如来滅後五五百歳始観心本尊抄
本朝沙門 日蓮 撰
摩訶止観第五に云く、夫一心具十法界。一法界又具十法界百法界。一界具三十種世間[世間与如是一也。開合異也]百法界即具三千種世間。此三千在一念心。若無心而已。介爾有心即具三千乃至所以称為不可思議境。意在於此等云云[或本云一界具三種世間]〔夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば[世間と如是と一也。開合の異也]百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千一念の心に在り。若し心無くんば而已。介爾も心有れば即ち三千を具す。乃至所以に称して不可思議境と為す。意此に在り等云云[或本に云く一界に三種の世間を具す]〕。
問て曰く 玄義に一念三千の名目を明かす乎。
答て曰く 妙楽曰く、明かさず。
問て曰く 文句に一念三千の名目を明かす乎。
答て曰く 妙楽云く、明かさず。
問て曰く 其の妙楽の釈、如何。
答て曰く 並に未だ一念三千と云わず等云云。
問て曰く 止観一二三四等に一念三千の名目を明かす乎。
答て曰く 之無し。
問て曰く 其の証、如何。
答て曰く 妙楽云く、故至止観正明観法並以三千而為指南〔故に止観の正しく観法を明かすに至って、並びに三千を以て而も指南と為す〕等云云。
疑て云く 玄義の第二に云く、又一法界具九法界百法界千如是〔又一法界に九法界を具すれば百法界に千如是〕等云云。文句第一に云く、一入具十法界一界又十界。十界各十如是即是一千〔一入に十法界を具すれば一界又十界なり。十界各十如是あれば即ち是一千〕等云云。観音玄に云く、十法界交互即有百法界。千種性相冥伏在心。雖不現前宛然具足〔十法界交互なれば即百法界有り。千種の性相冥伏して心に在り。現前せずと雖宛然として具足す〕等云云。
問て曰く 止観の前の四に一念三千の名目を明かす乎。
答て曰く 妙楽云く、明かさず。
問て曰く 其の証、如何。
答う 弘決第五に云く、若望正観全未論行。亦歴廿五法約事生解。方能堪為正修方便。是故前六皆属於解〔若し正観に望めば全く未だ行を論ぜず。亦廿五法に歴て事に約して解を生ず。方に能く正修の方便と為すに堪たり。是の故に前の六をば皆解に属す〕等云云。又云く、故至止観正明観法並以三千而為指南。乃是終窮究竟極説。故序中云説己心中所行法門。良有以也。請尋読者心無異縁〔故に止観の正く観法を明かすに至って、並びに三千を以て而も指南と為す。乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に説己心中所行法門と云う。良に以有る也。請う尋ね読まん者心に異縁無かれ〕等云云。
夫れ智者の弘法三十年。廿九年之間は玄文等の諸義を説いて五時八教百界千如を明し、前五百余年之間の諸非を責め、竝びに天竺の論師未だ述べざるを顕す。章安大師云く、天竺大論尚非其類。震旦人師何労及語。此非誇耀法相然耳〔天竺の大論、尚お其類に非ず。震旦の人師、何ぞ労しく語るに及ん。此れ誇耀に非ず、法相の然らしむる耳〕等云云。墓無き哉、天台の末学等、華厳・真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて還て彼等が門家と成りぬ。章安大師兼ねて此の事を歎いて言く、斯言若墜将来可悲〔斯言若し墜ちなば将来悲しむべし〕云云。
問て曰く 百界千如と一念三千と差別、如何。
答て曰く 百界千如は有情界に限り、一念三千は情非情に亙る。
不審して云く 非情に十如是れ亙らば草木に心有って有情の如く成仏を為すべきや、如何。
答て曰く 此の事、難信難解也。天台の難信難解に二有り。一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり。其の教門の難信難解とは、一仏の所説に於て爾前の諸経には二乗闡提は未来永不成仏、教主釈尊は始成正覚なり。法華経迹本二門に来至して彼の二説を壊る。一仏二言水火也。誰人か之を信ぜん。此れは教門の難信難解也。観門の難信難解とは百界千如・一念三千にして非情之上の色心の二法の十如是、是れ也。爾りと雖も木画の二像に於ては外典・内典共に之を許して本尊と為す。其の義に於ては天台一家より出たり。草木之上に色心の因果を置かずんば木画の像を本尊に恃み奉ること無益也。
疑て云く 草木国土之上の十如是の因果の二法は何れの文に出たる乎。
答て曰く 止観第五に云く、国土世間亦具十種法。所以悪国土相性体力〔国土世間亦十種の法を具す。所以る悪国土相性体力〕等云云。釈籤第六に云く、相唯在色。性唯在心。体力作縁義兼色心。因果唯心。報唯在色〔相は唯色に在り。性は唯心に在り。体力作縁は義色心を兼ぬ。因果は唯心。報は唯色に在り〕等云云。金錍論{こんべいろん}に云く、乃是一草一木一礫一塵各一仏性各一因果。具足縁了〔乃ち是れ一草一木一礫一塵各一仏性各一因果あり。縁了を具足す〕等云云。
問て曰く 出処既に之を聞く。観心之心、如何。
答て曰く 観心とは我が己心を観じて十法界を見る。是れを観心と云う也。譬ば他人の六根を見ると雖も、未だ自面の六根を見ず自具の六根を知らず。明鏡に向ふ之時始て自具の六根を見るが如し。設ひ諸経之中に所々に六道竝びに四聖を載すと雖も、法華経竝びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば、自具の十界百界千如一念三千を知らざる也。
問て曰く 法華経は何れの文ぞ。天台の釈は如何。
答て曰く 法華経第一方便品に云く、欲令衆生。開仏知見〔衆生をして仏知見を開かしめんと欲す〕等云云。是れは九界所具の仏界也。
寿量品に云く、如是我成仏已来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数〔是の如く我成仏してより已来甚だ大に久遠なり。寿命無量阿僧祇劫常住にして滅せず。諸の善男子、我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり〕等云云。此経文は仏界所具の九界也。
経に云く 提婆達多乃至天王如来等云云。地獄界所具の仏界なり。経に云く、一名藍婆乃至汝等但能護持<汝等但能擁護>。受持法華名者。福不可量等云云。是れ餓鬼界所具の十界なり。
経に云く 龍女乃至成等正覚等云云。此れ畜生界所具の十界也。
経に云く 婆稚阿修羅王乃至聞一偈一句得阿耨多羅三藐三菩提等云云。修羅界所具の十界也。
経に云く 若人為仏故乃至皆已成仏道〔若し人仏の為の故に乃至皆已に仏道を成じき〕等云云。此れ人間界所具の十界也。
経に云く 大梵天王乃至我等亦如是必当得作仏〔大梵天王乃至我等亦是の如く必ず当に作仏して〕等云云。此れ天界界所具の十界也。
経に云く 舎利弗乃至華光如来等云云。此れ声聞界所具の十界也。
経に云く 其求縁覚者比丘比丘尼乃至合掌以敬心欲聞具足道〔其の縁覚を求むる者比丘比丘尼乃至合掌し敬心を以て具足の道を聞きたてまつらんと欲す〕等云云。此れ即ち縁覚界所具の十界也。
経に云く 地涌千界乃至真浄大法等云云。此れ即ち菩薩所具の十界也。
経に云く 或説己身。或説他身〔或は己身を説き、或は他身を説き〕等云云。即ち仏界所具の十界也。
問て曰く 自他の面の六根共に之を見る。彼此の十界に於ては未だ之を見ざる。如何が之を信ぜん。
答て曰く 法華経法師品に云く、難信難解なり。見宝塔品に云く、六難九易等云云。天台大師云く、二門悉与昔反難信難解〔二門悉く昔と反すれば難信難解なり〕。章安大師云く、仏将此為大事。何可得易解也〔仏此れを将て大事と為す。何ぞ解し易きことを得べけん也〕等云云。伝教大師云く、此法華経最為難信難解。随自意故〔此の法華経は最も為れ難信難解なり。随自意の故に〕等云云。
夫れ、在世の正機は過去の宿習厚き之上、教主釈尊・多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界・文殊・弥勒等、之を扶けて諌暁せしむるに猶ほ信ぜざる者之有り。五千席を去り人天移さる。況んや正像をや。何に況んや末法の初めを哉。汝之を信ぜば正法に非じ。
問て曰く 経文竝びに天台・章安等の解釈は疑網無し。但し火を以て水と云ひ墨を以て白しと云ふ。設ひ仏説為りと雖も信を取り難し。今、数〈しばしば〉他面を見るに、但人界に限って余界を見ず。自面も亦復是の如し。如何が信心を立てんや。
答ふ 数他面を見るに或時は喜び、或時は瞋り、或時は平かに、或時は貪りを現し、或時は痴かを現し、或時は諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、痴かは畜生、諂曲は修羅、喜ぶは天、平かなるは人也。他面の色法に於ては六道共に之有り。四聖は冥伏して現れざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし。
問て曰く 六道に於て分明ならずと雖も粗之を聞くに之を備ふるに似たり。四聖は全く見えず。如何。
答て曰く 前には人界の六道之を疑ふ。然りと雖も強いて之を言いて相似の言を出せり。四聖も又爾るべきか。試みに道理を添加して萬が一之を宣べん。所以、世間の無常眼前に有り。豈に人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶お妻子を慈愛す。菩薩界の一分なり。但仏界計り現じ難し。九界を具するを以て強いて之を信じ、疑惑せしむること勿れ。法華経の文に人界を説いて云く、欲令衆生。開仏知見〔衆生をして仏知見を開かしめんと欲す〕。涅槃経に云く、学大乗者雖有肉眼名為仏眼〔大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す〕等云云。末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。
問て曰く 十界互具の仏語分明なり。然りと雖も我等が劣心に仏法界を具すること、信を取り難き者也。今時、之を信ぜずば必ず一闡提と成らん。願わくは大慈悲を起こして之を信ぜしめ、阿鼻の苦を救護したまえ。
答て曰く 汝既に唯一大事因縁の経文を見聞して之を信ぜざれば、釈尊より已下の四依の菩薩、竝びに末代理即の我等、如何が汝が不信を救護せんや。然りと雖も試みに之を言わば、仏に値いたてまつりて覚らざる者は、阿難等の辺にして、得道する者之有り。其れ、機に二有り。一には仏を見たてまつり、法華にして得道す。二には仏を見たてまつらざれども法華にて得道する也。其の上、仏前の漢土の道士・月支の外道儒教・四韋陀等を以て縁と為して正見に入る者之有り。又利根の菩薩・凡夫等の華厳・方等・般若等の諸大乗経を聞きし縁を以て大通久遠の下種を顕示する者多々也。例せば独覚の飛花落葉の如し。教外の得道是れ也。過去の下種結縁無き者、権小に執着する者は、設い法華経に値い奉るとも小権の見を出ず。自見を以て正義と為るが故に、還て法華経を以て、或は小乗経に同じ、或は華厳大日経等に同じ、或は之を下す。此れ等の諸師は儒家・外道の賢聖より劣れる者也。此れ等は且く之を置く。十界互具、之を立つるは石中の火、木中の花。信じ難けれども縁に値いて出生すれば之を信ず。人界所具の仏界は水中の火、火中の水。最も甚だ信じ難し。然りと雖も龍火は水より出、龍水は火より生ず。心得られざれども現証有れば之を用ゆ。既に人界の八界之を信ず。仏界何ぞ之を用いざらん。尭舜等の聖人の如きは万民に於て偏頗なし。人界の仏界の一分也。不軽菩薩は所見の人に於て仏身を見る。悉達太子は人界より仏身を成ず。此れ等の現証を以て之を信ずべきなり。
問て曰く 教主釈尊は[之より堅固に之を秘せ]三惑已断の仏也。又、十方世界の国主、一切の菩薩・二乗・人天等の主君也。行く時は梵天左に在り、帝釈は右に侍り、四衆八部後に聳え、金剛前に導き、八万宝蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ。是の如き仏陀は何を以て我等凡夫之己心に住せしめん乎。
又、迹門・爾前之意を以て之を論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏也。過去の因行を尋ね求むれば、或は能施太子、或は儒童菩薩、或は尸毘王、或は薩埵王子{さったおうじ}。或は三祇百劫、或は動逾塵劫、或は無量阿僧祇劫、或は初発心時、或は三千塵点等之間、七万五千・六千・七千等之仏を供養し、劫を積み行を満じて、今、教主釈尊と成りたまふ。是の如き因位の諸行は、皆、我等が己心所具の菩薩界の功徳か。果位を以て之を論ずれば、教主釈尊は始成正覚之仏、四十余年之間、四教の色身を示現し、爾前・迹門・涅槃経等を演説して一切衆生を利益したまふ。所謂、華蔵之時十方臺上の盧舎那、阿含経の三十四心断結成道の仏、方等般若の千仏等、大日金剛頂等の千二百余尊、竝びに迹門宝塔品の四土色身、涅槃経の或は丈六と見る、或は小身大身と現る、或は盧舎那と見る、或は身虚空に同じと見る四種の身、乃至、八十御入滅して舎利を留めて正像末を利益したまふ。
本門を以て之を疑はば、教主釈尊は五百塵点已前の仏なり。因位も又是の如し。其れより已来、十方世界に分身し、一代聖教を演説して塵数の衆生を教化したまふ。本門の所化を以て迹門の所化に比校すれば、一渧{いったい}と大海、一塵と大山と也。本門の一菩薩を、迹門の十方世界の文殊・観音等に対向すれば、猿猴を以て帝釈に比するに、尚お及ばず。其の外十方世界の断惑証果の二乗、竝びに梵天・帝釈・日月・四天・四輪王、乃至、無間大城の大火炎等、此れ等は皆、我が一念の十界歟。己心の三千歟。仏説為りと雖も之を信ずべからず。
此れを以て之を思ふに、爾前の諸経は実事也、実語也。華厳経に云く、究竟離虚妄無染如虚空〔究竟して虚妄を離れ、染まら無きこと虚空の如し〕。仁王経に云く、窮源尽性妙智在〔源を窮め、性を尽くして、妙智在せり〕。金剛般若経に云く、有清浄善〔清浄の善のみ有り〕。馬鳴菩薩の起信論に云く、如来蔵中有清浄功徳〔如来蔵の中に清浄の功徳のみ有り〕。天親菩薩の唯識論に云く、謂余有漏劣無漏種金剛喩定現在前時引極円明純浄本識。非彼依故皆永棄捨〔謂く、余の有漏と劣の無漏の種とは、金剛喩定現在前する時、極円明純浄本識を引く。彼依に非ざるが故に、皆、永く棄捨す〕等云云。
爾前の経々と法華経と之を校量するに、彼の経々は無数也、時説既に長し。一仏二言ならば彼に付くべし。馬鳴菩薩は付法蔵第十一の仏記之有り。天親は千部の論師、四依の大士也。天台大師は辺鄙の小僧にして一論をも宣べず。誰か之を信ぜん。其の上、多を捨て小に付けども法華経の文分明ならば少し恃怙有らん。法華経の文何れの所にか十界互具・百界千如・一念三千の分明なる証文之有りや。
随って経文を開祏{かいたく}するに ̄断諸法中悪等云云。天親菩薩の法華論にも、堅慧菩薩の宝性論にも十界互具之無く、漢土南北の諸大人師、日本七寺の末師之中にも此の義無し。但天台一人の僻見也。伝教一人の謬伝也。
故に清凉国師の云く、天台之謬〔天台の謬りなり〕。恵苑法師の云く、然以天台呼小乗為三蔵教其名謬濫〔然るに天台は小乗を呼んで三蔵教と為し其の名謬濫するを以て〕等云云。了洪の云く、天台独未尽華厳之意〔天台独り未だ華厳之意を尽くさず〕等云云。得一の云く、咄哉智公汝是誰弟子。以不足三寸舌根而謗覆面舌之所説教時〔咄哉智公汝は是れ誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根を以て而も覆面舌之所説の教時を謗ず〕等云云。弘法大師の云く、震旦人師等諍盗醍醐各名自宗〔震旦の人師等諍って醍醐を盗んで各々自宗に名づく〕等云云。
夫れ、一念三千の法門は一代の権実に名目を削り、四依の諸論師、其の義を載せず。漢土、日域の人師も之を用いず。如何が之を信ぜん。
答て曰く 此の難、最も甚だし、最も甚だし。但し諸経と法華との相違は経文より事起りて分明なり。未顕と已顕と、証明と舌相と、二乗の成不と、始成と久成と等之を顕す。諸論師の事は天台大師云く、天親龍樹内鑒冷然。外適時宜各権所拠〔天親・龍樹、内鑒冷然にして、外は時の宜しきに適い各権りに拠る所あり〕。而るに人師偏に解し学者苟くも執し遂に矢石を興し各一辺を保して大に聖道に乖けり等云云。章安大師云く、天竺大論尚非其類。真旦人師何労及語。此非誇耀法相然耳〔天竺の大論、尚お其類に非ず。真旦の人師、何ぞ労しく語るに及ばん。此れ誇耀に非ず、法相の然らしむる耳〕等云云。天親・龍樹・馬鳴・堅慧等は内鑒冷然なり。然りと雖も、時、未だ至らざる故に之を宣べざるか。人師に於ては天台已前は、或は珠を含み、或は一向に之を知らず。已後の人師は、或は初めに之を破して後に帰伏する人有り、或は一向に用いざる者之有り。
但し断諸法中悪の経文を会すべき也。彼は法華経に爾前を載する経文也。往いて之を見よ。経文分明に十界互具之を説く。所謂、欲令衆生。開仏知見〔衆生をして仏知見を開かしめんと欲す〕等と云云。天台、此の経文を承けて云く、若衆生無仏知見何所論開。当知仏之知見蘊在衆生〔若し衆生に仏知見無くんば、何ぞ開を論ずる所あらん。当に知るべし、仏之知見、衆生に蘊在することを〕云云。章安大師の云く ̄衆生若無仏之知見何所開悟。若貧女無蔵何所示也〔衆生に若し仏之知見無くんば何ぞ開悟する所あらん。若し貧女に蔵無くんば何ぞ示す所あらん也〕等云云。
但し会し難き所は上の教主釈尊等の大難也。此の事を仏遮会して云く、已今当説最為難信難解と。次下の六難九易、是れ也。天台大師の云く、二門悉与昔反難信難解。当鉾難事〔二門悉く昔と反すれば難信難解なり。鉾に当るの難事なり〕。章安大師の云く、仏将此為大事。何可得易解耶〔仏此れを将て大事と為す。何ぞ解し易きことを得べけん耶〕等云云。伝教大師云く、此法華経最為難信難解。随自意故〔此の法華経は最も為れ難信難解なり。随自意の故に〕等云云。
夫れ、仏より滅後一千八百余年に至るまで、三国に経歴して、但三人のみ有って此の正法を覚知せり。所謂、月支の釈尊・真旦の智者大師・日域の伝教。此の三人は内典の聖人也。
問て曰く 龍樹・天親等は如何。
答て曰く 此れ等の聖人は知つて而も之を言はざる仁也。或は迹門の一分、之を宣べて本門と肝心とを云はず。或は機有つて時無きか。或は機時共に之無きか。天台・伝教已後は之を知る者多々也。二聖の智を用ふるが故也。所謂、三論の嘉祥・南三北七の百余人・華厳宗の法蔵清凉等・法相宗の玄奘三蔵慈恩大師等・真言宗の善無畏三蔵金剛智三蔵不空三蔵等・律宗の道宣等、初めには反逆を存し、後には一向に帰伏せし也。
但し初めの大難を遮せば、無量義経に云く、譬如。国王夫人。新生王子。若一日。若二日。若至七日。若一月。若二月。若至七月。若一歳。若二歳。若至七歳。雖復不能。領理国事。已為臣民。之所宗敬。諸大王子。以為伴侶。王及夫人。愛心偏重。常与共語。所以者何。以稚小故。善男子。是持経者。亦復如是。諸仏国王。是経夫人。和合共生。是菩薩子。若菩薩得聞是経。若一句。若一偈。若一転。若二転。若十。若百。若千。若万。若億万。恒河沙。無量無数転。雖復不能。体真理極 乃至 常為諸仏。之所護念。慈愛偏覆。以新学故〔譬えば国王と夫人と、新たに王子を生ぜん。若しは一日若しは二日若しは七日に至り、若しは一月若しは二月若しは七月に至り、若しは一歳若しは二歳若しは七歳に至り、復国事を領理すること能わずと雖も已に臣民に宗敬せられ、諸の大王の子を以て伴侶とせん、王及び夫人、愛心偏に重くして常に与みし共に語らん。所以は何ん、稚小なるを以ての故にといわんが如く、善男子、是の持経者も亦復是の如し。諸仏の国王と是の経の夫人と和合して、共に是の菩薩の子を生ず。若し菩薩是の経を聞くことを得て、若しは一句、若しは一偈、若しは一転、若しは二転、若しは十、若しは百、若しは千、若しは万、若しは億万・恒河沙無量無数転せば、復真理の極を体ること能わずと雖も 乃至 已に一切の四衆・八部に宗み仰がれ、諸の大菩薩を以て眷属とせん。深く諸仏秘密の法に入って、演説する所違うことなく失なく、常に諸仏に護念し慈愛偏に覆われん、新学なるを以ての故に〕等云云。
普賢経に云く、此大乗経典。諸仏宝蔵。十方三世。諸仏眼目出生三世諸如来種乃至汝行大乗。不断仏種<不断法種>〔此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり乃至汝大乗を行じて仏種<法種>を断ざれ〕等云云。
又云く、此方等経。是諸仏眼。諸仏因是。得具五眼。仏三種身。従方等生。是大法印。印涅槃海。如此海中。能生三種。仏清浄身。此三種身。人天福田〔此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は方等より生ず。是れ大法印なり、涅槃の海に印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田等〕云云。
夫れ以れば、釈迦如来の一代顕密大小二経、華厳・真言等の諸宗の依経、往いて之を勘うるに、或は十方臺葉毘盧遮那仏・大集雲集の諸仏如来・般若染浄の千仏示現・大日金剛頂等の千二百尊、但其の近因近果を演説して其の遠の因果を顕さず。速疾頓成、之を説けども三五の遠化を亡失し、化導の始終、跡を削りて見えず。華厳経・大日経等は、一往之を見るに別円・四蔵等に似れども、再往之を勘うれば蔵通二経に同じて未だ別円にも及ばず。本有の三因之無し、何を以てか仏の種子を定めん。而るに新訳の訳者等漢土に来入するの日、天台の一念三千の法門を見聞して、或は自らの所持の経々に添加し、或は天竺より受持する之由、之を称す。天台の学者等、或は自宗に同ずるを悦び、或は遠を貴んで近を蔑ろにし、或は旧を捨てて新を取り、魔心愚心出来す。然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ざれば有情の成仏・木画二像之本尊は有名無実也。
問て曰く 上の大難、未だ其の会通を聞かず、如何。
答て曰く 無量義経に云く、雖未得修行。六波羅蜜。六波羅蜜。自然在前〔未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前す〕等云云。法華経に云く_欲聞具足道〔具足の道を聞かんと欲す〕等云云。涅槃経に云く、薩者名具足〔薩とは具足のに名く〕等云云。龍樹菩薩の云く、薩者六也〔薩とは六なり〕等云云。無依無得大乗四論玄義記に云く、沙者訳云六。胡法以六為具足義也〔沙とは訳して六と云う。胡の法には六を以て具足の義と為す也〕。吉蔵の疏に云く、沙飜為具足〔沙とは飜して具足と為す〕。天台大師の云く、薩者梵語。此妙飜〔薩とは梵語。此れには妙と飜す〕等云云。
私に会通を加えば本文を黷すが如し。爾りと雖も、文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ。
四大声聞の領解に云く、無上宝珠<無上宝聚>不求自得〔無上の宝珠<宝聚>求めざるに自ら得たり〕云云。我等が己心の声聞界也。如我等無異如我昔所願今者已満足化一切衆生皆令入仏道〔我が如く等しくして異なること無し。我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ。一切衆生を化して皆仏道に入らしむ〕。妙覚の釈尊は我等が血肉也。因果の功徳は骨髄に非ずや。宝塔品に云く、其有能護此経法者則為供養我及多宝乃至亦復供養諸来化仏荘厳光飾諸世界者〔其れ能く此の経法を護ることあらん者は、則ち為れ我及び多宝を供養するなり。乃至亦復諸の来りたまえる化仏の諸の世界を荘厳し光飾したもう者を供養するなり〕等云云。釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界也。其の跡を紹継して其の功徳を受得す。須臾聞之。即得究竟阿耨多羅三藐三菩提〔須臾も之を聞かば即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得ん〕とは是れ也。寿量品に云く、然我実成仏已来<然善男子。我実成仏已来>。無量無辺。百千万億。那由他劫〔然るに<善男子>我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり〕等云云。我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所願の三身にして、無始の古仏也。経に云く、我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数〔我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶お未だ尽きず。復上の数に倍せり〕等云云。我等が己心の菩薩等也。地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属也。例せば太公・周公旦等は周武の臣下、成王幼稚の眷属、武内の大臣は神功皇后の棟梁、仁徳王子の臣下なるが如し也。上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己心の菩薩也。妙楽大師云く、当知身土一念三千。故成道時称此本理一身一念遍於法界〔当に知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍ねし〕等云云。
夫れ始め寂滅道場華蔵世界より沙羅林に終るまで五十余年之間、華厳・密厳・三変・四見等之三土四土は、皆、成劫之上の無常上の土に変化する所の方便・実報・寂光・安養・浄瑠璃・密厳等也。能変の教主涅槃に入れば、所変の諸仏随つて滅尽す。土も又以て是の如し。今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出たる常住の浄土なり。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず。所化以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足三種の世間也。迹門十四品に未だ之を説かず。法華経の内に於ても時機未熟の故か。此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては、仏猶お文殊・薬王等にも之を付属したまはず。何に況んや其の已下をや。但地涌千界を召して八品を説いて之を付属したまふ。
其の本尊の為体〈ていたらく〉、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊弥勒等の四菩薩は眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月郷を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故也。是の如き本尊は在世五十余年に之無し。八年之間、但八品に限る。正像二千年之間、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し、権大乗竝びに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。此れ等の仏を正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか。
問ふ 正像二千余年之間、四依の菩薩竝びに人師等、余仏、小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども、本門寿量品の本尊竝びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる由、之を申す。此の事、粗〈ほぼ〉之を聞くと雖も、前代未聞の故に耳目を驚動し心意を迷惑す。請ふ、重ねて之を説け。委細に之を聞かん。
答て曰く 法華経一部八巻二十八品、進んでは前四味、退いては涅槃経等の一代諸経惣じて之を括るに但一経なり。始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分也。無量義経・法華経・普賢経の十巻は正宗也。涅槃経等は流通分也。
正宗の十巻の中に於て亦序正流通有り。無量義経竝びに序品は序分也。方便品より分別功徳品十九行の偈に至る十五品半は正宗分なり。分別功徳品の現在の四信より普賢経に至る十一品半と一巻は流通分也。
亦、法華経等の十巻に於ても二経有り。各序正流通を具する也。無量義経と序品は序分なり。方便品より人記品に至る八品は正宗分なり。法師品より安楽行品に至る五品は流通分なり。其の教主を論ずれば始成正覚の仏。本無今有の百界千如を説いて已今当に超過せる随自意難信難解の正法也。過去の結縁を尋ぬれば大通十六之時仏果の下種を下し、進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ。此れは仏の本意に非ず。但毒発等の一分也。二乗・凡夫等は前四味を縁とし、漸々に法華に来至して種子を顕し開顕を遂ぐるの機、是れ也。又、在世に於て始めて八品を聞く人天等、或いは一句一偈等を聞いて下種と為し、或は熟し、或は脱し、或は普賢・涅槃等に至り、或は正像末等に小権等を以て縁と為して法華に入る。例せば在世の前四味の者の如し。
又、本門十四品の一経に序正流通有り。涌出品の半品を序分と為し、寿量品と前後の二半、此れを正宗と為す。其の余は流通分也。其の教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず。所説の法門も、亦、天地の如し。十界久遠之上に国土世間既に顕る。一念三千、殆ど竹膜を隔てたり。又、迹門竝びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意・易信易解。本門は三説の外の難信難解・随自意也。
又、本門に於ても序正流通有り。過去大通仏の法華経より、乃至、現在の華厳経、乃至、迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世諸仏の微塵の経々は皆無量の序分也。一品二半より之外は小乗経・邪教・未得道教・覆相教と名く。其の機を論ずれば徳薄垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣に同じ也。爾前迹門の円教すら尚お仏因に非ず。何に況んや大日経等の諸小乗経をや。何に況んや華厳・真言等の七宗等の論師人師の宗をや。与えて之を論ずれば前三教を出ず。奪って之を云えば蔵通に同ず。設い法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず。還って灰断に同じ。化に始終無しとは是れ也。譬えば王女為りと雖も畜種を懐妊すれば其の子尚お旃陀羅に劣れるが如し。此れ等は且く之を閣く。迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩・凡夫を以て傍と為す。再往之を勘うれば凡夫、正像末を以て正と為す。正像末の三時之中にも末法の始めを以て正が中の正と為す。
問て曰く 其の証如何。
答て曰く 法師品に云く、如来現在。猶多怨嫉。況滅度後〔而も此の経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、況んや滅度の後をや〕。宝塔品に云く、令法久住乃至所来化仏<所集化仏>当知此意〔法をして久しく住せしむ乃至来れる<集むる>所の化仏当に此の意を知るべし〕等。勧持・安楽等、之を見るべし。迹門是の如し。本門を以て之を論ずれば、一向に末法之初めを以て正機と為す。所謂、一往之を見る時は久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って等妙に登らしむ。再往之を見れば迹門には似ず。本門は序正流通倶に末法之始めを以て詮と為す。在世の本門と末法之初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種也。彼は一品二半、此れは但題目の五字也。
問て曰く 其の証文、如何。
答て云く 涌出品に云く、爾時他方国土。諸来菩薩摩訶薩。過八恒河沙数。於大衆中。起立合掌作礼。而白仏言。世尊。若聴我等。於仏滅後。在此娑婆世界。勤加精進。護持読誦。書写供養。是経典者。当於此土。而広説之。爾時仏告。諸菩薩摩訶薩衆。止善男子。不須汝等。護持此経〔爾の時に他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て起立し合掌し礼を作して、仏に白して言さく、世尊、若し我等仏の滅後に於て此の娑婆世界に在つて、勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴したまはば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし。爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ〕等云云。法師より已下の五品の経文前後水火也。宝塔品の末に云く、以大音声。普告四衆。誰能於此。娑婆国土。広説妙法華経〔大音声を以て普く四衆に告げたまわく、誰か能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん〕等云云。
設ひ教主一仏為りと雖も之を将勧したまはば、薬王等の大菩薩・梵帝・日月・四天等は重んずべき之処に、多宝仏・十方の諸仏、客仏と為つて之を諌暁したまふ。諸の菩薩等は此の慇懃の付属を聞いて我不愛身命の誓願を立つ。此れ等は偏に仏意に叶はんが為也。而るに須臾之間に仏語相違して過八恒沙の此土の弘経を制止したまふ。進退惟れ谷る、凡智に及ばず。
天台智者大師、前三後三の六釈を作って之を会す。所詮、迹化・他方の大菩薩等に我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初めは謗法の国、悪機なる故に之を止め、地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたまふ也。又、迹化の大衆は釈尊の初発心の弟子等に非ざるが故也。天台大師の云く、是我弟子応弘我法〔是れ我が弟子なり、応に我が法を弘むべし〕。妙楽の云く、子弘父法有世界益〔子、父の法を弘む。世界の益有り〕。輔正記に云く、以法是久成法故付久成人〔法是れ久成の法なるを以ての故に久成の人に付す〕等云云。
又、弥勒菩薩疑請して云く、経に云く、我等雖復信仏。随宜所説。仏所出言。未曾虚妄。仏所知者。皆悉通達。然諸新発意菩薩。於仏滅後。若聞是語。或不信受。而起破法。罪業因縁。唯願世尊<唯然世尊>。願為解説。除我等疑。及未来世。諸善男子。聞此事已。亦不生疑〔我等は復仏の随宜の所説・仏の所出の言、未だ曾て虚妄ならずと信じ、仏の所知は、皆悉く通達すと雖も、然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て若し是の語を聞かば、或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん。唯願<然>世尊、願わくは為に解説して我等が疑を除きたまえ。及び未来世の諸の善男子、此の事を聞き已りなば亦疑を生ぜじ〕等云云。文の意は寿量の法門は滅後の為に之を請ずる也。
寿量品に云く、或失本心。或不失者乃至不失心者。見此良薬。色香倶好。即便服之。病尽除愈〔或は本心を失える或は失わざる者あり。乃至心を失わざる者は、此の良薬の色・香倶に好きを見て即ち之を服するに、病尽く除こり愈えぬ〕等云云。久遠下種・大通結縁・乃至前四味・迹門等の一切の菩薩・二乗・人天等の本門に於て得道する、是れ也。
経に云く、余心失者。見其父来。雖亦歓喜問訊。求索治病。然与其薬。而不肯服。所以者何。毒気深入。失本心故。於此好色香薬。而謂不美乃至我今当設方便。令服此薬乃至是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。作是教已。復至他国。遣使還告〔余の心を失える者は其の父の来れるを見て、亦歓喜し問訊して病を治せんことを求索むと雖も、然も其の薬を与うるに而も肯えて服せず。所以は何ん。毒気深く入って本心を失えるが故に、此の好き色・香ある薬に於て美からずと謂えり。乃至 我今当に方便を設けて此の薬を服せしむべし。乃至是の好き良薬を今留めて此に在く。汝取って服すべし、差えじと憂うることなかれと。是の教を作し已って復他国に至り、使を遣わして還って告ぐ〕等云云。分別功徳品に云く、悪世末法時〔悪世末法の時〕等云云。
問て曰く 此の経文の遣使還告は如何。
答て曰く 四依也。四依に四類有り。小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す。大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す。三に迹門の四依は多分は像法一千年、少分は末法の初め也。四に本門の四依地涌千界は末法の始めに必ず出現すべし。今の遣使還告は地涌也。是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是也。此の良薬をば、仏、猶お迹化に授与したまはず。何に況んや他方をや。神力品に云く、爾時千世界。微塵等菩薩摩訶薩。従地涌出者。皆於仏前。一心合掌。瞻仰尊顔。而白仏言。世尊。我等於仏滅後。世尊分身。所在国土。滅度之処。当広説此〔爾の時に千世界微塵等の菩薩摩訶薩の地より涌出せる者、皆仏前に於て一心に合掌して尊顔を瞻仰して、仏に白して言さく、世尊我等仏の滅後、世尊分身所在の国土・滅度の処に於て、当に広く此を説くべし〕等云云。天台云く、但見下方発誓〔但下方の発誓のみを見たり〕等云云。道暹云く、付嘱者此経唯付下方涌出菩薩。何故爾。由法是久成之法故付久成之人〔付嘱とは此の経をば唯下方涌出の菩薩に付す。何が故に爾る。法是れ久成之法なるに由るが故に久成之人に付す〕等云云。
夫れ、文殊師利菩薩は東方金色世界の不動仏の弟子、観音は西方無量寿仏の弟子、薬王菩薩は日月浄明徳仏の弟子、普賢菩薩は宝威仏の弟子。一往、釈尊の行化を扶けんが為に娑婆世界に来入す。又、爾前・迹門の菩薩也。本法所持の人に非ざれば末法の弘法に足らざるか。
経に云く、爾時世尊乃至一切衆前。現大神力。出広長舌。上至梵世乃至十方世界。衆宝樹下。師子座上諸仏。亦復如是。出広長舌〔爾の時に世尊、乃至一切の衆の前に於て、大神力を現じたまふ。広長舌を出して上梵世に至らしめ、乃至十方世界〔を照したもう〕。衆の宝樹下の師子座上の諸仏も亦復是の如く、広長舌を出し〕等云云。
夫れ、顕密二道、一切の大小乗経の中に、釈迦・諸仏並び坐し、舌相梵天に至る文、之無し。阿弥陀経の広長舌相三千を覆ふは有名無実なり。般若経の舌相三千光を放ち、般若を説きしも全く証明に非ず。此れ皆兼帯の故、久遠を覆相する故也。是の如く、十神力を現じて地涌の菩薩に妙法の五字を嘱累して云く 経に云く、爾時仏告。上行等菩薩大衆。諸仏神力。如是無量無辺。不可思議。若我以是神力。於無量無辺。百千万億阿僧祇劫。為嘱累故。説此経功徳。猶不能尽。以要言之。如来一切。所有之法。如来一切。自在神力。如来一切。秘要之蔵。如来一切。甚深之事。皆於此経。宣示顕説〔爾時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、諸仏の神力は是の如く無量無辺不可思議なり。若し我是の神力を以て無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累の為の故に此の経の功徳を説かんに、猶は尽くすこと能はじ。要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す〕等云云。天台云く、従爾時仏告上行下第三結要付嘱〔爾時仏告上行より下は第三結要付嘱なり〕云云。伝教云く、又神力品云、以要言之如来一切所有之法乃至宣示顕説[已上経文]明知果分一切所有之法果分一切自在神力果分一切秘要之蔵過分一切甚深之事皆於法華宣示顕説也〔又神力品に云く、以要言之如来一切所有之法乃至宣示顕説已上。経文明らかに知んぬ、果分の一切の所有之法・果分の一切の自在神力・果分の一切の秘要之蔵・過分の一切の甚深之事・皆法華に於て宣示顕説する也〕等云云。
此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したまふなり。前の五神力は在世の為、後の五神力は滅後の為。爾りと雖も、再往、之を論ずれば一向に滅後の為也。故に次下の文に云く、以仏滅度後能持是経故諸仏皆歓喜現無量神力〔仏の滅度の後に能く是の経を持たんを以ての故に、諸仏皆歓喜して無量の神力を現じたもう〕等云云。次下の嘱累品に云く、爾時釈迦牟尼仏。従法座起。現大神力。以右手摩。無量菩薩摩訶薩頂乃至今以付嘱汝等〔爾の時に釈迦牟尼仏、法座より起って大神力を現じたもう。右の手を以て、無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、乃至 今以て汝等に付嘱す〕等云云。地涌の菩薩を以て頭と為して、迹化・他方、乃至、梵釈・四天等に此の経を嘱累したまふ。十方来。諸分身仏。各還本土乃至多宝仏塔。還可如故〔十方より来れる諸の分身の仏各本土に還りたもう。乃至多宝仏の塔還って故の如くしたもうべし〕等云云。薬王品已下、乃至、涅槃経等は地涌の菩薩去り了って迹化の衆・他方の菩薩等の為に重ねて之を付嘱したまふ。捃拾遺嘱{くんじゅういぞく}、是れ也。
疑て云く 正像二千年之間に地涌千界、閻浮提に出現して此の経を流通するか。
答て曰く 爾らず。
驚て云く 法華経竝びに本門は、仏の滅後を以て本と為して、先ず地涌千界に之を授与す。何ぞ正像に出現して此の経を弘通せざるや。
答て云く 宣べず。
重ねて問て云く 如何。
答ふ 之を宣べず。
又、重ねて問ふ 如何。
答て曰く 之を宣べば一切世間の諸人、威音王仏の末法の如く、又、我が弟子の中にも粗之を説かば、皆、誹謗を為すべし。黙止せんのみ。
求めて云く 説かずんば、汝、慳貪に堕せん。
答て曰く 進退惟れ谷れり。試みに粗之を説かん。法師品に云く、況滅度後。寿量品に云く、今留在此。分別功徳品に云く、悪世末法時。薬王品に云く、後五百歳於閻浮提広宣流布〔後の五百歳、閻浮提に於て広宣流布せん〕。涅槃経に云く、譬如七子。父母非不平等然於病者心則偏重〔譬えば七子あり。父母、平等ならざるに非ざれども、然も病者に於て心則ち偏に重きが如し〕等云云。
已前の明鏡を以て仏意を推知するに、仏の出世は霊山八年の諸人の為に非ず。正像末の人の為也。又、正像二千年の人の為に非ず。末法の始め、予が如き者の為也。然於病者と云うは滅後の法華経誹謗の者を指す也。今留在此〔今留めて此に在く〕とは於此好色香薬。而謂不美〔此の好き色・香ある薬に於て美からずと謂えり〕の者を指すなり。
地涌千界は正像に出でざるは、正法一千年之間は小乗・権大乗也。機時共に之無し。四依の大士、小権を以て縁と為して在世の下種之を脱せしむ。謗多くして熟益を破るべき故に之を説かず。例せば在世の前四味の機根の如し也。像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し、出現して、迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して、百界千如・一念三千其の義を尽くせり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字、竝びに本門の本尊未だ広く之を行ぜず。所詮、円機有つて円時無き故也。
今、末法の初め、小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天、其の国を棄て之を守護せず。此の時、地涌の菩薩、始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必因得益とは是也。我が弟子之を惟へ。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子也。寂滅道場にも来らず、雙林最後にも訪はず、不孝の失之有り。迹門十四品にも来らず。本門六品にも座を立ち、但八品の間に来還せり。是の如き高貴の大菩薩、三仏に約足して之を受持す。末法の初めに出ざるべきか。当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成つて正法を弘持す。
問て曰く 仏の記文は云何。
答て曰く 後五百歳於閻浮提広宣流布〔後の五百歳、閻浮提に於て広宣流布せん〕と。天台大師記して云く、後五百歳遠沾妙道〔後の五百歳、遠く妙道に沾わん〕。妙楽記して云く、末法之初冥利不無〔末法之初め、冥利無きにあらず〕。伝教大師云く、正像稍過已末法太有近〔正像やや過ぎ已って、末法はなはだ近きに有り〕等云云。末法太有近の釈は我が時は正時に非ずと云ふ意也。伝教大師、日本にして末法の始めを記して云く、語代像終末初。尋地唐東羯西。原人則五濁之生闘諍之時。経云、猶多怨嫉況滅度後。此言良有以也〔代を語れば則ち像の終わり末の初め。地を尋ぬれば唐の東羯の西。人を原ぬれば、則ち五濁之生、闘諍之時なり。経に云く 猶怨嫉多し況や滅度の後をや。此の言良にゆえ有るなり〕。此の釈に闘諍之時と云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指す也。此の時、地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。
月支・震旦、未だ此の本尊有さず。日本国の上宮、四天王寺を建立す。未だ時来らず。阿弥陀他方を以て本尊と為す。聖武天王、東大寺を建立す。華厳経の教主也。未だ法華経の実義を顕さず。伝教大師、粗法華経の実義を顕示す。然りと雖も、時、未だ来らざる之故に東方の鵝王を建立して、本門の四菩薩を顕さず。所詮、地涌千界の為に之を譲り与うる故也。此の菩薩、仏勅を蒙りて近く大地の下に在り。正像に未だ出現せず。末法にも、又、出来せざれば大妄語の大士也。三仏の未来記も、亦、泡沫に同じ。
此れを以て之を惟ふに、正像に無き大地震・大彗星等出来す。此れ等は金翅鳥・修羅・龍神等の動変に非ず。偏に四大菩薩、出現せしむべき先兆なるか。天台の云く、見雨猛知龍大見花盛知池深〔雨の猛きを見て龍の大なるを知り、花の盛んなるを見て池の深きことを知る〕等云云。妙楽云く、智人知起蛇自識蛇〔智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る〕等云云。
天晴れぬれば地明らかなり。法華を識る者は世法を得べきか。一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ。四大菩薩の此の人を守護したまはんこと大公・周公の成王を摂扶し四皓が恵帝に侍奉せしに異ならざる者也。 文永十年太歳癸酉卯月二十五日 日蓮註之