總在一念鈔

執筆年:正嘉二
 釈籤の六に云く ̄總在一念 別分色心〔總は一念にあり、別は色心を分かつ〕と云云。  問て云く 總在一念とは、其れ何なる者ぞや。  答て云く 一遍に思ひ定め難しといへども、且く一義を存せば、衆生最初の一念也と定む。心を止めて倩つら按ずるに、我等が最初の一念は、無没無記と云ひて、善にも定まらず、悪にも定まらず、闇闇湛湛たる念也。是れを第八識と云ふ。此の第八識は万法の總体にして、諸法總在して備わるが故に是れを總在一念と云ふ。但し是れは八識の事の一念也。此の一念動揺して一切の境界に向ふといへども、所縁の境界を未だ分別せず。是れを第七識と云ふ。此の第七識又動揺し、出でゝ善悪の境に対して、悦ぶべきをば喜び、愁ふべきをば愁へて、善悪の業を結ぶ。是れを第六識と云ふ。此の六識の業感して来生の色報を獲得する也。  譬へば最初の一念は湛湛たる水の如し。次に動揺して一切の境界に向ふと、水の風に吹かれて動ずれども波とも泡とも見分けざるが如し。又動揺して善悪の境界に対して、喜ぶべきをば喜び、愁ふべきをば愁ふとは、水の波涛と顕れて高く立ち登るが如し。次に来生の色報を獲得すとは、波涛の岸に打ちあげられて大小の泡となるが如し。泡消えるは我等が死に還るが如し。能く能く思惟すべし。波と云ひ泡と云ふも一水の所為也。是れは譬へ也。  法に合せば最初の一念展転して色報をなす。是れを以て外に全く別に有るにあらず。心の全体が身体と成る也。相構へて各別には意得べからず。譬へば是れ水の全体寒じて大小の氷となるが如し。仍て地獄の身と云ひて洞然猛火の中の盛んなる焔となるも、乃至仏界の体と云ひて色相荘厳の身となるも、只是れ一念の所作也。之に依て悪を起せば三悪の身を感じ、菩提心を発せば仏菩薩の身を感ずる也。是れを以て一心の業感の氷にとぢられて十界とは別れたる也。故に十界は源其の体一にして只是れ一心也。一物にて有りける間、地獄界に余の九界を具し、乃至仏界に又余の九界を具す。是の如く十界互いに具して十界即百界と成るなり。此の百界の一界に各各十如是あるが故に百界は千如是となるなり。此の千如是を衆生世間にも具し、五陰世間にも具し、国土世間にも具せるが故に、千如是は即三千となれり。此の三千世間の法門は我等が最初の一念に具足して全く闕減無し。此の一念即色心となる故に、此の身は全く三千具足の体也。是れを一念三千の法門と云ふ也。之に依て地獄界とて恐るべきにあらず、仏界とて外に尊ぶべきにあらず。此の一心に具して事理円融せり。全く余念無く不動寂静の一念に住せよ。  上に云ふところの法門、是れを観ずるを実相観と云ふ也。余念は動念也。動念は無明也。無明は迷ひ也。此の観に住すれば此の身即本有の三千と照らすを仏とは云ふ也。是れを以て妙楽大師云く ̄当知身土一念三千。故成道時称此本理一身一念遍於法界〔当に知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍ねし〕と云云。若し此の観に堪へざる人は余の観に移りて最初の一念の起る心を観ずべし。起る心とは寂静の一念動じて迷ひ初める心也。此の動の念は全く三諦也。三諦とは、心の体は中也。起る所の念は仮也。念に自性無きは空也。此の三観を成就する時、動ずる念は即ち不動念と成る也。是れ無明即明と観ずるを唯識観と云ふ也。縦ひ唯識観を成すといへども、終には実相観の人に成る也。故に義例に云く ̄[妙楽の釈]本末相映 事理不二〔本末相映し、事理不二なり〕と云へり。本とは実相観、末とは唯識観、事とは唯識観、理とは実相観也。此の不思議観成ずる時、流転生死一時に断壊して観音は三十三身を顕し、此の理具を照らして妙音は三十四身を現ずる者也。若し然らずんば仏の分身、菩薩の化身、之を現ずるに由無し。又此の理を得ざる時は胎金両部の千二百余尊、大日の等流身・変化身も更に以て意得難し。是れ等の法門は性具の一念の肝要なり。秘蔵すべし、秘蔵すべし。  此の一念三千を天台釈して云く ̄夫一心具十法界。一法界又具十法界百法界。一界具三十種世間 百法界即具三千種世間。此三千在一念心。若無心而已。介爾有心即具三千〔夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千一念の心に在り。若し心無くんば而已。介爾も心有れば即ち三千を具す〕と云云。介爾とは、妙楽釈して云く ̄謂細念也〔細念を謂ふなり〕と云云。意はわずかにと云ふ也。仍て意得べき様は次第を以て云ふ時は一心は本、十界は末也。是れ思議の法門也。不思議を以て云ふ時は一心の全体十界三千と成る故に取別つべき物にもあらず、表裏も之無し。一心即三千、三千即一心也。  譬へば不覚の人は氷の外に水ある様に是れを思ふ。能く能く心得る人は氷即水也。故に一念と三千と差別無く一法と心得べし。仍て天台釈して云く ̄只心是一切法 一切法是心。故非縦非横 非一非異。玄妙深絶。非識所識 非言所言。所以称為不可思議境。意在於此等〔ただ心これ一切法、一切法これ心なり。故に縦に非ず横に非ず、一に非ず異なるに非ず。玄妙深絶なり。識の識るところに非ず、言の言ふところに非ず。ゆえに称して不可思議境となす。こころここに在り〕と云云。故に一念三千の不思議は国土世間に三千を具するが故に、草木瓦石も皆本有の三千を具して円満の覚体也。然れば即ち我等も三千を具するが故に本有の仏体也。仍て無間地獄の衆生も三千を具し、妙覚の如来と一体にして差別無き也。是れを以て提婆が三逆の炎、忽ちに天王如来の記を蒙る。地獄すら尚お爾也。何に況んや余の九界をや。心智都て滅せる二乗すら尚お成仏す。何に況んや余の八界をや。故に十界の草木も一一に本有の三千の仏体にして、悪心悪法と云ひて捨つべき物之無く、善心善法と云ひて取るべき物之無し。  故に今の経には此の理を説き顕すが故に妙法蓮華経とは題する也。妙法とは十界の草木等に三千を具す。一法として捨つべき物なきが故也。蓮華とは此の理を悟る人は必ず仏と等しく蓮華の臺に処し、蓮華を以て身を荘厳し蓮華を以て国土をかざる故に云ふ也。知んぬ、此の身即三世の諸仏の体也。若し此の理を得ざる者をば仏種とは名づけず。故に妙楽釈して云く ̄若非正境 縦無妄偽 亦不成種〔若し正境に非ずんば、たとひ妄偽なしとも、また種とならず〕と云云。爰に知んぬ、法華以前の諸経は権法を説き交ゆるが故に塵劫を経歴して受持すとも仏種となるべからず。仏智を説き顕さざるが故也。仏智を説かざるが故に悪人女人成仏すとは云はず。故に天台釈して云く ̄他経但記菩薩不記二乗。但記善不記悪。他経但記男不記女。但記人天不記畜。今経皆記也〔他経は但菩薩に記して二乗に記せず。但善に記して悪に記せず。他経は但男に記して女に記せず。但人天に記して畜に記せず。今経は皆記す也〕と云云。妙楽釈して云く ̄縦有経云諸経之王 不云已今当説最為第一。兼但体帯其義可知〔縦い経有って諸経之王と云うとも、已今当説最為第一と云わず。兼・但・体・帯、其の義知んぬべし〕と云云。此の釈の如きんば爾前の諸経は方便にして成仏の直因に非ざる也。  問て云く 法華以前の諸経の中に円教と云ひて殊勝の法門を説く、何ぞ強ちに爾前の諸経をば仏の種子と成らずと之を簡ぶ耶。  答て云く 円教を説くと云へども、彼の円は仏の種子を失へる声聞・縁覚・悪人・女人を成仏すと説かざるが故に、円教の至極にあらず。究竟に非ざるが故に、仏意を挙げず。故に仏智にもあらず。されば成仏の種子に非ざる也。之に依て諸経をば法華に対して皆簡ぶ也。爰を以て大師の云く ̄細人麁人二倶犯過。従過辺説倶名麁人〔細人、麁人、二倶に過を犯す。過の辺に従て説いて倶に麁人と名づく〕と云云。仍て余経をば妙法蓮華経と名づけざる也。  問て云く 一文不通の愚人、南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。  答ふ 文盲にして一字を覚悟せざる人も信を至して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先づ口業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子をむねの中に収めて必ず出離の人と成る為り。此の経の諸経に超過する事は謗法すら尚お逆縁と説く。不軽軽毀の衆、是れ也。何に況んや信心を致す順縁の人をや。故に伝教大師云く ̄信謗彼此 決定成仏と云云。  問て云く 成仏之時、三身とは、其の義如何。  答ふ 我が身の三千円融せるは法身也。此の理を知り極めたる智慧の身と成るを報身と云ふ也。此の理を究竟して、八万四千の相好より虎狼野干の身に至るまで之を現じて、衆生を利益するを応身と云ふ也。此の三身を法華経に説いて云く ̄如是相。如是性。如是体。と云云。相は応身、性は報身、体は法身也。此の三身は無始より已来我等に具足して闕減なし。然りと雖も迷ひの雲に隠されて是れを見ず。悟りの仏と云ふは、此の理を知る法華経の行者也。此の三身は、昔は迷ひて覚らず知らず、仏の説法に叩かれて近く覚りたりと説くをば迹門と云ふ也。此の三身の理をば我等具足して一分も迷わず、三世常住にして遍せざる所無しと説くをば本門と云ふ也。若し爾らば本迹は只久近の異にして其の法体全く異ならず。是れを以て天台釈して云く ̄本迹雖殊 不思議一〔本迹殊なりと雖も、不思議一なり〕と云云。悟りとは只此れ理体を知るを悟りと云ふ也。譬へば庫蔵の戸を開きて宝財を得るが如し。外より来らず。一心の迷ひの雲晴れぬれば、三世常住の三身三諦の法体也。鏡に塵積もりぬれば形現ぜず。明らかなれば万像を浮かぶるが如し。塵の去る事は人の磨くによる。像の浮かぶ事は磨くに非ずばならじ。若し爾らば転迷覚悟は行者の所作による。三千・三諦・三身の理体は全く人の所作に非ず。只是れ本有也。又迷ひを修行する事は人の作なりといへども、但迷ひの去る処を見ざるなり。百年の闇室に火をともすが如し。全く闇の去るところを見ず。是れ転迷覚悟 返流尽源也。無明即迷は、唯迷悟に名づけ、無明法性は、全く其の体一也。穴賢穴賢。  各別には心得べからず。もし迷悟異体と心得ならば成仏の道遼遠ならん事、一須弥より一須弥に至るが如し。本より不二なる理体に迷ふが故に衆生と云ひ、是れを悟を仏と云ふ也。よくよく此の大旨を心得て失錯有るべからざる也。我等が生死一大事也。出離の素懐也。豈に宝の山に入りて手を空しくせんや。後悔千万すとも敢えて益無し。閻魔の責め、獄卒の杖は、全く人を撰ばず、只罪人を打つ。若し人間に生まれて其の難処を去らざれば百千万劫を経歴すとも仏法の名字を聞かず。三界に昇沈して六道流浪の身となるべし。出離の要法を聞かざる事、悲しむべし、悲しむべし。恐るべし、恐るべし。獄卒阿防羅刹の責めを蒙らん事を。