法華初心成仏鈔

建治三(1277)


法華初心成仏鈔
     建治三年。五十六歳著。与岡宮妙法尼書。
     内二二ノ一。遺二四ノ五。縮一六七一。類三二七。 問ふて云く、八宗、九宗、十宗の中に何れか釈迦仏の立て給へる宗なるや。答へて云く、法華宗は釈迦所立の宗なり。其故は已説、今説、当説の中には法華経第一なりと説き給ふ。これ釈迦仏の立て給ふ所の御語なり。故に法華経をば仏立宗と云ひ又は法華宗とも云ふ。又は天台宗とも云ふなり。故に伝教大師の釈に云く「天台所釈の法華宗は釈迦世尊所立の宗」と云へり。法華より外の経には、またく(全)已今当の文なきなり。已説とは法華より已前の四十余年の諸経を云ふ。今説とは無量義経を云ふ。当説とは涅槃経を云ふ。此三説の外に法華経ばかり成仏する宗なりと仏定め給へり。余宗は仏涅槃し給ひて後、或は菩薩、或は人師たちの立てたる宗なり。仏の御定を背きて菩薩人師の立てたる宗を用ゆべきか、菩薩、人師の言を背きて仏の立て給へる宗を用ゆべきか。又何れをも思ひ思ひに我心に任せて、志あらん経法を持つべきかと思ふ処に、仏これを兼て知食して、末法五濁悪世に、真実の道心あらん人人の持つべき経を定め給へり。経に云く「依法不依人、依義不依語、依知不依識。依了義経不依不了義経」文。此文の心は菩薩、人師の言には依るべからず、仏の御定を用ひよ。華厳、阿含、方等、般若経等の真言、禅宗、念仏宗等の法には依らざれ。了義経を持つべし。了義経と云ふは法華経を持つべしと云ふ文なり。問ふて云く、今日本国を見るに当時五濁の障りおもく、闘諍堅固にして瞋恚の心たけく、嫉妬の思ひ甚し。かゝる国、かゝる時には何れの経をかひろむべきや。答へて云く、法華経をひろむべき国なり。其故は法華経に云く「閻浮提内広令流布使不断絶」等云云。喩伽論には「丑寅の隅に大乗妙法蓮華経の流布すべき小国ありと見えたり」。安然和尚云く「我日本国」等云云。天竺よりは丑寅の角に此日本国は当るなり。又恵心僧都の一乗要決に云く「日本一州円機純一にして朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素、貴賎悉く成仏を期せん」云云。此文の心は日本国は京、鎌倉、筑紫、鎮西、みちをく(陸奥)、遠きも近きも法華一乗の機のみありて、上も下も、貴も賎も、持戒も破戒も、男も女も、皆おしなべて法華経にて成仏すべき国なりと云ふ文なり。譬へば昆崙山に石なく蓬莱山に毒なきがごとく、日本国は純に法華経の国なり。而るに法華経は元よりめでたき御経なれば、誰か信ぜざると語には云ふて、而も昼夜、朝暮に弥陀念仏を申す人は、薬はめでたしとほめて朝夕毒を服する者の如し。或は念仏も法華経も一つなりと云はん人は、石も玉も、上臈も下臈も、毒も薬も一つなりと云はん者の如し。其の上法華経を怨み、嫉み、悪み、毀り、軽しめ、賎しむやからのみ多し。経に云く「一切世間多怨難信」。又云く「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の経文すこしもたがわず当れり。されば伝教大師の釈に云く「代を語れば則ち像の終り、末の初め、地を尋ぬれば唐の東、・の西、人を原れば則ち五濁の生、闘諍の時なり。経に云く、猶多怨嫉況滅度後。此言良に以あるなり」と。此等の文釈をもつて知るべし。日本国に法華経より外の真言、禅、律宗、念仏宗等の経教、山山、寺寺、朝野、遠近に弘まるといへども、正しく国に相応して仏の御本意に相叶ひ、生死を離るべき法にはあらざるなり。問ふて云く、華厳宗には五教を立て、余の一切の経は劣れり、華厳経は勝ると云ひ、真言宗には十住心を立てて、余の一切経は顕教なれば劣り、真言宗は密教なれば勝れたりと云ふ。禅宗には余の一切経をば教内と簡ひて、教外別伝不立文字と立てて、壁に向ひ悟れば禅宗独り勝れたりと云ふ。浄土宗には正雑二行を立てて法華経等の一切経をば捨閉閣抛し雑行と簡ひ、浄土の三部経のみを機に叶ひめでたき正行なりと云ふ。各各我慢を立て互に偏執をなす。何れか釈迦仏の御本意なるや。答へて云く、宗宗各別に我が経こそすぐれたれ、余経は劣れりと云ひて、我宗をよしと云ふ。事は唯是れ人師の言にて仏説にあらず。但し法華経計りこそ仏五味の譬を説きて、五時の教にあてて此経の勝れたる由を説き、或は又已今当の三説の中に、仏になる道は法華経に及ぶ経なしと云ふ事は、正しき仏の金言なり。然るに我経は法華経に勝れたり、我宗は法華宗に勝れたりと云はん人は、下臘が上臘を凡下と下し、相伝の従者が主に敵対して我が下人なりと云はんが如し。何ぞ大罪に行なはれざらんや。法華経より余経を下す事は人師の言葉にあらず、経文分明なり。譬へば国王の万人に勝れたりとなのり、侍の凡下を下臘と云はんに何の禍かあるべきや。此経は是仏の御本意なり。天台妙楽の正意なり。問ふて云く、釈迦一期の説法は皆衆生のためなり。衆生の根性万差なれば説法も種種なり。何れも皆得道なるを本意とす。然れば我が有縁の経は人のためには無縁なり、人の有縁の経は我が為には無縁なり。故に余経の念仏によりて得道なるべき者の為には無縁なり。観経等はめでたし、法華経等は無用なり。法華によりて成仏得道なるべき者の為には、余経は無用なり、法華経はめでたし。「四十余年未顕真実」と説くも「雖示種種道其実為成仏」と云ふも、「正直捨方便但説無上道」と云ふも、法華得道の機の前の事なりと云ふ事、世こぞつてあはれ然るべき道理哉なんど思へり。いかが心うべきや。もし爾らば大乗、小乗の差別もなく、権教、実教の不同もなきなり。何れをか仏の本意と説き、何れをか成仏の法と説き給へるや、甚だいぶかしいぶかし。答へて去く、凡そ仏の出世は始めより妙法を説かんと思食しかども、衆生の機縁万差にして、とヽのをらざり(不調しかば、三七日の間思惟し、四十余年の程こしらへおおせて、最後に此妙法を説き給ふ。故に「若但讃仏乗衆生没在苦不能信是法破法不信故堕於三悪道」と説き、世尊法久後要当説真実」とも云へり。此文の意は始めより此仏乗を説かんと思食しかども、仏法の気分もなき衆生は信ぜずして定めて謗りをいたさん。故に機をひとしなに誘へ給ふほどに初めに華厳、阿含、方等、般若等の経を四十余年の間説き、最後に法華経を説き給ふ時、四十余年の座席にありし身子目連等の万二千の声聞、文殊、弥勒等の八万の菩薩、万億の輪王等、梵王、帝釈等の無量の天人、各爾前に聞きし処の法をば「如来の無量の知見を失へり」と云云。法華経を聞いては「無上宝珠不求自得」と悦び給ふ。されば「我等従昔来数聞世尊説未曽聞如是深妙之上法」とも、「仏説希有法昔所未曽聞」とも説き給ふ。此等の文の心は四十余年の程、若干の説法を聴聞せしかども、法華経のやうなる法をばすべてきかず、又仏もついに説かせ給はずと法華経をほめたる文なり。四十二年のきヽ(聴)と今経のきヽとをば、わけ(分)たくらぶ(比)べからず。それを法華経得道の人のためにして、爾前得道の者のためには無用なりと云ふ事大なる誤なり。をのずから四十二年の経の内には、一機一縁のためにしつらう(造)ところの方便なれば、設ひ有縁無縁の沙汰はありとも、法華経は爾前の経経の座にして得益しつる機どもを押ふさね(聚束)て一純に調へて説き給ひし間、有縁無縁の沙汰あるべからざるなり。悲しい哉、大小、権実みだりがはしく仏の本懐を失ひて、爾前得道の者のためには法華経無用なりと云へる事を、能能慎むべし、恐るべし。古の徳一大師と云ひし人、此義を人にも教へ我心にも存じて、さて法華経を読み給ひしを、伝教大師此人を破し給ふ言に「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を殺す」と責め給ひしかば、徳一大師は舌八にさけて失せ給ひき。問ふて云く、天台の釈の中に「菩薩処処得入」と云ふ文は、法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならず。菩薩は爾前の経の中にしても得道なると見えたり。若し爾らば「未顕真実」も「正直捨方便」等も、総じて法華経八巻の内皆以て二乗の為にして、菩薩は一人もあるまじきと意うべきか、如何。答へて云く、法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならずと云ふ事は、天台より已前唐土に南三北七と申して、十人の学匠の義なり。天台は其義を破し失せて今は弘まらず。若し菩薩なしと云はば「菩薩是法を聞いて義網皆已に除く」と云へる、豈に是れ菩薩の得益なしと云はんや。それに尚鈍根の菩薩は二乗とつれ(連)て得益あれども、利根の菩薩は爾前の経にて得益すと云はば「利根、鈍根等しく法雨を雨らす」と説き、「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此経に属せり」と説くは何に。此等の文の心は利根にてもあれ鈍根にてもあれ、持戒にてもあれ破戒にてもあれ、貴きもあれ賎くもあれ、一切の菩薩、凡夫、二乗は法華経にて成仏得道なるべしという文なるをや。又法華得益の菩薩は皆鈍根なりと云はば、普賢、文殊、弥勒、薬王等の八万の菩薩をば鈍根なりと云ふべきか。其外に爾前の経にて得道する利根の菩薩と云ふは、何様なる菩薩ぞや。抑も爾前に菩薩の得道と云ふは法華経の如き得道にて候か。其ならば法華経の得道にて爾前の得分にあらず。又法華経より外の得道ならば已今当の中に何れぞや。いかさまにも法華経ならぬ得道は当分の得道にて真実の得道にあらず。故に無量義経には「是故衆生得道差別」と云ひ、又「終不得成無上菩薩」と云へり。文の心は爾前の経経には得道の差別を説けども、終に無上菩薩の法華経の得道はなしとこそ仏は説き給ひて候へ。問て云く、当時は釈尊入滅の後今に二千二百三十余年なり。一切経の中に何れの経が時に相応して弘まり利生も有るべきや。大集経の五箇の五百歳の中の第五の五百歳に当時はあたれり。其第五の五百歳をば「闘諍堅固白法隠没」と云つて、人の心たけく腹あしく、貪欲、瞋恚強盛なれば軍合戦のみ盛にして、仏法の中に先き先きひろまりし所の真言、禅宗、念仏、持戒等の白法は隠没すべしと仏説き給へり。第一の五百歳、第二の五百歳、第三の五百歳、第四の五百歳を見るに、成仏の道こそ未顕真実なれ、世間の事法は仏の御言、一分もたがわず。是を以て之を思ふに、当時の「闘諍堅固白法隠没」の金言もたがう事あらじ。若し爾らば末法には何れの法も得益あるべからず、何れの仏、菩薩も利生あるべからずと見へて候をば、いかに候べき。さてもだし(黙止)て何れの仏、菩薩にもつかへたてまつらず、何れの法をも行ぜず、憑む方なくして候べきか。後生をば如何思ひ定め候べきや。答へて云く、末法当時は久遠実成の釈迦仏、上行菩薩、無辺行菩薩等の弘めさせ給ふべき法華経二十八品の肝心たる、南無妙法蓮華経の七字計り此の国に弘まりて利生得益もあり、上行菩薩の御利生盛んなるべき時なり。其故は経文明白なり。道心堅固にして志あらん人は委しく是を尋ね聞くべきなり。浄土宗の人人「末法万年には余経悉く滅し弥陀一教のみ」と云ひ、又「当今末法是れ五濁の悪世、唯浄土の一門のみあつて通入すべき路なり」と云つて、虚言して大集経に云くと引けども彼経に都て此文なし。其上あるべき様もなし。仏の在世の御言に当今末法五濁の悪世には、但浄土の一門のみ入るべき道なりとは説き給べからざる道理顕然なり。本経には「当来の世経道滅尽し特此経を留めて止住すること百歳ならん」と説けり。末法一万年の百歳とは全く見えず。然るに平等覚経、大阿弥陀経を見るに仏滅後一千年の後の百歳とこそ意え(得)られたれ。然るに善導が惑へる釈をば尤も道理と人皆思へり。是は諸僻案の者なり。但し心あらん人は世間のことはりをもつて推察せよ。大旱魃のあらん時は大海が先にひるべきか、小河が先にひるべきか。仏是を説き給ふには法華経は大海なり、観経、阿弥陀経等は小河なり。されば念仏等の小河の白法こそ先にひるべしと経文にも説き給ひて候ひぬれ。大集経の五箇の五百歳の中の「第五の五百歳白法隠没」と云へると、双観経に「経道滅尽」と云へるとは但一つ心なり。されば末法には始めより双観経等の経道滅尽すと聞えたり。経道滅尽と云へるは経の利生の滅すと云ふ事なり。色の経巻あるにはよるべからず。されば常時は経道滅尽の時に至つて二百歳に余れり。此時は但法華経のみ利生得益あるべし。されば此経を受持して南無妙法蓮華経と唱へ奉るべしと見えたり。薬王品には「後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶」と説き給ひ、天台大師は「後の五百歳遠く妙道に沾はん」と釈し、妙楽大師は「且く大教の流行すべき時に拠る」と釈して、後五百歳の間に法華経弘まりて、其後は閻浮提の内に絶え失せる事あるべからずと見えたり。安楽行品に云く「於後来世法欲滅時、受持読誦斯経典者」文。神力品に云く「爾時仏告上行等菩薩大衆為嘱累故説此経功徳猶不能尽。以要言之如来一切所有之法如来一切自在神力如来一切秘要之蔵如来一切甚深之事皆於此経宣示顕説」云云。此等の文の心は釈尊入滅の後、第五の五百歳と説くも、末世と云ふも濁悪世と説くも、正、像二千年過ぎて末法の始め、二百余歳の今時は唯法華経計り弘まるべしと云ふ文なり。其故は人既にひがみ(僻)、法も実にしるし(験)なく仏神の威験もましまさず、今生後生の祈りも叶はず。かゝらん時はたよりを得て天魔波旬乱れ入り、国土常に飢渇して天下も疫癘し、佗国侵逼難、自界叛逆難とて我国に軍合戦常にありて、後には佗国より兵どもをそひ(襲)来りて、此国を責むべしと見えたり。此の如き闘諍堅固の時は余経の白法は験失せて、法華経の大良薬を以て此大難をば治すべしと見えたり。法華経を以て国土を祈らば、上一人より下万民に至るまで悉く悦び栄え給べき鎮護国家の大白法なり。但し阿闍世王、阿育大王は始めは悪王なりしかども、耆婆大臣の語を用ひ、夜叉尊者を信じ給ひて後にこそ賢王の名をば留め給ひしか。南三北七を捨てて智?法師を用ひ給ひし陳王、六宗の碩徳を捨てて最澄法師を用ひ給ひし桓武天皇は、今に賢王の名を留め給へり。智?法師と云ふは天台大師と号し奉る。最澄法師は後には伝教大師と云ふ是なり。今の国主も又是の如し。現世安穏後生善処なるべき此大白法を信じて、国土に弘め給はば、万国に其身を仰がれ後代に賢人の名を留め給ふべし。知らず、又無辺行菩薩の化身にてやましますらん。又妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賎くとも上行菩薩の化身か。又釈迦如来の御使かと思ふべし。又薬王菩薩、薬上菩薩、観音、勢至等の菩薩は正像二千年の御使なり。此等の菩薩達の御番は早過ぎたれば、上古の様に利生あるまじきなり。されば当世の祈りを御覧ぜよ。一切叶はざる者なり。末法今の世の番衆は上行、無辺行等にてをはしますなり。此等を能能明らめ信じてこそ、法の験も仏、菩薩の利生もあるべしとは見えたれ。譬へばよき火打と、よき石のかどと、よきほくそと、此三つ寄り合ひて火を用ゆるなり。祈りも又是の如し。よき師とよき檀那とよき法と是三つ寄り合ひて、祈りを成就し国土の大難をも払ふべき者なり。よき師とは指したる世間の失無くして、聊のへつらふ(諂)ことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の経文に任せて、法華経を読み持ちて、人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に、吉第一の法師なりと讃められたり。吉檀那とは貴人にもよらず、賎人をもにくまず、上にもよらず下をもいやじまず、一切人をば用ひずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉人なりと仏は説き給へり。吉法とは此法華経を最為第一の法と説れたり。已説の経の中にも、今説の経の中にも、当説の経の中にも此経第一と見えて候へば吉法なり。禅宗、真言宗等の経法は第二、第三なり。殊に取り分けて申せば真言の法は第七重の劣なり。然るに日本国には第二、第三、乃至第七重の劣の法をもつて、御祈祷あれども未だ其証拠をみず。最上第一の妙法をもつて御祈祷あるべきか。是を「正直捨方便但説無常道唯此一事実」と云へり。誰か疑ひをなすべきや。問ふて云く、無智の人来りて生死を離るべき道を問はん時は、何れの経の意をか説くべき。仏如何が教へ給へるや。答へて云く、法華経を説くべきなり。所以に法師品に云く「若有人問何等衆生於未来世当得作仏応示是諸人等於未来世必得作仏」云云。安楽行品に云く「有所難問不以小乗法答但以大乗而為解説」云云。此等の文の心は何なる衆生か仏になるべきと問はば、法華経を受持し奉らん人必ず仏になるべしと答ふべきなり。是仏の御本意なり。之に付いて不審あり。衆生の根性区にして念仏を聞かんと願ふ人もあり、法華経を聞かんと願ふ人もあり。念仏を聞かんと願ふ人に法華経を説いて聞かせんは、何の得益かあるべき。又念仏を聞かんが為に請じたらん時にも強て法華経を説くべきか。仏の説法も機に随ひて得益あるをこそ本意とし給ふらんと不審する人あらば云ふべし。元より末法の世には無智の人に機に叶ひ、叶はざるを顧みず、但強て法華経の五字の名号を説いて持たすべきなり。其故は釈迦仏昔不軽菩薩と云はれて法華経を弘め給ひしには、男女、尼法師がおしなべて用ひざりき。或は罵られ謗られ、或は打たれ追はれ一しなならず、或は怨まれ嫉まれ給ひしかども、少しもこり(懲)もなくして強て法華経を説き給ひし故に、今の釈迦仏となり給ひしなり。不軽菩薩を罵りまいらせし人は口もゆがまず、打ち奉りしかいな(腕)もすくまず。付法蔵の師子尊者も外道に殺されぬ。又法道三蔵も火印を面にあてられて江南に流され給ひしぞかし。まして末法にかひなき僧の法華経を弘めんには、かゝる難あるべしと経文に正しく見えたり。されば人是を用ひず機に叶はずと云へども、強て法華経の五字の題名を聞かすべきなり。是ならでは仏になる道はなきが故なり。又或人不審して云く、機に叶はざる法華経を強て説いて謗ぜさせて、悪道に人を堕さんよりは、機に叶へる念仏を説いて発心せしむべし。利益もなく謗ぜさせて返つて地獄に堕さんは法華経の行者にもあらず。邪見の人にてこそあるらめと不審せば云ふべし。経文には何体にもあれ、末法には強て法華経を説くべしと仏の説き給へるをば、さていかが心うべく候や。釈迦仏、不軽菩薩、天台、妙楽、伝教等はさて邪見の人、外道にておはしまし候べきか。又悪道にも堕ちず三界の生を離れたる二乗と云ふ者をば仏のの(宣)給はく、設ひ犬、野干の心をば発すとも二乗の心もつべからず。五逆、十悪を作りて地獄には堕つとも、二乗の心をばもつべからずなんどと禁められぞかし。悪道に堕ちざるほどの利益は争でかあるべきなれども、其をば仏の御本意とも思食さず、地獄には堕つるとも、仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり。されば天台、妙楽も此心を以て強て法華経を説くべしとは釈し給へり。譬ば人の地に依りて倒れたる者の返つて地をおさへて起が如し。地獄には堕つれども疾浮んで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強て説き聞すべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となつて仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり。権教をもて仏になる由だにあらば、なにしてか仏は強て法華経を説いて謗ずるも信ずるも利益あるべしと説き、我不愛身命とは仰せらるべきや。よくよく此等を道心ましまさん人は御心得あるべきなり。問ふて云く、無智の人も法華経を信じたらば、即身成仏すべきか。又何れの浄土に往生すべきぞや。答へて云く、法華経を持つにおいては深く法華経の心を知り、止観の座禅をし一念三千、十境十乗の観法をこらさん人は、実に即身成仏し解を開く事もあるべし。其外に法華経の心をもしらず、無智にしてひら(但)信心の人は浄土に必ず生るべしと見えたり。されば「生十方仏前」と説き、或は「即往安楽世界」と説きき。是の法華経を信ずる者の往生すといふ明文なり。之に付いて不審あり。其故は我身は一にして十方の仏前に生るべしと云ふ事心得られず。何れにてもあれ一方に限るべし。正に何れの方をか信じて往生すべきや。答へて云く、一方に定めずして十方と説くは最もいはれあるなり。所以に法華経を信ずる人の一期終る時には、十方世界の中に法華経を説かん仏のみもとに生るべきなり。余の華厳、阿含、方等、般若経を説く浄土へは生るべからず。浄土十方に多くして、声聞の法を説く浄土もあり、辟支仏の法を説く浄土もあり、或は菩薩の法を説く浄土もあり。法華経を信ずる者は此等の浄土には一向生れずして法華経を説き給ふ浄土へ直ちに往生して、座席に列て法華経を聴聞して、やがてに仏になるべきなり。然るに今世にして法華経は機に叶はずと云ひうとめて、西方浄土にて法華経をさとるべしと云はん者は、阿弥陀の浄土にても法華経をさとるべからず、十方の浄土にも生るべからず、法華経に背く咎重きが故に永く地獄に堕つべしと見えたり。「其人命終入阿鼻獄」と云へる是なり。問ふて云く「即往安楽世界阿弥陀仏」と云云。此文の心は法華経を受持し奉らん女人は阿弥陀仏の浄土に生るべしと説き給へり。念仏を申しても阿弥陀の浄土に生るべしと云ふ。浄土既に同じ念仏も法華経も等と心え候べきか、如何。答へて云く、観経は権教なり、法華経は実教なり。全く等しかるべからず。其故は仏世に出でさせ給ひて四十余年の間、多くの法を説き給ひしかども、二乗と悪人と女人とをば簡ひはてられて、成仏すべしとは一言も仰せられざりしに、此経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も、仏になるとは説き給ひ候つれ、其旨経文に見えたり。華厳経には「女人地獄使能断仏種子外面似菩薩内心如夜叉」云へり。銀色女経には「三世の諸仏の眼は抜けて大地に落つるとも法界の女人は永く仏になるべからず」と見えたり。又経に云く「女人は大鬼神なり。能く一切の人を喰ふ」と。龍樹菩薩の大論には「一度女人を見れば永く地獄の業を結ぶ」と見えたり。されば実にてやありけん、善導和尚は謗法なれども女人をみずして一期生と云はれたり。又業平が歌にも「葎をいてあれたるやど(宿)のうれ(憂)たきは、かりにも鬼のすだく(集)なりけり」と云ふも、女人をば鬼とよめるにこそ侍れ。又女人には五障三従と云ふ事あるが故に罪深しと見えたり。五障とは一には梵天王、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏にならずと見えたり。又三従とは女人は幼き時は親に従ひて心にまかせず、人となりては男に従ひて心にまかせず、年よりぬれば子に従ひて心にまかせず。加様に幼き時より老耄に至るまで三人に従ひて心にまかせず、思ふ事をもいはず見たき事をも見ず、聴聞したき事をもきかず、是を三従とは説くなり。されば栄啓期が三楽を立てたるにも女人の身と生まれざるを一つの楽しみといへり。加様に内典外典にも嫌はれたる女人の身なれども、此経を読まねどもかかねども身と口と意とにうけ持ちて、殊に口に南無妙法蓮華経と唱へ奉る女人は、在世の龍女、?曇弥、耶輸陀羅女の如くに、やすやすと仏になるべしと云ふ経文なり。又安楽世界と云ふは一切の浄土をば皆安楽と説くなり。又阿弥陀と云ふも、観経の阿弥陀にはあらず、所以に観経の阿弥陀仏は法蔵比丘の阿弥陀四十八願の主じ、十劫成道の仏なり。法華経にも迹門の阿弥陀は、大通智勝仏の十六王子の中の第九の阿弥陀にて、法華経大願の主の仏なり。本門の阿弥陀は釈迦分身の阿弥陀なり。随つて釈にも「須らく更に観経等を指すべからず」と釈し給へり。問ふて云く、経に「難解難入」と云へり。世間の人此文を引いて法華経は機に叶はずと申し候は、道理と覚え候は如何。答へて云く、謂なき事なり。其故は此経を能くも心えぬ人の云ふ事なり。法華より已前の経は解り難く入り難し。法華の座に来りては解り易く入り易しと云ふ事なり。されば妙楽大師の御釈に云く「法華以前は不了義なるが故に、故に難解と云ふ、即ち今の教には?く皆実に入るを指す故に易知と云ふ」文。此文の心は法華より已前の経にては機つたなく(拙)して解り難く入り難し。今の経に来りては機賢くなりて解り易く入り易しと釈し給へり。其上「難解難入」と説かれたる経が機に叶はずば先づ念仏を捨てさせ給ふべきなり。其故は双観経に「難中之難無過此難」と説き、阿弥陀経には「難信之法」と云へり。文の心は此経を受け持たん事は難きが中の難きなり、此に過ぎたる難きはなし。難信の法なりと見えたり。問ふて云く、経文に「四十余年未顕真実」と云ひ、又「過無量無辺不可思議阿僧祇劫、終不得成無上菩提」と云へり。此文は何体の事にて候哉。答へて云く、此文の心は釈迦仏一期五十年の説法の中に、始めの華厳経にも真実をとかず、中の方等、般若にも真実をとかず。此故に禅宗、念仏、戒等を行ずる人は、無量無辺劫をば過ぐとも、仏にならじと云ふ文なり。仏四十二年の歳月を経て後、法華経を説き給ふ文には「世尊法久後要当説真実」と仰せられしかば、舎利弗等の千二百の羅漢、万二千の声聞、弥勒等の八万人の菩薩、梵天、帝釈等の万億の天人、阿闍世王等の無量無辺の国王、仏の御言を領解する文には「我等従昔来数聞世尊説未曽聞如是深妙之上法」と云つて、我等仏に離れ奉らずして四十二年若干の説法を聴聞しつれども、いまだ是の如く貴き法華経をばきかずと云へる。此等の明文をばいかが心えて、世間の人は法華経と余経と等しく思ひ、剰へ機に叶はねば闇の夜の錦、こぞ(去年)の暦なんど云ひて、適持つ人を見てば賎しみ、軽しめ、悪み、嫉み、口をすくめなんどする。是れ併ながら謗法なり。争か往生成仏もあるべきや、必ず無間地獄に堕つべき者と見えたり。問ふて云く、凡そ仏法を能く心得て仏意に叶へる人をば、世間に是を重んじ一切是を貴む。然るに当世法華経を持つ人人をば、世にこぞって悪み、嫉み、軽しめ、賎しみ、或は是を追ひ出し、或は流罪し、供養をなすまでは思ひもよらず、怨敵の様ににくまるろはいかさまにも、心わろくして仏意にもかなはず、ひが(僻)さまに法を心得たるなるべし。経文には如何が説きたるや。答へて云く、経文の如くならば末法の法華経の行者は、人に悪まるる程に持つを実の大乗の僧とす。又経を弘めて人を利益する法師なり。人に吉と思はれ、人の心に随ひて貴しと思はれん僧をば、法華経のかたき、世間の悪知識と思ふべし。此人を経文には猟師の目を細めて鹿をねらひ、猫の爪を隠して鼠をねらふが如くにして、在家の俗男、俗女の檀那を、へつらひ、いつわり、たぼらかすべしと説き給へり。其上勧持品には法華経の適人三類を挙げられたるに「一には在家の俗男俗女なり。此俗男俗女は法華経の行者を憎み、罵り、打ちはり、きり殺し、所を追ひ出だし、或は上へ讒奏して遠流し、なさけなくあだむ者なり。二には出家の人なり。此人は慢心高くして内心には物も知らざれども、智者げにもてなして世間の人に学匠と思はれて、法華経の行者を見ては、怨み、嫉み、軽しめ、賎しみ、犬、野干よりもわろきやうを人に云ひうとめ、法華経をば我れ一人心得たりと思ふ者なり。三には阿練若の僧なり。此僧は極めて貴き相を形に顕し、三依一鉢を帯して山林の閑なる所に篭り居て、在世の羅漢の如く諸人に貴まれ、仏の如く万人に仰がれて、法華経を説の如くに読み持ち奉らん僧を見ては憎み嫉んで云く、大愚痴の者、大邪見の者なり。総て慈悲なき者、外道の法を説くなんど云はん。上一人より仰ひで信を取らせ給はば、其の已下万人も仏の如くに供養をなすべし。法華経を説の如くよみ持たん人は必ず此三類の敵人に怨まるべきなりと仏説き給へり。問ふて云く、仏の名号を持つ様に法華経の名号を取り分けて持つべき証拠ありや、如何。答へて云く、経に云く「仏告諸羅刹女善哉善哉汝等但能擁護受持法華名者福不可量」と云云。此文の意は十羅刹の法華の名を持つ人を護らんと誓言を立て給ふを、大覚世尊讃めて言はく、善哉善哉汝等南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳、いくら程とも計りがたくめでたき功徳なり。神妙なりと仰せられたる文なり。是我等衆生の行住坐臥に南無妙法蓮華経と唱ふべしと云う文なり。凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王、帝釈等の仏性と、舎利弗、目連等の仏性と、文殊、弥勒等の仏性と、三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり。故に一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏、一切の法、一切の菩薩、一切の声聞、一切の梵王、帝釈、閻魔法王、日月、衆星、天神、地神、乃至地獄、餓鬼、畜生、修羅、人天、一切衆生の心中の仏性を、唯だ一音に喚び顕し奉る功徳無量無辺なり。我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて、顕れ給ふ処を仏とは云うなり。譬へば篭の中の鳥なけば、空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し。口に妙法をよび奉れば、我身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ。梵王、帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ。仏、菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ。されば「若暫持者我則歓喜諸仏亦然」と説き給ふは此の心なり。されば三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ひしなり。三世の諸仏の出世の本懐、一切衆生皆成仏道の妙法と云ふは是なり。是等の趣を能能心得て仏になる道には、我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり。
                       日蓮 御在判
(啓二九ノ八七。鈔一八ノ三三。語三ノ四九。拾五ノ三四。扶一一ノ二四。)