大白牛車御消息
執筆年:弘安四
大白牛車御消息(各別書)
弘安四年。六十歳作。
外二五ノ四。遺三〇ノ三六。縮二〇八六。類一一三〇。 抑法華経の大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗べき車にて候也。彼車をば法華経譬諭(喩)品と申すに懇に説せ給て候。但し彼御経は羅什存略の故に委くは説給はず。天竺の梵品には車の荘り物其外聞、信、戒、定、進、捨、慙の七宝まで委く説給ひて候を日蓮あらあら披見に及び候。先此車と申すは縦横五百由旬の車にして、金の輪を入れ銀の棟をあげ、金の縄を以て八方へつり縄をつけ、三十七重のきだはし(階)をば銀を以てみがき(磨)たて、八万四千の宝の鈴を車の四面に懸られたり。三百六十ながれのくれなひの錦旙を玉のさほ(棹)にかけながし、四万二千の欄干には四天王の番をつけ、又車の内には六万九千三百八十余体の仏菩薩宝蓮華に坐し給へり。帝釈は諸の眷属を引つれ給ひて千二百の音楽を奏し、梵王は天蓋を指懸け、地神は山河大地を平等に成し給ふ。故に法性の空に自在にとびゆく車をこそ大白牛車とは申すなれ。我より後に来り給はん人人は、此車にめされて霊山へ御出有べく候。日蓮も同じ車に乗て御迎にまかり向ふべく候。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
日蓮花押
(考八ノ三七。)#0422-200 西山殿後家尼御前御返事(西山殿御返事)弘安四(1281)
西山殿御返事(西山第六書)(大内氏妻書)
弘安四年。六十歳作。
外二ノ一〇。遺三〇ノ三七。縮二〇八七。類一〇四五。 あまざけ一をけ、やまのいもところ(野老)せうせう給畢ぬ。梵網経と申す経には一紙一草と申してかみ一枚、くさひとつ。大論と申すろん(論)にはつちのもちゐ(土餅)を、仏にくやう(供養)せるもの、閻浮提の王となるよしとかれ(説)かかれて候。これはそれにはに(似)るべくもなし。そのうへをとこ(夫)にもすぎわかれ、たのむかたもなきあま(尼)のするが(駿河)の国西山と申すところより、甲斐国はきゐ(波木井)の山の中にをくられたり。人にすて(捨)られたるひじり(聖)の寒にせめられて、いかに心ぐるしかるらんとをもひやらせ給ひて、をくられたる歟。父母にをくれ(後)しよりこのかた、かゝるねんごろの事にあひて候事こそ候はね。せめての御心ざしに給候かとおぼえて、なみだ(涙)もかきあへ候はぬぞ。日蓮はわるき者にて候へども、法華経はいかでかおろか(痴)におはすべき。ふくろ(袋)はくさ(臭)けれども、つゝめる金はきよし。池はきたなけれども、はちす(蓮)しやうじやう(清浄)也。日蓮は日本第一のえせ(僻)もの也。法華経は一切経にすぐれ給へる経也。心あらん人、金をとらん(取)とおぼさば、ふくろをすつる事なかれ。蓮をあひ(愛)せは池をにくむ事なかれ。わるくて仏になりたらば、法華経の力あらはるべし。よつて臨終わるくば法華経の名ををりなん。さるにては日蓮はわるくても、わるかるべしわるかるべし。恐恐謹言。
月 日
御返事
(微上ノ五。考二ノ五。)