弥源太入道殿御消息
執筆年:弘安元
弥源太入道殿御消息(北条第四書)
弘安元年八月。五十七歳作。
外九ノ二九。遺二五ノ二一。縮一七六三。類九四七。 一日の御帰路をぼつかなく候つる処に、御使悦入て候。御用事の御事共は伯耆殿の御文に書せて候。然に道隆の死て身の舎利となる由の事、是は何とも人不知、用まじく候へば兔角申て詮は候はず。但し仏の以前に九十五種の外道ありき、各各是を信じて仏に成ると申す。又皆人も一同に思て候し程に。仏世に出させ給て九十五種は、皆地獄に堕たりと説せ給しかば、五天竺の国王、大臣等は仏は所詮なき人也と申す。又外道の弟子どもも我師の上を云れて悪心をかき候。竹杖外道と申す外道、目連尊者を殺せし事是也。苦得外道と申せし者を、仏記して云、七日の内に死して食叶鬼と成べしと説せ給しかば外道瞋をなす。七日の内に食叶鬼と成たりしかば、其を押隠して得道の人の御舎利買べしと云き。其より外に不思議なる事、不知数。但し道隆が事は見ぬ事にて候へば、如何様に候やらん。但し弘通するところの説法は共に本権教より起りて候しを、今は教外別伝と申て物にくるひて、我と外道の法と云歟。其上建長寺は現に眼前に見えて候。日本国の山寺の敵とも可謂様なれども、事を御威によせぬれば皆人恐れて不云。是は今生を重して後生は軽する故也。されば現身に彼寺の故に亡国すべき事当りぬ。日蓮は度度知て日本国の道俗の科を申せば、是は今生の禍後生の福也。但し道隆の振舞は日本国の道俗知て候へども、上を畏れてこそ尊み申せ、又内心は皆うとみて候らん。仏法の邪正こそ愚人なれば知らずとも、世間の事は眼前なれば知ぬらん。又一は不用とも、人の骨の舎利と成る事は、易く知れ候事にて候。仏の舎利は火にやけず水にぬれず、金剛のかなづち(鎚)にてうてども不摧。一くだきして見よかし。あらやすしあらやすし。建長寺は所領を取られてまどひたる男どもの入道に成て、四十、五十、六十なんどの時、走り入て候が用は無之、道隆がかげ(蔭)にしてすぎぬるなり。云に甲斐なく死ぬれば不思議にて候を、かくして暫くもすぎき。又は日蓮房が存知の法門を、人に疎ませんとこそたばかりて候らめ。あまりの事どもなれば誑惑顕れなんとす。但しばらくねう(忍)じて御覧ぜよ。根露れぬれば枝かれ
(枯)、源渇けば流尽ると申事あり。恐恐謹言。
弘安元年戊寅八月十一日 日蓮花押
弥源太入道殿
(微上ノ四〇。考四ノ八。)