当体義鈔
当体義鈔(原文漢文)
文永十年。五十二歳著。
内二三ノ九。遺一五ノ一〇。縮九八八。類六九一。 問ふ、妙法蓮華経とは其体何物ぞや。答ふ、十界の依、正即ち妙法蓮華の当体なり。問ふ、若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云はるべきか。答ふ、勿論なり。経に云く「所謂諸法(乃至)本末究竟等」云云。妙楽大師云く「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土」云云。天台云く「十如、十界、三千の諸法は、今経の正体なるのみ」云云。南岳大師云く「云何なるを名けて妙法蓮華経と為すや。答ふ、妙とは衆生妙なるが故に、法とは即ち是衆生法なるが故に」云云。又天台釈して云く「衆生法妙」と云云。問ふ、一切衆生の当体即ち妙法の全体ならば、地獄、乃至九界の業因、業果も皆是妙法の体なりや。答ふ、法性の妙理には染、浄の二法有り。染法は熏じて迷となり、浄法は熏じて悟となる。悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり。此迷悟の二法は二なりと雖も然も法性真如の一理なり。譬へば水精の玉の日輪に向へば火を取り、月輪に向へば水を取る。玉の体は一なれども縁に随つて其功同じからざるが如し。真如の妙理も亦復是の如し、一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇へば迷となり善縁に遇へば悟となる。悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり。譬へば人夢に種種の善悪の業をみ、夢覚めて後に之を思へば我が一心に見る所の夢なるが如し。一心は法性真如の一理なり、夢の善悪は迷悟の無明法性なり。是の如く意得れば悪迷の無明をすてゝ善悟の法性を本となすべきなり。大円覚脩多羅了義経に云く「一切諸衆生、無始幻無明、皆従諸如来円覚心建立」云云。天台大師の止観に云く「無明の痴惑本是法性なり、痴迷を以ての故に法性変じて無明と作る」云云。妙楽大師の釈に云く「理性は体なし全く無明に依る。無明体なし全く法性に依る」云云。無明は所断の迷、法性は所証の理なり。何ぞ体一なりと云ふやと云へる不審をば、此等の文義を以て意得べきなり。大論九十五の夢の譬、天台一家の玉の譬誠に面白く思ふなり。正しく無明法性其体一なりと云ふ証拠は法華経に云く「是法住法位世間相常住」云云。大論に云く「明と無明と異なく別なし、是の如く知るをば是を中道と名く」云云。但真如の妙理に染、浄の二法ありと云ふ事証文これ多しと雖も、華厳経に云く「心仏及衆生是三無差別」の文と、法華経の諸法実相の文とには過べからざるなり。南岳大師の云く「心体に染、浄の二法を具足して、而も異相なく一味平等なり」云云。又明鏡の譬、真実に一二なり。委くは大乗止観の釈の如し。又能き釈には(籤の六に云く)「三千理に在れば同く無明と名け、三千果成ずれば咸く常楽と称し、三千改むる事なければ無明即明。三千並に常なれば倶体倶用なり」文。此釈分明なり。問ふ、一切衆生皆悉く妙法蓮華の当体ならば我等が如き愚痴闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや。答ふ、当世の諸人これ多しと雖も二人を出でず。謂権教の人、実教の人なり。而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云はるべからず。実教の法華経を信ずる人は即ち当体の蓮華、真如の妙体是なり。涅槃経に云く「一切衆生信大乗故名大乗衆生」文。南岳大師の四安楽行に云く「大強精進経に云く、衆生与如来同共一法身清浄妙無比称妙法蓮華経」文。又云く「法華経を修行するは此一心一学に衆果普く備はり、一時に具足して次第入に非ず。亦蓮華の一華に衆果を一時に具足するが如し。是を一乗の衆生の義と名く」文。又云く「二乗、声聞及び鈍根の菩薩は方便道の中に次第に修学す。利根の菩薩は正直に方便を捨てゝ次第行を修せず。若法華三昧を証すれば衆果悉く具足す、是を一乗の衆生と名く」文。南岳の釈の意は次第行の三字をば当世の学者は別教なりと料簡す。然るに此釈の意は法華の因果具足の道に対して方便道を次第行と云ふ。故に爾前の円、爾前の諸大乗経並びに頓漸大小の諸経なり。証拠は無量義経に云く「次説方等十二部経、摩訶般若、華厳海空、宣説菩薩歴劫修行」文。大強精進経の同共の二字に習ひ相伝するなり。法華経に同共して信ずる者は妙経の体なり。不同共の念仏者等は既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ず。利根の菩薩は正直に方便を捨てゝ次第行を修せず、若法華経を証する時は衆果悉く具足す、是を一乗の衆生と名くるなり。此等の文の意を案ずるに三乗、五乗、七方便、九法界、四味、三教、一切の凡聖等をば大乗の衆生妙法蓮華の当体とは名くべからざるなり。設ひ仏なりと雖も権教の仏をば仏界の名言を付くべからず。権教の三身は未だ無常を免れざる故に、何に況や其余の界界の名言をや。故に正、像二千年の国王、大臣よりも末法の非人は尊貴なりと釈するも此意なり。所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり。南岳釈して云く「一切衆生は法身の蔵を具足す。仏と一にして異り有る事なし。〇是故に法華に云く「父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」文。又云く「問て云く、仏何れの経の中に眼等の諸根を説て名けて如来とするや。答へて云く、大強精進経の中に「衆生与如来同共一法身清浄妙無比称妙法蓮華経」文。文他経にありと雖も下の文顕れ已れば通じて引用する事を得るなり。正直に方便を捨てゝ但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は煩悩、業、苦の三道、法身、般若、解脱の三徳と転じて、三観、三諦即一心に顕れ、其の人の所住之処は常寂光土なり。能居、所居、身土、色心、倶体倶用、無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり。是即ち法華の当体自在神力の顕す所の功能なり。敢て之を疑ふべからず、之を疑ふべからず。問ふ。天台大師妙法蓮華の当体譬喩の二義を釈し給へり。爾れば其当体譬喩の蓮華の様は如何。答ふ、譬喩の蓮華とは施、開、廃の三釈委く之を見るべし。当体蓮華の釈は玄義の第七に云く「蓮華は譬に非ず当体に名を得、類せば劫初に万物名なし、聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文。又云く「今蓮華の称は是喩を仮るに非ず、乃ち是法華の法門なり。法華の法門は清浄にして因果微妙なり、此法門を名けて蓮華となす。即ち是法華三昧の当体の名にして譬喩に非ず」。又云く「問ふ、蓮華定んで是法華三昧の蓮華なりや、定んで是華草の蓮華なりや。答ふ、定んで是法蓮華なり。法蓮華は解し難し故に草花を喩となす。利根は名に即して理を解し譬喩を仮らず。但法華の解をなす。中下は未だ悟らず譬を須ひて乃ち知る。易解の蓮華を以て難解の蓮華に喩ふ。故に三周の説法あつて上中下根に逗ふ。上根に約すれば是法の名、中下に約すれば是譬の名なり。三根合論し双て法譬を標ず。是の如く解する者は誰と諍ふ事を為んや」云云。此釈の意は至理は名なし、聖人理を観じて万物に名を付る時、因果倶時不思議の一法これあり。之を名けて妙法蓮華と為す。此妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減なし。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此法を師と為して修行覚道し給へば、妙因妙果倶時に感得し給ふが故に妙覚果満の如来と成り給ひしなり。故に伝教大師云く「一心の妙法蓮華とは因華果台倶時に増長する当体の蓮華なり。三周各各当体譬喩あり。総じて一経に皆当体譬喩あり。別して七譬、三平等、十無上の法門あつて皆当体蓮華あり。此理を詮する教を名て妙法蓮華経と為す」云云。妙楽大師の云く「須く七譬を以て各蓮華権実の義に対すべし。〇何者蓮華は只是為実施権、開権顕実七譬皆然なり」文。又劫初に華草あり、聖人理を見て号て蓮華と名く。此華草因果倶時なる事妙法蓮華に似たり。故に此華草同く蓮華と名く。水中に生ずる赤蓮華、白蓮華等の蓮華是なり。譬喩の蓮華とは此華草の蓮華なり。此華草を以て難解の妙法蓮華を顕す。天台大師の妙法難解、仮譬易顕と釈するは是の意なり。問ふ、劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや。答ふ、釈尊五百塵点劫の当初此妙法の当体蓮華を証得して、世世番番に成道を唱へ能証、所証の本理を顕し給へり。今日又中天竺摩訶陀国に出世して此蓮華を顕さんと欲すに機なく時なし。故に一の法蓮華に於て三の草華を分別し三乗の権法を施し、擬宜誘引せしこと四十余年なり。此間は衆生の根性万差なれば種種の草華を施設して終に妙法蓮華を施し給はず。故無量義経に云く「我先道場菩提樹下(乃至)四十余年未顕真実」文。法華経に至て四味、三教の方便の権教小乗種種の草華を捨てゝ唯一の妙法蓮華を説き、三の華草を開して一の妙法蓮華を顕す時、四味、三教の権人に初住の蓮華を授けしより始めて開近顕遠の蓮華に至つて、二住、三住、乃至十住、等覚、妙覚の極果の蓮華を得るなり。問ふ、法華経は何れの品、何れの文にか正しく当体譬喩の蓮華を説き分たるか。答ふ、若し三周の声聞に約して之を論ぜば、方便の一品は皆是れ当体蓮華を説けるなり。譬喩品、化城喩品には譬喩蓮華を説きしなり。但方便品にも譬喩蓮華なきにあらず、余品にも当体蓮華なきにあらざるなり。問ふ、若し爾らば正しく当体蓮華を説きし文は何れぞや。答ふ、方便品の諸法実相の文是なり。問ふ、何を以て此文が当体蓮華なりと云ふ事を知ることを得るや。答ふ、天台、妙楽今の文を引いて今経の体を釈せし故なり。又伝教大師釈して云く「問ふ、法華経は何を以て体となすや。答ふ、諸法実相を以て体となす」文。此釈分明なり当世の学者此釈を秘して名を顕さず然るに此文名けて妙法蓮華と曰ふ義なり。又現証は宝塔品の三身是現証なり。或は涌出の菩薩、龍女の即身成仏是なり。地涌の菩薩を現証となす事は経文に如蓮華在水と云ふ故なり。菩薩の当体と聞たり。龍女を証拠となす事は「詣霊鷲山坐千葉蓮華大如車輪」と説き給ふ故なり。又妙音、観音の三十三四身なり、是をば解釈には法華三昧の不思議自在の業を証得するに非ざるよりは、安ぞ能く此三十三身を現ぜんと云云。或は「世間相常住」文。此等は皆当世の学者の勘文なり。然りと雖も日蓮は方便品の文と神力品の如来一切所有之法等の文となり。此文をば天台大師も之を引て今経の五重玄を釈せしなり、殊更此一文正しき証文なり。問ふ、次上に引く所の文証、現証殊勝なり、何ぞ神力の一文に執するや。答ふ、此一文は深意ある故に殊更に吉なり。問ふ、其深意如何。答ふ、此文は釈尊本眷属地涌の菩薩に結要の五字の当体を付属すと説給へる文なる故なり。久遠実成の釈迦如来は「如我昔所願今者已満足化一切衆生皆令入仏道」とて御願既に満足し、如来の滅後後五百歳中広宣流布の付属を説かんがため地涌の菩薩を召し出して本門の当体蓮華を、要を以て付属し給へる文なれば、釈尊出世の本懐、道場所得の秘法、末法の我等が現当二世を成就する当体蓮華の誠証は此文なり。故に末法今時に於て如来の御使より外に当体蓮華の証文を知つて出す人都てあるべからざるなり。真実以て秘文なり。真実以て大事なり。真実以て尊きなり。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。(爾前円菩薩等。今経大衆有八万欲聞具足道云云是なり。)問ふ、当流の法門の意は諸宗の人来つて、当体蓮華の証文を問はん時は法華経何れの文を出すべきや。答ふ、二十八品の始めに妙法蓮華経と題す、此文を出すべきなり。問ふ、何を以て品品の題目は当体蓮華なりと云ふ事を知ることを得るや。故は天台大師今経の首題を釈する時蓮華とは譬喩を挙ると云ふて譬喩蓮華と釈し給へる者なりや。答ふ、題目の蓮華は当体譬喩を合説す。天台の今の釈は譬喩の辺を釈する時の釈なり。玄文第一の本迹の六譬は此意なり。同く第七は当体の辺を釈するなり。故に天台は題目の蓮華を以て当体譬喩の両説を釈する故に失なし。問ふ、何を以て題目の蓮華は当体譬喩合説すと云ふ事を知る事を得んや。南岳大師も妙法蓮華経の五字を釈する時「妙とは衆生妙なるが故に、法とは衆生法なるが故に、蓮華とは是譬喩を借るなり」文。南岳、天台の釈に既に譬喩蓮華なりと釈し給ふ如何。答ふ、南岳の釈も天台の釈の如し云云。但当体譬喩合説すと云事経文分明ならずと雖も、南岳、天台既に天親、龍樹の論に依て合説の意を判釈せり。所謂法華論に云く「妙法蓮華とは二種の義あり。一には出水の義、乃至泥水を出るをば諸の声聞、如来と大衆との中に入て坐し諸の菩薩の蓮華の上に坐して、如来無上智慧清浄の境界を説くを聞いて、如来の密蔵を証するが如くなるに喩ふるが故に。二に華開とは諸の衆生大乗の中に於て其心怯弱にして信を生ずること能はず。故に如来の浄妙法身を開示して信心を生ぜしめんが故なり」文。諸の菩薩の諸の字は法華已前の大小の諸菩薩、法華経に来つて仏の蓮華を得ると云事法華論の文分明なり。故に知んぬ、菩薩処処得入とは方便なり。天台此論の文を釈して云く「今論の意を解せば、若し衆生をして浄妙法身を見せしむと言はゞ、此妙因の開発するを以て蓮華とするなり。若し如来と大衆とに入るに蓮華の上に坐すると言はゞ、此は妙報の国土を以て蓮華とするなり。又天台が当体譬喩合説する様を委細に釈し給ふ時、大集経の「我今敬礼仏蓮華」と云ふ文と、法華論の今の文とを引証して釈して云く「若大集に依ば行法の因果を蓮華となす。菩薩上に処するは即ち是れ因の華なり。仏の蓮華を礼するは即ち是果の華なり。若し法華論に依れば依報の国土を以て蓮華となす。復菩薩が蓮華の行を修するに由つて、報に蓮華の国土を得。当に知るべし依正因果悉く是蓮華の法なり。何ぞ譬をもて顕すことを須ひん。鈍人の法性の蓮華を解せざる為の故に、世の華を挙げて譬となす。亦何の妨かあるべき」文。又云く「若し蓮華に非ずんば何に由つて遍く上来の諸法を喩へん。法、譬双べ弁ずる故に妙法蓮華と称するなり」文。次に龍樹菩薩の大論に云く「蓮華とは法、譬並び挙ぐるなり」文。伝教大師が天親、龍樹の二論の文を釈して云く「論の文但妙法蓮華経と名くるに二種の義あり、唯蓮華に二種の義ありと謂にはあらず。凡そ法喩とは相似するを好となす、若し相似せざれば何を以てか佗に解せしめん。是の故に釈論に法譬並び挙ぐ。一心の妙法蓮華は因華果台倶時に増長す。此の義解し難し、喩を仮れば解し易し。此理教を詮ずるを名けて妙法蓮華経となす」文。此等の論文釈義分明なり。文に在て見るべし。包蔵せざるが故に合説の義極成せり。凡そ法華経の意は譬喩即法体、法体即譬喩なり。故に伝教大師釈して云く「今経は譬喩多しと雖も、大喩は是七喩なり。此の七喩即法体、法体即譬喩なり。故に譬喩の外に法体なく法体の外に譬喩なし。但法体とは法性の理体なり、譬喩とは即ち妙法の事相の体なり。事相即理体なり、理体即事相なり。故に法、譬一体と云ふなり。是を以て論文、山家の釈に「皆蓮華を釈するには法譬並び挙ぐ」等云云。釈の意分明なる故重ねて云はず。問ふ、如来の在世に誰か当体の蓮華を証得せるや。答ふ、四味三教の時は三乗、五乗、七方便、九法界、帯権の円の菩薩並びに教主、乃至法華迹門の教主、総じて本門寿量の教主を除くの外は本門の当体蓮華の名をも聞かず。何に況や証得せんをや。開三顕一の無上菩提の蓮華尚四十余年には之を顕さず。故に無量義経に終不得成無上菩提とて迹門開三顕一の蓮華は爾前に之を説かずと云ふなり。何に況や開近顕遠本地難思境智冥合本有無作の当体蓮華をば迹化弥勒等之を知るべきや。問ふ、何を以て爾前の円の菩薩、迹門の円の菩薩は本門の当体蓮華を証得せずと云ふ事を知る事を得ん。答ふ、爾前の円の菩薩は迹門の蓮華を知らず、迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり。天台云く「権経の補処は迹化の衆を知らず、迹化の衆は本化の衆を知らず」文。伝教大師云く「是れ直道なりと雖も大直道ならず」云云。或は云く「未だ菩提の大直道を知らざるが故に」云云。此意なり。爾前、迹門の菩薩は一分断惑証理の義分ありと雖も、本門に対する時は当分の断惑にして跨節の断惑にあらず、未断惑と云はるゝなり。されば菩薩処処得入と釈すれども二乗を嫌ふ時、一往得入の名を与ふるなり。故に爾前、迹門の大菩薩が仏の蓮華を証得する事は本門の時なり。真実の断惑は寿量の一品を聞きし時なり。天台大師、涌出品の五十小劫仏神力故令諸大衆謂如半日の文を釈して云く「解者は短に即して長、五十小劫を見る。惑者は長に即して短、半日の如しと謂へり」文。妙楽之を受て釈して云く「菩薩已に無明を破す之を称して解となし、大衆仍ほ賢位に居す、之を名けて惑となす」文。
釈の意分明なり。爾前、迹門の菩薩は惑者なり。地涌の菩薩のみ独り解者なりと云ふ事なり。然るに当世天台宗の人の中に本迹の同異を論ずる時異りなしと云ひて此文を料簡するに、解者の中に迹化の衆を入れたりと云ふは大なる僻見なり。経の文釈の義分明なり。何ぞ横計をなすべけんや。文の如きは地涌の菩薩五十小劫の間、如来を称揚するを霊山迹化の衆は半日の如く謂へりと説き給へるを、天台は解者、惑者を出して迹化の衆は惑者の故に半日と思へり。是即ち僻見なり。地涌の菩薩は解者の故に五十小劫と見る。是即ち正見なりと釈し給へるなり。妙楽之を受けて無明を破する菩薩は解者なり、未だ無明を破せざる菩薩は惑者なりと釈し給ひし事文に在て分明なり。迹化の菩薩なりとも住上の菩薩をば已に無明を破する菩薩なりと云ん学者は、無得道の諸経を有得道と習ひし故なり。爾前、迹門の当分に妙覚の位ありと雖も本門寿量の真仏に望むる時は、惑者仍居賢位者と云はるゝなり。権教の三身の未だ無常を免れざる故は夢中の虚仏なるが故なり。爾前と迹化の衆とは、未だ本門に至らざる時は未断惑の者と云はれ、彼に至る時正しく初住に叶ふなり。妙楽の釈に云く「開迹顕本皆初住に入る」文。仍居賢位の釈これを思ひ合すべし。爾前、迹化の衆をば惑者未だ無明を破せざる仏、菩薩なりと云事、真実なり、真実なり。故に知んぬ、本門寿量の説顕れて後は、霊山一会の衆皆悉く当体蓮華を証得するなり。二乗、闡提、定性、女人等も悪人も、本仏の蓮華を証得するなり。伝教大師一大事の蓮華を釈して云く「法華の肝心一大事の因縁は蓮華の所顕なり。一とは一実行相なり、大とは性広博なり、事とは法性の事なり。一究竟事は円の理智行円の身、若、脱なり。一乗、三乗、定性、不定、内道、外道、阿闡、阿顛皆悉く一切智地に到る。是の一大事仏の知見を開示し悟入して一切成仏す」文。女人、闡提、定性、二乗等の極悪人霊山に於て当体蓮華を証得するを云ふなり。問ふ、末法今時誰人か当体蓮華を証得せるや。答ふ、当世の体を見るに大阿鼻地獄の当体を証得する人これ多しと雖も、仏の蓮華を証得せるの人これなし。其故は無得道の権教方便を信仰して、法華の当体真実の蓮華を毀謗する故なり。仏説いて云く「若人不信毀謗此経、則断一切世間仏種乃至其人命終入阿鼻獄」文。天台云く「此経は遍く六道の仏種を開す。若し此経を謗ぜば義、断に当れり」文。日蓮云く、此経は是十界の仏種に通ず。若し此経を謗ぜば義、是十界の仏種を断ずるに当る。是の人無間に於て決定して堕在す、何ぞ出る期を得んや。然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法、邪師の邪義を捨てゝ、正直に正法、正師の正義を信ずる故に、当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱ふるが故なり。問ふ、南岳、天台、伝教等の大師法華経に依つて一乗円宗の教法を弘通し給ふと雖も未だ南無妙法蓮華経と唱へ給はざるは如何。若し爾らば此大師等は未だ当体蓮華を知らず。又証得し給はずと云ふべきや。答ふ、南岳大師は観音の化身、天台大師は薬王の化身なり等云云。若し爾らば霊山に於て本門寿量の説を聞きし時は、之を証得すと雖も在生の時は妙法流布の時に非ず。故に妙法の名字を替へて止観と号して、一念三千、一心三観を修し給ひしなり。但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱ふる事を自行真実の内証と思食されしなり。南岳大師の法華懺法に云く「南無妙法蓮華経」文。天台大師云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文。又云く「稽首妙法蓮華経」云云。又帰命妙法蓮華経」云云。伝教大師の最後臨終の十生願の記に云く「南無妙法蓮華経」云云。問ふ、文証分明なり。何ぞ是の如く弘通し給はざるや。答ふ、此に於て二意あり、一には時の至らざるが故に、二には付属に非ざるが故なり。凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり、地涌千界の大士の付属なり。是の故に南岳、天台、伝教等は内に鑑みて、末法の導師に之を譲つて弘通し給はざりしなり。
日蓮花押
(啓三〇ノ一四。鈔一八ノ四一。語三ノ五四。音下ノ三〇。科三ノ二二。拾五ノ四六。扶一一ノ三九。)