異体同心事(報太田氏書)

文永十一(1274.08・06)


異体同心事(太田第二書)(報太田氏書)
     文永十一年八月。五十三歳作
     内三九ノ三五。遺一六ノ二八。縮一〇五四。類八一三。 白小袖一、あつわたの小袖はわき(伯耆)房のびんぎに鵞目一貫並にうけ給る、はわき房さど(佐渡)房等の事あつわら(熱原)の者どもの御心ざし、異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶事なしと申事は外典三千余巻に定りて候。殷の紂王は七十万騎なれども同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は八百人なれども異体同心なればかちぬ。一人の心なれども二の心あれば、其心たがいて成ずる事なし。百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず。日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多の火あつまれども一水にはきへぬ。此一門も又かくのごとし。其上貴辺は多年としつもりて奉公法華経にあつくをはする上、今度はいかにもすぐれて御心ざし見えさせ給よし人人も申候。又かれらも申候。一一に承りて日天にも大神にも申上て候ぞ。御文はいそぎ御返事申べく候ひつれども、たしかなるびんぎ候はでいままで申候はず。べんあさり(弁阿闍梨)がびんぎ、あまりそうそうにてかきあへず候き。さては各各としのころいかんがとをぼしつる。もうこ(蒙古)の事すでにちかづきて候か。我国のほろびん事はあさましけれども、これだにもそら事になるならば、日本国の人人いよいよ法華経を謗じて万人無間地獄に堕べし。かれだにもつよる(強)ならば国はほろぶ(亡)とも謗法はうすくなりなん。譬へば灸治をしてやまいをいやし、針治にて人をなをすがごとし。当時はなげくとも後は悦びなり。日蓮は法華経の御使、日本国の人人は大族王の一閻浮提の仏法を失しがごとし。蒙古国は雪山の下王のごとし。天の御使として法華経の行者をあだむ人人を罰せらるるか。又現身に改悔ををこしてあるならば、阿闍世王の仏に帰して白癩をやめ(治)四十年の寿をのべ、無根の信と申位にのぼりて、現身に無生忍をえたりしがごとし。恐恐謹言。
 八月六日                     日蓮花押
(啓三六ノ一〇〇。鈔二五ノ七五。語五ノ三八。拾八ノ三七。扶一五ノ四九。)