最蓮房御返事(供物書)
夕さりは相ひ構へて相ひ構へて御入り候へ。得受職人功徳法門、委しく御申し候はん。
御札之旨、委細は承り候ひ畢んぬ。都よりの種種の物、慥かに給候ひ畢んぬ。鎌倉に候ひし時こそ常にかゝる物は見候ひつれ。此の島に流罪せられし後は、未だ見ず候。此の体の物は辺土の小島にてはよによに目出度き事に思ひ候。
御状に云く 去る二月の始めより御弟子となり、帰伏仕り候上は、自今以後は人数ならず候とも御弟子の一分と思し食され候はば、恐悦に相ひ存ずべく候云云。
経の文には_在在諸仏土 常与師倶生とも、或は若親近法師 速得菩薩道 随順是師学 得見恒沙仏とも云へり。釈には ̄本従此仏初発道心 亦従此仏住不退地に〔もと此の仏に従ひて初めて道心を発し、また、此の仏に従ひて不退地に住せん〕とも、或は云く ̄従此仏菩薩結縁 還於此仏菩薩成就〔此の仏菩薩に従ひて結縁し、還りて此の仏菩薩に於て成就す〕とも云へり。
此の教釈を案ずるに、過去無量劫より已来、師弟の契約有りし歟。我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ、忝なくも諸仏出世之本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事、是れ偏に過去の宿習なる歟。
予、日本の体を見るに、第六天の魔王、智者の身に入りて正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に ̄悪鬼入其身とは是れ也。
日蓮、智者に非ずと雖も第六天の魔王、我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ、身によせつけず。故に天魔力及ばずして、王臣を始めとして良観等の愚痴の法師原に取り付きて日蓮をあだむなり。
然るに今時は師に於て、正師・邪師・善師・悪師の不同ある事を知りて、邪悪の師を遠離し、正善の師に親近すべきなり。設ひ徳は四海に斉しく、智慧は日月に同じくとも、法華経を誹謗するの師をば悪師・邪師と知りて、是れに親近すべからざる者也。
或経に云く_若誹謗者不応共住。若親近共住即趣阿鼻獄〔若し誹謗の者には共に住すべからず。若し親近し、共に住せば、即ち阿鼻獄に趣かん〕と禁め給ふ、是れ也。いかに我が身は正直にして、世間出世の賢人の名をとらんと存ずれども、悪人に親近すれば、自然に十度に二度三度、其の数に随ひ以て行くほどに、終に悪人になるなり。
釈に云く ̄若人本悪無 親近於悪人 後必成悪人 悪名偏天下〔若し人、本、悪無きも、悪人に親近すれば、後、必ず悪人と成り、悪名天下に偏からん〕云云。
所詮、其の邪悪の師とは今の世の法華誹謗の法師也。涅槃経に云く_菩薩 於悪象等心無恐怖。於悪知識生怖畏心。~為悪象殺不至三趣。為悪友殺必至三趣〔菩薩、悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。~悪象の為に殺されては三趣に至らず。悪友の為に殺されては必ず三趣に至る〕。法華経に云く_悪世中比丘 邪智心諂曲〔悪世の中の比丘は 邪智にして心諂曲に〕云云。
先先申し候如く、善無畏・金剛智・達磨・慧可・善導・法然、東寺の弘法・園城寺の智証・山門の慈覚・関東の良観等の諸師は、今経の正直捨方便の金言を読み候には正直捨実教但説方便教と読み、或は_於諸経中。最在其上〔諸経の中に於て最も其の上にあり〕の経文をば於諸経中。最在其下と、或は_法華最第一の経文をば法華最第二第三等と読む。故に此れ等の法師原を邪悪の師と申し候ひき。
さて正善の師と申すは、釈尊の金言の如く諸経は方便、法華は真実と、正直に読むを申すべく候也。華厳の七十七の入法界品、之を見るべし云云。法華経に云く_善知識者。是大因縁。所謂化導。令得見仏。発阿耨菩提<発阿耨多羅三藐三菩提心>〔善知識は是れ大因縁なり。所謂化導して、仏を見阿耨多羅三藐三菩提の心を発すことを得せしむ〕等云云。
仏説の如きは、正直に四味・三教・小乗・権大乗の方便の諸経、念仏・真言・禅・律等の諸宗並びに所依の経を捨てて、但唯、以一大事因縁の妙法蓮華経を説く師を正師・善師とは申すべきなり。
然るに日蓮末法の初めの五百年に日域に生を受け、如来の記文の如く三類の強敵を蒙り種種の災難に相ひ値ひて身命を惜しまずして南無妙法蓮華経と唱へ候は、正師歟、邪師歟。能く能く御思惟、之れ有るべく候。
上に挙ぐる所の諸宗の人人は我こそ法華経の意を得て法華経を修行する者よと名乗り候へども、予が如く弘長には伊豆の国に流され、文永には佐渡島に流され、或は龍の口の頚の座等、此の外種種の難、数を知らず。経文の如くならば予は正師也、善師也。諸宗の学者は悉く邪師也、悪師也と思し食し候へ。
此の外、善悪二師を分別する経論の文等、是れ広く候へども、兼ねて御存知の上は申すに及ばず候。
只今の御文に自今以後は日比の邪師を捨て偏に正師と憑むとの仰せは不信に覚へ候。我等が本師釈迦如来、法華経を説んが為に出世ましませしには、他方の仏菩薩等来臨影響して釈尊の行化を助け給ふ。されば釈迦・多宝・十方の諸仏等の御使として来りて日域に化を示し給ふにもやあるらん。
経に云く_我於余国。遣化人。為其集聴法衆。亦遣化。~随順不逆〔我余国に於て、化人を遣わして其れが為に聴法の衆を集め、亦化の~随順して逆らわじ〕。
此の経文に比丘と申すは貴辺の事也。其の故は聞法信受、随順不逆、眼前也。争でか之を疑ひ奉るべき耶。設ひ又、在在諸仏土 常与師倶生の人也とも三周の声聞の如く下種之後に退大取小して五道六道に沈輪し給ひしが、成仏の期来至して順次に得脱せしむべきゆへにや。
念仏・真言等の邪法・邪師を捨てゝ日蓮が弟子となり給ふらん。有り難き事也。何れの辺に付けても、予が如く諸宗の謗法を責め彼等をして捨邪帰正せしめ給ひて、順次に三仏、座を並べ常寂光土に詣でて釈迦・多宝の御宝前に於て、我等、無始より已来師弟の契約有りける歟、無かりける歟。又、釈尊の御使として来りて化し給へる歟、さぞと仰せを蒙りてこそ我が心にも知られ候はんずれ。何様にもはげませ給へ、はげませ給へ。
何となくとも貴辺に去る二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ。結句は卯月八日夜半、寅の時に妙法の本円戒を以て受職潅頂せしめ奉る者也。此の受職を得る之人、争でか現在なりとも妙覚の仏を成ぜざらん。若し今生妙覚ならば、後生豈に等覚等の因分ならんや。実に無始曠劫之契約、常与師倶生の理ならば、日蓮今度成仏せんに貴辺豈に相ひ離れて悪趣に堕罪したまふべき哉。
如来の記文は仏意の辺に於ては、世出世に就いて更に妄語無し。然るに法華経には_於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑〔我が滅度の後に於て 斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定して疑あることなけん〕。或は_速為疾得<則為疾得> 無上仏道〔則ち為れ疾く 無上の仏道を得たり〕等云云。
此の記文虚しくして我等が成仏今度虚言ならば、諸仏の御舌もきれ、他方の塔も破れ落ち、二仏並坐は無間地獄の熱鉄の床となり、方・実・寂の三土は地・餓・畜の三道と変じ候べし。争でかさる事候べきや。あらたのもしやたのもしや。
是の如く思ひつづけ候へば、我等は流人なれども身心共にうれしく候也。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時時刻刻にあぢはう。是の如く過ぎ行き候へば、年月を送れども久しからず、過ぐる時刻も程あらず。
例せば釈迦・多宝の二仏、塔中に並坐して、法華の妙理をうなづき合ひ給ひし時、五十小劫。仏神力故。令諸大衆。謂如半日。〔五十小劫、仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと謂わしむ〕と云ひしが如く也。
劫初より以来、父母・主君等の御勘気を蒙り、遠国の島に流罪せらるゝ之人、我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ。されば我等が居住して一乗を修行せん之処は何れの処にても候へ、常寂光の都為るべし。[6→p0625]我等が弟子檀那とならん人は、一歩を行かずして、天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事、うれしとも申す計り無し。申す計り無し。
余りにうれしく候へば契約一つ申し候はん。貴辺の御勘気疾く疾く許させ給ひて都へ御上り候はば、日蓮も鎌倉殿はゆるさじとの給ひ候とも諸天等に申して鎌倉に帰り、京都へ音信〈おとづれ〉申すべく候。又、日蓮先立ちてゆり(許)候て鎌倉へ帰り候はば、貴辺をも天に申して古京へ帰し奉るべく候。恐恐謹言。
四月十三日 日 蓮花押
最蓮房 御返事