戒体即身成仏義
安房国清澄山住人 蓮長 撰
一者 小乗戒体。
二者 権大乗戒体。
分為四門
三者 法華開会戒体。 法華涅槃之戒体小有不同
四者 真言宗戒体。 第一に小乗の戒体とは四種有り。五戒は俗男俗女戒。八斎戒は四衆通用。二百五十戒は比丘戒。五百戒は比丘になり。而るに四種倶に五戒を本と為す。婆沙論に云く ̄以近事律儀与此律儀為門為依為加行故〔近事律儀は此の律儀の与に門と為り依と為り加行と為るを以ての故に〕云云。近事律儀とは五戒也。されば比丘の二百五十戒・比丘尼の五百戒も始めは五戒也。
五戒とは、諸の小乗経に云く_一者不殺生戒。二者不偸盗戒。三者不邪婬戒。四者不妄語戒。五者不飲酒戒〔一には不殺生戒。二には不偸盗戒。三には不邪婬戒。四には不妄語戒。五には不飲酒戒〕[以上五戒]。一者不殺生戒。二者不偸盗戒。三者不邪婬戒。四者不妄語戒。五者不飲酒戒]。此の五戒と申すは色身二法の中には色法也。殺・盗・婬の三は身に犯す戒。不妄語戒・不飲酒戒は口に犯す戒。身口は色法也。
此の戒を持つに作・無作・表・無表と云う事有り。作と表と同じ事也。無作と無表も同じ事也。表と申す事は戒を持たんと思ひて師を請ず。中国は十人、辺国は五人。或は自誓戒もあり。道場を荘厳し焼香懺悔して師は高座にして戒を説けば今の受くる者左右の十指を合わせて持つと云ふ。是れを表色と云ひ作とも申す。此の身口の表作に依て必ず無表無作の戒体は発する也。世親菩薩云く ̄無欲無表離表而生〔欲の無表は表を離れて生ずること無し〕文。此の文は必ず表有って、無表色は発すと見えたり。無表色を優婆塞五戒経の説には_譬如有面有鏡則有像現。如是因作便有無作〔譬へば面有り鏡有れば則ち像現有るが如し。是の如く作に因って便ち無作有り〕云云。此の文には鏡は第六心王なり。面は表色合掌の手なり。像は発する所の無表色也。
又倶舎論に云く ̄無表依止大種転時 如影依樹光依珠宝〔無表の大種に依止して転ずる時、影は樹に依り光は珠宝に依るが如し〕云云。此の文は表色は樹の如く珠の如し。無表色は影の如く光の如しと見えたり。
此れ等の文を以て表・無表、作・無作を知るべし。五戒を受持すれば人の影の身に添ふが如く、身を離れずして有る也。此の身失すれば未来には其の影の如くなる者は遷るべき也。色界・無色界の定共戒の無表も同じ事也。又悪を作るも其の悪の作・表に依て地獄・餓鬼・畜生の無作・無表色を発して悪道に堕ちる也。
但し小乗経の意は、此の戒体をば尽形寿一業引一生の戒体と申す也。尽形寿一業引一生と申すは此の身に戒を持ちて其の戒力に依て無表色は発す。此の身と命と捨て尽くして彼の戒体に遷る也。一度人間天上に生ずれば、此の戒体を以て二生三生と生るゝこと無し。只一生にて其の戒体は失ひぬる也。譬へば土器を作って一度つかひて後の用に合わざるが如し。倶舎論に云く ̄別解脱律儀尽寿或昼夜〔別解脱の律儀は尽寿と或は昼夜なり〕云云。又云く ̄一業引一生云云。此の文に尽寿一生等と云へるは尽形寿と云ふ事也。天台大師の御釈に三蔵尽寿と釈し給へり。
然るに此の戒体をば不可見無対色と申して凡夫の眼には見えず、但し天眼を以て之を見る。定中には心眼を以て之を見ると云へり。
然るに私に此の事を勘へたるに、既に優婆塞五戒経に有面有鏡則有像現と云ひて、鏡を我が心に譬へ、面を我が表業に譬へ、像をば無表色に譬ふ。既に我が身に五根有り、左右の十指を合すれば五影を生ず。知んぬべし。実に無表色も五根十指の如くなるべきを。又倶舎論に中有を釈するに ̄同浄天眼見。業通疾具根〔同じと浄天との眼に見ゆ。業通あり、疾なり、根と具す〕云云。此の文分明也。無表色に五根の形有らばこそ、中有の身には五根を具すとは釈すらめ。提謂経の文を見るに、人間の五根・五蔵・五体は五戒より生ずと見えたり。乃至、依報の国土の五方・五行・五味・五星、皆五戒より生ずと説けり。止観弘決に委しく引かれたり。
されば戒体は微細の青・黄・赤・白・黒・長・短・方・円の形也。止観弘決の六に云く ̄如提謂経中。木主東方 東方主肝 肝主眼 眼主春 春主生 生存則木安。故云不殺以防木。金主西方 西方主肺 肺主鼻 鼻主秋 秋主収。収蔵則金安。故云不盗以防金。水主北方 北方主腎 腎主耳 耳主冬 婬盛則水増。故云不婬以禁水。土主中央 中央主脾 脾主身 土王四季。故提謂経云 不妄語主如四時。身遍四根。妄語亦爾。遍於諸根 違心説故。火主南方 南方主心 心主舌 舌主夏 酒乱増火。故不飲酒以防火〔提謂経の中の如し。木は東方を主どる 東方は肝を主どる 肝は眼を主どる 眼は春を主どる 春は生を主どる 生存すれば則ち木安し。故に不殺と云ひて以て木を防む。金は西方を主どる 西方は肺を主どる 肺は鼻を主どる 鼻は秋を主どる 秋は収を主どる。収蔵すれば則ち金安し。故に不盗と云ひて以て金を防む。水は北方を主どる 北方は腎を主どる 腎は耳を主どる 耳は冬を主どる 婬盛んなれば則ち水増す。故に不婬と云ひて以て水を禁む。土は中央を主どる 中央は脾を主どる 脾は身を主どる 土は四季に王たり。故に提謂経に云く 不妄語は四時の如しと。身は四根に遍す。妄語も亦爾なり。諸根に遍し、心に違して説くなり。火は南方を主どる 南方は心を主どる 心は舌を主どる 舌は夏を主どる 酒乱れば火を増す。故に不飲酒以て火を防む〕[文]。
此の文は天台大師、提謂経の文を以て釈し給へり。されば我等が見る所の山河・大海・大地・草木・国土は、五根・十指の尽形寿の五戒にてまうけ(儲)たり。五戒破るれば此の国土次第に衰へ、又重ねて五戒を持たずして此の身の上に悪業を作れば、五戒の戒体破失して三途に入るべし。是れ凡夫の戒体也。
声聞・縁覚はこの表色の身と無表色の戒体を、苦・空・無常・無我と観じて見惑を断ずれば、永く四悪趣を離る。又重ねて此の観を思惟して思惑を断じ三界の生死を出づ。妙楽の釈に云く ̄破見惑故離四悪趣。破思惑故離三界生〔見惑を破るが故に四悪趣を離る。思惑を破るが故に三界の生を離る〕[文]。
此の二乗は法華已前の経には、灰身滅智の者、永不成仏と嫌われし也。灰身と申すは、十八界の内、十界半の色法を断ずる也。滅智と申すは、七心界半を滅する也。
此の小乗経の習ひは、三界より外に浄土有りと云はず。故に外に生処無し。小乗の菩薩は未断見思(未だ見思を断ぜざる)故に凡夫の如し。仏も見思の惑を断尽して入滅すと習ふが故に、菩薩・仏は凡夫・二乗の所摂也。
此の教の戒に三あり。欲界の人天に生るゝ戒をば律儀戒と云ふ也。色界・無色界へ生るゝ戒をば定共戒と云ふ也。声聞・縁覚の見思断の、無漏の智と共に発得する戒をば道共戒と名づく。天台の釈に云く ̄今言戒者 有律儀戒・定共戒・道共戒。此名源出三蔵。律是遮止儀是形儀。能止形上諸悪。故称為戒。定是静摂。入定之時 自然調善防止諸悪也。道是能通。発真已後自無毀犯。初果耕地虫離四寸道共力也〔今戒と言ふは、律儀戒・定共戒・道共戒有り。此の名の源は三蔵より出でたり。律は是れ遮止、儀は是れ形儀なり。能く形上の諸悪を止む。故に称して戒と為す。定は是れ静摂なり。入定の時、自然に調善にして諸悪を防止する也。道は是れ能通なり。真を発して已後、自ら毀犯無し。初果、地を耕すに、虫、四寸を離る、道共の力也〕[文]。
又表業無けれども無表色を発得する事之有り。光法師云く ̄如是十種別解脱律儀 非必定依表業而発〔是の如き十種の別解脱律儀は、必定、表業に依て発するに非ず〕云云。此の文は表業無けれども無表色発することありと見えたり。 第二に権大乗の戒体とは、諸経に多しと云へども梵網経・瓔珞経を以て本と為す。梵網経は華厳経の結経。瓔珞経は方等部、浄土の三部経等の結経なり。されば法華已前の戒体をば此の二経を以て知るべし。
梵網経の題目に云く_梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品[文]。此の題目を以て人天・二乗を嫌ひ、仏因仏果の戒体を説かざると知るべき也。されば天台の御釈に云く ̄所被之人唯為大士不為二乗〔被る所の人は唯大士の為にして二乗の為にせず〕。又云く ̄既別部外称菩薩戒経〔既に別に部の外に菩薩戒経と称す〕[文]。又云く ̄於三教中即是頓教。明仏性常住一乗妙旨〔三教の中に於ては即ち是れ頓教なり。仏性常住一乗の妙旨を明かす〕[文]。三教と申すは頓教は華厳経、漸教は阿含・方等・般若、円教は法華・涅槃也。一乗と申すは未開会の一乗也。法華の意を以て嫌はん時は、宣説菩薩歴劫修行と下すべき也。
又梵網経に云く_一切発心菩薩亦誦〔一切発心の菩薩も亦誦すべし〕[十信当之]。十発趣[十住] 十長養「十行」 十金剛[十向]。又云く_十地仏性常住妙界[已上]。四十一位、又は五十二位。此の経と華厳経には四十一位、又五十二位の論、之有り。此の経を権大乗と云ふ事は、十重禁戒・四十八軽戒を七衆同じく受くる故に小乗経には非ず。又疑ふべき処は、華厳・梵網の二経には別円二経を説く。別教の方は法華に異なるべし。円教の方は同じかるべし。
されば華厳経には_初発心時便成正覚〔初発心の時、便ち正覚を成ず、と〕。梵網経には_衆生受仏戒即入諸仏位位同大覚已真是諸仏子〔衆生、仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入り、位、大覚に同じ。已に真に是れ諸仏の子なり〕[文]。
答て云く、法華已前の円の戒体を受けて、其の上に生身得忍を発得する也。或は法華已前の円の戒体は別教の摂属なり。法華の戒体は受・不受を云はず。開会すれば戒体を発得する事、復是の如し。此の経の十重禁戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪婬戒・第四不妄語戒・第五不{酉+古}酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不自讃毀他戒・第八不慳貪戒・第九不瞋恚戒・第十不謗三宝戒なり。又瓔珞経の戒は、題目に菩薩瓔珞本業経と云へり。此の経も梵網経の如く菩薩戒也。此の経に五十二位を説く。経に云く_若退若進者十住以前一切凡夫。若一劫二劫乃至十劫。修行十信得入十住〔若しは退き若しは進むは、十住以前の一切の凡夫なり。若しは一劫二劫乃至十劫。十信を修行して十住に入ることを得〕云云。又云く_十住・十行・十回向・十地・等覚妙覚云云。此の経は一一の位に多劫を歴て仏果を成ず。菩薩は十信の位にして仏果の為に十無尽戒を持つ。二乗と成らん為に非ず。故に住前十信の位にして退すれば悪道に堕つ。又人天に生じて生を尽くせども戒体は失はず。無量劫を歴て仏果に至るまで壊れずして金剛の如くにて有る也。
此の経に云く_凡聖戒尽心為体。是故心亦尽戒亦尽。菩薩戒有受法而無捨法 有犯不失尽未来際〔凡聖の戒は尽く心を体と為す。是の故に心亦尽くれば戒も亦尽く。菩薩戒は受法のみ有って而も捨法無く、犯有れども失せず未来際を尽くす〕。又云く_心無尽故戒亦無尽〔心無尽なるが故に戒も亦無尽なり〕[文]。又云く_仏子受無尽戒已 其受者過度四魔越三界苦 従生至生不失此戒。常随行人乃至成仏〔仏子、無尽戒を受け已れば、其の受くる者、四魔を過度し三界の苦を越え、生より生に至るまで此の戒を失はず。常に行人に随ひ、乃至、成仏す〕[文]。
天台大師の云く ̄三蔵尽寿菩薩至菩提爾時即廃〔三蔵は寿を尽くし、菩薩は菩提に至り、爾時に即ち廃す〕[文]。
此の文は小乗戒は凡夫・聖人・二乗の戒共に尽形寿の戒。菩薩戒は凡夫より仏果に至るまで、其の中間に無量無辺劫を歴れども戒体は失せずと云ふ文也。
されば此の戒を持ちて犯すれども猶お二乗・外道に勝れたり。故に経に云く_有而犯者 勝無不犯。有犯名菩薩 無不犯名外道〔有って而も犯する者は、無くして犯せざるに勝れたり。有って犯するも菩薩と名づけ、無きは犯せざるも外道と名づく〕[文]。此の文の意は、外道は菩薩戒を持たず、犯さずとも菩薩とは名づけず。菩薩は戒を破犯すれども、仏果の種子は破失せざる也。
此の梵網・瓔珞の二経は心を戒体と為す様なれども、実には色処を戒体と為す也。小乗には身口を本体と為し、大乗には心を本体と為すと申すは一往の事也。実には身口の表を以て戒体を発す。戒体は色法也。故に大論に云く ̄戒是色法〔戒は是れ色法なり〕[文]。故に天台の梵網経の疏に正しく戒体を出だす。 ̄第二出体者 初戒体者不起而已。起即性無作色〔第二に体を出だすとは、初めに戒体とは起らずして而も已ぬ。起れば即ち性無作の色なり〕[文]。不起而已とは、表なければ戒体発せずと云ふなり。起即性無作色とは、戒体は色法と云ふ文也。近来唐土の人師、梵網・法華の戒体の不同を弁へず雑乱して天台の戒体を談じ失へり。
瓔珞経の十無尽戒とは、第一不殺生戒・第二不偸盗戒・第三不邪婬戒・第四不妄語戒・第五不{酉+古}酒戒・第六不説四衆過罪戒・第七不慳貪戒・第八瞋恚戒・第九不自讃毀他戒・第十不謗三宝戒也。梵網・瓔珞の十重禁戒・十無尽戒も初めに五戒を連ねたり。大小乗の戒は五戒を本と為す。故に涅槃経には具足根本業清浄戒とは是の五戒の名也。一切の戒を持つとも五戒無ければ諸戒具足すること無し。五戒を持てば諸戒を持たざれども諸戒を持つに為りぬ。諸戒を持つとも五戒を持たざれば諸戒も持たれず。故に五戒を具足根本業清浄戒と云ふ。されば天台の釈に云く ̄五戒既是菩薩戒根本矣〔五戒は既に是れ菩薩戒の根本なりと〕。諸戒の模様を知らんと思はば能く能く之を習ふべし。 第三に法華開会の戒体とは、仏因仏果の戒体也。唐土の天台宗の末学、戒体を論ずるに或は理心を戒体と云ひ、或は色法を戒体と論ずれども、未だ梵網・法華の戒体の差別に委しからず。法華経一部八巻二十八品、六万九千三百八十四字、一一の文字、開会の法門実相常住の無作の妙色に非ずという事莫し。此の法華経は三乗・五乗・七方便・九法界の衆生を皆毘盧遮那の仏因と開会す。三乗は声聞・縁覚・菩薩、五乗は三乗に人天を加へたり。七方便は蔵通の二乗四人、三蔵教の菩薩、通教の菩薩、別教の菩薩三人、已上七人。九法界は始め地獄より終り菩薩界に至るまで、此れ等の衆生の身を押さへて仏因と開会する也。其の故は、此れ等の衆生の身は皆戒体也。
但し疑はしき事は、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四道は戒を破りたる身也。全く戒体無し。人・天・声聞・縁覚の身は尽形寿の戒に酬ひたり。既に一業引一生の戒体、因は是れ善悪、果は是れ無記の身也。其の因既に去りぬ。何なる善根か有て法華の戒体と成るべき哉。菩薩は又無量劫を歴て成仏すべしと誓願して発得せし戒体也。須臾聞之即得究竟の戒体と成るべからず。此れ等の大なる疑ひ有る也。
然るを法華経の意を以て之を知れば、十界共に五戒也。其の故は、五戒破れたるを四悪趣と云ふ。五戒は失ひたるに非ず。譬へば家を造りてこぼち置きぬれば材木と云ふ物なり。数の失せたるに非ず。然れども人の住むべき様無し。還て家と成れば又人住むべし。
されば四悪趣も五戒の形は失はず。魚鳥も頭有り、四支有る也。魚のひれ四つ有り。即ち四支也。鳥は羽と足と有り、是れも四支也。牛馬も四足あり、二の前の足は即ち手也。破戒の故に四足と成りてすぐにたゝざる也。足の多く有る者も四足の多く成りたるにて有る也。蠕蛇(やまかゞち)の足無く腹ばひ行くも、四足にて歩むべきことはりなれども、破戒の故に足無くして歩むにて有る也。畜生道此の如し。餓鬼道は多くは人に似たり。地獄は本の人身也。苦を重く受けん為に本身を失はずして化生する也。
大覚世尊も五戒を持ちたまへる故に浄飯王宮に生れたまへり。諸の法身の大士、善財童子・文殊師利・舎利弗・目連も皆天竺の婆羅門の家に生まれて、仏の化儀を助けんとて、皆人の形にて御座しき。梵天・帝釈の天衆たるも、龍神・修羅の悪道の身も、法華経の座にしては皆人身たりき。此れ等は十界に互りて五戒が有りければこそ、人身にては有るらめ。諸経の座にては四悪趣の衆生、仏の御前にて人身たりし事は不審なりし事也。
舎利弗を始めとして千二百の阿羅漢、梵王・帝釈・阿闍世王等の諸王、韋提希等の諸の女人、皆、欲令衆生。開仏知見。使得清浄故〔衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に〕と開会せし事は、五戒を以て得たる六根・六境・六識を改めずして押さへて仏因と開会する也。龍女が即身成仏は、畜生蛇道の身を改めずして、三十二相之即身成仏也。畜生の破戒にて表色なき身も三十二相の無表色の戒体を発得するは、三悪道の身即五戒たる故也。
されば妙楽大師の釈には五戒を十界に互し給へり。 ̄別論雖然通意可知。余色・余塵・余界亦爾。是故須明仁譲等五〔別して論ずれば、然りと雖も通の意と知るべし。余色・余塵・余界も亦爾り。是の故に須らく仁譲等の五を明かすべし〕云云。
余色とは、九界の身、余塵とは、九界の依報の国土、余界とは、九界也。此の文は人間界を本として五常五戒を余界へ互す也。
但し持たざる五戒は、如何に三悪道には有りけるぞと云ふに、三悪道の衆生も人間に生まれたりし時、五戒を持ちて其の五戒の報ひを得ずして三途に堕ちたる衆生も有り。是の善根をば未酬の善根と云ふ。又既に人間に生まれたる事もあり。是れをば已酬の善根と云ふ。又無始の色身有り。此れ等の善根を押さへて正了縁の三仏性と開会する時、我が身に善根有りとも思はざるに、此の身を押さへて_欲令衆生。開仏知見。使得清浄故〔衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に〕と説かるゝは、人天の果報に住する五戒十善も、権乗に趣ける二乗も菩薩も、_皆已成仏道〔皆已に仏道を成じき〕 汝等所行 是菩薩道〔汝等が所行は 是れ菩薩の道なり〕と説かれたる也。
されば天台の御釈に云く ̄昔方便未開 住謂果報。今開方便行即是縁因仏性能趣菩提〔昔は方便未だ開せず、果報に住すと謂へり。今方便の行、即ち是れ縁因仏性と開するに能く菩提に趣かしむ〕云云。妙楽大師は ̄趣向権乗道者 以一実観一大弘願礼之導之〔権乗の道に趣向せし者も、一実の観、一大の弘願を以て之を礼し之を導く〕云云。
是の如く意を得る時、九界の衆生の身を仏因と習へば五戒即仏因也。法華以前の経には此の如き説無き故に、凡夫・聖人の得道は有名無実〔名のみ有って実無き〕也。
されば此の経に云く_但離虚妄 名為解脱 其実未得 一切解脱〔但虚妄を離るるを 解脱を得と名く 其れ実には未だ 一切の解脱を得ず〕[文]。愚かなる学者は、法華已前には二乗計り色心を滅する故に得道を成ぜず。菩薩・凡夫には得道を成ずべしと思へり。爾らざる事也。十界互具する故に妙法也。さるにては十界に互りて二乗・菩薩・凡夫を具足せり。故に二乗を成仏せずと云はば、凡夫・菩薩も成仏せずと云ふ事也。法華の意は、一界の成仏は十界の成仏也。法華已前には仏も実仏に非ず。九界を隔てし仏なる故に。何に況んや九界をや。
されば天台大師は一代聖教を十五遍御覧有りき。陳隋二代の国師として造り給ひし文は、天竺・唐土・日本に、玄義・文句・止観の三十巻はもてなされたり。御師は六根清浄の人南岳大師也。此の人の御釈の意一遍に此れ在り。
此の人を人師と申して、さぐるならば経文分明也。無量義経に云く_四十余年。未顕真実〔四十余年には未だ真実を顕さず〕云云。法華已前は虚妄方便の説なり。法華已前にして一人も成仏し、浄土にも往生してあらば、真実の説にてこそあらめ。又云く_過無量無辺不可思議阿僧祇劫。終不得成。無上菩提〔無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず〕[文]。法華経には正直捨方便 但説無上道〔正直に方便を捨てて 但無上道を説く〕云云。法華経已前の経は不正直の経、方便の経。法華経は正直の経、真実の経也。法華経已前に衆生の得道があらばこそ、行じ易き観経に付きて往生し、大事なる法華経は行じ難ければ行ぜじと云はめ。
但し釈迦如来の御経の様に意得べし。観経等は此の法華経へ教へ入れん方便の経也。浄土の往生して成仏を知るべしと説くは、権経の配立、観経の言説也。真実には此土にて我が身を仏因と知って往生すべき也。此の道理を知らずして浄土宗の日本の学者、我が色心より外の仏国土を求めさする事は、小乗経にもはづれ、大乗にも似ず。師は魔師、弟子は魔民。一切衆生の其の教を信ずるは三途の主也。法華経は理深解微〔理は深く解は微なり〕我が機に非ず。毀らばこそ罪にてはあらめと云ふ。是れは毀るよりも法華経を失ふにて一人も成仏すまじき様にて有る也。設ひ毀るとも人に此の教を教へ知らせて、此の教をもてなさば、如何かは苦しかるべき。毀らずして此の経を行ずる事を止めんこそ弥いよ怖き事にては候へ。此れを経文に説かれたり。_若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 或復・蹙 而懐疑惑〔若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん 或は復・蹙して 疑惑を懐かん〕。其人命終 入阿鼻獄〔其の人命終して 阿鼻獄に入らん〕。従地獄出 当堕畜生 若狗野干〔地獄より出でては 当に畜生に堕つべし 若し狗野干としては〕。或生驢中 身常負重〔或は驢の中に生れて 身に常に重きを負い〕。於此死已 更受蟒身〔此に於て死し已って 更に蟒身を受けん〕。常処地獄 如遊園観 在余悪道 如己舎宅〔常に地獄に処すること 園観に遊ぶが如く 余の悪道に在ること 己が舎宅の如く〕[文]。
此の文を各御覧有るべし。若人不信と説くは末代の機に協はずと云ふ者の事也。毀謗此経の毀はやぶると云ふ事也。法華経の一日経を皆停止して称名の行に成し、法華経の如法経を浄土の三部経に引き違へたる、是れを毀と云ふ也。権教を以て実教を失ふは、子が親の頚を切りたるが如し。又観経の意にも違ひ、法華経の意にも違ふ。謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず、行ぜざるも即ち謗也。則断一切 世間仏種〔則ち一切世間の 仏種を断ぜん〕と説くは、法華経は末代の機に協はずと云ひて一切衆生の成仏すべき道を閉づる也。或復・蹙〔或は復・蹙して〕と云へるは、法華経を行ずるを見てくちびるをすくめて、なにともなき事をする者かな。祖父が大なる足の履、小さき孫の足に協はざるが如くなんど云ふ者也。而懐疑惑〔疑惑を懐かん〕とは、末代に法華経なんどを行ずるは実とは覚へず、時に協はざる者をなんど云ふ人也。此の比の在家の人毎に未だ聞かざる先に天台・真言は我が機に協はずと云へるは、只天魔の人にそひて生まれて思はする也。
妙楽大師の釈に云く ̄故知無心趣宝所 化城之路一歩不成〔故に知んぬ。心、宝所に趣くこと無くんば、化城の路一歩も成らず〕[文]。法華経の宝所を知らざる者は、同居の浄土・方便土の浄土へも至るまじき也。又云く ̄縦有宿善如恒河沙 終無自成菩提之理〔縦ひ宿善有ること恒河沙の如くなるも、終に自ら菩提を成ずるの理無し〕[文]。称名・読経・造像・起塔・五戒・十善・色無色の禅定、無量無辺の善根有りとも、法華開会の菩提心を起こさん者は、六道四生をば全く出でまじき也。 法華経の悟りと申すは易行の中の易行也。只五戒の身を押さへて仏因と云ふ事也。五戒の我が体は即身成仏とも云はれざる也。小乗の意、権大乗のをきて(約束)は、表にて無表を発す。此の法華経は三世の戒体也。已酬・未酬倶に仏因と説いて、三悪道の衆生も戒体を発得す。龍女が三十二相の戒体を以て知んぬべし。況んや人・天・二乗・菩薩をや。法華経一部に列なれる九界の衆生は、皆即身成仏にて之有りし也。
止観に云く ̄中道之戒 無戒不備 是名具足。持中道戒〔中道の戒は、戒として備はらざること無し。是れを具足と名づく。中道の戒を持つなり〕云云。中道の戒とは、法華の戒体也。無戒不備とは、律儀・定・道の戒也。此の五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界を具足す。我が身に十界を具すと意得し時、欲令衆生 仏之知見、と説いて、自心に一分の行無くして即身成仏する也。尽形寿の五戒の身を改めずして仏身と成る時は、依報の国土も又押さへて寂光土也。
妙楽の釈に云く ̄豈離伽耶別求常寂。非寂光外別有娑婆〔豈に伽耶を離れて別に常寂を求めん。寂光の外に別に娑婆有るに非ず〕[文]。法華已前の経に説ける十方の浄穢土は、只仮設の事に成りぬ。
又妙楽大師の釈に云く ̄不見国土浄穢差品〔国土、浄穢の差品を見ず〕云云。又云く ̄衆生自於仏依正中生殊見苦楽昇沈。浄穢宛然成壊斯在〔衆生自ら仏の依正の中に於て殊見を生じて、苦楽昇沈す。浄穢宛然として成壊斯に在り〕[文]。
法華の覚りを得る時、我等が色心生滅の身、即ち不生不滅也。国土も爾の如し。此の国土の牛馬六畜も皆仏也。草木日月も皆聖衆也。
経に云く_是法住法位 世間相常住〔是の法は法位に住して 世間の相常住なり〕[文]。此の経を意得る者は、持戒・破戒・無戒、皆開会の戒体を発得する也。経に云く_是名持戒 行頭陀者〔是れを戒を持ち 頭陀を行ずる者と名く〕云云。
法華経の悟りと申すは、此の国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一つと知る也。経に云く_観三千大千世界。乃至無有。如芥子許。非是菩薩。捨身命処〔三千大千世界を観るに、乃至芥子vの如き許りも、是れ菩薩にして身命を捨てたもう処に非ることあることなし〕[文]。此の三千大千世界は、皆釈迦如来の菩薩にておはしまし候ひける時の御舎利也。我等も此の世界の五味をなめて設けたる身なれば、又我等も釈迦菩薩の舎利也。故に経に云く_今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子〔今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり〕等云云。法華経を知ると申すは此の文を知るべきなり。我有と申す有は其れ真言宗に非ざれば知り難し。但し天台は真性軌と釈し給へり。舎利と申すは天竺の語、此土には身と云ふ。我等衆生も則ち釈迦如来の御舎利也。
されば多宝塔と申すは我等が身。二仏と申すは自身の法身也。真実には人天の善根を仏因と申すは、人天の身が釈迦如来の舎利なるが故也。法華経を是の体に意得れば、則ち真言の初門也。
此の国土、我等が身を、釈迦菩薩成就の時、其の菩薩の身を替へずして成仏し給へば、此の国土、我等が身を捨てずして、寂光浄土・毘盧遮那仏にて有る也。十界具足の釈迦如来の御舎利と知るべし。此れをこそ大日経の入漫荼羅具縁品には慥かに説かれたる也。
真言の戒体は、人、之を見て師に依らずして相承を失ふべし。故に別に記して一具に載せず。但標章に載する事は、人をして顕教より密教の勝るゝを知らしめんが為也。 仁治三年[壬寅]