祈祷鈔
本朝沙門 日蓮撰 問て云く 華厳宗・法相宗・三論宗・小乗の三宗・真言宗・天台宗の祈りをなさんに、いずれかしるしあるべきや。
答て云く 仏説なればいずれも一往は祈りとなるべし。但法華経をもていのらむ祈りは必ず祈りとなるべし。
問て云く 其の所以は以何。
答て云く 二乗は大地微塵劫を経て先四味の経を行ずとも成仏すべからず。法華経は須臾の間此れを聞いて仏になれり。若し爾らば、舎利弗・迦葉等の千二百・満二千、総じて一切の二乗界の仏は必ず法華経の行者の祈りをかなうべし。又行者の苦にもかわるべし。故に信解品に云く_世尊大恩 以希有事 憐愍教化 利益我等 無量億劫 誰能報者 手足供給 頭頂礼敬 一切供養 皆不能報 若以頂戴 両肩荷負 於恒沙劫 尽心恭敬 又以美膳 無量宝衣 及諸臥具 種種湯薬 午頭栴檀 及諸珍宝 以起塔廟 宝衣布地 如斯等事 以用供養 於恒沙劫 亦不能報〔世尊は大恩まします 希有の事を以て 憐愍教化して 我等を利益したもう 無量億劫にも 誰か能く報ずる者あらん 手足をもって供給し 頭頂をもって礼敬し 一切をもって供養すとも 皆報ずること能わじ 若しは以て頂戴し 両肩に荷負して 恒沙劫に於て 心を尽くして恭敬し 又美膳 無量の宝衣 及び諸の臥具 種々の湯薬を以てし 午頭栴檀 及び諸の珍宝 以て塔廟を起て 宝衣を地に布き 斯の如き等の事 以用て供養すること 恒沙劫に於てすとも 亦報ずること能わじ〕。
此の経文は四大声聞が譬諭品を聴聞して仏になるべき由を心得て、仏と法華経の恩の報じがたき事を説けり。されば二乗の御為には此の経を行ずる者をば、父母よりも愛子よりも両眼よりも身命よりも大事にこそおぼしめすらめ。舎利弗・目連等の諸大声聞は一代聖教いずれも讃歎せん行者をすておぼす事は有るべからずとは思えども、爾前の諸経はすこしうらみおぼす事も有らん。_於仏法中已如敗種〈於仏法中以如敗種〉なんどしたたかにいましめられ給いし故也。今の華光如来・名相如来・普明如来なんどならせ給いたる事はおもわざる外の幸なり。
例せば崑崙山のくずれて宝の山に入りたる心地してこそおわしぬらめ。されば領解の文に云く_無上宝珠<無上宝聚> 不求自得〔無上の宝珠 求めざるに自ら得たり〕等云云。
されば一切の二乗界、法華経の行者をまほり給わん事は疑いあるべからず。あやしの畜生なんども恩をば報ずることに候ぞかし。かりと申す鳥あり、必ず母の死なんとする時孝をなす。狐は塚を跡にせず。畜生すら猶お此の如し。況んや人類をや。
されば王寿と云いし者道を行きしに、うえつかれたりしに、路の辺に梅の樹あり。其の実多し、寿とりて食してうえやみぬ。我此の梅の実を食して気力をます。其の恩を報ぜずんばあるべからずと申して、衣をぬぎて梅に懸けてさりぬ。王尹と云いし者は道を行くに水に渇しぬ。河をすぐるに水を飲んで銭を河に入れて是れを水の直とす。龍は必ず袈裟を懸けたる僧を守る。仏より袈裟を給て龍宮城の愛子に懸けさせて金翅鳥の難をまぬがるる故也。金翅鳥は父母の孝養の者を守る。龍は須弥山を動かして金翅鳥の愛子を食す。金翅鳥は仏の教によて父母の孝養をなす者、僧のとるさんば(生飯)を須弥の頂におきて龍の難をまぬがるる故也。天は必ず戒を持ち善を修する者を守る。人間界に戒を持たず善を修する者なければ、人間界の人死して多く修羅道に生ず。修羅多勢なれば、おごりをなして必ず天をおかす。人間界に戒を持ち善を修する者多ければ、人死して必ず天に生ず。天多ければ修羅おそれをなして天をおかさず。故に戒を持ち善を修する者をば天必ず之を守る。何に況んや二乗は六凡より戒徳も勝れ智慧賢き人人なり。いかでか我が成仏を遂げたらん法華経を行ぜん人をば捨つべきや。又一切の菩薩竝びに凡夫は仏にならんがために、四十余年の経経を無量劫が間行ぜしかども、仏になる事なかりき。而るを法華経を行じて仏と成って今十方世界におわします。仏仏の三十二相八十種好をそなえさせ給いて九界の衆生にあおがれて、月を星の回るがごとく、須弥山を八山の回るが如く、日輪を四州の衆生の仰ぐが如く、輪王を万民の仰ぐが如く、仰がれさせ給うは法華経の恩徳にあらずや。
されば仏は法華経に戒めて云く_不須復安舎利〔復舎利を安ずることを須いず〕。涅槃経に云く_諸仏所師所謂法也。是故如来供養恭敬〔諸仏の師とする所は所謂法也。是の故に如来は供養恭敬す〕等云云。法華経には我が舎利を法華経に並ぶべからず。涅槃経には諸仏は法華経を恭敬供養すべしと説かせ給えり。仏此の法華経をさとりて仏に成り、しかも人に説き聞かせ給わずば仏種をたたせ給う失あり。此の故に釈迦如来は此の娑婆世界に出て説かんとせさせ給いしを、元品の無明と申す第六天の魔王が一切衆生の身に入って、仏をあだみて説かせまいらせじとせしなり。所謂波瑠璃王の五百人の釈子を殺し、鴦崛摩羅が仏を追い、提婆が大石を放ち、旃遮婆羅門女が鉢を腹にふせて仏の御子と云いし、婆羅門城には仏を入れ奉る者は五百両の金をひきき。されば道にはうばらをたて、井には糞を入れ、門にはさかむき(逆木)をひけり、食には毒を入れし、皆是れ仏をにくむ故に。華色比丘尼を殺し、目連は竹杖外道に殺され、迦留陀夷は馬糞に埋もれし、皆仏をあだみし故なり。
而れども仏さまざまの難をまぬかれて御年七十二歳、仏法を説き始められて四十二年と申せしに、中天竺王舎城の丑寅耆闍崛山と申す山にして、法華経を説き始められて八年まで説かせ給いて、東天竺倶尸那城跋提河の辺にして御年八十と申せし、二月十五日の夜半に御涅槃に入らせ給いき。而りといえども御悟りをば法華経とときおかせ給えば、此の経の文字は即ち釈迦如来の御魂也。一一の文字は仏の御魂なれば、此の経を行ぜん人をば釈迦如来我が御眼の如くまもり給うべし。人の身に影のそえるがごとくそわせ給うらん。いかでか祈りとならせ給わざるべき。一切の菩薩はまた始め華厳経より四十余年の間、仏にならんと願い給いしかどもかなわずして、法華経の方便品の略開三顕一の時、_求仏諸菩薩 大数有八万 又諸万億国 転輪聖王至 合掌以敬心 欲聞具足道〔仏を求むる諸の菩薩 大数八万あり 又諸の万億国の 転輪聖王の至れる 合掌し敬心を以て 具足の道を聞きたてまつらんと欲す〕と願いしが、広開三顕一を聞いて、菩薩聞是法 疑網皆已断<疑網皆已除>〔菩薩是の法を聞いて 疑網皆已に断ちぬ〕と説かせ給いぬ。其の後自界他方の菩薩雲の如く集まり、星の如く列なり給いき。文殊は海より無量の菩薩を具足し、又八十万億那由他の諸菩薩、又過八恒河沙の菩薩、地涌千界の菩薩、分別功徳品の六百八十万億那由他恒河沙の菩薩 又千倍の菩薩 復一世界の微塵数の菩薩 復三千大千世界の微塵数菩薩 復二千中国土の微塵数菩薩 復小千国土の微塵数菩薩 復四四天下微塵数菩薩 三四天下二四天下一四天下の微塵数菩薩 復八世界微塵数の衆生 薬王品の八万四千の菩薩 妙音品の八万四千の菩薩 復四万二千の天子 普門品の八万四千 陀羅尼品の六万八千人 妙荘厳王品の八万四千人 勧発品の恒河沙等の菩薩 三千大千世界微塵等の菩薩 此れ等の菩薩を委しく数えば、十方世界の微塵の如し。十方世界の草木の如し。十方世界の星の如し。十方世界の雨の如し。
此れ等は皆法華経にして仏にならせ給いて、此の三千大千世界の地上・地下・虚空の中にまします。迦葉尊者は鶏足山にあり、文殊は清涼山にあり、地蔵菩薩は迦羅陀山にあり、観音は補陀楽山にあり、弥勒菩薩は兜率天に、難陀等の無量の龍王、阿修羅王は海底海畔にあり。帝釈は・利天に、梵王は有頂天に、摩醯修羅は第六の他化天に四天王は須弥の腰に、日月衆星は我等が眼に見えて頂上を照らし給う。江神・河神・山神等も皆法華経の会上の諸尊也。
仏、法華経をとかせ給いて年数二千二百余年なり。人間こそ寿も短き故に、仏をも見奉り候人も侍らね。天上は日数は長く寿も長ければ、併〈しかしながら〉仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおわする也。人間の五十年は四王天の一日一夜なり。此の一日一夜をはじめとして三十日は一月、十二月は一年にして五百歳なり。されば人間の二千二百余年は四王天の四十四日也。されば日月竝びに毘沙門天王は仏におくれたてまつりて四十四日、いまだ二月にたらず。帝釈梵天なんどは仏におくれたてまつりて一月一時にもすぎず。わずかの間にいかでか仏前の御誓い、竝びに自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨てさせ給うべき、なんどおもいつらぬればたのもしき事なり。
されば法華経の行者の祈る祈りは、響きの音に応ずるがごとし。影の体にそえるがごとし。すめる水に月のうつるがごとし。方諸の水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀の塵をとるがごとし。あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし。世間の法には我がおもわざる事も、父母・主君・師匠・妻子・おろかならぬ友なんどの申す事は、恥ある者は意にはあわざれども、名利をもうしない、寿ともなる事も侍るぞかし。何に況んや我が心からおこりぬる事は、父母・主君・師匠なんどの制止を加うれどもなす事あり。
さればはんよき(范於期)と云いし賢人は我が頚を切ってだにこそ、けいか(荊軻)と申せし人には与えき。季札と申せし人は約束の剣を徐君が塚の上に懸けたりき。而るに霊山会上にして即身成仏せし龍女は、小乗経には五障の雲厚く三従のきずな強しと嫌われ、四十余年の諸大乗経には或は歴劫修行にたえずと捨てられ、或は初発心時便成正覚の言も有名無実なりしかば、女人成仏もゆるさざりしに、設い人間天上の女人なりとも成仏の道には望みなかりしに、龍畜下賎の身たるに、女人とだに生まれ、年さえいまだたけず、わずかに八歳なりき。かたがた思いもよらざりしに、文殊の教化によりて、海中にして法師・提婆の中間、わずかに宝塔品を説かれし時刻に、仏になりたりし事はありがたき事也。一代超過の法華経の御力にあらずばいかでかかくは候べき。
されば妙楽は行浅功深以顕経力〔行浅く功深きことを示して以て経力を顕はす〕とこそ書かせ給え。龍女は我が仏になれる経なれば仏の御諌めなくとも、いかでか法華経の行者を捨てさせ給うべき。されば自讃歎仏の偈には_我闡大乗教 度脱苦衆生〔我大乗の教を闡いて 苦の衆生を度脱せん〕等とこそすすませさせ給いしか。龍女の誓いは其の所従の_非口所宣。非心所測〔口の宣ぶる所に非ず、心の測る所に非ず〕の一切の龍畜の誓いなり。娑竭龍王は龍畜の身なれども、子を念う志し深かりしかば、大海第一の宝如意宝珠をむすめにとらせて、即身成仏の御布施にせさせつれ。此の珠は値三千大千世界にかうる珠なり。提婆達多は師子頬王には孫、釈迦如来には伯父たりし斛飯王の御子、阿難尊者の舎兄也。善聞長者の娘の腹なり。転輪聖王の御一門、南閻浮提には賎しからざる人也。在家にましましし時は、夫妻となるべきやすたら女を悉達太子に押し取られ、宿世の敵と思いしに、出家の後に人天大会の集まりたりし時、仏に汝は痴人唾を食える者とののしられし上、名聞利養深かりし人なれば仏の人にもてなされしをそねみて、我が身には五法を行じて仏より尊げになし、鉄をのして千輻輪につけ、蛍火を集めて白毫となし、六万法蔵・八万法蔵を胸に浮かべ、象頭山に戒場を立て多くの仏弟子をさそいとり、爪に毒を塗り仏の御足にぬらむと企て、蓮華比丘尼を打ち殺し、大石を放って仏の御指をあやまちぬ。具に三逆を犯し、結句は五天竺の悪人を集め、仏竝びに御弟子檀那等にあだをなす程に、頻婆沙羅王は仏の第一の御檀那也。一日に五百輌の車を送り、日日に仏竝びに御弟子を供養し奉りき。提婆そねむ心深くして阿闍世太子を語らいて、父を終に一尺の釘七つをもてはりつけになし奉りき。終に王舎城の北門の大地破れて阿鼻大城に堕ちにき。三千大千世界の人一人も是れを見ざる事なかりき。
されば大地微塵劫は過ぐるとも無間大城をば出づべからずところ思い候に、法華経にして天王如来とならせ給いけるにこそ不思議に尊けれ。提婆達多、仏になり給わば、語らわれし所の無量の悪人、一業所感なれば皆無間地獄の苦ははなれぬらん。是れ偏に法華経の恩徳也。されば提婆達多竝びに所従の無量の眷属は法華経の行者の室宅にこそ住ませ給うらめとたのもし。
諸の大地微塵の如くなる諸菩薩は等覚の位までせめて、元品の無明計りもちて侍るが、釈迦如来に値い奉りて元品の大石をわらんと思うに、教主釈尊四十余年が間は因分可説果分不可説と申して、妙覚の功徳を説き顕し給わず。されば妙覚の位に登る人一人もなかりき。本意なかりし事なり。
而るに霊山八年が間に唯一仏乗名為果分説き顕し給いしかば、諸の菩薩皆妙覚の位に上りて、釈迦如来と悟り等しく須弥山の頂に登って四方を見るが如く、長夜に日輪の出でたらんが如く、あかなくならせ給いたりしかば、仏の仰せ無くとも法華経を弘めじ、又行者に替わらじ、とはおぼしめすべからず。されば我不愛身命 但惜無上道〔我身命を愛せず 但無上道を惜む〕 不惜身命〔身命を惜まず〕 当広説此経〔当に広く此の経を説くべし〕とこそ誓い給いしか。
其の上慈父の釈迦仏・悲母の多宝仏・慈悲の父母等、同じく助証の十方の諸仏一座に列ならせ給いて、月と月とを集めたるが如く日と日とを並べたるが如くましましし時、告諸大衆 我滅度後 誰能護持 読誦斯経 今於仏前 自説誓言〔諸の大衆に告ぐ 我が滅度の後に 誰か能く 斯の経を護持し読誦せん 今仏前に於て 自ら誓言を説け〕と三度まで諌めさせ給いしに、八方四百万億那由他の国土に充満せさせ給いし諸大菩薩身を曲げ低頭合掌し、倶に同時に声をあげて、如世尊勅当具奉行〔世尊の勅の如く当に具さに奉行すべし〕と三度まで声を惜しまずよばわりしかば、いかでか法華経の行者にはかわらせ給わざるべき。
はんよき(范於期)と云いしものけいか(荊軻)に頭を取らせ、きさつ(季札)と云いしもの徐君が塚に刀をかけし、約束を違えじがためなり。此れ等は震旦辺土のえびすの如くなるものどもだにも、友の約束に命をも亡ぼし、身に代えて思う刀をも塚に懸けるぞかし。まして諸大菩薩は本より大悲代受苦の誓い深し。仏の御諌なしともいかでか法華経の行者を捨て給うべき。
其の上我が成仏の経たる上、仏慇懃に諌め給いしかば仏前の御誓い丁寧也。行者を助けたもう事疑うべからず。仏は人天の主、一切衆生の父母なり。而も開導の師也。父母なれども賎しき父母は主君の義をかねず。主君なれども父母ならざれば、おそろしき辺もあり。父母・主君なれども、師匠なる事はなし。諸仏は又世尊にてましませば主君にてはましませども、娑婆世界に出でさせ給わざれば師匠にあらず。又其中衆生 悉是吾子〔其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり〕とも名乗らせ給わず。釈迦仏独り主師親の三義をかね給えり。
しかれども四十余年の間は提婆達多を罵給い、諸の声聞をそしり、菩薩の果分の法門を惜しみ給いしかば、仏なれどもよりよりは天魔波旬ばしの我等をなやますかの疑い、人にはいわざれども心中には思いし也。此の心は四十余年より法華経の始まるまで失せず。
而るを霊山八年の間に宝塔虚空に現じ、二仏日月の如く竝び、諸仏大地に列なり大山をあつめたるごとく、地涌千界の菩薩が虚空に星の如く列なり給いて、諸仏の果分の功徳を吐き給いしかば、宝蔵をかたふけて貧人にあたうるが如く、崑崙山のくずれたるににたりき。諸人此の玉をのみ拾うが如く此の八箇年が間めずらしく貴き事心髄にもとおりしかば、諸菩薩身命も惜しまず言をはぐくまず誓いをなせし程に、嘱累品にして釈迦如来宝塔を出でさせ給いて、とびらを押したて給いしかば、諸仏は国国へ返り給いき。諸の菩薩等も諸仏に随い奉りて返らせ給いぬ。
ようやく心ぼそくなりし程に、卻後三月当般涅槃と唱えさせ給いし事こそ心ぼそく耳おどろかしかりしかば、二乗人天等ことごとく法華経を聴聞して仏の恩徳心肝にそみて、身命をも法華経の御ために投げて、仏に見せまいらせんと思いしに、仏の仰せの如く若し涅槃せさせ給わばいかにあさましからんと胸さわぎしてありし程に、仏の御年満八十と申せし二月十五日の寅卯の時、東天竺舎衛国倶尸那城跋提河の辺にして仏御入滅なるべき由の御音、上は有頂、横には三千大千世界までひびきたりしこそ目もくれ心もきえはてぬれ。五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国等の衆生、一人も衣食を調えず、上下をきらわず、牛馬狗狼・鷲蚊虻等の五十二類の一類の数大地微塵をもつくしぬべし。況んや五十二類をや。此の類皆華光衣食をそなえて最後の供養とあてがいき。一切衆生の宝の橋おれんとす。一切衆生の眼ぬけんとす。一切衆生の父母・主君・師匠死なんとす。なんど申すこえひびきしかば、身の毛のいよ立つのみならず涙を流す。なんだをながすのみならず、頭をたたき胸をおさえ音も惜しまず叫びしかば、血の涙血のあせ倶尸那城に大雨よりもしげくふり、大河よりも多く流れたりき。是れ偏に法華経にして仏になりしかば、仏の恩の報じがたき故なり。
かかるなげきの庭にても、法華経の敵をば舌をきるべきよし、座につらなりし人々ののしり侍りき。迦葉童子菩薩は法華経の敵の国には霜雹となるべしと誓い給いき。爾の時仏は臥よりおきてよろこばせ給いて、善哉善哉と讃め給いき。諸菩薩は仏の御心を推して法華経の敵をうたんと申さば、しばらくもい(生)き給いなんと思いて一一の誓いはなせしなり。
されば諸菩薩・諸天人等は法華経の敵の出来せよかし、仏前の御誓いはたして、釈迦尊竝びに多宝仏・諸仏如来にも、げに仏前にして誓いしが如く、法華経の御ためには名をも身命をも惜しまざりけりと思われまいらせんとこそおぼすらめ。いかに申す事はおそきやらん。
大地はささばはずるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなわぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一つも来たりてまもり給わぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなずり奉り、下は九界をたぼらかす失あり。行者は必ず不実なりとも智慧はおろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護したもうべし。袋きたなしとて金を捨つる事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌わば蓮を取るべからず。行者を嫌い給わば誓いを破り給いなん。正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し、智者は麟角よりも希ならん。月を待つまでは燈を憑むべし。宝珠のなき処には、金銀も宝なり。とくとく利生をさずけ給えと強盛に申すならば、いかでか祈りのかなわざるべき。
問て云く 上にかかせ給う道理文証を拝見するに、まことに日月の天におわしますならば、大地に草木のおうるならば、昼夜の国土にあるならば、大地だにも反覆せずば、大海のしおだにもみちひるならば、法華経を信ぜん人現世のいのり後生の善処は疑いなかるべし。然りと雖も、此の二十余年が間の天台・真言等の名匠、多く大事のいのりをなすに、はかばかしくいみじきいのりありともみえず。尚お外典の者どもよりも、つたなきようにうちおぼえて見ゆるなり。おそらくは経文のそらごとなるか、行者のおこないのおろかなるか、時機のかなわざるかと、うたがわれて後生もいかんとおぼう。それはさておきぬ。
御房は山僧の御弟子とうけ給わる。父の罪は子にかかり、師の罪は弟子にかかるとうけ給わる。叡山の僧徒の薗城山門の堂塔・経巻数千万をやきはらわせ給うが、ことにおそろしく、世間の人人もさわぎうとみあえるはいかに。前にも少少うけ給わり候ぬれども、今度くわしくききひらき候わん。但し不審なることは、かかる悪僧どもなれば、三宝の御意にもかなわず、天地にもうけられ給わずして、祈りも叶わざるやらんとおぼえ候はいかに。
答て云く せんぜんも少少申しぬれども、今度又あらあら申すべし。日本国においては此の事大切なり。これをしらざる故に多くの人、口に罪業をつくる。
先ず山門はじまりし事は此の国に仏法渡って二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給いしなり。当時の京都は昔聖徳太子王気ありと相し給いしかども、天台宗の渡らん時を待ち給いし間都をたて給わず。又上宮太子の記に云く ̄我滅後二百余年仏法日本可弘〔我が滅後二百余年に仏法日本に弘まるべし〕云云。伝教大師延暦年中に叡山を立て給う。桓武天皇は平の京都をたて給いき。太子の記文たがわざる故なり。されば山門と王家とは松と栢とのごとし、蘭と芝とににたり。松苅るればかならず栢かれ、らんしぼめばまたしばしぼむ。王法の栄えは山の悦び、王位の衰えは山の嘆きと見えしに、既に世関東に移りし事なにとか思し食しけん。
秘法四十一人の行者。承久三年辛巳四月十九日京夷辞し時、関東調伏の為隠岐の法皇の宣旨に依って始めて行われし御修法十五檀之秘法
一字金輪法[天台座主慈円僧正。伴僧十二口。関白殿基通の御沙汰]
四天王法[成興寺の宮僧正。伴僧八口。広瀬殿に於いて修明門院の御沙汰]
不動明王法[成宝僧正。伴僧八口。花山院禅門の御沙汰]
大威徳法[観厳僧正。伴僧八口。七條院の御沙汰]
転輪聖王法[成賢僧正。伴僧八口。同院の御沙汰]
十壇大威徳法[伴僧六口。覚朝僧正。俊性法印。永信法印。豪円法印。猷円僧都。慈賢僧正。賢乗僧都。仙尊僧都。寛覚法眼。以上十人大旨本坊に於いて之を修す]
如意輪法[妙高院僧正。伴僧八口。宣秋門院の御沙汰]
毘沙門法[常住院僧正。三井。伴僧六口。資賃の御沙汰]
御本尊一日之を造られ、調伏の行儀は
如法愛染王法[仁和寺御室の行法五月三日之を始め、紫宸殿に於いて二七日之を修される。]
仏眼法[大政僧正。三七日之を修す]
六字法[怪雅僧都]
愛染王法[観厳僧正。七日之を修す]
不動法[勧修寺の僧正。伴僧八口。皆僧綱]
大威徳法[安芸僧正]
金剛童子法[同人]
以上十五壇法了んぬ。五月十五日伊賀太郎判官光季京にして討たる。同十九日鎌倉に聞こえ、同二十一日大勢軍兵上ると聞こえしかば、残る所の法六月八日之を行い始めらる。
尊星王法[覚朝僧正]
太元法[蔵有僧都]
五壇法[大政僧正。永信法印・全尊僧都。猷円僧都。行遍僧都]
守護経法[御室之を行なわる。我が朝二度之を行う]
五月二十一日武蔵の守殿海道より上洛し、甲斐源氏は山道を上る、式部殿は北陸道を上り給う。六月五日大津をかたむる手、甲斐源氏に破られ畢んぬ。七月十一日に本院は隠岐の国へ流され給い、中院は阿波の国へ流され給い、第三院は佐渡の国へ流され給う。殿上人七人誅殺され畢んぬ。
かかる大悪法、年を経て漸漸に関東に落ち下りて、諸堂の別当供僧となり連連と之を行う。本より教法の邪正勝劣をば知食さず。只三宝をばあがむべき事とばかりおぼしめす故に、自然として是れを用いきたれり。関東の国国のみならず、叡山・東寺・薗城寺の座主・別当、皆関東の御計らいと成りぬる故に、彼の法の檀那と成りぬるなり。
問て云く 真言の教を強ちに邪教と云う心如何。
答て云く 弘法大師云く 第一大日経・第二華厳経・第三法華経と能く能く此の次第を案ずべし。仏は何なる経にか此の三部の経の勝劣を説き判じ給えるや。もし第一大日経・第二華厳経・第三法華経と説き給える経あるならば尤も然るべし。其の義なくんば甚だ以って依用し難し。法華経に云く_薬王今告汝我所説諸経 而於此経中 法華最第一〔薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり〕等云云。仏正しく諸経を挙げて其の中に於いて法華第一と説き給う。仏の説法と弘法大師の筆とは水火の相違なり。尋ね究むべき事也。
此の筆を数百年が間、凡僧・高僧是れを学し、貴賎・上下是れを信じて、大日経は一切経の中に第一とあがめける事、仏意に叶わず。心あらん人は能く能く思い定むべきなり。若し仏意に相叶わぬ筆ならば、信ずとも豈に成仏すべきや。又是れを以って国土を祈らんに、当に不祥を起こさざる哉。
又云く ̄震旦人師等諍盗醍醐〔震旦の人師等諍って醍醐を盗んで〕云云。文の意は天台大師等真言教の醍醐を盗んで法華経の醍醐と名づけ給える事は、此の筆最第一の勝事也。法華経を醍醐と名づけ給える事は、天台大師涅槃経の文を勘えて、一切経の中には法華経を醍醐と名づくと判じ給えり。真言教の天竺より唐土へ渡る事は、天台出世の以後二百余年也。
されば二百余年の後に渡るべき真言の醍醐と盗みて、法華経の醍醐と名づけ給いけるか。此の事不審也、不審也。真言未だ渡る以前の二百余年の人人を盗人とかき給える事、証拠何れぞや。弘法大師の筆をや信ずべき。涅槃経に法華経を醍醐と説けるをや信ずべき。若し天台大師盗人ならば、涅槃経の文をば云何がこころうべき。さては涅槃経の文真実にして、弘法の筆邪義ならば、邪義の教を信ぜん人人は云何。只弘法大師の筆と仏の説法と勘え合わせて、正義を信じ侍るべしと申す計りなり。
疑て云く 大日経は大日如来の説法なり。若し爾らば釈尊の説法を以って大日如来の教法を打たる事、都て道理に相叶わず如何。
答て云く 大日如来は何なる人を父母として、何なる国に出でて、大日経を説き給いけるやらん。若し父母なくして出世し給うならば、釈尊入滅以後、慈尊出世以前、五十六億七千万歳が中間に、仏出でて説法すべしと云う事、何なる経文ぞや。若し証拠なくんば誰人か信ずべきや。かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり。其の迷謬尽くしがたし。纔か一二を出だすなり。加之竝びに禅宗・念仏等を是れを用いる。此れ等の法は皆未顕真実の権教、不成仏の法、無間地獄の業なり。彼の行人又謗法の者なり。争でか御祈祷叶うべきや。
然るに国主と成り給う事は過去に正法を持ち、仏に仕うるに依って、大小の王皆梵王・帝釈・日月・四天等の御計らいとして、郡郷を領し給えり。所謂経に云く_我今五眼明見三世 一切国王皆由過去世侍五百仏得為帝王主〔我今五眼もて明らかに三世を見るに 一切の国王皆過去世に五百の仏に侍するに由って帝王主と為ることを得たり〕等云云。
然るに法華経を背きて、真言・禅・念仏等の邪師に付いて、諸の善根を修せらるるとも、敢えて仏意に叶わず、神慮にも違する者なり。能く能く案あるべきなり。人間に生を得る事は都て希なり。適たま生を受けて、法の邪正を極めて、未来の成仏を期せざらん事、返す返す本意に非ざる者なり。又慈覚大師御入唐以後、本師伝教大師に背かせ給いて、叡山に真言を弘めんが為に御祈請ありしに、日を射るに日輪動転すと云う夢想を御覧じて、四百余年の間諸人是れを吉夢と思えり。日本国は殊に忌むべき夢なり。殷の紂王日輪を的にして射るに依って身亡びたり。此の御夢想は権化の事なりとも能く能く思惟あるべき歟。仍って九牛の一毛註する所件の如し。