法華宗内証仏法血脈

文永十(1273.02・15)


法華宗内証仏法血脈(原文漢文)
     文永十年二月。五十二歳著。
     外一八ノ一〇。遺一四ノ二三。縮九一七。類二九四。 夫れ妙法蓮華経宗とは、久遠実成三身即一の釈迦大牟尼尊、常寂光土、霊山浄土唯一教主の所立なり。所謂妙法蓮華経第七に「仏説言諸経中王」已上経文。霊山の聴衆たる天台大師の云く「今経則ち諸経の法王と成る、最も為第一なり」文。妙楽大師の云く「法華の外に勝法なし、故に云く、法華は無上の法王なり」と。伝教大師の云く「仏の諸法の王たるが如く、此経も亦復是の如し、諸経の中の王なり」已上経文と。当に知るべし、仏は無上の法王なり、法華は無上の妙典なり。明かに知んぬ、他宗の所依の経は諸王所喩の経なることを。天台法華宗の所依の経は王中の王の所喩の経なり、他宗には都て此の十喩なし、唯だ法華のみ此の十喩あり。若し他宗の経に此の十喩ありと雖も当分、跨節を分別すべきのみ。釈尊の宗を立つる法華を極と為す。本法の故に時を待ち機を待つ。論師の宗を立つる、自見を極と為す、随宜の故に」文。又或処に云く「当に知るべし、他宗は権教、権宗、当分の宗なり。天台法華宗は実教、実宗、跨節の宗なり。天台法華宗の諸宗に勝るゝことは所依の経に依るが故なり。自讃毀他にあらず、庶くは有智の君子、経を尋ねて宗を定めよ」已上取意。若し法華宗の外に宗ありと言はゞ、国に二主あり一世界に二仏出世の道理あらん。若し爾らざれば法華実宗の外に、全く権教方便の権宗あるべからざる者なり。当に知るべし、今の法華宗とは諸経中王の文に依つて、之を建立す。仏立宗とは釈迦独尊の所立の宗なる故なり。妙法蓮華経結要付属血脈相承の譜。
 久遠実成大覚世尊常寂光土霊山会上多宝塔中三身即一の釈迦牟尼如来。
 謹んで法華経の神力、属累の両品を案ずるに、云く「為属累故説此経功徳猶不能尽、以要言之、如来一切所有之法、如来一切自在神力、如来一切秘要之蔵、如来一切甚深之事、皆於此経宣示顕説、已上結要五字也。是故汝等於如来滅後応当一心受持読誦、〇所以者何当知是処即是道場、諸仏於此得〇三菩提、諸仏於此転於法輪、諸仏於此而般涅槃」文。属累品に云く「今以付属汝等汝等応当一心流布此法広令増益、如是三摩、諸菩薩摩訶薩頂〇令一切衆生普得聞知」文。又云く「説是語時、十方無量分身諸仏、皆大歓喜」已上経文。両品の文分明なり。妙法五字を以て上行菩薩に付属し給ふと云ふ事。
 問ふ、何れの土に於て、誰人を証人と為して、上行等の本眷属に於て妙法の五字を付属するや。答ふ、寂光土に於て、多宝仏と十方分身の諸仏とを上首と為して、自界他方の一切諸仏、菩薩、声聞、縁覚、釈梵、諸王、人天等を証拠と為して、これを付属し給ふなり。問ふ、証人は経文分明なり。寂光土とは証拠如何。答へて云く、妙楽大師の疏記の五に云く「今日の前には寂光の本より三土の迹を垂る、法華の会に至つて三土の迹を摂して寂光の本に帰す」文。難じて云く、霊山は娑婆世界なり、何ぞ寂光と云ふや。答へて云く、釈に云く「豈に伽耶を離れて別に常寂を求めんや、寂光の外に別に娑婆あるに非ず」文。但し正しき証文は経論分明なり、所謂法華の寿量品と結経の普賢経と法華論と
等なり。而るに日蓮一人之を感得するに非ず、天台、妙楽等此等の経論の文を引いて、常寂光土を釈成し給ふなり。就中、本朝第一日本国の天台法華宗の高祖伝教大師の釈の内証仏法血脈に云く「天台法華宗相承師師血脈譜一首。常寂光土第一義諦霊山浄土久遠実成多宝塔中大牟尼尊。謹んで観普賢経を案ずるに云く「時空中声則説是語、釈迦牟尼仏名毘盧遮那遍一切処、其仏住処名常寂光」。又法華論を案ずるに云く「我浄土不毀而衆見焼尽とは報仏如来真実の浄土は第一義諦の所摂なるが故に」。又法華経の如来寿量品を案ずるに云く「然我実成仏已来久遠若斯」。又云く「於阿僧祇劫常在霊鷲山」。又法華論を案ずるに云く「八には同一塔坐とは化仏、非化仏、法仏、報仏等を示現するは、皆大事を成ぜんが為の故なり」(已上文)。
 謹んで此等の文意を案ずるに、釈迦如来霊山事相の常寂光土に於て、本眷属上行等の菩薩を召し出して、付属の弟子と定め、宝塔の中の多宝如来の前に我が十方分身の諸仏を集め、上の証人と為て結要の五字を以てこれを付属す。三世の諸仏これを諍ふべからず。何に況や菩薩、二乗、人、天等をや。問ふ、本眷属地涌の大士親しく霊山寂光土に於て結要の付属を受けて、末代弘経の時、何れの土に於て付属を宣ぶるや。答ふ、付属の法は即ち妙法なれば付属の土も又寂光土なり。爰に知んぬ、末法の弘経妙法の者の其の土豈に寂光ならざらんや。神力品に末法弘経の国土の相を説いて「園中樹下(乃至)山谷昿野」等を挙げ畢つて「当知是処即是道場、諸仏於此得阿耨多羅三藐三菩提、諸仏於此転於法輪、諸仏於此而般涅槃」文。即是道場とは常寂光土の宝処なり。得三菩提とは諸仏成正覚の処なり。転於法輪とは諸仏不退の説法の処。而般涅槃とは諸仏不生不滅の理を顕す処なり。是れ則ち内証外用事理の寂光を説くなり。故に知んぬ、末法今の時法華経所坐の処、行者所住の処、道俗男女、貴賎上下所住の処、併ながら皆是れ寂光なり。所居既に浄土なり。能居の人豈に仏に非ずや。法妙なる故に人貴し、人貴き故に処尊しとは此の意なり。
 本眷属上行等の地涌の菩薩。
 謹んで法華経の意を案ずるに云く「迹化の衆は末法の弘経に堪へざれば、結要の付属を授けざるなり。所以は何ん、迹化は三類の強敵を忍ぶこと能はざる故なり。本眷属に之を付属し給ふ事は能く此の土に堪へ、能く三類の強敵を忍ぶ故に、教主釈尊三たび上行等の菩薩の頂を摩でて、結要を以て之を付属し給ふなり」。
 問ふ、何を以てか迹化の弟子、此の土の弘経に堪へずと云ふ事を知ることを得ん。答ふ、迹化の菩薩等は本化の衆に対すれば、未断惑なるが故なり。難じて云く、今迹化の菩薩とは、華厳、方等、般若、法華迹門の坐席に列なる所の住、行、向、地、等覚の大菩薩なり。本門寿量の説を聞いて長遠果地の実益を得べき大菩薩なり。地涌の菩薩仮使位高しと雖も、等覚無垢に過ぐべからず。何ぞ迹化を本化に対して未断惑の菩薩と言ふや。答ふ、華厳、方等、般若得道の菩薩、其の位、地、住已上、乃至等覚に居すと雖も、爾前方便の円果なるが故に法華迹門の円果に対すれば、未顕真実の権果なり、故に実の断惑の果に非ず。故に伝教大師の釈に云く「円教の即是の菩薩等は、是れ直道なりと雖も大
直道ならず。今是の一の法門は既に先説に異なり、故に下の経文に四十余年未顕真実と云ふ」文。又云く「平等の直道は権の一乗を捨つ。是の故に説いて四十余年未顕真実と云ふなり」文。四味三教の席に於ては極果の菩薩と雖も、迹門の円に対すれば当分方便の権果にして実道の益に非ず、何に況や本門の円に対する時は、一毫未断惑の凡夫なり。問ふ、爾前迹門の菩薩を本門に対して、未断惑の菩薩なりと言ふ証拠如何。答ふ、経文既に迹化の補処、本化の衆を見るに不識一人と云ふ。若し同位等行の菩薩ならば、何ぞ不識一人と云はんや。地涌は已に破無明の菩薩其の数無量無辺なり。其の中に一人をも識らずとは迹化は未断惑なるが故なり。迹化補処の智力未断惑の位なる故に、尚之を知らず、何に況や爾前頓大の菩薩等をや。但し爾前迹門の菩薩を本門の本眷属に対して、未断惑の菩薩と云ふ事日蓮一人の言にあらず、霊山の聴衆、天台、妙楽等の釈分明なり。所謂涌出品の「五十小劫仏神力故、令諸大衆謂如半日」の文を釈して云く「解る者は、短に即して而も長なれば五十小劫と見る、惑へる者は、長に即して而も短なれば半日の如しと謂ふ」云云。妙楽大師之を受けて、釈して云く「菩薩已に無明を破る。之を称して解と為す、大衆は仍賢位に居せり、之を名けて惑と為す」云云。此等の文証分明なり、故に知んぬ、迹化の衆此の土の弘経に堪へざる事は未断惑の故なり。未断惑なる故に能く三類の敵を忍ばず。此れを以ての故に仏本眷属已断惑の菩薩を召出し、多宝分身の諸仏の前に於て妙法の五字を付属し給ふなり。
 大師天竺、須梨耶蘇摩。
 謹んで翻経の記を案ずるに云く「大師須梨耶蘇摩、左の手に法華経を持ち、右の手に鳩摩羅什の頂を摩でゝ、三蔵に授与して云く、仏日西に入りて遺耀将に東北に及ばんとす、此の典は東北の諸国に縁あり、汝謹んで之れを伝弘せよ」と云云。又開元釈教の録を案ずるに云く「什公又須梨耶蘇摩に従つて大乗を諮稟すと。以て知んぬ、羅什天竺の蘇摩に帰託して師と為すことを」云云。
 羅什三蔵。
 謹んで開元釈教の録を案ずるに云く「沙門鳩摩羅什妙法蓮華経を訳し、此に至つて乃ち言く、此の語は梵本と義同じ、若し伝ふる所謬りなくんば、身を焚くの後に舌焦爛せざらしめん」と。秦の弘始年中を以て卒す。即ち逍遥園に於て外国の法に依つて尸を焚く、薪滅して形化するも唯舌のみ変ぜず、弘法の徴ありと。
 問ふ、此の二師を列ぬる事は結要付属の師資の故か。答ふ、天竺の妙法蓮華経を東土に将来せし訳者なる故に之を列ねたるのみ。
 妙法蓮華経一部八巻。
 謹んで開元釈教の録を案ずるに云く「什の所訳、妙法蓮華経八巻」云云。
 末法法華一乗の行者、法華宗の沙門日蓮。
 謹んで法華経の法師品を案ずるに云く「当知此人是大菩薩成就阿耨多羅三藐三菩提、哀愍衆生願生此間広演分別妙法華経」文。又云く「於我滅度後愍衆生故、生於悪世広演此経」文。又云く「而此経者如来現在猶多怨嫉」文。又云く「我滅度後能窃為一人、説法華経乃至一句、当知是人則如来使、如来所遣行於如来事、何況於大衆中広為人説」文。問ふ、血脈相承とは仏法の流水、断絶せざるの名にして三世常恒なり。而るに今列ぬる所の次第の如きは、中絶これ多し如何。答ふ、今列ぬる所の血脈相承の次第とは、内証の次第を列ぬ、何ぞ難を致すや。内証を以て本とする事は当家に限らず、他家にも例あり。謂ゆる天台、禅宗、浄土宗等の師資相承も必ず所難の如くならず、皆悉く内証を以て本と為すなり。先づ天台宗相承の中絶をいはゞ、此の宗龍樹を高祖と為すなり。而るに龍樹と慧文と其の中間断絶して人なし。所以に天台相承の血脈に云く「今天台承くる所第十三龍樹よりを高祖と為す。由は龍樹は無畏、中観論を造る。高斉の沙門慧文禅師は中観論に依つて得道し南岳の思禅師に授く、南岳は天台智者に伝ふ」と云云。同書の註に云く「師久く大乗の法要を思ふに、師となるに人なし、乃ち大経蔵の前に於て、発願して云く、若し抽きて経を得ば仏を礼して師と為ん、抽きて論を得ば菩薩を礼して師と為さん」と。故さらに焼香背手し、大経蔵の中に於て抽きて中観論を得たり。是れ龍樹の造る所、読んで因縁所生法即空即仮即中の文に至り、此れに因て悟道す。故に龍樹を禀けて始祖と為すなり。此の文は龍樹と慧文と其の中間人なしと雖も、中論の因縁所生法等の文に依て龍樹を高祖となすなり。今日蓮が相承も亦復是の如し。法華経の「能窃為一人説法華経乃至一句当知是人則如来使」等の文に依て釈迦如来を本師と為し、結要の付属を勘へ上行菩薩の流れを汲んで、師資相承の血脈を列ぬるなり。問ふ、法華宗の名言これ同じ、何ぞ天台を高祖と為ざるや。答ふ、今外相は天台宗に依るが故に天台を高祖と為し、内証は独り法華経に依るが故に釈尊、上行菩薩を直師とするなり。難じて云く、汝偏執なり。答へて云く、日蓮一人に限らず、天台大師も外相は慧文、南岳に依ると雖も内証は道場所証の妙悟に依て釈迦を本師とするなり。所謂禀承南岳証不由他の釈是なり。天台相承の血脈に云く「智者兼て法華三昧旋陀羅尼を用ひて、一家教観の戸を開拓して偏に他に同ぜず。已に永平第九に至りて荊溪の記主なり、今備に祖図を列ぬることは、伝ふる所が自ら金口なることを顕さん為の故に、一家の祖龍樹を示さんとする者なり。又天台大師の玄義の序に云く「曽て講を聴かずして自ら仏乗を解す」と。又云く「玄く法華の円意を悟る」云云。又天台内証仏法の血脈相承の義記に云く「内証仏法の伝は天台大師大蘇山普賢道場に於て、三昧開発の時霊山一会儼然として未だ散ぜず、時に釈尊より天台に面授口決し給ふ」云云。天台内証仏法の血脈に云く「古僧来つて四教を授く」と云云。同義記に云く「古僧とは霊山の釈迦なり」云云。日蓮が相承も是の如く法華経に依つて開悟し、法華宗の血脈を列ぬるなり。次に禅宗血脈相承の断絶をいはゞ師子尊者よりなり云云。次に浄土宗血脈の断絶は、無畏論に云く「善導経蔵に入り目を閉ぢ手に任せて、これを取るに浄土の三部経を得たり、其れより已来阿弥陀を高祖と為す。阿弥陀の垂迹は善導なり」と云ふなり。此の外諸宗の相承一一皆中絶す、委しくこれを記せず。故に知んぬ、諸宗皆内証を以て師資相承の血脈を建立す。今当家の相承、大旨は天台の相承に附順すべしと雖も、内証真実を以て釈尊、上行菩薩を高祖と為し奉るのみ。
  文永十年二月十五日             法華宗比丘 日蓮撰
(微下ノ一六。考六ノ四二。)