法華取要抄
扶桑沙門 日蓮 述之
夫れ以みれば、月氏西天より漢土・日本に渡来する所の経論五千七千余巻なり。其の中の諸経論の勝劣浅深・難易先後、自見に任せて之を弁ふことは其の分に及ばず。人に随ひ宗に依て之を知らんとすれば其の義紛糾す。
所謂華厳宗の云く 一切経の中に此の経第一、と。法相宗の云く 一切経の中に深密経第一、と。三論宗の云く 一切経の中に般若経第一、と。真言宗の云く 一切経の中に大日の三部経第一、と。禅宗の云く 或は云く 教内には楞伽経第一、と。或は云く 首楞厳経第一、と。或は云く 教外別伝の宗也。浄土宗の云く 一切経の中に浄土の三部経、末法に入ては機教相応して第一、と。倶舎宗・成実宗・律宗の云く 四阿含竝びに律論は仏説也。華厳経・法華経等は仏説に非ず、外道の経也。或は云く 或は云く。
而るに彼々の宗々の元祖等、杜順・智儼・澄観・玄奘・慈恩・嘉祥・道朗・善無畏・金剛智・不空・道宣・鑒真・曇鸞・道綽・善導・達磨・慧賀等なり。此れ等の三蔵大師等は、皆聖人也、賢人也。智は日月に斉しく、徳は四海に弥〈はびこ〉る。其の上各々に経律論に依り更に互いに証拠有り。随て王臣、国を傾け、土民之を仰ぐ。末世の偏学、設ひ是非を加ふとも、人、信用するに至らず。爾りと雖も宝山に来り登りて瓦石を採取し、栴檀に歩み入て伊蘭を懐き収めずば、恨悔有らん。故に万民の謗りすて、猥りに取捨を加ふ。我が門弟、委細に之を尋討せよ。
夫れ、諸宗の人師等、或は旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず、或は新訳の経論を見て旧訳を捨て置き、或は自宗の曲に執著して己義に随ひ、愚見を註し止めて後代に加添し、株・に驚き騒ぎ、兎獣を尋ね求め、智、円扇に発して仰ひで天月を見る。非を捨てて理を取るは智人也。今末の論師・本の人師の邪義を捨て置きて、専ら本経本論を引き見るに、五十余年の諸経の中、法華経第四の法師品の中の已今当の三字最も第一也。諸の論師・諸の人師定めて此の経文を見けるか。然りと雖も、或は相似の経文に狂ひ、或は本師の邪会に執し、或は王臣等の帰依を恐るるか。
所謂、金光明経の是諸経之王。密厳経の一切経中勝。六波羅蜜経の總持第一。大日経の云何菩提。華厳経の能信是経最為難。般若経の会入法性不見一事。大智度論の般若波羅蜜最第一。涅槃論の今日涅槃理等也。此れ等の諸文は法華経の已今当の三字に相似せる文也。然りと雖も或は梵帝・四天等の諸経に対当すれば是れ諸経之王なり。或は小乗経に相対すれば諸経の中の王なり。或は華厳・勝鬘等の経に相対すれば一切経の中の勝なり。全く五十余年の大小権実顕密の諸経に相対して是れ諸経之王之大王なるには非ず。所詮、所対を見て経々の勝劣を弁ふべき也。強敵を臥伏するに始めて大力を知見する、是れ也。其の上諸経の勝劣は釈尊一仏の浅深也。全く多宝分身の助言を加ふるに非ず。私説を以て公事に混ずること勿れ。諸経は、或は二乗凡夫に対揚して小乗経を演説し、或は文殊・解脱月・金剛薩・等の弘伝の菩薩に対向して、全く地涌千界の上行等には非ず。
今法華経と諸経とを相対するに一代に超過すること二十種之有り。其の中に最要、二有り。所謂三五の二法也。三とは三千塵点劫なり。諸経は或は釈尊の因位を明かすこと、或は三祇、或は動喩塵劫、或は無量劫也。梵王の云く 此土には二十九劫より已来知行の主なり。第六天・帝釈四天王等も以て是の如し。釈尊と梵王等と始めて知行の先後、之を諍論す。爾りと雖も一指を挙げて之を降伏してより已来、梵天頭を傾け、魔王掌を合わせ三界の衆生をして釈尊に帰伏せしむる、是れ也。又諸仏の因位と釈尊の因位とは之を糾明するに、諸仏の因位は、或は三祇、或は五劫等なり。釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来、娑婆世界の一切衆生の結縁の大士也。此の世界の六道の一切衆生は、他土の他の菩薩に有縁の者一人も之無し。法華経に云く_爾時聞法者 各在諸仏所〔爾の時の聞法の者 各諸仏の所にあり〕等云云。天台云く ̄西方仏別縁異。故子父義不成〔西方は仏別に縁異なり。故に子父の義成ぜず〕等云云。妙楽云く ̄弥陀・釈迦二仏既殊。○況宿昔縁別化道不同。結縁如生成熟如養。生養縁異父子不成〔弥陀・釈迦二仏既に殊なる。○況んや宿昔の縁別にして化道同じからざるをや。結縁は生の如く、成熟は養の如し。生養、縁異なれば父子成ぜず〕等云云。当世日本国の一切衆生の弥陀の来迎を待つは、譬へば牛の子に馬の乳を含め、瓦の鏡に天月を浮かぶるが如し。
又果位を以て之を論ずれば 諸仏如来、或は十劫・百劫・千劫已来の過去の仏也。教主釈尊は既に五百塵点劫より已来、妙覚果満の仏なり。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶ、是れ也。華厳経の十方臺上の・盧遮那、大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の左右の脇士也。例せば世の王の両臣の如し。此の多宝仏も、寿量品の教主釈尊の所従也。此土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子也。不孝の失に依て今に覚知せずと雖も、他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは、譬へば天月の清水に浮かぶが如し。無縁の仏と衆生とは、譬へば聾者の雷の声を聞き、盲者の日月に向ふが如し。
而るに或人師は釈尊を下して大日如来を仰崇し、或人師は世尊は無縁なり阿弥陀仏は有縁也と。或人師の云く 小乗の釈尊、と。或は華厳経の釈尊、と。或は法華経迹門の釈尊、と。此れ等の諸師竝びに檀那等、釈尊を忘れて諸仏を取ることは、例せば阿闍世太子の頻婆娑羅王を殺し、釈尊に背きて提婆達多に付きしが如き也。二月十五日は釈尊御入滅の日、乃至十二月十五日も三界慈父の御遠忌也善導・法然・永観等の提婆達多に誑されて阿弥陀仏の日と定め了んぬ。四月八日は世尊御誕生の日也。薬師仏に取り了んぬ。我が慈父の忌日を他仏に替ふるは孝養の者なるか、如何。寿量品に云く_我亦為世父 為治狂子故等云云。天台大師の云く ̄本従此土仏初発道心。亦従此仏住不退地。乃至猶如百川応須潮海 縁牽応生亦復如是〔本、此土の仏に従ひて初めて道心を発す。亦此仏に従ひて不退の地に住す。乃至、猶お百川の海に潮すべきが如く、縁に牽かれて応生すること亦復是の如し〕等云云。
問て曰く 法華経は誰人の為に之を説くや。
答て曰く 方便品より人記品に至るまでの八品に二意有り。上より下に向ひて次第に之を読めば、第一は菩薩、第二は二乗、第三は凡夫也。安楽行品より勧持・提婆・宝塔・法師と逆次に之を読めば、滅後の衆生を以て本と為す。在世の衆生は傍也。滅後を以て之を論ずれば、正法一千年・像法一千年は傍也。末法を以て正と為す。末法の中には日蓮を以て正と為す。
問て曰く 其の証拠如何。
答て曰く 況滅度後の文是れ也。
疑て云く 日蓮を正と為す正文如何。
答て云く 有諸無智人 悪口罵詈等 及加刀杖者〔諸の無智の人 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者あらん〕等云云。
問て云く 自讃は如何
答て曰く 喜び身に余るが故に堪へ難くして自讃するなり。
問て曰く 本門の心如何。
答て曰く 本門に於て二の心有り。一には涌出品の略開近顕遠は前四味竝びに迹門の諸衆をして脱せしめんが為也。二には涌出品の動執生疑より一半竝びに寿量品・分別功徳品の半品、已上一品二半を広開近顕遠と名づく。一向に滅後の為也。
問て曰く 略開近顕遠の心は如何。
答て曰く 文殊・弥勒等の諸大菩薩・梵天・帝釈・日月・衆星・龍王等、初成道の時より般若経に至る已来は、一人も釈尊の御弟子に非ず。此れ等の菩薩・天人は初成道の時、仏未だ説法したまはざる已前に不思議解脱に住して我と別円二経を演説す。釈尊其の後に阿含・方等・般若を演説したまふ。然りと雖も全く此れ等の諸人の得分に非ず。既に別円二経を知りぬれば、蔵通も又知れり。勝は劣を兼ぬる也。委細に之を論ぜば、或は釈尊の師匠なるか。善知識とは是れ也。釈尊に随ふに非ず。法華経の迹門の八品に来至して、始めて未聞之法を聞いて此れ等の人々は弟子と成りぬ。舎利弗・目連等は鹿苑より已来、初発心の弟子也。然りと雖も権法のみを許せり。今、法華経に来至して実法を授与し、法華経の本門の略開近顕遠に来至して、華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・龍王等、位、妙覚に隣、又妙覚の位に入る也。若し爾れば今我等天に向ひて之を見れば、生身の妙覚の仏が本意に居して衆生を利益する、是れ也。
問て曰く 誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。
答て曰く 寿量品の一品二半は始めより終りに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後之中には末法今時の日蓮等が為也。
疑て云く 此の法門前代に未だ之を聞かず。経文に之有りや。
答て曰く 予が智、前賢に超えず。設ひ経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん。卞和が啼泣、伍子胥の悲傷是れ也。然りと雖も略開近顕遠動執生疑之文に云く_然諸新発意菩薩。於仏滅後。若聞是語。或不信受。而起破法。罪業因縁〔然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て若し是の語を聞かば、或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん〕等云云。文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫、皆悪道に堕せん等也。
寿量品に云く_是好良薬。今留在此〔是の好き良薬を今留めて此に在く〕等云云。文の心は上は過去の事を説くに似たる様なれども、此の文を以て之を案ずるに滅後を以て本と為す。先づ先例を引く也。
分別功徳品に云く_悪世末法時〔悪世末法の時〕等云云。神力品に云く_以仏滅度後 能持是経故 諸仏皆歓喜 現無量神力〔仏の滅度の後に 能く是の経を持たんを以ての故に 諸仏皆歓喜して 無量の神力を現じたもう〕等云云。薬王品に云く_我滅度後。後五百歳中。広宣流布。於閻浮提。無令断絶〔我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して〕等云云。又云く_此経則為。閻浮提人。病之良薬〔此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり〕等云云。涅槃経に云く_譬如七子。父母非不平等然於病者心則偏重〔譬えば七子あり。父母、平等ならざるに非ざれども、然も病者に於て心則ち偏に重きが如し〕等云云。七子之中の第一第二は一闡提謗法の衆生也。諸病之中には法華経を謗ずるが第一の重病也。諸薬之中には南無妙法蓮華経は第一の良薬也。此の一閻浮提は縦広七千由善那、八万の国之有り。正像二千年之間未だ弘宣流布せざる法華経を当世に当りて流布せしめずんば、釈尊は大妄語の仏、多宝仏の証明は泡沫に同じく、十方分身の仏の助舌も芭蕉の如くならん。
疑て云く 多宝の証明・十方の助舌・地涌の涌出、此れ等は誰人の為ぞ。
答て曰く 世間の情に云く 在世の為と。日蓮云く 舎利弗・目・等は、現在を以て之を論ずれば智慧第一神通第一の大聖也。過去を以て之を論ずれば金龍陀仏・青龍陀仏也。未来を以て之を論ずれば華光如来。霊山を以て之を論ずれば三惑頓尽の大菩薩。本を以て之を論ずれば内秘外現の古菩薩也。文殊・弥勒等の大菩薩は、過去の古仏、現在の応生也。梵帝・日月・四天等は初成已前の大聖也。其の上前四味四教、一言に之を覚りぬ。仏の在世には一人に於ても無智の者之無し。誰人の疑ひを晴らさん為に多宝仏の証明を借り、諸仏舌を出だし、地涌の菩薩を召さんや。方々以て謂れ無き事也。随て経文に況滅度後 令法久住等云云。此れ等の経文を以て之を案ずるに、偏に我等が為也。随て天台大師当世を指して云く ̄後五百歳遠沾妙道〔後の五百歳、遠く妙道に沾わん〕。伝教大師当世を記して云く ̄正像稍過已末法太有近〔正像やや過ぎ已って、末法はなはだ近きに有り〕等云云。末法太有近の五字は我が世は法華経流布の世に非ずと云ふ釈也。
問て云く 如来滅後二千余年に龍樹・天親・天台・伝教の残したまへる秘法とは何物ぞや。
答て曰く 本門の本尊と戒壇と題目の五字と也。
問て曰く正像等に何ぞ弘通せざるや。
答て曰く 正像に之を弘通せば、小乗・権大乗・迹門の法門一時に滅尽すべき也。
問て曰く 仏法を滅尽せる之法、何ぞ之を弘通せんや。
答て曰く 末法に於ては、大小権実顕密共に教のみ有りて得道無し。一閻浮提、皆謗法と為り了んぬ。逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限るのみ。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁也。
疑て云く 何ぞ広略を捨てて要を取るや。
答て曰く 玄奘三蔵は略を捨てて広を好む。四十巻の大品経を六百巻と成す。羅什三蔵は広を捨てて略を好む。千巻の大論を百巻と成せり。日蓮は広略を捨てて肝要を好む。所謂、上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字也。九包淵之馬を相する之法は玄黄を略して駿逸取る。史陶林之経を講ずるには細科を捨てて元意を取る等云云。仏既に宝塔に入て二仏座を竝べ、分身来集し、地涌を召し出だし、肝要を取りて末代に当りて五字を授与せんこと、当世に異義あるべからず。
疑て云く 今世に此の法を流布すること先相之有るや。
答て曰く 法華経に如是相、乃至本末究竟等云云。天台の云く_蜘蛛掛かれば喜び事来り、・鵲鳴けば客人来る。小事すら猶お以て是の如し。何に況んや大事をや[取意]。
問て曰く 若し爾れば其の相之有るや。
答て曰く 去る正嘉年中の大地震。文永の大彗星。其れより已後、今に種々の大なる天変地夭、此れ等は此れ先相也。仁王経の七難・二十九難無量の難。金光明経・大集経・守護経・薬師経等の諸経に挙ぐる所の諸難、皆之有り。但無き所は、二三四五の日の出づる大難也。而るを今年佐渡の国の土民、口〈くちぐち〉に云ふ 今年正月二十三日の申の時に西方に二の日出現す。或は云く 三に日出現す等云云。二月五日には東方に明星二つ竝び出づる。其の中間は三寸計り等云云。此の大難は日本国先代にも未だ之有らざるか。
最勝王経の王法正論品に云く_変化流星堕 二日倶時出 他方怨賊来国人遭喪乱〔変化の流星堕ち、二の日倶時に出で、他方の怨賊来りて国人喪乱に遭ふ〕等云云。首楞厳経に_或見二日或見両月〔或は二の日をあらはし、或は両の月をあらはす〕等。薬師経に云く_日月薄蝕難〔日月薄蝕の難〕等云云。金光明経に云く_彗星数出 両日竝現 薄蝕無恒〔彗星数出て、両日竝び現じ、薄蝕恒無く〕。大集経に云く_仏法実隠没 乃至 日月不現明〔仏法実に隠没せば、乃至、日月明を現ぜず〕等。仁王経に云く_日月失度時節返逆 或赤日出 黒日出 二三四五日出、或日蝕無光 或日輪一重二三四五重輪現〔日月度を失い時節返逆し、或は赤日出て、黒日出て、二三四五の日出て、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二三四五重輪現ずる〕等云云。此の日月等の難は七難・二十九難・無量の諸難之中に第一の大悪難也。
問て曰く 此れ等の大中小の諸難は何に因りて之を起すや。
答て曰く 最勝王経に云く_見行非法者当生愛敬 於行善法人苦楚而治罰〔非法を行ずる者を見て当に愛敬をなし、善法を行ずる人に於て苦楚して而も治罰す〕等云云。法華経に云く。涅槃経に云く。金光明経に云く_由愛敬悪人治罰善人故 星宿及風雨皆不以時行〔悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、星宿及び風雨皆時を以て行はれず〕等云云。大集経に云く_仏法実隠没 乃至 如是不善業悪王悪比丘毀壊我正法〔仏法実に隠没せば、乃至、是の如き不善業の悪王悪比丘我正法を毀壊し〕等。仁王経に云く_聖人去時七難必起〔聖人去らん時は七難必ず起こらん〕。又云く_非法非律繋縛比丘如獄囚法。当爾之時法滅不久〔法に非ず、律に非ずして、比丘を繋縛すること獄囚の法の如くす。爾の時に当りて法の滅せんこと久しからず〕等。又云く_諸悪比丘多求名利於国王太子王子前自説破仏法因縁破国因縁。其王不別信聴此語〔諸の悪比丘、多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別えずして此の語を信聴し〕等云云。
此れ等の明鏡を齎〈もて〉、当時の日本国を引き向ふるに、天地を浮かぶること宛も符契の如し。眼有らん我が門弟は之を見よ。当に知るべし、此の国に悪比丘等有りて、天子・王子将軍等に向ひて讒訴を企て聖人を失ふ世也。
問て曰く 弗舎密多羅王・恵昌天子・守屋等は、月支・真旦・日本の仏法を滅失し、提婆菩薩・師子尊者等を殺害す。其の時何ぞ此の大難を出ださざるや。
答て曰く 災難は人に随て大小有るべし。正像二千年之間の悪王・悪比丘等は、或は外道を用ひ、或は道士を語らひ、或は邪神を信ず。仏法を滅失すること大なるに似れども其の科尚お浅きか。今、当世の悪王・悪比丘の仏法を滅失するは、小を以て大を打ち、権を以て実を失ふ。人心を削りて身を失はず、寺塔を焼き尽くさずして自然に之を喪ぼす。其の失前代に超過せる也。我が門弟之を見て法華経を信用せよ。眼を瞋らして鏡に向へ。天の瞋るは人に失有れば也。二の日竝び出づるは一国に二の国王を竝ぶる相也。王と王との闘諍也。星の日月を犯すは、臣、王を犯す相也。日と日と競ひ出づるは四天下一同の諍論也。明星竝び出づるは太子と太子との諍論也。是の如く国土乱れて後、上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。