種種御振舞御書

建治元(1275 or 1276) 真筆あり


種種御振舞御書(与光日尼書)
     建治二年。五十五歳著。
     内二三ノ三九。内二三ノ一。遺二〇ノ五〇。縮一三八六。
     類三九一。内一四ノ一。内二〇ノ三六。 去る文永五年後の正月十八日、西戎大蒙古国より日本国ををそう(襲)べきよし牒状をわたす。日蓮が去る文応元年太歳庚申に勘へたりし立正安国論すこしもたがわ(違)ず普(符)合しぬ。此書は白楽天が楽府にも越へ仏の未来記にもをとらず。末代の不思議なに事かこれにすぎん。賢王聖主の御世ならば、日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし。定んで御たづねありていくさ(軍事)の僉義をもいゐあわせ、調伏なんども申しつけられずらんとをもひしに、かうのぎなかりしかば、其年の末十月に十一通の状をかきてかたがたへをどろかし申す。国に賢人なんどもあるならば不思議なる事かな。これはひとへにただ事にはあらず。天照大神、正八幡宮の僧につい(託)て、日本国のたすかるべき事を御計らひのあるかと、をもわるべきにさわなくて、或は使を悪口し或はあざむき、或はとりも入れず或は返事もなし。或は返事をなせども上へも申さず。これひとへにただ事にはあらず。設ひ日蓮が身の事なりとも、国主となりまつり事(政)をなさん人人は、取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし。いわうやこの事は上の御大事いできらむ(出来)のみならず、各各の身にあたりてをほいなるなげき出来すべき事ぞかし。而るを用る事こそなくとも悪口まではあまりなり。これひとへに日本国の上下万人、一人もなく法華経の強敵となりて、としひさし(年久)くなりぬれば、大禍のつもり大鬼神の各各の身に入上へ、蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり。例せば殷の紂王に比干といゐし者、いさめ(諌)をなせしかば用ひずして胸をほる。周の文、武の王にほろぼされぬ。呉王は伍子助がいさめを用ひず自害をせさせしかば、越王勾踐の手にかかる。これもかれがごとくなるべきといよいよふびん(不便)にをぼへて、名をもをしまず命をもすてて強盛に申しはりしかば、風大なれば波大なり、龍大なれば雨たけきやうに、いよいよあだをなし、ますますにくみて御評定に僉義あり。頸をはぬべきか鎌倉ををわる(追)べきか、弟子檀那等をば所領あらん者は所領を召して頸をきれ、或はろう(籠)にてせめ、あるいは遠流すべし等云云。日蓮悦んで云く、本より存知の旨なり。雪山童子は半偈のために身をなげ、常啼菩薩は身をうり、善財童子は火に入り、楽法梵士は皮をはぐ。薬王菩薩は臂をやく、不軽菩薩は杖木をかうむり、師子尊者は頭をはねられ、提婆菩薩は外道にころさる。此等はいかなりける時ぞやと勘うれば天台大師は適時而已とかかれ、章安大師は取捨得宜不可一向しるされ、法華経は一法なれども機にしたがひ時によりて其行万差なるべし。仏記して云く「我が滅度正像二千年すぎて末法の始に、此法華経の肝心題目の五字計を弘めんもの出来すべし。其時悪王、悪比丘等大地微塵より多くして、或は大乗或は小乗等をもてきそは(競)んほどに、此題目の行者にせめられて、在家の檀那等をかたらひて、或はのり(罵)或はうち(打)或はろう(牢)に入れ或は所領を召し、或は流罪、或は頸をはぬべしなどいふとも、退転なくひろむるほどならば、あだをなすものは、国主はどし打をはじめ、餓鬼のごとく身をくらひ、後には佗国よりせめらるべし。これひとへに梵天、帝釈、日月、四天等の法華経の敵なる国を、佗国より責めさせ給ふなるべし」ととかれて候ぞ。各各我弟子となのらん人人は、一人もをく(臆)しをもわるべからず。をや(親)ををもひ、めこ(妻子)ををもひ、所領をかえりみることなかれ。無量劫よりこのかたをやこ(親子)のため、所領に命すてたる事は大地微塵よりもをほし。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず。法華経をばそこばく行ぜしかども、かゝる事出来せしかば退転してやみにき。譬へばゆ(湯)をわかして水に入れ、火を切にとげざるがごとし。各各思ひ切り給へ、此身を法華経にかうる(替)は石に金をかへ糞に米をかうるなり。仏滅後二千二百二十余年が間迦葉、阿難等、馬鳴、龍樹等、南岳、天台等、妙楽、伝教等だにも、いまだひろめ給はぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法華経の五字、末法の始めに一閻浮提にひろませ給ふべき瑞相に日蓮さきがけ(魁)したり。わたうども(和党共)二陣三陣つづきて迦葉、阿難にも勝ぐれ、天台、伝教にもこへよかし。わづかの小鳥のぬしら(主等)がをどさん(威嚇)ををぢ(恐)ては、閻魔王のせめ(責)をばいかんがすべき。仏の御使となのりながらをく(臆)せんは無下の人人なりと申しふくめぬ。さりし程に念仏者、持斎、真言師等自身の智は及ばず訴状も叶はざれば、上郎、尼ごぜん(御前)たちにとりつきて、種種にかまへ申し、故最明寺の入道殿、極楽寺の入道殿を無間地獄に堕ちたりと申し、建長寺、寿福寺、極楽寺、長楽寺、大仏寺等をやきはらへと申し、道隆上人、良観上人等を頸をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬかれがたし、但し上件の事一定申すかと、召し出してたづね(訊)らるべしとて召出されぬ。奉行人の云く、上へのをほせかくのごとしと申せしかば、上件の事一言もたがわず申す。但し最明寺殿、極楽寺殿を地獄という事はそらごとなり。此法門は最明寺殿御存生の時より申せし事なり。詮ずるところは上件の事どもは此国ををもひて申す事なれば、世を安穏にたもたんとをぼさば、彼法師ばらを召合せてきこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行はるるほどならば国に後悔ありて、日蓮御勘気をかほら(蒙)ば仏の御使を用ひぬになるべし。梵天、帝釈、日月、四天の御んとがめ(咎)ありて、遠流死罪の後百日一年三月(一本年に作る)七年が内に自界叛逆難とて、此御一門どしうち(同志打)はじまるべし。其後は佗国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其時後悔あるべし。平左衛門尉と申し付けしかども、太政の入道のくるひ(狂)しやうに、すこしもはばかる事なく物にくるう。去る文永八年太歳辛未九月十二日御勘気をかほる。其時の御勘気のやうも常ならず法にすぎてみゆ。了行が謀反ををこし、大夫の律師が世をみださんとせしを、めし(召)とられしにもこえたり。平左衛門尉大将として、数百人の兵者にどうまろ(胴丸)きせて、ゑぼし(烏帽子)かけして眼をいからし声をあらうす。大体事の心を案ずるに、太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしにに(似)たり。ただ事ともみへず。日蓮これを見てをもうやう、日ごろ月ごろをもひまうけたりつる事はこれなり。さいわひなるかな法華経のために身をすてん事よ。くさきかうべ(臭頭)をはなたれば、沙に金をかへ石に珠をあきなへる(貿)がごとし。さて平左衛門尉が一の郎従、少輔房と申す者はしりよりて、日蓮が懐中せる法華経第五の巻を取り出して、おもて(面)を三度さいなみ(呵責)て、さんざんとうちちらす。又九巻を兵者ども打ちらして、あるいは足にふみ、あるいは身にまとひ、あるいはいたじき(板敷)たゝみ(畳)等、家の二三間にちらさぬ所もなし。日蓮大高声を放ちて申す、あらおもしろや平左衛門尉がものにくるうを見よ。とのばら(殿原)但今ぞ日本国の柱をたをすとよばわりしかば、上下万人あわてて見へし。日蓮こそ御勘気をかほればをく(臆)して見ゆべかりしに、さわなくしてこれはひがごと(僻事)なりとやをもひけん、兵者どものいろ(色)こそへんじて見へしが、十日並に十二日の間、真言宗の失、禅宗、念仏等、良観が雨ふらさぬ事、つぶさに平左衛門尉にいゐきかせてありしに、或ははとわらひ或はいかりなんどせし事どもは、しげければしるさず。せん(詮)ずるところは六月十八日より七月四日まで、良観が雨のいのり(祈)して日蓮にかかれてふらしかね、あせ(汗)をながしなんだ(涙)のみを下して雨ふらざりし上、逆風ひまなくしてありし事、三度までつかひをつかわして一丈のほり(堀)をこへぬもの、十丈二十丈のほりをこうべきか。いづみしきぶ(和泉式部)がいろごのみ(好色)の見にして、八斎戒にせい(制)せるうた(和歌)をよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下せしに、いかに二百五十戒の人人、百千人あつまりて、七日二七日せめ(責)させ給ふに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ。これをもん(以)て存ぜさせ給へ。各各の往生は叶ふまじきぞとせめられて、良観がなき(泣)し事、人人につきて讒せし事一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうど(方人)しかなへ(叶)ずして、つまりふし(詰伏)し事どもはしげければかかず。さては十二日の夜武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び、頸を切らんがために鎌倉をいでしに、わかみやこうぢ(若宮小路)にうちつゝみて、四方の兵のうちつゝみてありしかども、日蓮云く、各各さわがせ給ふな、べち(別)の事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて、馬よりさしおりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か。和気の清丸(麿)が頸を刎られんとせし時は、長一丈の月と顕れさせ給ひ、伝教大師の法華経をかう(講)ぜさせ給ひし時は、むらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給ひき。今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきを、たすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照大神、正八幡とても安穏にはをはすべきか。其上釈迦仏法法華経を説き給ひしかば多宝仏十方の諸仏菩薩あつまりて、日と日と月と月と星と星と鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並に天竺、漢土、日本国等の善神、聖人あつまりたりし時、各各法華経の行者にをろか(疎略)なるまじき由の誓状まいらせよとせめられしかば、一一に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし、いそぎ(急)いそぎこそ誓状の宿願をとげ(遂)させ給ふべきに、いかに此処にはをちあわせ給はぬぞとたかだか(高高)と申す。さて最後には日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照大神、正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候けれと、さしきりて教主釈尊に申し上候はんずるぞ。いたし(痛)とをぼさば、いそぎ(急)いそぎ御計らひあるべしとて又馬にのりぬ。ゆゐ(由井)のはまにうちいでて御りやう(霊)のまへにいたりて又云く、しばしとのばら(殿原)これにつぐ(告)べき人ありとて、中務三郎左衛尉と申す者のもとへ、熊王と申す童子をつかわしたりしかばいそぎいでぬ。今夜頸切れへまかるなり。この数年が間願ひつる事これなり。此娑婆世界にしてきじ(雉)となりし時は、たか(鷹)につかまれ、ねずみ(鼠)となりし時は、ねこにくらわれき。或はめ(妻)に、こ(子)に、かたきに身を失ひし事大地微塵より多し。法華経の御ためには一度だも失ふことなし。されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉りて其功徳を父母に回向せん。其あまりは弟子檀那等にはぶく(配当)べしと申せし事これなりと申せしかば、左衛門尉兄弟四人馬の口にとりつきて、こしごへ(越越)たつ(龍)の口にゆきぬ。此にてぞあらんずらんとをもうところに、案にたがわず兵士どもうちまわりさわぎしか^ば、左衛門尉申すやう、只今なりとな(泣)く。日蓮申すやう、不かく(覚)のとのばらかな、これほどの悦びをばわらへ(笑)かし。いかにやくそく(約束)をばたがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとくひかり物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ(味爽)人の面もみへざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れけうさめ(興醒)て一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくま(蹲踞)れるもあり。日蓮申すやう、いかにとのばら(殿原)、かゝる大に禍なる召人にはとを(遠)のくぞ、近く打よれや打よれやとたかだか(高高)とよばわれども、いそぎよる人もなし。さてよ(夜)あけばいかにいかに、頸切べくわいそぎ切べし、夜明けなばみぐるし(見苦)かりなんとすゝめ(勧)しかども、とかくのへんじ(返事)もなし。はるか計りありて云く、さがみ(相模)のえち(依智)と申すところへ入らせ給へと申す。此は道知る者なし。さきうち(先打)すべしと申せども、うつ人もなかりしかば、さてやすらう(休憩)ふどに、或る兵士の云く、それこそその道にて候へと申せしかば、道にまかせてゆく。午の時計りにえち(依智)と申すところへゆきつきたりしかば、本間の六郎左衛門がいへ(家)に入ぬ。さけ(酒)とりよせてものゝふども(兵士共)にのませてありしかば、各かへるとてかうべ(頭)をうなたれ(低頭)、手をあさへ(叉)て申すやう、このほどはいかなる人にてやをはすらん、我等がたのみ(憑)て候阿弥陀仏を、そしらせ給ふとうけ給はればにくみまいらせて候つるに、まのあたり(親)をがみ(拝)まいらせ候つる事どもを見て候へば、たふとさ(貴)にとしごろ(年頃)申しつる念仏はすて候ぬとて、ひうちぶくろ(火打袋)よりずず(数珠)とりいだしてすつる者あり。今は念仏申さじとせいじやう(誓状)をたつる者もあり。六郎左衛門が郎従等番をばうけとりぬ。さえもんのじょう(左衛門尉)もかへりぬ。其日の戌時計りにかまくら(鎌倉)より、上の御使とてたてぶみ(立文)をもん(以)て来ぬ。頸切れという、かさね(重)たる御使かと、ものゝふども(兵士共)はをもひてありし程に、六郎左衛門が代、右馬のじよう(尉)と申すの者、立ぶみもちてはしり来り、ひざまづひ(跪)て申す、今夜にて候べし、あらあさましやと存じて候つるに、かゝる御悦びの御ふみ来りて候。武蔵守殿は今日卯時にあたみ(熱海)の御ゆ(湯)へにて候へば、いそぎあやなき(無益)事もやと、まづこれへはしりまいりて候と申す。かまくら(鎌倉)より御つかひは二時にはしりて候。今夜のうちにあたみの御ゆへはしりまいるべしとてまかりいでぬ。追状に云く「此人はとがなき人なり。今しばらくありてゆる(赦)させ給べし。あやまち(過)しては後悔あるべし」と云云。(是より以下古来より星下鈔と号し録内十四巻初紙に出づ)其夜は十三日兵士ども数十人、坊の辺り並に大庭になみゐ(並居)て候き。九月十三日の夜なれば月大にはれてありしに、夜中に大庭に立ち出でて月に向ひ奉りて自我偈少少よみ奉り、諸宗の勝劣法華経の文あらあら申して、抑も今の月天は法華経の御座に列りまします名月天子ぞかし。宝塔品にして仏勅をうけ給ひ、嘱累品にして仏に頂をなでられまいらせ、「如世尊勅当具奉行」と誓状をたてし天ぞかし。仏前の誓は日蓮なくんば虚くてこそをわすべけれ。今かゝる事出来せばいそぎ悦びをなして、法華経の行者にもかはり仏勅をもはたして、誓言のしるし(験)をばとげさせ給べし。いかに今しるしのなきは不思議に候ものかな。何なる事も国になくしては鎌倉へもかへらんとも思はず。しるしこそなくともうれしがを(嬉顔)にて澄渡らせ給ふはいかに。大集経には「日月不現明」ととかれ、仁王経には「日月失度」とかかれ、最勝王経には「三十三天各生慎恨」とこそ見え侍るに、いかに月天いかに月天とせめしかば、其しるしにや天より明星の如くなる大星下りて、前の梅の木の枝にかかりてありしかば、ものゝふども(兵士共)皆ゑん(椽)よりとびをり、或は大庭にひれふし或は家のうしろへにげぬ。やがて即ち天かきくもりて大風吹き来て、江の島のなるとて空のひびく事大なるつづみを打がごとし。明れば十四日卯時に十郎入道と申すもの来りて云く、昨日の夜の戌の時計りにかうどの(守殿)に大なるさわぎあり。陰陽師を召して御うらなひ候へば、申せしは大に国みだれ候べし、此の御房御勘気もゆへなり。いそぎいそぎ(急急)召しかえさずんば、世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆり(許)させ給へ候と申す人もあり。又百日の内に軍あるべしと申しつればそれを待つべしとも申す。依智にして二十余日、其間鎌倉に或は火をつくる事七八度、或は人をころす事ひまなし。讒言の者の云く、日蓮が弟子共の火をつくるなりと。さもあるらんとて日蓮が弟子等を鎌倉に置くべからずとて、二百六十余人にしるさる、皆遠島へ遣すべし。ろう(牢)にある弟子共をば頸をはねらるべしと聞ふ。さる程に火をつくる者は、持斎、念仏者が計事なり。其由はしければかかず。同十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ(後)みの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上はいたま(板間)あはず四壁はあばらに、雪ふりつもり(降積)て消ゆる事なし。かゝる所に所持し奉る釈迦仏を立まいらせ、しきがは(敷皮)打しき、蓑うちきて夜をあかし日をくらす。夜は雪、雹、雷電ひまなし。昼は日の光もささせ給はず、心細かるべきすまゐ(住居)なり。彼の李陵が胡国に入りてがんかうくつ(巌崛)にせめられし、法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかやなき(火印)をさされて、江南にはなたれ(放)しも只今とおぼゆ。あらうれしや檀王は阿私仙人にせめられて法華経の功徳を得給ひき。不軽菩薩は上慢の比丘等の杖にあたりて一乗の行者といはれ給ふ。今日蓮は末法に生れて妙法蓮華経の五字を弘めてかゝるせめ(責)にあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐らくは天台智者大師も「一切世間多怨難信」の経文をば行じ給はず。数数見擯出の明文は但日蓮一人なり。「一句一偈、我皆与授記」は我なり。「阿耨多羅三藐三菩提」は疑ひなし。相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。念仏者は瞿伽利尊者、持斎等は善星比丘。在世は今にあり、今は在世なり。法華経の肝心は諸法実相ととかれて本末究竟等とのべ(宣)られて候は是なり。摩訶止観第五に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔粉然として競ひ起る」文。又云く「猪の金山を摺り、衆流の海に入り、薪の火を熾にし、風の求羅を益すが如きのみ」等云云。釈の心は法華経を教のごとく機に叶ふて解行すれば七の大事出来す。其中に天子魔とて第六天の魔王、或は国王、或は父母、或は妻子、或は檀那、或は悪人等について、或は随つて法華経の行者をさえ(支)或は違してさう(支)べき事なり。何れの経をも行ぜよ、仏法を行ずるには分分に随つて留難あるべし。其中に法華経を行ずるには強盛にさうべし。法華経ををしへの如く時機に当つて説き行ずるには殊に難あるべし。故に弘決の八に云く「若し衆生生死を出でず仏乗を慕はずと知れば、魔是の人に於て猶親の想を生す」等云云。釈の心は人善根を修すれども念仏、真言、禅、律等の行をなして法華経を行ぜざれば、魔王親のおもひをなして人間につきて其人をもてなし供養す。世間の人に実の僧と思はせんがためなり。例せば国主のたとむ(貴)僧をば諸人供養するが如し。されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり。釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ。今の世間を見るに人をよくなすものは、かたうど(方人)よりも強敵が人をばよくなしけるなり、眼前に見えたり。此鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐の法皇ましまさずんば、争か日本の主となり給ふべき。されば此人人は此御一門の御ためには第一のかたうどなり。日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観、道隆。道阿弥陀仏と平左衛門尉、守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。かくてすごす程に、庭には雪つもりて人もかよはず、堂にはあらき風より外はをとづるる(訪)ものなし。眼には止観、法華をさらし、口には南無妙法蓮華経と唱へ、夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と、法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ。いづく(何処)も人の心のはかなさは、佐渡の国の持斎、念仏者の唯阿弥陀仏、生喩房、印性房、慈道房等の数百人寄合ひて僉議すと承る。聞及べる阿弥陀仏の大怨敵、一切衆生の悪知識の日蓮房此国にながされたり。なにとなくとも此国へ流されたる人の始終、いけ(活)らるる事なし。設ひいけ(活)らるるともかへ(帰る)る事なし。又打ころしたれども御とがめ(咎)なし。塚原と云ふ所に只一人あり。いかにがう(剛)なりとも、力つよく(強)とも、人なき処なれば集りていころせ(射殺)かしと云ふものありけり。又なにとなくとも頸を切らるべかりけるが、守殿の御台所の御懐妊(姙)なればしばらくきられず、終には一定ときく。又云く、六郎左衛門尉殿に申してきらずんばはからう(謀)べしと云ふ。多くの義の中にこれについて守護所に数百人集りぬ。六郎左衛門尉の云く、上より殺しまいすざまじき副状下りて、あなづる(蔑)べき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし。それよりは只法門にてせめ(攻)よかしと云ひければ、念仏者等或は浄土の三部経、或は止観、或は真言等を、小法師が頸にかけさせ或はわき(腋)にはさ(挟)ませて正月十六日にあつまる。佐渡の国のみならず、越後、越中、出羽、奥州、信濃等の国国より集れる法師等なれば、塚原の堂の大庭山野に数百人、六郎左衛門尉兄弟一家、さならぬもの、百姓の入道等、かずをしらず集りたり。念仏者は口口に悪口をなし、真言師は面面に色を失ひ、天台宗ぞ勝つべきよしをのゝしる。在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよとのゝしり、さわぎひびく事震動雷電の如し。日蓮は暫くさはがせて後、各各しづまらせ給へ。法門の御為にこそ御渡りあるらめ、悪口等よしなしと申せしかば、六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて、悪口せし念仏者をばそくび(素首)をつきいだしぬ。させ止観、真言、念仏の法門一一にかれが申す様を、でつしあげ(牒楊)て承伏せさせては、ちやう(丁)とはつめつめ(詰詰)一言二言にはすぎず。鎌倉の真言師、禅宗、念仏者、天台の者よりもはかなきものどもなれば、只思ひやらせ給へ。利剣をもてうり(瓜)をきり大風の草をなびかす(靡)が如し。仏法のおろか(疎漏)なるのみならず或は自語相違し、或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ。善導が柳より落ち、弘法大師の三鈷を投たる、大日如来と現じたる等をば、或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ、或は念仏ひが(僻)事なりけりと云ふものもあり。或は当座に袈裟、平念珠をすてて念仏申すまじきよし、誓状を立る者もあり。皆人立ち帰る程に六郎左衛門尉も立ち帰る。一家の者も返る。日蓮不思議一つ云はんと思ひて、六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云く、いつか鎌倉へのぼり給ふべき。かれ答へて云く、下人共に農せさせて七月の比と云云。日蓮云く、弓箭とる者はをゝやけ(公)の御大事にあひて所領をも給はり候をこそ、田畠つくるとは申せ、只今いくさ(軍)のあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給はらぬか。さすがに和殿原はさがみ(相模)の国には名ある侍ぞかし。田舎にて田つくりいくさ(軍)にはづれ(外)たらんは、耻なるべしと申せしかば、いかにや思ひげ(気)にてあはて(急遽)てものもいはず。念仏者、持斎、在家の者どももなにと云ふ事ぞやと恠しむ。さて皆帰りしかば去年の十一月より勘へたる開目抄と申す文二巻造りたり。頸切らるるならば日蓮が不思議とどめんと思ひて勘へたり。此文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。平左衛門既に日本の柱をたをし(倒)ぬ。只今世乱れてそれとなくゆめの如くに妄語出来して、此の御一門どしうち(同志打)して後には佗国よりせめらるべし。例せば立正安国論に委しきが如し。かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使にとらせぬ。つきたる弟子等もあらぎ(強義)かなと思へども力及ばざりげにてある程に、二月の十八日に島に船つく。鎌倉に軍あり、京にもあり、そのやう申す計りなし。六郎左衛門尉其夜るにはやふね(早舟)をも(以)て一門相具してわたる。日蓮にたな心(掌)を合せてたすけさせ給へ。去る正月十六日の御言、いかにやと此程疑ひ申しつるに、いくほどなく三十日が内にあひ候ぬ。又蒙古国も一定渡り候なん。念仏無間地獄も一定にてぞ候はんずらん。永く念仏申し候まじと申せしかば、いかに云ふとも相模守殿等の用ひ給はざらんには日本国の人用ゆまじ、用ゐずば国必ず亡ぶべし。日蓮幼若の者なれども法華経を弘むれば釈迦仏の御使ぞかし。わづかの天照大神、正八幡なんどと申すは、此国には重んずけれども梵釈、日月、四天に対すれば小神ぞかし。されども此神人なんどをあやまち(過)ぬれば、只の人を殺せるには七人半なんど申すぞかし。太政入道、隠岐の法皇等のほろび給ひしは是なり。此はそれにはに(似)るべくもなし。教主釈尊の御使なれば天照大神、正八幡宮も頭をかたぶけ(傾)手を合せて地に伏し給ふべき事なり。法華経の行者をば梵釈左右に侍り、日月前後を照し給ふ。かゝる日蓮を用ひぬるとも、あしくうやま(敬)はば国亡ぶべし。何に況や数百人ににく(憎)ませ二度まで流しぬ。此国の亡びん事疑ひなかるべけれども、且く禁をなして国をたすけ給へと、日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども、はう(法)に過ぐれば罰あたりぬるなり。又此度も用ひずば大蒙古国より打手を向けて日本国ほろぼさるべし。ただ平左衛門尉が好むわざわひなり。和殿原とても此島とても安穏なるまじきなりと申せしかば、あさましげにて立ち帰りぬ。さて在家の者ども申しけるは、此御坊は神通の人似てましますか、あらおそろしおそろし。今は念仏者をもやしなひ(養)持斎をも供養すまじ。念仏者良観が弟子の持斎等が云く、御坊は謀反の内に入りたりけるか。さて且くありて世間しずまる。又念仏者集り僉議す。かう(斯)てあらんには我等かつえしぬ(餓死)べし、いかにもして此法師を失はばや、既に国の者も大体つきぬいかんがせん。念仏者の長者の唯阿弥陀仏、持斎の長者の性諭房、良観が弟子の道観等、鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す。此御坊島に候ものならば堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば或は火に入れ或は河にながす。夜もひるも高き山に登りて、日月に向つて大音声を放つて上を呪咀し奉る。其音声一国に聞ふと申す。武蔵の前司殿是をきき上へ申すまでもあるまじ。先国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ(逐)或はろう(牢)に入れよと私の下知を下す。又下文下る。かくの如く三度。其間の事申さざるに心をも(以)て計りぬべし。或は其前をとをれり(通行)と云ふてろう(牢)に入れ、或は其御坊に物をまいらせ(進)けりと云ふて国をおひ、或は妻子をとる(捕)。かくの如くして上へ此由を申されければ、案に相違して去る文永十一年二月十四日の御赦免の状、同三月八日に島につきぬ。念仏者等僉議して云く、此れ程の阿弥陀仏の御敵、善導和尚、法然上人をのる(罵)ほどの者が、たまたま御勘気を蒙りて此島に放されたるを、御赦免あるとていけ(活)て帰さんは、心うき(憂)事なりと云ふてやうやうの支度ありしかども、何なる事にやありけん、思はざるに順風吹き来りて島をばたちしかば、あはい(間合)あしければ百日五十日にもわたらず。順風には三日なる所を須臾の間に渡りぬ。越後のこう(国府)、信濃の善光寺の念仏者、持斎、真言等は雲集して僉議す。島の法師原は今までいけ(活)てかへす(還)は、人かつたい(乞丐)なり。我等はいかにも生身の阿弥陀仏の御前をばとをす(通)まじと僉議せしかども、又越後のこう(国府)より兵者どもあまた日蓮にそひて善光寺をとをりしかば力及ばず、三月十三日に島を立ちて、同三月二十六日に鎌倉へ打入りぬ。同四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さき(前)にはにるべくもなく威儀を和げてただし(正)くする上、或人道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ。平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ。一一に経文を引ひて申す。平左衛門尉は上の御使の様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す。日蓮答へて云く、今年は一定なり。それにとつては日蓮已前より、勘へ申すをば御用ひなし。譬へば病の起りを知らざらん人の病を治せば弥よ病は倍増すべし。真言師だにも調伏するならば弥よ此国軍にまく(負)べし。穴賢、穴賢。真言師総じて当世の法師等をもて御いのり(祈)あるべからず。各各は仏法をしらせ給ふておわすにこそ申すともしらせ給はめ。又何なる不思議にやあるらん、佗(他)事にはことにして日蓮が申す事は御用ひなし。後に思ひ合せさせ奉らんが為に申す。隠岐の法皇は天子なり、権大夫殿は民ぞかし。子の親をあだまんをば天照大神うけ給ひなんや。所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用ひあるべしや。いかなりければ公家はまけ給ひけるぞ。此は偏に只事にはあらず。弘法大師の邪義、慈覚大師、智証大師の僻見をまことと思ひて、叡山、東寺、園城寺の人人の鎌倉をあだみ給ひしかば還著於本人とて其失還つて公家はまけ給ひぬ。武家は其事知らずして調伏も行はざればかちぬ。今又かくの如くなるべし。ゑぞ(蝦夷)は死生不知のもの、安藤五郎は因果の道理を弁へて堂塔多く造りし善人なり。いかにとして頸をばゑぞ(蝦夷)にとられぬるぞ。是をもて思ふに此御坊たちだに御祈あらば、入道殿事にあひ給ひぬと覚え候。あなかしこあなかしこ。さい(左云)はざりけるとおほせ候なとしたゝか(剛強)に申付け候ぬ。(是より已下古来、法印祈雨鈔と号し録内二十三巻初紙に出づ)さてかへり(帰)きき(聞)しかば、同四月十日より阿弥陀堂法印に仰付られて雨の御いのりあり。此法印は東寺第一の智人、をむろ(御室)等の御師、弘法大師、慈覚大師、智証大師の真言の秘法を鏡にかけ、天台、華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり。それに随ひて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず、雨しづかにて一日一夜ふりしかば、守殿御感のあまりに金三十両むまやうやう(馬様様)の御ひきで(引出)物ありときこふ。鎌倉中の上下万人手をたゝき口をすくめ(蹙)てわらう(笑)やうは、日蓮ひが(僻)法門申してすでに頸をきられんとせしが、とかう(左右)してゆり(許)たらば、さではなくして念仏、禅をそしるのみならず、真言の密教なんどをもそしるゆへに、かゝる法のしるし(験)めでたしとのゝしりしかば、日蓮が弟子等けうさめ(興醒)てこれは御あら義と申せし程に、日蓮が申すやうは、しばしまて(少時待)弘法大師の悪義まことにて国の御いのり(祈)となるべくは、隠岐の法皇こそいくさ(戦)にかち給はめ。をむろ(御室)最愛の児、せいたか(勢多迦)も頸をきられざるらん。弘法の法華経を華厳経にをとれり(劣)とかける状は、十住心論と申す文にあり。寿量品の釈迦仏をば凡夫なりとしるされ(記)たる文は秘蔵宝鑰に候。天台大師をぬす(盗)人とかける状は二教論あり。一乗法華経をとける仏をば真言師、はきものとり(履物取)にも及ばずとかける状は、正覚房が舎利講の式にあり。かゝる僻事を申す人の弟子阿弥陀堂の法印が日蓮にかつ(勝)ならば、龍王は法華経のかたきなり。梵釈四王にせめられなん。子細ぞあらんずらんと申せば弟子どものいはく、いかなる子細のあるべきぞと、をこつき(嘲笑)し程に日蓮云く、善無畏も不空も雨のいのりに雨はふりたりしかども、大風吹きてありけるとみゆ。弘法は三七日すぎて雨をふらしたり。此等は雨ふらさぬがごとし。三七二十一日にふらぬ雨やあるべき。設ひふりたりともなんの不思議かあるべき。天台のごとく千観なんどのごとく、一座なんどこそたうと(尊)けれ。此は一定やう(様)あるべしといゐもあはせず大風吹き来る。大小の舎宅、堂塔、古木、御所等を、或は天に吹きのぼせ或は地に吹きいれ、そらには大なる光物とび地には棟梁みだれたり。人人をもふきころし(吹殺)、牛馬をゝく(多)たふれ(斃)ぬ。悪風なれども秋は時なればなほゆる(許)すかたもあり、此は夏四月なり。其上日本国にはふかず。但関東八箇国なり。八箇国にも武蔵、相模の両国なり。両国の中には相州につよくふく。相州にもかまくら(鎌倉)、かまくらにも御所若宮、建長寺、極楽寺等につよくふけり。ただ事ともみへずひとへにこのいのりのゆへにやとをぼへて、わらひ口すくめせし人人もけふさめ(興醒)てありし上、我弟子どももあら不思議やと舌をふるう。本よりご(期)せし事なれば、三度国をいさめ(諌)んに、もちゐ(用)ずば国をさるべしと。されば同五月十二日にかまくらをいでて此山に入り、同十月に大蒙古国よせて、壱岐、対馬の二箇国を打取らるるのみならず、太宰府もやぶれて少弐入道、大友等ききにげ(聞逃)ににげ、其外の兵者ども其事ともなく大体打たれぬ。又今度よせるならば、いかにも此国よはよは(弱弱)と見ゆるなり。仁王教には「聖人去時七難必起」等云云。最勝王教に云く「由愛敬悪人治罰善人故、(乃至)佗方怨賊来国人遭喪乱」等云云。仏説まことならば此国に一定悪人のあるを、国主たつとませ(貴)給ひて、善人をあだませ給ふにや。大集教に云く「日月不現明四方皆亢早、如是不善業悪王悪比丘毀壌我正法」云云。仁王教に云く「諸悪比丘多求名利於国王太子王子前、自説破仏法因縁破国因縁、其王不別信聴此語、是為破仏法破国因縁」等云云。法華経に云く「濁世悪比丘」等云云。経文まことならば此国に一定悪比丘のあるなり。夫れ宝山には曲林をき(伐)る、大海には死骸をとどめず。仏法の大海、一乗の宝山には五逆の瓦礫、四重の濁水をば入るれども誹謗の死骸と一闡提の曲林をばをさめざるなり。されば仏法を習はん人、後世をねがはん人は法華誹謗をおそるべし。皆人をぼするやうはいかでか弘法、慈覚等をそしる人を用ゆべきと、佗人はさてをきぬ。安房国の東西の人人は此事を信ずべきなり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房、清澄の西尭房、道義房、かたうみの実智房等はたうと(貴)かりし僧ぞかし。是等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし。これらはさてをきぬ。円智房は清澄の大堂にして三箇年が間、一字三体の法華経を我とかきたてまつりて十巻をそら(諳)にをぼへ、五十年が間一日一夜に二部つづよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云云。日蓮こそ念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底にをつべしと申したりしが、此人人の御臨終はよく候けるかいかに。日蓮なくば此人人をば仏になりぬらんとこそをぼすべけれ。これをもつてしろしめ(知食)せ。弘法、慈覚等はあさましき事どもはあれども、弟子ども隠せしかば公家にもしらせ給はず。末の代はいよいよあをぐ(仰)なり。あらはす人なくば未来永劫までもさであるべし。拘留外道は八百年ありて水となり、迦毘羅外道は一千年すぎてこそ其失はあらわれしか。夫れ人身をうくる事は五戒の力による。五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる(守)上、同生同名と申して二の天生れしよりこのかた、左右のかた(肩)に守護するゆへに、失なくて鬼神あだむことなし。しかるに此国の無量の諸人なげきをなすのみならず、ゆき(壱岐)つしま(対馬)の両国の人皆事にあひぬ。太宰府又申すばかりなし。此国はいかなるとがのあるやらん。しら(知)まほゝしき(欲)事なり。一人二人こそ失もあるらめ。そこばく(若干)の人人いかん。これひとへに法華経をさぐ(下)る弘法、慈覚、智証等の末の真言師、善導、法然が末の弟子等、達麿等の人人の末の者ども国中に充満せり。故に梵釈四天等の法華経の座の誓状のごとく、頭破作七分の失にあてらるるなり。疑つて云く、法華経の行者をあだむ者は頭破作七分ととかれて候に、日蓮房をそしれども頭もわれぬは、日蓮房は法華経の行者にはあらざるかと、申すは道理なりとをぼへ候はいかん。答へて云く、日蓮を法華経の行者にてなしと申さば、法華経をなげすて(抛)よとかける法然等、無明の辺域としるせる弘法大師、理同事勝と宣たる善無畏、慈覚等が法華経の行者にてあるべきか。又頭破作七分と申す事はいかなる事ぞ。刀をもてきるやうにわる(破)るとしれるか。経文には「如阿梨樹枝」とこそとかれたれ。人の頭に七滴あり。七鬼神ありて一滴食へば頭をいたむ、三滴食へば寿絶えんとす。七滴皆食へば死するなり。今の世の人人は皆頭阿梨樹の枝のごとくにわれたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せばてをい(手負)たる人の或は酒にゑひ、或はね(寝)いりぬればをぼへざるが如し。又頭破作七分と申すは或は心破作七分と申して、頂の皮の底にある骨のひびたふ(響破)るなり。死ぬる時はわるる事もあり。今の世の人人は去る正嘉の大地震、文永の大彗星に皆頭われて候なり。其頭のわれし時せひぜひやみ(喘息)、五臓の損ぜし時あかき(赤痢)腹をやみしなり。これは法華経の行者をそしりしゆへにあたり(当)し罰とはしらずや。(是より已下録内二〇巻三十六紙光日鈔の末文二四〇余字を以て改めて此章の段落となす)されば鹿は味ある故に人に殺され、亀は油ある故に命を害せらる。女人はみめ(眉目)形よければ嫉む者多し。国を治むる者は佗国の恐れあり、財ある者は命危ふし。法華経を持つ者は必ず成仏し候。故に第六天の魔王と申す三界の主、此経を持つ人をば強ちに嫉み候なり。此魔王疫病の神の目にも見えずして人に付き候やうに、古酒に人の酔候如く、国主、父母、妻子に付て法華経の行者を嫉むべしと見えて候。少しも違はざるは当時の世にて候。日蓮は南無妙法蓮華経と唱ふる故に、二十余年所を追はれ二度まで御勘気を蒙り、最後には此山にこも(籠)る。此山の体たらくは、西は七面の山、東は天子のたけ(岳)、北は身延の山、南は鷹取の山。四の山高きこと天に付き、さがしきこと飛鳥もとびがたし。中に四の河あり。所謂富士河、早河、大白河、身延河なり。其中に一町ばかり間の候に庵室を結びて候。昼は日をみず夜は月を拝せず、冬は雪深く夏は草茂り、問ふ人希なれば道をふみ(踏)わくることかたし。殊に今年は雪深くして人問ふことなし。命を期として法華経計りをたのみ奉り候に、御音信ありがたく候。しらず釈迦仏の御使か、過去の父母の御使かと申すばかりなく候。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
(啓三〇ノ七〇。鈔一八ノ六。語三ノ五六。記下ノ二四。拾五ノ五三。扶一一ノ五二。)