。行雲廻雪には死屍の想ひをなす〕。而るに今の律僧の振る舞いを見るに、布絹財宝をたくはへ、利銭借請を業とす。教行既に相違せり。誰か是れを信受せ。次に道を作り橋を渡す事、還りて人の歎き也。飯嶋の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是れ多し。諸国七道の木戸、是れも旅人のわづらい、只、此の事に在り。眼前の事なり。汝、見ざるや否や。
愚人、色を作して云く 汝が智分をもて上人を謗し奉り、其の法を誹る事、謂れ無し。知りて云ふ歟、愚にして云ふ歟。おそろし、おそろし。
其の時、居士、笑ひて云く 嗚呼、おろかなり、おろかなり。彼の宗の僻見をあらあらもうすべし。
抑そも、教に大小有り、宗に権実を分かてり。鹿苑施小の昔は化城の戸ぼそに導くといへども、鷲峰開顕の筵には其の得益、更に之無し。
其の時、愚人、茫然として居士に問て云く 文証・現証、実に似て然也。さて何なる法を持ちてか生死を離れ、速やかに成仏せん耶。
居士、示して云く 我、在俗の身なれども深く仏道を修行して、幼少より多くの人師の語を聞き、粗、経教をも開き見るに、末代我等が如くなる無悪不造のためには念仏往生の教にしくはなし。されば慧心僧都は、夫れ、往生極楽之教行は、濁世末代之目足也と云ひ、法然上人は諸経の要文を集めて一向専修の念仏を弘め給ふ。中にも弥陀の本願は諸仏超過の崇重也。始め無三悪趣の願より、終り得三法忍の願に至るまで、いづれも悲願目出けれども、第十八の願、殊に我等が為に殊勝也。又、十悪・五逆をもきらはず、一念、多念をもえらばず。されば上一人より下万民に至るまで、此の宗をもてなし給ふ事、他に異なり。又、往生の人それ幾ばくぞや。
其の時、愚人の云く 実に小を恥じて大を慕ひ、浅を去て深に就くは、仏教の理のみに非ず、世間にも是れ法也。我早く彼の宗にうつらんと思ふ。委細に彼の旨を語り給へ。彼の仏の悲願の中に五逆・十悪をも簡ばずと云へる、五逆とは何等ぞや、十悪とは如何。
智人の云く 五逆とは殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧、是れを五逆と云ふ也。十悪とは身に三・口に四・意に三、也。身に三とは、殺・盗・婬、口に四とは妄語・綺語・悪口・両舌、意に三とは、貪瞋癡、是れを十悪と云ふ也。
愚人云く 我今解しぬ。今日よりは他力往生に憑みを懸(かく)べき也。
爰に愚人、又云く 以ての外、盛んにいみじき密宗の行人あり。是れも予が歎きを訪はんが為に来臨して、始めには狂言綺語のことはりを示し、終りには顕密二宗の法門を談じて、予に問て云く 抑そも汝は何なる仏法をか修行し、何なる経論をか読誦し奉るや。
予、答て云く 我一日、或居士の教えに依て、浄土の三部経を読み奉り、西方極楽の教主に憑みを深く懸る也。
仏教に二種有り。一には顕教、二には密教也。顕教の極理は密教の初門にもには及ばずと云云。汝が執心の法を聞けば釈迦の顕教也。我が所持の法は大日覚王の秘法也。実に三界の火宅を恐れ、寂光の宝臺を願はば、須らく顕教をすてゝ、密教につくべし。
愚人、驚きて云く 我いまだ顕密二道と云ふ事を聞かず。何なるを顕教と云ひ、何なるを密教と云へるや。
行者云く 予は是れ頑愚にして敢えて賢を存ぜず。然りと雖も、今、一二の文を挙げて汝が蒙昧を挑(かかげ)ん。顕教とは、舎利弗等の請いに依て、応身如来の説き給ふ諸経也。密教とは、自受法楽の為に法身大日如来の金剛薩を所化として説き給ふ処の大日経等の三部也。
愚人云く 実に以て然なり。先非をひるがへして賢き教に付き奉らんと思ふ也。
又、爰に萍(うきくさ)のごとく諸州を回り、蓬のごとく県県に転ずる非人の、それとも知らず来り門の柱に寄り立ちて含笑(ほくそゑみ)語る事なし。あやしみをなして是れを問ふに、始めには云ふ事なし。後に強いて問を立つる説き、彼が云く 月蒼蒼として風忙忙たりと。形質常に異に、言語又通ぜず。其の至極を尋ぬれば、当世の禅法、是れ也。
予、彼の人の有様を見、其の言語を聞きて、仏道の良因を問ふ時、非人の云く 修多羅の教は月をさす指、教綱(けうまう)は是れ言語にとどこほる妄事なり。我、心の本分におちつかんと出で立つ法は、其の名を禅と云ふ也。
愚人云く 願はくは、我、聞かんと思ふ。
非人の云く 実に其の志深くば、壁に向ひ坐禅して本心の月を澄ましめよ。
爰を以て西天には二十八祖系乱れず、東土には六祖の相伝、明白也。汝、是れを悟らずして教網にかゝる。不便不便。是心即仏、即心是仏なれば、此の身の外に更に何か仏あらんや。
愚人、此の語を聞きて、つくづくと諸法を観じ、閑かに義理を案じて云く 仏教万差にして理非明らめ難し。宜なる哉、常啼は東に請ひ、善哉は南に求め、薬王は臂を焼き、楽法は皮を剥ぐ。善知識、実に値ひ難し。或は教内と談じ、或は教外と云ふ。此のことはりを思ふに未だ淵底を究めず。法水に臨む者は、深淵の思ひを懐き、人師を見る族は薄氷の心を成せり。
爰を以て金言には、依法不依人と定め、又、爪上土の譬あり。若し、仏法の真偽をしる人あらば、尋ねて師とすべし。求めて崇むべし。
夫れ人界に生を受くるを天上の絲にたとへ、仏法の視聴は浮木の穴に類せり。身を軽くして法を重くすべしと思ふに依て衆山に攀、歎きに引かれて諸寺を回る。足に任せて一つの巌窟に至るに、後には青山峨峨として松風常楽我浄を奏し、前には碧水湯湯として岸うつ波、四徳波羅蜜を響かす。深谷に開敷せる花も中道実相の色を顕し、広野に綻ぶる梅も、界如三千の薫りを添ふ。言語道断心行所滅せり。謂つべし、商山の四皓の所居とも、又、知らず、古仏経行の迹なる歟。景雲朝たに立ち、霊光夕べに現ず。
嗚呼、心を以て計るべからず、詞を以て宣ぶべからず。予、此の砌に沈吟とさまよひ、彷徨とたちもとをり、徙倚(しい)とたゝずむ。此の処に忽然として一りの聖人坐(いま)す。其の行儀を拝すれば、法華読誦の声深く心肝に染みて、閑窓の戸ほそを伺へば玄義の牀に臂をくたす。
爰に聖人、予、が弘法の志を酌み知りて、詞を和らげ、予に問て云く 汝、なにゝ依て此の深山の窟(いはや)に至れるや。
予、答て云く 生をかろくして法をおもくする者也。
聖人、問て云く 其の行法、如何。
予、答て云く 本より我は俗塵に交わりて未だ出離を弁へず。適たま善知識に値ひて、始めには律、次には念仏・真言・並びに禅。此れ等を聞くといへども、未だ真偽を弁へず。
聖人云く 汝が詞を聞くに、実に以て然也。身をかろくして法をおもくするは先聖の教へ、予が存ずるところ也。抑そも、上は非想の雲の上、下は那落の底までも、生を受けて死をまぬかるゝ者やはある。
然れば外典のいやしきをしえにも、朝有紅顔誇世路 夕為白骨朽郊原〔朝に紅顔有りて世路に誇るとも、夕べには白骨と為りて郊原に朽ちぬ〕と云へり。雲上に交わりて雲のびんづらあざやかに、雪のたもとをひるがへすとも、其の楽しみををもへば夢の中の夢也。山のふもと蓬がもとはつゐの栖也。玉の臺(うてな)・錦の帳も後世の道にはなにかせん。小野小町、衣通姫(そとをりひめ)が花の姿も無常の風にちり、樊【口+會】・張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ。
されば心ありし古人の云く あはれなり 鳥べの山の夕煙 をくる人とて とまるべきかは。末のつゆ 本のしづくや 世の中の をくれさきだつ ためしなるらん。先亡後滅の理り、始めて驚くべきにあらず。願ふても願ふべきは仏道。求ても求むべきは経教也。
抑そも、汝が云ふところの法門をきけば、或は小乗、或は大乗、位の高下は且く之を置く。還りて悪道の業たるべし。
爰に愚人、驚いて云く 如来一代の聖教はいづれも衆生を利せんが為也。始め七処八会の筵より終り跋提河の儀式まで、何れか釈尊の所説ならざる。設ひ一分の勝劣をば判ずとも、何ぞ悪道の因と云ふべきや。
聖人云く 如来一代の聖教に権有り、実有り。大有り、小有り。又、顕密二道相分ち、其の品、一に非ず。須らく其の大途を示して汝が迷ひを悟らしめん。
夫れ、三界の教主釈尊は、十九歳にして伽耶城を出でて、檀特山に籠もりて難行苦行し、三十成道の刻みに、三惑頓に破し、無明の大夜、爰に明けしかば、須らく本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣ぶべしといへども、機縁万差にして其の機、仏乗に堪へず。然れば四十余年に所被の機縁を調へて、後八箇年に至りて出世の本懐たる妙法蓮華経を説き給へり。
然れば仏の御年七十二歳にして、序分の無量義経に説き定めて云く_我先道場。菩提樹下。端坐六年。得成阿耨多羅三藐三菩提。以仏眼観。一切諸法。不可宣説。所以者何。知諸衆生。性欲不同。性欲不同。種種説法。種種説法。以方便力。四十余年。未顕真実〔我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず〕[文]。
此の文の意は仏の御年三十にして寂滅道場菩提樹の下に坐して、仏眼を以て一切衆生の心根を御覧ずるに、衆生成仏の直道たる法華経をば説くべからず。是れを以て空拳を挙げて嬰児をすかすが如く、様様のたばかりを以て四十余年が間は、いまだ真実を顕さずと年紀をさして、青天に日輪の出で、暗夜に満月のかゝるが如く、説き定めさせ給へり。此の文を見て何ぞ同じ信心を以て仏の虚事と説かるゝ法華已前の権教に執著して、めづらしからぬ三界の故宅に帰るべきや。
されば法華経の一の巻、方便品に云く_正直捨方便 但説無上道〔正直に方便を捨てて 但無上道を説く〕[文]。此の文の意は前四十二年の経経、汝が語るところの念仏・真言・禅・律を正直に捨てよと也。此の文明白なる上、重ねていましめして第二の巻、譬諭品に云く_但楽受持 大乗経典 乃至不受 余経一偈〔但楽って 大乗経典を受持して 乃至 余経の一偈をも受けざるあらん〕[文]。此の文の意は、年紀かれこれ煩はし、所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり。
然るに八宗の異義蘭菊に、道俗形を異にすれども、一同に法華経をば崇むる由を云ふ。されば此れ等の文をばいかが弁へたる。正直に捨てよと云ひて余経の一偈をも禁むるに、或は念仏、或は真言、或は禅、或は律、是れ余経にあらずや。
今此の妙法蓮華経とは、諸仏出世の本意、衆生成仏の直道也。されば釈尊は付属を宣べ、多宝は証明を遂げ、諸仏は舌相を梵天に付けて皆是真実と宣べ給へり。此の経は一字も諸仏の本懐、一点も多生の助け也。一言一語も虚妄あるべからず。此の経の禁めを用ひざる者は諸仏の舌をきり、賢聖をあざむく人に非ずや。其の罪実に怖るべし。
去れば二の巻に云く_若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種〔若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん〕[文]。此の文の意は若人此経の一偈一句をも背かん人は過去・現在・未来、三世十方の仏を殺さん罪と定む。経教の鏡をもて当世にあてみるに、法華経をそむかぬ人は実に以て有りがたし。事の心を案ずるに不信の人尚ほ無間を免れず。況んや念仏の祖師法然上人は法華経をもて念仏に対して抛てよと云云。五千七千の経教に何れの処にか法華経を抛てよと云ふ文ありや。三昧発得の行者生身の弥陀仏とあがむる善導和尚、五種の雑行を立てゝ、法華経をば千中無一とて千人持つとも一人も仏になるべからずと立てり。経文には若有聞法者 無一不成仏〔若し法を聞くことあらん者は 一りとして成仏せずということなけん〕と談じて、此の経を聞けば十界の依正、皆仏道を成ずと見えたり。
爰を以て五逆の調達は天王如来の記に預かり、非器五障の龍女も南方に頓覚成道を唱ふ。況んや復、【虫+吉】【虫+羌】(きつかう)の六即を立てゝ機を漏らす事なし。善導の言と法華経の文と実に以て天地雲泥せり。何れに付くべきや。
就中、其の道理を思ふに、諸仏衆経の怨敵、聖僧衆人の讎敵也。経文の如くならば、争でか無間を免るべきや。
爰に愚人色を作して云く 汝以賎身恣吐莠言。悟而言歟。迷而言歟。理非難弁〔汝賎身を以て恣に莠言を吐く。悟りて言ふ歟。迷いて言ふ歟。理非、弁へ難し〕。忝なくも善導和尚は弥陀善逝の応化、或は勢至菩薩の化身と云へり。法然上人も亦然也。善導の後身といへり。上古の先達たる上、行徳秀発し、解了底を極めたり。何ぞ悪道に堕ち給ふと云ふや。
聖人云く 汝が言然也。予も仰ぎて信を取ること此の如し。但し、仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず。只経文を先とすべし。身の賎をもて其の法を軽んずる事なかれ。有人楽生悪死 有人楽死悪生の十二字を唱へし摩大国の狐は帝釈の師と崇められ、諸行無常等の十六字を談ぜし鬼神は雪山童子に貴まる。是れ必ず狐と鬼神との貴きに非ず。只法を重んずる故也。
されば我等が慈父教主釈尊、雙林最後の御遺言、涅槃経の第六には、依法不依人とて、普賢・文殊等の等覚已還の大薩法門を説き給ふとも、経文をてに把らずは用ゐざれとなり。天台大師云く ̄与修多羅合者録而用之。無文無義不可信受〔復修多羅と合わせば録して之を用ふ。文無く義無きは信受すべからず〕[文]。釈の意は経文に明らかならんを用ひよ。文証無からんをば捨てよと也。伝教大師云く ̄依憑仏説莫信口伝〔仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ〕[文]。前の釈と同意也。龍樹菩薩云く ̄依修多羅白論。不依修多羅黒論〔修多羅に依るは白論なり。修多羅に依らざるは黒論なり〕[文]。意は経の中にも法華已前の権教をすてゝ此の経につけよと也。経文にも論文にも、法華に対して諸余の経典を捨てよと云ふ事分明也。
然るに開元の録に挙ぐる所の五千七千の経巻に、法華経を捨てよ、乃至抛てよと嫌ふことも、又、摂雑行捨之〔雑行に摂して之を捨てよ〕と云ふ経文も全く無し。
されば慥かの経文を勘へ出だして、善導・法然の無間の苦を救はるべし。今世の念仏の行者・俗男・俗女、経文に違するのみならず、又師の教にも背けり。五種の雑行とて、念仏申さん人のすつべき日記、善導の釈、之れ有り。
其の雑行とは選択に云く ̄第一読誦雑行者除上観経等往生浄土経已外於大小乗顕密諸経受持読誦悉名読誦雑行〔第一に読誦雑行といふは、上の観経等の往生浄土の経を除いての已外、大小乗の顕密の諸経において受持し読誦するを、ことごとく読誦雑行と名づく〕。第三礼拝雑行者除上礼拝弥陀已外於一切諸余仏菩薩等及諸世天等礼拝恭敬悉名礼拝雑行第四称名雑行者除上称弥陀名号已外称自余一切仏菩薩等及諸世天等名号悉名称名雑行第五讃歎供養雑行者除上弥陀仏已外於一切諸余仏菩薩等及諸世天等讃歎供養悉名讃歎供養雑行〔第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除いての已外、一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において礼拝恭敬するを、ことごとく礼拝雑行と名づく。第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除いての已外、自余の一切の仏・菩薩等およびもろもろの世天等の名号を称するを、ことごとく称名雑行と名づく。第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除いての已外、一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において讃歎供養するを、ことごとく讃歎供養雑行と名づく〕[文]。
此の釈の意は、第一の読誦雑行とは、念仏申さん道俗男女、読むべき経あり、読むまじき経ありと定めたり。読むまじき経は法華経・仁王経・薬師経・大集経・般若心経・転女成仏経・北斗寿命経、ことさらうち任せて諸人読まるゝ八巻の中の観音経、此れ等の諸経を一句一偈も読むならば、たとひ念仏を志す行者なりとも、雑行に摂せられ、往生すべからずと云云。
予、愚眼を以て世を見るに、設ひ念仏申す人なれども、此の経経を読む人は多く師弟敵対して七逆罪と成りぬ。 又、第三の礼拝雑行とは、念仏の行者は弥陀三尊より外は上に挙ぐる所の諸仏・菩薩・諸天・善神を礼するをば礼拝雑行と名づけ、又、之を禁む。
然るを日本は神国として伊奘諾・伊奘冊尊、此の国を作り、天照太神、垂迹御坐して、御裳濯河(みもすそかは)の流れ久しくして今にたえず。豈に、此の国に生を受けて此の邪義を用ふべきや。又普天の下に生まれて三光の恩を蒙りながら、誠に日月星宿を破する事、尤も恐れ有り。
又、第四の称名雑行とは、念仏申さん人は、唱ふべき仏菩薩の名あり、唱ふまじき仏菩薩の名あり。唱ふべき仏菩薩の名とは、弥陀三尊の名号、唱ふまじき仏菩薩の名号とは、釈迦・薬師・大日等の諸仏、地蔵・普賢・文殊・日月星、二所と三嶋と熊野と羽黒と天照大神と八幡大菩薩と、此れ等の名を一遍も唱へん人は念仏を十万遍、百万遍申したりしとも、此の仏菩薩日月神等の名を唱ふる過に依て無間にはおつとも、往生すべからずと云云。我、世間を見るに、念仏を申す人も此れ等の諸仏・菩薩・諸天・善神の名を唱ふる故に、是れ又、師の教に背けり。
第五の讃歎供養雑行とは、念仏申さん人は供養すべき仏は弥陀三尊を供養するせん外は、上に挙げたる所の仏菩薩諸天善神に香華のすこしをも供養せん人は、念仏の功は貴とけれども、此の過に依て雑行に摂すと是れをきらふ。然るに世をみるに、社壇に詣でては、幣帛(へいはく)を捧げ、堂舎に臨みては礼拝を致す。是れ又師の教に背けり。汝、若し不審ならば選択を見よ。其の文明白也。
又、善導和尚の観念法門経に云く ̄酒肉五辛誓発願手不捉口不喫。若違此語即願身口倶著悪瘡〔酒肉五辛、誓ひて発願して手に捉らざれ、口に喫まざれ。もしこの語に違せば、すなわち身口ともに悪瘡を著せんと願せよ〕[文]。此の文の意は念仏申さん男女尼法師は、酒を飲まず、漁鳥を食はざれ。其の外にら(韮)ひる(薤)等の五つのからくくさき物を食はざれ。是れを持たざる念仏者は、今生には悪瘡身に出でて、後生には無間に堕つべしと云云。然るに念仏申す男女尼法師、此の誡めをかへりみず、恣に酒を飲み漁鳥を食ふ事、剣を飲む譬にあらずや。
爰に愚人云く 誠是聞此法門 念仏法門実雖往生 其行儀難修行。況彼所憑経論皆以権説也。不可往生之条分明也。但破真言事無其謂。夫大日経者大日覚王秘法也〔誠に是れ、此の法門を聞くに、念仏の法門、実に往生すと雖も、其の行儀、修行し難し。況んや彼の憑むところの経論は皆以て権説なり。往生すべからざるの条、分明なり。ただし真言を破することは其の謂れなし。夫れ、大日経とは大日覚王の秘法なり〕
大日如来より系も乱れず、善無畏・不空、之を伝へ、弘法大師は日本に両界の曼陀羅を弘め、尊高三十七尊秘奥なる者也。然るに顕教の極理は尚ほ密教の初門にも及ばず。爰を以て後唐院は法華尚不及 況自余教乎〔法華尚及ばず、況や自余の教をや〕と釈し給へり。此の事、如何が心うべきや。
聖人示して云く 予も始めは大日に憑みを懸け、密宗に志を寄す。然れども、彼の宗の最底を見るに其の流義も亦謗法也。汝が云ふ所の、高野の大師は、嵯峨天皇の御宇の人師也。
然るに皇帝より仏法の浅深を判釈すべき由の宣旨を給ひて、十住心論十巻、之を造る。此の書、広博なる間、要を取りて三巻に之を縮め、其の名を秘蔵宝鑰と号す。始め異生羝羊心より終り秘密荘厳心に至るまで十に分別し、第八法華・第九華厳・第十真言と立てゝ、法華は華厳にも劣れば大日経には三重の劣と判じて、如此乗乗自乗得仏名望後作戯論〔此の如きの乗乗は自乗に仏の名を得れども、後に望めば戯論と作る〕書きて、法華経を狂言・綺語と云ひ、釈尊をば無明に迷へる仏と下せり。仍て伝法院を建立せし弘法の弟子正覚房は、法華経は大日経のはきものとりに及ばず、釈迦仏は大日如来の牛飼にも足らずと書けり。
汝、心を静めて聞け。一代五千七千の経教、外典三千余巻にも、法華経は戯論、三重の劣、華厳経にも劣り、釈尊は無明に迷へる仏にて、大日如来の牛飼にも足らずと云ふ慥かなる文ありや。設ひさる文有りと云ふとも能く能く思案あるべき歟。
経教は西天より東土に(およ)ぼす時、訳者の意楽に随て経論の文、不定也。さて後秦の羅什三蔵は、我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり。我が約する所の経、若し誤りなくば、我死して後、身は不浄なれば焼かると云ふとも、舌計りは焼けざらんと常に説法し給ひしに、焼き奉る時、御身は皆骨となるといへども、御舌計りは青蓮華の上に光明を放ちて、日輪を映奪し給ひき。有り難き事也。さてこそ殊更彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給ひしか。
然れば延暦寺の根本大師、諸宗を責め給ひしには、法華を訳する三蔵は舌の焼けざる験あり、汝等が依経は皆誤れりと破し給ふは是れ也。涅槃経にも我が仏法は他国へ移らん時、誤り多かるべしと説き給へば、経文に設ひ法華経はいたずら事、釈尊をば無明に迷へる仏也とありとも、権教・実教、大乗・小乗、説時の前後、訳者、能く能く尋ぬべし。
所謂、老子・孔子は九思一言三思一言、周公旦は食するに三度吐き、沐浴するに三度にぎる。外典のあさましき猶ほ是の如し。況んや内典の深義を習はん人をや。
其の上、此の義、経論に迹形(あとかた)もなし。人を毀り法を謗じては悪道に堕つべしとは弘法大師の釈也。必ず地獄に堕せんこと疑ひ無き者也。
爰に愚人、茫然とほれ、忽然となげひて良久しくして云く、此の大師は内外の明鏡、衆人の導師たり。徳行世に勝れ、名誉普く聞こえて、或は唐土より三鈷を八万余里の海上をなぐるに、即ち日本に至り、或は心経の旨をつづるに蘇生の族途に彳む。然らば此の人ただ人にあらず。大聖権化の垂迹也。仰ぎて信を取らんにはしかじ。
聖人云く 予、も始めは然なり。但し仏道に入りて理非を勘へ見るに、仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず。是れを以て仏は依法不依人と定め給へり。前に示すが如し。彼の阿伽陀仙は恒河を片耳にただへて十二年、耆兎仙は一日の中に大海をすひほす。張階は霧を吐き、欒巴(らんば)は雲を吐く。然れども未だ仏法の是非を知らず。因果の道理をも弁へず。異朝の法雲法師は講経勤修の砌に須臾に天華をふらせしかども、妙楽大師は ̄感應若斯猶不稱理〔感応このごときも、なお理にかなはず〕[T33,836c,28]とて、いまだ仏法をばしらずと破し給ふ。
夫れ、此の法華経と申すは已今当の三説を嫌ひて、已前の経をば未顕真実と打ち破り、肩を並ぶる経をば今説の文を以てせめ、已後の経をば当説の文を以て破る。実に三説第一の経也。第四の巻に云く_薬王今告汝我所説諸経 而於此経中 法華最第一〔薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり〕[文]。此の文の意は霊山会上に薬王菩薩と申せし菩薩に仏告げて云く、始め華厳より終り涅槃経に至るまで無量無辺の経恒河沙等の数多し。其の中には今の法華経最第一と説かれたり。然るを弘法大師は一の字を三と読まれたり。
同巻に云く_我為仏道 於無量土 従始至今 広説諸経 而於其中 此経第一〔我仏道を為て 無量の土に於て 始より今に至るまで 広く諸経を説く 而も其の中に於て 此の経第一なり〕此の文の意は亦釈尊無量の国土にして或は名字を替へ、或は年紀を不同になし、種種の形を現じて、説く所の諸経の中には此の法華経を第一と定められたり。
同じく第五巻には、最在其上と宣べて大日経・金剛頂経等の無量の経の頂に此の経は有るべしと説かれたるを、弘法大師は最在其下と謂へり。釈尊と弘法と、法華経と宝鑰とは実に以て相違せり。釈尊を捨て奉りて弘法に付くべき歟。又、弘法を捨てゝ釈尊に付き奉るべき歟。又、経文に背ひて人師の言に随ふべき歟。人師の言を捨てゝ金言を仰ぐべき歟。用捨、心に有るべし。
又第七の巻、薬王品に十諭を挙げて教を歎ずるに、第一は水の譬へ也。江河を諸経に譬へ大海を法華に譬へたり。然るを大日経は勝れたり、法華は劣れりと云ふ人は、即ち大海は小河よりもすくなしと云はん人也。然るに今の世の人は海の諸河に勝る事をば知るといへども、法華経の第一なる事をば弁へず。第二は山の譬へなり。衆山を諸経に譬へ須弥山を法華に譬へたり。須弥山は上下十六万八千由旬の山也。何れの山か肩を並ぶべき。法華経を大日経に劣ると云ふ人は富士山は須弥山より大也と云はん人也。第三は星月の譬へ也。諸経を星に譬へ、法華経を付きに譬ふ。月と星とは何れ勝れりたりと思へるや。乃至次下には_此経亦復如是。一切如来所説。若菩薩所説。若声聞所説。諸経法中。最為第一〔此の経も亦復是の如し。一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり〕とて此の法華経は只釈尊一代の第一と説き給ふのみにあらず、大日及び薬師・阿弥陀等の諸仏、普賢・文殊等の菩薩の一切の所説諸経の中に此法華経第一と説けり。
されば若し此の経に勝れたりと云ふ経有らば外道天魔の説と知るべき也。其の上、大日如来と云ふは久遠実成の教主釈尊、四十二年和光同塵して其の機に応ずる時、三身即一の如来、暫く盧遮那と示せり。是の故に開顕実相の前には釈迦の応化と見えたり。爰を以て普賢経には_釈迦牟尼仏。名毘盧遮那遍一切処。其仏住処。名常寂光〔釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名けたてまつる。其の仏の住処を常寂光と名く〕と説けり。
今、法華経は十界互具・一念三千・三諦即是・四土不二と談ず。其の上に一代聖教の骨髄たる二乗作仏・久遠実成は今経に限れり。汝、語る所の大日経・金剛頂経等の三部の秘経に此れ等の大事ありや。善無畏・不空等、此れ等の大事の法門を盗み取りて、己が経の眼目とせり。本経本論には迹形もなき誑惑なり。急ぎ急ぎ是れを改むべし。
抑そも大日経とは四教含蔵して尽形寿戒等を明かせり。唐土の人師は天台所立の第三時方等部の経なりと定めたる権教也。あさまし、あさまし。汝実に道心あらば急ぎて先非を悔ゆべし。夫れ以みれば、此の妙法蓮華経は一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につづめたり。 聖愚問答鈔下
爰に愚人、聊か和らぎて云く 経文は明鏡也。疑慮をいたすに及ばず。但し法華経は三説に秀で、一代に超えるといへども、言説に拘はらず経文に留まらざる、我等が心の本分の禅の一法にはしくべからず。凡そ万法を払遣して言語の及ばざる処を禅法とは名づけたり。されば跋提河の辺り沙羅林の下にして、釈尊金棺より御足を出し拈華微笑して、此の法門を迦葉に付属ありしより已来、天竺二十八祖系も乱れず。唐土には六祖次第に弘通せり。達磨は西天にしては二十八祖の終り、東土にしては六祖の始め也。相伝をうしなはず、教網に滞るべからず。
爰を以て大梵天王問仏決疑経に云く_吾有正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相 微妙法門。教外別伝。不立文字。付属摩訶迦葉〔吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り。教外に別に伝ふ。文字を立てず。摩訶迦葉に付属す〕とて、迦葉に此の禅の一法をば教外に伝ふと見えたり。都て修多羅の経教は月をさす指、月を見て後は何かはせん。心の本分禅の一理を知りて後は、仏教に心を留むべしや。されば古人の云く 十二部経は總て是れ閑文字と云云。仍て此の宗の六祖慧能の壇経を披見するに実に以て然也。言下に契会して後は経は何かせん。此の理、如何が弁へんや。
聖人示して云く 汝、先づ法門を置きて道理を案ぜよ。抑そも一代の大途を伺はざれば、十宗の淵底を究めずして国を諌め人を教ふべき歟。汝が談ずる所の禅は我最前に習ひ極めて其の至極を見るに甚だ以て僻事也。
禅に三種あり。所謂、如来禅と教禅と祖師禅と也。汝が言ふ祖師禅等の一端、之を示さん。聞きて其の旨を知れ。若し教を離れて之を伝ふといはば、教を離れて理無く、理を離れて教無し。理、全く教、教、全く理、と云ふ道理、汝、之を知らざる乎。拈華微笑して迦葉に付属し給ふと云ふも是れ教也。不立文字と云ふ四字も即ち教也、文字也。此の事、和漢両国に事旧(ことふり)ぬ。今いへば事新しきに似たれども、一両の文を勘へて汝が迷ひを払はしめん。補注十一に云く ̄又復若謂滞於言説者 且娑婆世界将何以為仏乎。禅徒豈不言説示人乎。無離文字談解脱義。豈不聞乎〔また、もし言説に滞るといはば、且く娑婆世界には何をもちて、以て仏事となるや。禅徒、あに言説をもて人に示さざらんや。文字を離れて解脱の義を談ずること無し。あに聞かざらんや〕。乃至、次下に云く ̄豈達磨西来直指人心見性成仏。而華厳等諸大乗経無此事耶。嗚呼世人何其愚也。汝等当信仏所説。諸仏如来言無虚妄〔あに達磨西来して直ちに人の心を指して、性を見て成仏すと。而るに華厳等の諸大乗経に此の事無からんや。ああ、世人、何ぞ其れ愚かなるや。汝等まさに仏の所説を信ずべし。諸仏如来は、みこと虚妄なし〕。
此の文の意は、若し教文にとどこほり、言説にかゝはるとて、教の外に修行すといはば、此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作すべき。さやうに云ふところの禅人も、人に教ふる時は言を以て云はざるべしや。其の上、仏道の解了を云ふ時、文字を離れて義なし。又、達磨、西より来りて直指人心仏也〔直ちに人心を指して仏なり〕と云ふ。是れ程の理は華厳・大集・大般若等の法華已前の権大乗にも在在処処に之を談ぜり。是れをいみじき事とせんは無下に云ひがひなき事也。
嗚呼、今世の人、何ぞ甚だひがめるや。只中道実相の理に契当せる妙覚果満の如来の誠諦の言を信ずべき也。又、妙楽大師の弘決の一に此の理を釈して云く ̄世人蔑教尚理觀者誤哉誤哉〔世人、教を蔑ろにして理観をえらぶは誤れるかな、誤れるかな〕[T46,179b,16]。此の文の意は、今の世の人人は観心観法を先として経教を尋ね学ばず。還りて教をあなづり、教をかろしむる、是れ誤れりと云ふ文也。
其の上、当世の禅人、自宗に迷へり。続高僧伝を披見するに、習禅の初祖、達磨大師の伝に云く ̄藉教悟宗〔教によりて宗を悟る〕と。如来一代の聖教の道理を修学し、法門の旨・宗宗の沙汰を知るべき也。
又、達磨の弟子六祖の第二慧果の伝に云く ̄達磨禅師以四巻楞伽授可云 我観漢地唯有此経。仁者依行自得度世〔達磨禅師、四巻の楞伽をもて可に授けて云く、我、漢の地を観るに、ただ此の経のみあり。きみ依行せば、自ら世を度することを得ん〕と。此の文の意は、達磨大師、天竺より唐土に来りて四巻の楞伽経をもて慧可に授けて云く、我、此の国を見るに此の経殊に勝れたり。汝、持ち、修行して仏に成れと也。
此れ等の祖師、既に経文を前とす。若し之に依て経に依ると云はば、大乗歟、小乗歟、権教歟、実教歟、能く能く弁ふべし。或は経を用ふるには禅宗も楞伽経・首楞厳経・金剛般若経等による。是れ皆法華已前の権教覆蔵の説也。只諸経に是心即仏即身是仏等の理の片を説ける一両の文と句とに迷ひて、大小、権実、顕露、覆蔵をも尋ねず。只、立不二不知而二 謂己均仏〔不二を立てて而二を知らず。己、仏に均しと謂ふ〕の大慢を成せり。彼の月氏の大慢が迹をつぎ、此の尸那の三階禅師が古風を追ふ。然りと雖も、大慢は生きながら無間に入り、三階は死して大蛇と成りぬ。をそろし、をそろし。
釈尊は、三世了達の解了朗らかに、妙覚果満の智月潔くして、未来を鑒みたまひ、像法決疑経に記して云く_諸悪比丘或有修禅不依経論。自逐己見を以非為是 不能分別是邪是正。向道俗作如是言 我能知是我能見是。当知此人速滅我法〔諸の悪比丘、或は禅を修すること有りて経論に依らず。自ら、己、見を逐ひて、非を以て是と為し、是れ邪、是れ正と分別すること能わず。く道俗に向ひて是の如き言を作さく、我能く是れを知り、我能く是れを見ると。当に知るべし、此の人は速やかに我が法を滅す〕と。此の文の意は、諸の悪比丘あて禅を信仰して経論をも尋ねず、邪見を本として法門の是非をば弁へずして、而も男女尼法師等に向ひて、我よく法門を知れり、人はしらずと云ひて、此の禅を弘むべし。当に知るべし。此の人は我が正法を滅すべしと也。此の文をもて当世を見るに宛も符契の如し。汝慎むべし、汝畏るべし。
先に談ずる所の天竺に二十八祖有りて、此の法門を口伝すと云ふ事、其の証拠、何に出でたるや。仏法を相伝する人、二十四人、或は二十三人と見えたり。然るを二十八祖と立つる事、所出の翻訳、何れにかある。全く見えざるところ也。此の付法蔵の人の事、私に書くべきにあらず。如来の記文分明也。
其の付法蔵伝に云く ̄復有比丘名曰師子。於【网/がんだれ/(炎+リ)】賓国大作仏事。時彼国王名弥羅掘。邪見熾盛 心無敬信 於【网/がんだれ/(炎+リ)】賓国毀壊塔寺殺害衆僧。即以利剣用斬師子。頸中無血唯乳流出。相付法人於是便絶〔また比丘あり。名を師子と曰ふ。【网/がんだれ/(炎+リ)】賓国に於て大に仏事を作す。時に彼の国王をば弥羅掘と名づけ。邪見熾盛にして心に敬信無く、【网/がんだれ/(炎+リ)】賓国に於て塔寺を毀壊し衆僧を殺害す。即ち利剣を以て、用て師子を斬る。頸の中に血なく、ただ乳のみ流出す。法を相付する人、ここに於て便ち絶えん〕。此の文の意は仏我入涅槃の後に我が法を相伝する人、二十四人あるべし。其の中に最後弘通の人に当たるをば師子比丘と云はん。【网/がんだれ/(炎+リ)】賓国と云ふ国にて我が法を弘むべし。彼の国の王をば檀弥羅王と云ふべし。邪見放逸にして仏法を信ぜず、衆僧を敬はず、堂塔を破り失ひ、剣を以て諸僧の頸をきらん時に、頸の中に血無く、只乳のみ出づべし。是の時に仏法を相伝せん人、絶ゆべしと定められたり。案の如く仏の御言違はず、師子尊者、頸をきられ給ふ事、実に以て爾也。王のかいな共につれて落ち畢んぬ。
二十八祖を立つる事、甚だ以て僻見也。禅の僻事是れより興るなるべし。今、慧能が壇経に二十八祖を立つる事は達磨を高祖と定むる時、師子と達磨との年紀、遥かなる間、三人の禅師を私に作り入れて、天竺より来れる付法蔵、系を乱れずと云ひて、人に重んぜさせん為の僻事也。此の事異朝にして事旧ぬ。
補注の十一に云く ̄今家承用二十三祖。豈有哉。若立二十八祖者 未見所出翻訳也。近来更有刻石鏤版図状七仏二十八祖 各以一偈伝受相付。嗚呼仮託何其甚歟。識者有力宜革斯弊〔今家は二十三祖を承用す。豈にり有らん哉。若し二十八祖を立つるは、未だ所出の翻訳を見ざる也。近来、更に石に刻み、版に鏤み、七仏二十八祖を図状し、おのおの一偈を以て伝受相付すること有り。ああ、仮託、何ぞ其れ甚だしきや。識者、力有らばこの弊を宜しく革たむべし〕。是れも二十八祖を立て、石にきざみ版にちりばめて伝ふる事、甚だ以て誤れり。此の事を知る人あらば此の誤りをあらためなをせと也。祖師禅、甚だ僻事なる事、是にあり。
先に引く所の大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に、汝、之を引く。既に自語相違せり。其の上、此の経は説相権教也。又、開元・貞元の両度の目録にも全く載せず。是れ録外の経なる上、権教と見えたり。然れば世間の学者、用ゐざるところ也。証拠とするにたらず。抑そも今の法華経を説かるゝ時、益をうる輩、迹門界如三千の時、敗種の二乗、仏種を萌す。四十二年の間は永不成仏と嫌はれて、在在処処の集会にして罵詈誹謗の音をのみ聞き、人天大会に思ひうとまれて、既に飢え死ぬべかりし人人も、今の経に来りて舎利弗は華光如来、目連は多摩羅跋栴檀香如来、阿難は山海慧自在通王仏、羅羅は蹈七宝華如来、五百の羅漢は普明如来、二千の声聞は宝相如来の記に預かる。顕本遠寿の日は微塵数の菩薩、増道損生して、位、大覚に隣る。
されば天台大師の釈を披見するに、他経には菩薩は仏になると云ひて、二乗の得道は永く之無し。善人は仏になると云ひて悪人の成仏を明かさず。男子は仏になると説きて、女人は地獄の使いと定む。人天は仏になると云ひて、畜類は仏になるといはず。然るを今の経は是れ等が皆仏になると説く、たのもしきかな。末代濁世に生を受くといへども、提婆が如くに五逆をも造らず三逆をも犯さず、而るに提婆猶ほ天王如来の記を得たり。況んや犯さざる我等が身をや。八歳の龍女既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す。況んや人界に生を受けたる女人をや。只得難きは人身、値ひ難きは正法也。
汝早く邪を翻し正に付き凡を転じて聖を証せんと思はば、念仏・真言・禅・律を捨てゝ此の一乗妙典を受持すべし。若し爾らば妄染の塵穢を払ひて、清浄の覚体を証せん事、疑ひなかるべし。
爰に愚人云く 今、聖人の教誡を聴聞するに日来の蒙昧忽ちに開けぬ。天真発明とも云ひつべし。理非顕然なれば誰か信仰せざらんや。但し世情を見るに上一人より下万民に至るまで、念仏・真言・禅・律を深く信受し御坐す。さる前には国土に生を受けながら争でか王命を背かんや。其の上我が親と云ひ、祖と云ひ、旁(かたがた)念仏等の法理を信じて他界の雲に交わり畢んぬ。又日本には上下の人数幾ばくか有る。然りと雖も、権教権宗の者は多く、此の法門を信ずる人は未だ其の名をも聞かず。仍て善処悪処をいはず、邪法正法を簡ばず、内典五千七千の多きも、外典三千余巻の広きも、只主君の命に随ひ、父母の義に叶ふが肝心也。
されば教主釈尊は、天竺にして孝養報恩の理を説き、孔子は大唐にして忠功孝高の道を示す。師の恩を報ずる人は肉をさき身をなぐ。主の恩をしる人は弘胤は腹をさき豫譲は剣をのむ。親の恩を思ひし人は丁蘭は木をきざみ伯瑜は杖になく。儒・外・内、道は異なりといへども報恩謝徳の教は替わる事なし。然らば主師親のいまだ信ぜざる法理を我始めて信ぜん事、既に違背の過に沈みなん。法門の道理は経文明白なれば疑網都て尽きぬ。後生を願はずば来世苦に沈むべし。進退惟れ谷れり、我如何せんや。
聖人云く 汝此の理を知りながら猶ほ是の語をなす。理の通ぜざる歟、意の及ばざる歟。我釈尊の遺法をまばび、仏法に肩を入れしより已来、知恩をもて最とし、報恩をもて前とす。世に四恩あり。之を知るを人倫と名づけ、知らざるを畜生とす。予、父母の後世を助け、国家の恩徳を報ぜんと思ふが故に、身命を捨つる事敢えて他事にあらず、唯、知恩を旨とする計り也。先づ汝目をふさぎ、心を静めて道理を思へ。我は善道を知りながら、親と主との悪道にかゝらんを諌めざらんや。又、愚人狂ひ酔ひて毒を服せんを我知りながら、是れをいましめざらんや。其の如く法門の道理を存じて、火血刀の苦を知りながら、争でか恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや。身をもなげ命をも捨つべし。諌めてもあきたらず、歎きても限りなし。今生に眼を合はする苦み、猶ほ是れを悲しむ。況んや悠悠たる冥途の悲しみ、豈に痛まざらん哉。恐れても恐るべきは後世、慎みても慎むべきは来世也。
而るを是非を論ぜず親の命に随ひ、邪正を簡ばず主の仰せに順はんと云ふ事、愚痴の前には忠孝に似たれども、賢人の意には不忠不孝、是れに過ぐべからず。
されば教主釈尊は転輪聖王の末、師子頬王の孫、浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといへども、生死無常の理をさとり、出離解脱の道を願ひて、世を厭ひ給ひしかば、浄飯大王是れを歎き、四方に四季の色を顕して、太子の御意を留め奉らんと巧み給ふ。先づ東には霞たなびくたえまより、かりがねこしぢ(越路)に帰り、窓の梅の香り玉簾の中にかよひ、でうでうたる花の色、もゝさへづり(百囀)の鴬、春野気色を顕はせり。南には泉の色白たへにして、かの玉川の卯の華、信太(しのた)の森のほとゝぎす、夏のすがたを顕はせり。西には紅葉常葉に交はればさながら錦をおり交え、萩ふく風閑かにして松の嵐ものすごし。過ぎにし夏のなごりには、沢辺にみゆる螢の光あまつ空なる星かと誤り、松虫・鈴虫の声声涙を催せり。北には枯野の色いつしかものうく、波の汀につらゝゐて、谷の小川もをとさびぬ。かゝるありさまを造りて御意をなぐさめ給ふのみならず、四門に五百人づつの兵(つはもの)を置きて守護し給ひしかども、終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比、車匿(しゃのく)を召して金泥駒(こんぢく)に鞍置かせ、伽耶城を出でて檀特山(だんどくせん)に入り十二年、高山(たかね)に薪をとり深谷(みさは)に水を結て難行苦行し給ひ、三十成道の妙果を感得して、三界の独尊一代の教主と成りて、父母を救ひ群生を導き給ひしをば、さて不幸の人と申すべき歟。
仏を不孝の人と云ひしは九十五種の外道也。父母の命に背きて無為に入り、還りて父母を導くは孝の手本なる事、仏、其の証拠なるべし。彼の浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王外道の法に著して仏法に背き給ひしかども、二人の太子は父の命に背きて雲雷音王仏の御弟子となり、終に父を導きて娑羅樹王仏と申す仏になし申されけるは、不孝の人と云ふべき歟。経文には_棄恩入無為 真実報恩者〔恩を棄て無為に入るは、真実報恩の者なり〕と説かれて、今生の恩愛をば皆すてゝ仏法の実の道に入る、是れ実に恩をしれる人也と見えたり。
又、主君の恩の深きこと、汝よりも能くしれり。汝、若し知恩の望みあらば深く諌め、強ひて奏せよ。非道にも主命に随はんと云ふ事、佞臣の至り不忠の極まり也。
殷の紂王は悪王、比干は忠臣也。政治、理に違ひしを見て強ひて諌めしかば、即ち比干は胸を割る。紂王は比干死して後、周の王に打たれぬ。今の世までも、比干は忠臣と云はれ、紂王は悪王といはる。夏の桀王を諌めし龍蓬は頭をきられぬ。されども桀王は悪王、龍蓬は忠臣とぞ云ふ。主君を三度諌むるに用ゐずは山林に交はれとこそ教へたれ。何ぞ其の非を見ながら黙せんと云ふや。
古の賢人、世を遁れて山林に交わりし先蹤を集めて、聊か汝が愚耳に聞かしめん。殷の代の大公望は渓{はけい}と云ふ谷に隠る。周の代の伯夷・叔斉は首陽山と云ふ山に籠もる。秦の綺里季は商洛山に入り、漢の厳光(げんくわう)は狐亭に居し、晋の介子綏(かいしすゐ)は綿上山(めんじやうざん)に隠れぬ。此れ等をば不忠と云ふべき歟。愚かなり。汝、忠を存ぜば諌むべし。孝を思はば言ふべき也。
先づ、汝、権教権宗の人は多く、此の宗の人は少なし。何ぞ多を捨て少に付くべきか、と云ふ事。必ず多きが尊くして少なきが卑しきあらず。賢善の人は希に愚悪の者は多し。麒麟・鸞鳳は禽獣の奇秀也。然れども是れは甚だ少なし。牛羊・烏鴿は畜鳥の拙卑也。されども是れは転た多し。必ず多きがたつとくして少なきがいやしくば、麒麟をすてゝ牛羊をとり、鸞鳳を閣きて烏鴿をとるべき歟。摩尼金剛は金石の霊異也。此の宝は乏しく、瓦礫土石は徒物の至り、是れは又巨多也。汝が言の如くならば、玉なんどをば捨てゝ瓦礫を用ふべき歟。はかなし、はかなし。聖君は希にして千年に一たび出で、賢佐は五百年に一たび顕る。摩尼は空しく名のみ聞く。麒麟誰か実を見たるや。世間・出世、善き者は乏しく、悪き者は多き事、眼前也。
然れば何ぞ強ち少なきをおろかにして、多きを詮とするや。土砂は多けれども米穀は希也。木皮は充満すれども布絹は些少也。汝、只、正理を以て前とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。
爰に愚人、席をさり、袂をかいつくろひて云く 誠に聖教の理をきくに、人身は得難く、天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇ふよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値ひ難き仏教を見聞しつ。今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。
夫れ、一劫受生の骨は山よりも高けれども、仏法の為にはいまだ一骨をもすてず。多生恩愛の涙は海よりも深けれども、尚お後世の為には一滴をも落とさず。拙きが中に拙く、愚かなる我中に愚かなり。設ひ命を捨て身をやぶるとも、生を軽くして仏道に入り、父母の菩提を資け、愚身が獄縛をも免るべし。能く能く教えを示し給へ。
抑そも法華経を信ずる其の行相、如何。五種の行の中には先づ何れの行をか修すべき。丁寧に尊教を聞かんことを願ふ。
聖人示して云く 汝、汝交蘭室友成麻畝性。〔蘭室の友に交はり麻畝の性と成る〕。誠に禿樹の禿に非ず、春に遇ひて栄え華さく。枯れ草の枯れるに非ず、夏に入りて鮮やかに注ふ。若し先非を悔いて正理に入らば、湛寂の潭に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑ひなかるべし。
抑そも仏法を弘通し、群生を利益せんには、先づ教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時、折伏を行ずるも非也。折伏の時、摂受を行ずるも失也。然るに今世には摂受の時歟、折伏の時歟、先づ是れを知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて、邪法・邪師、一人もなしといはん、此の時は山林に交わりて観法を修し、五種・六種、乃至十種等を行ずべき也。折伏の時はかくの如くならず。経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ(頤口)譽れを檀(ほしいまま)にし、邪正肩を並べ、大小先を争はん時は、万事を閣きて謗法を責むべし。是れ折伏の修行也。此の旨を知らずして摂折途に違はば、得道は思ひもよらず、悪道に堕つべしと云ふ事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明也。是れ仏法修行の大事なるべし。
譬へば文武両道を以て天下を治むるに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり。天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。東夷南蛮西戎北狄蜂起して野心をさしはさまんには武を先とすべき也。文武のよき事計りを心えて時をもしらず、万邦安堵の思ひをなして世間無為ならん時、甲冑をよろひ兵杖をもたん事も非也。又、王敵起こらん時、戦場にして武具をば閣きて筆硯を提(ひつさげ)ん事、是れも亦、時に相応せず。摂受折伏の法門も亦、是の如し。正法のみ弘まて邪法・邪師無からん時は、深谷にも入り、閑静にも居して、読誦書写をもし、観念工夫をも凝らすべし。是れ天下の静かなる時、筆硯を用ふるが如し。権宗謗法、国にあらん時は、諸事を閣きて謗法を責むべし。是れ合戦の場に兵杖を用ふるが如し。
然れば章安大師、涅槃の疏に釈して云く ̄昔時平而法弘。応持戒勿持杖。今時嶮而法翳。応持杖勿持戒。今昔倶嶮応倶持杖。今昔倶平応倶持戒。取捨得宜不可一向〔昔の時は平にして而も法弘まる。応に戒を持すべし、杖を持すこと勿れ。今の時は嶮にして而も法かくる。応に杖を持すべし、戒を持すこと勿れ。今昔倶に嶮なれば、応に倶に杖を持すべし。今昔倶に平なれば、応に倶に戒を持すべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず〕。
此の釈の意、分明也。昔は世もすなをに、人もただしくして、邪法邪義無かりき。されば威儀をただし、穏便に行業を積みて、杖をもて人を責めず、邪法をとがむる事無かりき。今の世は濁世也。人の情もひがみゆがんで、権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦書写の修行も観念工夫修練も無用也。只、折伏を行じて、力あらば威勢を以て謗法をくだき、又、法門を以ても邪義を責めよと也。取捨、其の旨を得て、一向に執する事なかれと書けり。今の世を見るに、正法一純に弘まる国歟、邪法の興盛する国歟、勘ふべし。
然るを浄土宗の法然は念仏に対して法華経を捨閉閣抛とよみ、善導は法華経を雑行と名づけ、剰へ千中無一とて千人信ずとも一人得道の者あるべからずと書けり。真言宗の弘法は法華経を華厳にも劣り、大日経には三重の劣と書き、戯論の法と定めたり。正覚房は法華経は大日経のはきものとりにも及ばずと云ひ、釈尊をば大日如来の牛飼にもたらずと判ぜり。禅宗は法華経を吐きたるつばき、月をさす指、教網なんど下す。小乗律等は法華経は邪教、天魔の所説と名づけたり。此れ等、豈に謗法にあらずや。責めても猶ほあまりあり。禁めても亦たらず。
愚人云く 日本六十余州、人替わり法異なりといへども、或は念仏者、或は真言師、或は禅、或は律。誠に一人として謗法ならざる人はなし。然りと雖も、人の上、沙汰してなにかせん。只、我心中に深く信受して、人の誤りをば余所の事にせんと思ふ。
聖人示して云く 汝云ふ所、実にしかなり。我も其の義を存ぜし処に、経文には或は不惜身命とも、或は寧喪身命とも説く。何故にかやうには説かるゝやと存ずるに、只人をはばからず経文のまゝに法理を弘通せば、謗法の者多からん世には必ず三類の敵人有りて、命に及ぶべしと見えたり。其の仏法の違目を見ながら、我もせめず国主にも訴へずば、教へに背きて仏弟子にはあらずと説かれたり。
涅槃経、第三に云く 若善比丘 見壊法者 置不呵責 駈遣挙処 当知是人 仏法中怨。若能駈遣 呵責挙処 是我弟子 真声聞也〔若し善比丘ありて法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり〕。
此の文の意は仏の正法を弘めん者、経教の義を悪く説かんを聞き見ながら、我もせめず、我が身及ばずば国主に申し上げても是れを対治せずば、仏法の中の敵也。若し経文の如くに、人をもはばからず、我もせめ、国主にも申さん人は、仏弟子にして真の僧也と説かれて候。
されば仏法中怨の責めを免れんとて、かやうに諸人に悪まるれども、命を釈尊と法華経斗に奉り、慈悲を一切衆生に与へて、謗法を責むるを、心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす。汝、実に後世を恐れば、身を軽しめ法を重んぜよ。
是を以て章安大師云く ̄寧喪身命不匿教者 身軽法重死身弘法〔寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し。身を死して法を弘む〕。此の文の意は身命をばほろぼすとも正法をかくさざれ。其の故は身はかろく法はおもし。身をばころすとも法をば弘めよと也。
悲しい哉、生者必滅の習ひなれば、設ひ長寿を得たりとも、終には無常をのがるべからず。今世は百年の内外(うちと)の程を思へば夢の中の夢也。非想の八万歳、未だ無常を免れず。利の一千年も猶ほ退没の風に破らる。況んや人間、閻浮の習ひは、露よりもあやうく、芭蕉よりももろく、泡沫よりもあだ也。水中に宿る月のあるかなきかの如く、草葉にをく露のをくれさきだつ身也。若し此の道理を得ば、後生を一大事とせよ。
歓喜仏の末の世の覚徳比丘、正法を弘めしに、無量の破戒、此の行者を怨みて責めしかば、有徳国王正法を守る故に、謗法を責めて終に命終して阿仏の国に生まれて、彼の仏の第一の弟子となる。大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙豫国王は不退の位に登る。憑もしい哉、正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人かくの如くの徳あり。されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶に悪道に堕ちん事疑ひ無し。
南岳大師の四安楽行に云く ̄若有菩薩将護悪人不能治罰 乃至 其人命終与諸悪人倶堕地獄〔若し菩薩有って悪人を将護して治罰すること能わず。乃至 其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん〕。
此の文の意は、若し仏法を行ずる人有りて、謗法の悪人を治罰せずして、観念思惟を専らにして、邪正権実をも簡ばず、詐りて慈悲の姿を現ぜん人は、諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云ふ文也。
今、真言・念仏・禅・律の謗人をたださず、いつはて慈悲を現ずる人、此の文の如くなるべし。
爰に愚人、意を竊かにし、言を顕にして云く 誠に君を諌め、家を正しくする事、先賢の教へ、本分に明白也。外典此の如し。内典是れに違ふべからず。悪を見ていましめず、謗を知りてせめずば、経文に背き祖師に違せん。其の禁め殊に重し。今より信心を致すべし。但し此の経を修行し奉らん事叶ひがたし。若し其の最要あらば証拠を聞かんと思ふ。
聖人示して云く 今、汝の道意を見るに鄭重慇懃也。所謂、諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字也。檀王の宝位を退き龍女が蛇身を改めしも、只此の五字の致すところ也。
夫れ以みれば、今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ、修行の時刻をば一念随喜と定めたり。凡そ八万法蔵の広きも、一部八巻の多きも、只是の五字を説んがため也。霊山の雲の上、鷲峰の霞の中に、釈尊、要を結び、地涌付属を得ることありしも、法体は何事ぞ、只此の要法に在り。天台・妙楽の六千帳の疏、玉を連ぬるも、道邃・行満の数軸の釈、金(こがね)を並ぶるも、併せながら此の義趣を出でず。誠に生死を恐れ涅槃を欣ひ、信心を運び渇仰を至さば、遷滅無常は昨日の夢、菩提の覚悟は今日のうつゝなるべし。只、南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば、滅せぬ罪や有るべき、来らぬ福(さいはひ)や有るべき。真実也。甚深也。是れを信受すべし。
愚人、合掌して膝を折りて云く 貴命、肝に染み、教訓、意を動かせり。然りと雖も、上能兼下の理なれば、広きは狭きを括り、多は少を兼ぬ。然る処に五字は少なく文言は多し。首題は狭く八軸は広し。如何ぞ功徳斉等ならんや。
聖人云く 汝、愚か也。捨少取多の執、須弥よりも高く、軽狭重広の情、溟海よりも深し。今の文の初後は必ず多きが尊く、少なきが卑しきにあらざる事、前に示すが如し。爰に、又、小が大を兼ね、一が多に勝ると云ふ事、之を談ぜん。
彼の尼類樹の実は芥子三分が一のせい(長)也。されども五百輌の車を隠す徳あり。是れ小が大を含めるにあらずや。又、如意宝珠は一つあれども万宝を雨らして欠ける処、之無し。是れ又、少が多を兼ねたるにあらずや。世間のことわざにも一は万が母といへり。此れ等の道理を知らずや。所詮、実相の理の背契を論ぜよ。強ち多少を執する事なかれ。
汝、至りて愚か也。今一つの譬を仮ん。夫れ妙法蓮華経とは一切衆生の仏性也。仏性とは法性也。法性とは菩提也。所謂、釈迦・多宝・十方の諸仏・上行・無辺行等、普賢・文殊・舎利弗・目連等、大梵天王・釈帝桓因・日月・明星・北斗七星・二十八宿・無量の諸星・天衆・地類・龍神・八部・人天大会・閻魔法王、上は非想の雲の上、下は那落の炎の底まで、所有、一切衆生の備ふる所の仏性を妙法蓮華経とは名づくる也。されば一遍此の首題を唱へ奉れば、一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時、我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出でる。是れを成仏とは申す也。例せば籠の内にある鳥の鳴く時、空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる。是れを見て籠の内の鳥も出でんとするが如し。
爰に愚人云く 首題の功徳、妙法蓮華経の義趣、今聞く所、詳か也。但し此の旨趣正しく経文にのせたりや如何。
聖人云く 其の理、詳かならん上は、文を尋ぬるに及ばざる歟。然れども請いに随て之を示さん。
法華経第八陀羅尼品に云く_汝等但能擁護。受持法華名者。福不可量〔汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福量るべからず〕。此の文の意は、仏、鬼子母神・十羅刹女の法華経の行者を守らんと誓ひ給ふを読むるとして、汝等、法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ。其の功徳は三世了達の仏の智慧も尚ほ及び難しと説かれたり。仏智の及ばぬ事、何かあるべき。なれども法華の題名受持の功徳ばかりは是れを知らずと宣べたり。
法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に籠もれり。一部八巻文文ごとに、二十八品、生起かはれども、首題の五字は同等也。譬へば日本の二字の中に六十余州島二つ、入らぬ国やあるべき。籠もらぬ郡やあるべき。飛鳥とよべば空をかける者と知り、走獣といへば地をはしる者と心うる。一切、名の大切なる事、蓋し以て是の如し。天台は名詮自性句詮差別〔名は自性をとき、句は差別をとく〕[T34,151a,6,0,]とも、名者大綱とも判ずる、此の謂れ也。又、名は物をめす徳あり、物は名に応ずる用あり。法華題名の功徳も、亦以て此の如し。
愚人云く 聖人の言の如くは、実に首題の功徳、大也。但、知ると知らざるとの不同あり。我は弓箭に携わり兵杖をむねとして未だ仏法の真味を知らず。若し然れば、得る所の功徳、何ぞ其れ深からんや。
聖人云く 円頓の教理は初後全く不二にして、初位に後位の徳あり。一行一切行にして功徳備わらざるは之無し。若し汝の言の如くは、功徳を知りて植えずんば、上は等覚より下は名字に至るまで、得益更にあるべからず。今の経は唯仏与仏と談ずるが故也。
譬諭品に云く_汝舎利弗 尚於此経 以信得入 況余声聞〔汝舎利弗 尚お此の経に於ては 信を以て入ることを得たり 況んや余の声聞をや〕。文の心は大智舎利弗も法華経には信を以て入る、其の智分の力にはあらず。況んや自余の声聞ををやと也。
されば法華経に来りて信ぜしかば、永不成仏の名を削りて、華光如来となり。嬰児に乳をふくむるに、其の味をしらずといへども、自然に其の身を成長す。医師が病者に薬を与ふるに、病者、薬の根源をしらずといへども、服すれば任運と病癒ゆ。若し薬の源をしらずと云ひて、医者の与ふる薬を服せずば其の病癒ゆべしや。薬を知るも知らざるも、服すれば病の癒ゆる事、以て是れ同じ。既に仏を良医と号し、法を良薬に譬へ、衆生を病人に譬ふ。
されば如来一代の教法を擣和合して、妙法一粒の良薬に丸ぜり。豈に知るも知らざるも、服せん者、煩悩の病癒えざるべしや。病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども、服すれば必ず癒ゆ。行者も亦然也。法理をもしらず煩悩をもしらずといへども、只信ずれば見思・塵沙・無明の三惑の病を同時に断じて、実報寂光の臺(うてな)にのぼり、本有三身の膚を磨かん事、疑ひあるべからず。
されば伝教大師云く ̄能化所化倶無歴劫妙法経力即身成仏〔能化所化倶に歴劫なし。妙法経力即身成仏す〕と。法華経の法理を教へん師匠も、又、習はん弟子も、久しからずして法華経の力をもて、倶に仏になるべしと云ふ文也。
天台大師も法華経に付きて玄義・文句・止観の三十巻の釈を造り給ふ。妙楽大師は、又、釈籤・疏記・輔行の三十巻の末文を重ねて消釈す。天台六十巻とは是れ也。玄義には、名体宗用教の五重玄を建立して、妙法蓮華経の五字の功能を判釈す。五重玄を釈する中の宗の釈に云く ̄如提綱維無目而不動。牽衣一角無縷而不來。〔綱維をささぐるに、目としてしかも動かざること無く、衣の一角を牽くに縷としてしかも来らざること無きがごとし〕[T33,683a,11~12,
意は、此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来らざる事なく、善根として動かざる事なし。譬へば網の目無量なれども、一つの大網を引くに動かざる目もなく、衣の絲筋巨多(あまた)なれども、角を取るに絲筋として来らざることなきが如しと云ふ義也。
さて文句には、如是我聞より作礼而去まで文文句句に因縁・約教・本迹・観心の四種の釈を設けたり。次に止観には、妙解の上に立てたる所の観不思議境の一念三千、是れ本覚之立行、本具の理心也。今爰に委しくせず。
悦ばしい哉。生を五濁悪世に受くるといへども、一乗の真文を見聞する事を得たり。煕連恒沙の善根を致せる者、此の経にあひ奉りて信を取ると見えたり。汝、今、一念随喜の信を致す。函蓋相応、感応道交、疑ひ無し。
愚人、頭を低れて手を挙げて云く 我、今よりは一実の経王を受持し、三界の独尊を本師として、自今身至仏身 此信心敢無退転〔今身より仏身に至るまで、此の信心、敢えて退転なけん〕。設ひ五逆の雲厚くとも、乞ふ提婆達多が成仏を続き、十悪の波あらくとも、願はくは王子覆講の結縁に同じからん。
聖人云く 人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり。故に汝、当座は信ずといふとも後日は必ず翻へさん。魔来り鬼来るとも騒乱する事なかれ。
夫れ、天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ。されば豬の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を盛んになし、風の求羅をますが如くせば、豈に好き事にあらずや。