報恩抄

建治二年(1276.07.21) 真筆あり


日蓮撰之 夫れ老狐は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや。されば古への賢者豫攘(譲)といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう(弘)演と申せし臣下は腹をさひて、衛の懿公が肝を入れたり。いかにいわうや、仏教をならはん者の、父母・師匠・国恩をわするべしや。
 此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか。譬へば衆盲をみちびかんには、生盲の身にては橋河をわたしがたし。方風を弁へざらん大舟は、諸商を導きて宝山にいたるべしや。
 仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずは叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ふては叶ふべからず。是非につけて、出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。
 この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとをもう。しかれども外典の孝経にも、父母・主君に随わずして忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云く_棄恩入無為 真実報恩者〔恩を棄て無為に入るは、真実報恩の者なり〕等云云。
 比干が王に随はずして賢人のな(名)をとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。
 かくのごとく存じて、父母・師匠等に随はずして仏法をうかがひし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり。所謂る倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。この十宗を明鏡として一切経の心をしるべし。
 世間の学者等おもえり、この十の鏡はみな正直に仏道の道を照せりと。小乗の三宗はしばらくこれををく、民の消息の是非につけて他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ、生死の大海をわたりて、浄土の岸につく大船なれば、此を習ひほどひて、我がみ(身)も助け、人をもみちびかんとおもひて、習ひみるほどに、大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心はえたれえたれ等云云。所謂華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・慧可・慧能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等。此等の宗々みな本経本論によりて我も我も一切経をさとれり、仏意をきはめたりと云云。
 彼の人人云く 一切経の中には華厳経第一なり。法華経・大日経等は臣下のごとし。真言宗の云く 一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星のごとし。禅宗が云く 一切経の中には楞伽経第一なり。乃至余宗かくのごとし。而も上に挙ぐる諸師は、世間の人々各々おもえり。諸天の帝釈をうやまひ、衆星の日月に随ふがごとし。我等凡夫はいづれの師々なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰ぎてこそ信ずべけれども、日蓮が愚案はれ(晴)がたし。
 世間をみるに、各々我も我もといへども国主は但一人なり。二人となれば国土おだやかならず。家に二の主あれば其家必ずやぶる。一切経も又かくのごとくや有るらん。何れの経にてもをはせ、一経こそ一切経の大王にてをはすらめ。
 而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ。いかんがせんと疑ふところに、一の願を立つ。我れ八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく、一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く_依法不依人〔法に依て人に依らざれ〕等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるところの諸の人師なり。此経に又云く_依了義経 不依不了義経〔了義経に依て、不了義経に依らざれ〕等云云。此経に指ところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば、専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。
 随て法華経の文を開き奉れば_此法華経於諸経中最在其上等〔此の法華経は諸経の中に於て最も其の上にあり〕云云。此の経文のごとくば、須弥山の頂に帝釈の居がごとく、輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく、衆木の頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂上に肉髻の住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。
 されば専ら論師人師をすてて経文に依るならば、大日経・華厳経等に法華経の勝れ給へることは、日輪の青天に出現せる時、眼あきらかなる者の天地を見るがごとく、高下宛然なり。又大日経・華厳経等の一切経をみるに、此経文に相似の経文一字一点もなし。或は小乗経に対して勝劣をとかれ、或は俗諦に対して真諦をとき、或は諸の空仮に対して中道をほめたり。譬へば小国の王が我国の臣下に対して大王というがごとし。法華経は諸王に対して大王等と云云。
 但涅槃経計こそ法華経に相似の経文は候へ。されば天台已前の南北の諸師は迷惑して、法華経は涅槃経に劣ると云云。されども専ら経文を開き見るには、無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経々をあげて、涅槃経に対して我がみ(身)勝るととひて、又法華経に対するときは_是経出世 乃至 如法華中八千声聞得授記・成大菓実 如秋収冬蔵更無所作〔是の経の出世は 乃至 法華の中の八千の声聞に記・を授けることを得て大菓実成ずるが如し、秋収冬蔵して更に所作無きが如し〕等と云云。我と涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。
 かう経文は分明なれども、南北の大智の諸人の迷ふて有りし経文なれば、末代の学者能々眼をとどむべし。此の経文は但法華経・涅槃経の勝劣のみならず、十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし。而るを経文にこそ迷ふとも、天台・妙楽・伝教大師の御れうけん(料簡)の後は、眼あらん人々はしりぬべき事ぞかし。然れども天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし。いわうや余宗の人々をや。
 或人疑て云く 漢土日本にわたりたる経々にこそ法華経に勝たる経はをはせずとも、月氏・龍宮・四王・日・月・・利天・都率天なんどには恒河沙の経々ましますなれば、其中に法華経に勝れさせ給ふ御経やましますらん。
 答て云く 一をもつて万を察せよ。庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり。
 痴人が疑て云く 我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此日輪より別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生盲にことならず。
 法華経の法師品に釈迦如来金口の誡言をもて五十余年の一切経の勝劣を定めて云く_我所説経典無量千万億已説今説当説。而於其中此法華経最為難信難解〔我が所説の経典は無量千万億にして已に説き今説き当に説かん。而も其中に於て此法華経は最為難信難解なり〕等云云。此経文は但釈迦如来一仏の説なりとも、等覚已下は仰ぎて信ずべき上、多宝仏東方より来りて真実なりと証明し、十方の諸仏集りて釈迦仏と同く広長舌を梵天に付け給て後各々国々へ還らせ給ひぬ。已今当の三字は五十年竝びに十方三世の諸仏の御経、一字一点ものこさず引き載せて法華経に対して説かせ給ひて候を、十方の諸仏此座にして御判形を加へさせ給ひ、各々又自国に還らせ給ひて、我弟子等に向はせ給ひて法華経に勝れたる御経ありと説かせ給はば、其所化の弟子等信用すべしや。又我は見ざれば月氏・龍宮・四天・日月等の宮殿の中に法華経に勝れさせ給ひたる経やおはしますらんと疑ひをなすは、されば梵釈・日月・四天・龍王は法華経の御座にはなかりけるか。若日月等の諸天、法華経に勝れたる御経まします、汝はしらず、と仰せあるならば大誑惑の日月なるべし。
 日蓮せめて云く 日月は虚空に住し給へども、我等が大地に処するがごとくして堕落し給はざる事は、上品の不妄語戒の力ぞかし。法華経に勝れたる御経ありと仰せある大妄語あるならば、恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに大地の上にどうとおち候はんか、無間大城の最下の堅鉄にあらずばとどまりがたからんか。大妄語の人は須臾も空に処して四天下を廻り給ふべからず、とせめたてまつるべし。
 而るを華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵大師等の、華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給はば、我等が分斉には及ばぬ事なれども、大道理のをすところは豈に諸仏の大怨敵にあらずや。提婆・瞿伽利もものならず、大天・大慢外にもとむべからず。かの人々を信ずる輩はをそろしをそろし。
 問て云く 華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏乃至弘法・慈覚・智証等を仏の敵との(宣)給ふか。
 答て云く 此大なる難也。仏法に入りて第一の大事也。愚眼をもて経文を見るには、法華経に勝れたる経ありといはん人は、設とひいかなる人なりとも謗法は免れじと見えて候。而るを経文のごとく申すならば、いかでか此諸人仏敵たらざるべき。若又をそれをなして指申さずは一切経の勝劣空かるべし。又此人々を恐れて、末の人々を仏敵といはんとすれば、彼宗々の末の人々の云く 法華経に大日経をまさりたりと申すは我私の計にはあらず、祖師の御義也。戒行の持破、智慧の勝劣、身の上下はありとも、所学の法門はたがう事なし、と申せば彼人々にとがなし。又日蓮此を知りながら人々を恐れて申さずば、寧喪身命不匿教者の仏陀の諌暁を用ひぬ者となりぬ。いかんがせん。いは(言)んとすれば世間をそろし。止とすれば仏の諌暁のがれがたし。進退此に谷り。
 むべなるかなや、法華経の文に云く_而此経者如来現在猶多怨嫉況滅度後〔而も此の経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、況んや滅度の後をや〕。又云く_一切世間多怨難信〔一切世間怨多くして信じ難し〕等云云。
 釈迦仏を摩耶夫人はらま(孕)せ給ひたりければ、第六天の魔王、摩耶夫人の御腹をとをし見て、我等が大怨敵法華経と申す利剣をはらみたり。事の成ぜぬ先にいかにしてか失ふべき。第六天の魔王、大医と変じて浄飯王宮に入り、御産安穏の良薬を持候大医ありとのゝしりて、毒を后にまいらせつ。初生の時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を出でさせ給ひしには黒毒蛇と変じて道にふさがり、乃至提婆・瞿伽梨・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入りて、或は大石をなげて仏の御身より血をいだし、或は釈子をころし、或は御弟子等を殺す。此等の大難は皆遠くは法華経を仏世尊に説かせまいらせじとたばかり(巧謀)し如来現在猶多怨嫉の大難ぞかし。此等は遠き難なり。
 近き難には舎利弗・目連・諸大菩薩等も四十余年が間は法華経の大怨敵の内ぞかし。況滅度後と申して未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべしと、とかれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大なる大難にてあるべかんなり。いかなる大難か提婆が長さ三丈広さ一丈六尺の大石、阿闍世王の酔象にはすぐべきとはをもへども、彼にもすぐるべく候なれば、小失なくとも大難に度々値ふ人をこそ滅後の法華経の行者とはしり候わめ。
 付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使なり。提婆菩薩は外道に殺れ、師子尊者は檀彌羅王に頭を刎られ、仏陀密多・龍樹菩薩等は赤幡を七年十二年さしとをす。馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論師はをもひじにに死す。此等は正法一千年の内なり。
 像法に入て五百年、仏滅後一千五百年と申せし時、漢土に一人の智人あり。始は智・、後には智者大師とがうす。法華経の義をありのまゝに弘通せんと思ひ給しに、天台已前の百千万の智者しなじなに一代を判ぜしかども詮じて十流となりぬ。所謂南三北七なり。十流ありしかども一流をもて最とせり。所謂南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり。
 此人は一代の仏教を五にわかつ。其の五の中に三経をえらびいだ(撰出)す。所謂華厳経・涅槃経・法華経なり。一切経の中には華厳経第一、大王のごとし。涅槃経第二、摂政関白のごとし。第三法華経は公卿等のごとし。此れより已下は万民のごとし。此人は本より智慧かしこき上、慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者より習ひ伝へ給はるのみならず、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわ(交)りて法華経・涅槃経・華厳経の功つも(積)りし上、梁の武帝召し出して内裏の内に寺を立て、光宅寺となづけて此法師をあがめ給ふ。
 法華経をかう(講)ぜしかば、天より花ふること在世のごとし。天鑒五年に大旱魃ありしかば、此の法雲法師を請じ奉りて法華経を講ぜさせまいらせしに、薬草喩品の其雨普等四方倶下と申す二句を講ぜさせ給ひし時、天より甘雨下たりしかば、天子御感のあまりに現に僧正になしまいらせて、諸天の帝釈につかえ、万民の国王ををそるゝがごとく、我とつかへ給ひし上、或人夢く、此人は過去の燈明仏の時より法華経をかうぜる人なり。
 法華経の疏四巻あり。此疏に云く ̄此経未碩然〔此の経未だ碩然なり〕。亦云く ̄異方便〔異の方便〕等云云。正く法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候。
 此人の御義、仏意に相ひ叶ひ給ひければこそ、天より花も下り雨もふり候けらめ。かゝるいみじき事にて候しかば、漢土の人人さては法華経は華厳経・涅槃経には劣にてこそあるなれと思ひし上、新羅・百済・高麗・日本まで此疏ひろまりて、大体一同の義にて候しに、法雲法師御死去ありていくばくならざるに、梁の末、陳の始に、智・法師と申す小僧出来せり。
 南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども、師の義も不審にありけるかのゆへに、一切経蔵に入つて度々御らんありしに、華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし、此の三経の中に殊に華厳経を講じ給ひき。別して礼文を造りて日々に功をなし給ひしかば、世間の人をもはく、此人も華厳経を第一とをぼすかと見えしほどに、法雲法師が一切経の中に華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三と立てたるが、あまりに不審なりける故に、ことに華厳経を御らんありけるなり。
 かくて一切経の中に法華経第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給ひてなげき給ふやうは、如来の聖教は漢土にわたれども、人を利益することなし。かへりて一切衆生を悪道に導びくこと、人師の・によれり。例せば国の長とある人、東を西といゐ、天を地といゐいだしぬれば、万民はかくのごとくに心うべし。後にいやしき者出来して、汝等が西は東、汝等が天は地なり、といわばもちうることなき上、我が長の心に叶はんがために、今の人をのりうち(罵打)なんどすべし。いかんがせんとはをぼせしかども、さてもだす(黙止)べきにあらねば、光宅寺の法雲法師は謗法によて地獄に堕ちぬとのゝしらせ給ふ。
 其時南北の諸師はち(蜂)のごとく蜂起し、からす(烏)のごとく烏合せり。智・法師をば頭をわる(破)べきか、国ををう(逐)べきか、なんど申せし程に、陳主此れをきこしめして、南北の数人に召し合せて、我と列座してきかせ給ひき。
 法雲法師が弟子等慧榮・法歳・慧曠・慧・なんど申せし僧正僧都已上の人々百余人なり。各々悪口を先とし、眉をあげ、眼をいからし、手をあげ、拍子をたゝく。而れども智・法師は末座に坐して色を変ぜず、言を・らず、威儀しづかにして、諸僧の言を一々に牒をとり、言ごとにせめかへ(責返)す。をしかへ(押返)して難じて云く 抑も法雲法師の御義に第一華厳・第二涅槃・第三法華と立てさせ給ひける証文は何れの経ぞ。慥かに明かなる証文を出させ給へとせめしかば、各々頭をうつぶせ、色を失ひて一言の返事なし。重ねてせめて云く 無量義経に正く次説方等十二部経摩訶般若華厳海空等云云。仏、我と華厳経の名をよびあげて、無量義経に対して未顕真実と打ち消し給う。法華経に劣りて候無量義経に華厳経はせめられ候ぬ。いかに心えさせ給ひて、華厳経をば一代第一とは候けるぞ。各々御師の御かたうど(方人)せんとをぼさば、此の経文をやぶりて、此に勝れたる経文を取り出して、御師の御義を助け給へとせめたり。
 又涅槃経を法華経に勝るゝと候けるはいかなる経文ぞ。涅槃経の第十四には、華厳・阿含・方等・般若をあげて、涅槃経に対して勝劣は説かれて候へども、またく法華経と涅槃経との勝劣はみへず。次上の第九の巻に、法華経と涅槃経との勝劣分明なり。所謂経文に云く_是経出世 乃至 如法華中八千声聞得授記・成大菓実 如秋収冬蔵更無所作〔是の経の出世は 乃至 法華の中の八千の声聞に記・を授けることを得て大菓実成ずるが如し、秋収冬蔵して更に所作無きが如し〕等と云云。経文明に諸経をば春夏と説かせ給ひ、涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども法華経をば秋収冬蔵大菓実の位、涅槃経をば秋の末冬の始め・拾の位と定め給ひぬ。此経文正く法華経には我身劣ると承伏し給ひぬ。
 法華経の文には已説・今説・当説と申して、此の法華経は前と竝との経々に勝れたるのみならず、後に説かん経々にも勝るべしと仏定め給ふ。すでに教主釈尊かく定め給ひぬれば疑ふべきにあらねども、我が滅後はいかんがと疑ひおぼして、東方宝浄世界の多宝仏を証人に立て給ひしかば、多宝仏大地よりをどり出でて、妙法華経皆是真実と証し、十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給ひ、広長舌を大梵天に付け、又教主釈尊も付け給ふ。然して後、多宝仏は宝浄世界えかへり、十方の諸仏各々本土にかへらせ給ひて後、多宝分身の仏もおはせざらんに、教主釈尊涅槃経をといて、法華経に勝と仰せあらば、御弟子等は信ぜさせ給ふべしや、とせめしかば、日月の大光明の・羅の眼を照らすがごとく、漢王の剣の諸侯の頚にかかりしがごとく、両眼をとぢ一頭を低たり。天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし、鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり。
 かくのごとくありしかば、さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと、震旦一国に流布するのみならず、かへりて五天竺までも聞へ、月氏大小の諸論も智者大師の御義には勝れず。教主釈尊両度出現しましますか。仏教二度あらはれぬとほめられ給ひしなり。
 其後天台大師も御入滅なりぬ。陳隋の世も代りて唐の世となりぬ。章安大師も御入滅なりぬ。天台の仏法やうやく習ひ失せし程に、唐の太宗の御宇に、玄奘三蔵といゐし人、貞観三年に始めて月氏に入り、同十九年にかへりしが、月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申す宗をわたす。此宗は天台宗と水火なり。而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして法華経は一切経には勝れたれども深密経には劣るという。而るを天台は御覧なかりしかば、天台の末学等は智慧の薄きかのゆへに、さもやとをもう。
 又太宗は賢王なり。玄奘の御帰依あさからず。いうべき事ありしかども、いつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし。法華経を打ちかへして、三乗真実、一乗方便、五性格別と申せし事は心うかりし事なり。天竺よりはわたれども、月氏の外道が漢土にわたれるか。法華経は方便、深密経は真実といゐしかば、釈迦多宝十方の諸仏の誠言もかへりて虚くなり、玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にてはありしか。
 其後則天皇后の御宇に、前に天台大師にせめられし華厳経に、又重て新訳の華厳経わたりしかば、さきのいきどをりをはたさんがために、新訳の華厳をもつて、天台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて、華厳宗と申す宗を法蔵法師と申す人立てぬ。此宗は華厳経をば根本法輪、法華経をば枝末法輪と申すなり。南北は一華厳・二涅槃・三法華、天台大師は一法華・二涅槃・三華厳。今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。
 其後玄宗皇帝の御宇に、天竺より善無畏三蔵は大日経・蘇悉地経をわたす。金剛智三蔵は金剛頂経をわたす。又金剛智三蔵に弟子あり。不空三蔵なり。此三人は月氏の人、種姓も高貴なる上、人がらも漢土の僧ににず。法門もなにとはしらず、後漢より今にいたるまでなかりし印と真言という事をあひそい(相副)てゆゝしかりしかば、天子かうべ(頭)をかたぶけ、万民掌をあわす。
 此人々の義にいわく、華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内、釈迦如来の説の分也。今の大日経等は大日法王の勅言なり。彼の経々は民の万言、此経は天子の一言也。華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立てても及ばず。但法華経計りこそ大日経には相似の経なれ。されども彼の経は釈迦如来の説、民の正言、此経は天子の正言なり。言は似れども人がら雲泥なり。譬へば濁水の月と清水の月のごとし。月の影は同じけれども水ずに清濁ありなんど申しければ、此の由尋ね顕す人もなし。諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ。善無畏・金剛智、死去の後、不空三蔵又月氏にかへりて菩提心論と申す論をわたし、いよいよ真言宗盛りなりけり。
 但し妙楽大師といふ人あり。天台大師よりは二百余年の後なれども、智慧かしこき人にて、天台の所釈を見明てをはせしかば、天台の釈の心は後にわたれる深密経法相宗、又始て漢土に立てたる華厳宗、大日経真言宗にも法華経は勝れさせ給ひけるを、或は智慧の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故にいはざりけるか。かうてあるならば天台の正義すでに失なん。又陳・隋已前の南北が邪義にも勝れたりとをぼして、三十巻の末文を造り給ふ。所謂弘決・釈籤・疏記これなり。此三十巻の文は本書の重なれるをけづり、よわき(弱)をたすくるのみならず、天台大師の御時なかりしかば、御責にものがれてあるやうなる法相宗と華厳宗と真言宗とを、一時にとりひしがれたる書なり。 又日本国には人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、百済国より一切経釈迦仏の像をわたす。又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ、和気の妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、其後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に律宗わたる。已上六宗なり。
 孝徳より人王第五十代の桓武天王にいたるまでは十四代一百二十余年が間は天台・真言の二宗なし。
 桓武の御宇に最澄と申す小僧あり。山階寺の行表僧正の弟子なり。法相宗を始として六宗を習ひきわめぬ。而れどもいまだ極めたりともをぼえざりしに、華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給うに、天台大師の釈を引きのせたり。此疏こそ子細ありげなれ。此国に渡りたるか、又いまだわたらざるか、と不審ありしほどに、有人にとひしかば其人の云く 大唐の揚州龍興寺の僧鑒真和尚は天台の末学、道暹律師の弟子、天宝の末に日本国にわたり給ひて、小乗の戒を弘通せさせ給ひしかども、天台の御釈持ち来りながらひろめ給はず。人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかたる。其書を見んと申されしかば、取り出だして見せまいらせしかば、一返御らんありて、生死の酔をさましつ。此の書をもつて六宗の心を尋ねあきらめしかば、一一に邪見なる事あらはれぬ。
 忽に願を発して云く 日本国の人皆謗法の者の檀越たるが天下一定に乱なんずとをぼして、六宗を難ぜられしかば、七大寺六宗の碩学蜂起して、京中烏合し、天下みなさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。
 而るを去る延暦二十一年正月十九日に、天王高雄寺に行幸あて、七寺の碩徳十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・・円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人を召し合はす。華厳・三論・法相等の人々各々我宗の元祖が義にたがわず。最澄上人は六宗の人々の所立一々牒を取りて、本経本論竝に諸経諸論に指し合はせてせめしかば、一言も答えず、口をして鼻のごとくになりぬ。天皇をどろき給ひて、委細に御たづねありて、重ねて勅宣を下して、十四人をせめ給ひしかば、承伏の謝表を奉りたり。
 其書に云く ̄七箇大寺六宗学匠 乃至 初悟至極〔七箇の大寺六宗の学匠乃至初て至極を悟る〕等云云。又云く ̄自聖徳弘化以降于今二百余年之間 所講経論其数多矣。彼此争理其疑未解。而此最妙円宗猶未闡揚〔聖徳の弘化よりこのかた今まで二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。彼此の理を争て其の疑未だ解けず。而るに此の最妙の円宗、猶未だ闡揚せず〕等云云。又云く ̄三論法相久年之諍 渙焉氷解照然既明 猶披雲霧而見三光矣〔三論法相久年之諍渙焉として氷のごとく解け、照然として既に明かに猶雲霧を披て三光を見るがごとし〕等云云。最澄和尚十四人が義を判じて云く ̄各講一軸振法鼓於深壑 賓主徘徊三乗之路 飛義旗於高峰。長幼摧破三有之結 猶未改歴劫之轍 混白牛於門外。豈善昇初発之位 悟阿荼於宅内〔各一軸を講ずるに法鼓を深壑に振ひ、賓主三乗の路に徘徊し、義旗を高峰に飛す。長幼三有の結を摧破して、猶未だ歴劫の轍を改めず、白牛を門外に混ず。豈に善く初発の位に昇り、阿荼を宅内に悟んや〕等云云。弘世・真綱二人の臣下云く ̄霊山之妙法聞於南岳 總持之妙悟闢於天台 慨一乗之権滞 悲三諦之未顕〔霊山の妙法を南岳に聞き總持の妙悟を天台に闢く、一乗の権滞を慨き、三諦の未顕を悲しむ〕等云云。又十四人の云く ̄善議等牽逢休運乃閲奇詞。自非深期何託聖世〔善議等牽かれて休運に逢て、乃ち奇詞を閲す。深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せん〕等云云。
 此十四人は華厳宗の法蔵・審祥、三論の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道暹・鑒真等の、漢土日本の元祖等の法門、瓶はかはれども水は一也。而るに十四人彼の邪義をすてて、伝教の法華経に帰伏しぬる上は、誰の末代の人か華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申すべきや。小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。大乗の三宗破れぬる上は、沙汰のかぎりにあらず。
 而るを今に子細を知らざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。譬へば盲目が天の日月を見ず、聾人が雷の音をきかざるがゆへに、天には日月なし、空に声なしとをもうがごとし。
 真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正天皇の御宇に、善無畏三蔵、大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる。又玄・等、大日経の義釈十四巻をわたす。又東大寺の得清大徳わたす。
 此等を伝教大師御らんありてしかども、大日経・法華経の勝劣いかんがとおぼしけるほどに、かたがた不審ありし故に、去る延暦二十三年七月御入唐。西明寺の道邃和尚・仏瀧寺の行満等に値ひ奉りて、止観円頓の大戒を伝受し、霊感寺の順暁和尚に値ひ奉りて、真言を相伝し、同延暦二十四年六月に帰朝し、桓武天王に御対面。宣旨を下て、六宗の学匠に止観・真言を習はしめ、同七大寺にをかれぬ。真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多く子細あれども、又大日経の義釈には理同事勝とかきたれども、伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして、八宗とはせさせ給はず。真言宗の名をけづりて、法華宗の内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍依経となして、華厳・大品般若・涅槃等の例とせり。
 而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を我が国に立う立じの諍論がわづらはしきに依りてや、真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりけるか。
 但依憑集と申す文に、正く真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて、大日経に入れて理同とせり。されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり。いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、龍智菩薩に値ひ奉りし時、月氏には仏意をあきらめたる論釈なし。漢土に天台という人の釈こそ、邪正をえらび、偏円をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこ、あなかしこ。月氏へ渡し給へと、ねんごろにあつら(誂)へし事を、不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然也。
 されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には法華経すぐれたりという事は分明なり。又真言宗の元祖という龍樹菩薩の御心もかくのごとし。大智度論を能々尋ぬるならば此事分明なるべきを、不空があやまれる菩提心論に皆人ばかされて此事に迷惑せるか。
 又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子慧果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天王は御ほうぎよ、平城天王に見参し、御用ひありて御帰依他にことなりしかども、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れてありし程に、伝教大師は嵯峨の天王弘仁十三年六月四日御入滅。同じき弘仁十四年より弘法大師、王の御師となり、真言宗を立て東寺を給ひ、真言和尚とがうし、此より八宗始る。
 一代の勝劣を判じて云く 第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり。教主釈尊は仏なれども、大日如来に向ふれば無明の辺域と申して皇帝と俘囚(えびす)とのごとし。天台大師は盗人なり。真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐というなんどかゝれしかば、法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ、華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり。例せば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて、其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし。伝教大師御存生ならば、一言は出されべかりける事なり。又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん。天下第一の大凶なり。
 慈覚大師は去る承和五年に御入唐、漢土にして十年が間、天台・真言の二宗をならう。法華・大日経の勝劣を習ひしに、法全(はつせん)・元政(げんじょう)等の八人の真言師には法華経と大日経は理同事勝等云云。天台宗の志遠・広・・維・等に習ひしには大日経は方等部の摂等云云。同じき承和十三年九月十日に御帰朝、嘉祥元年六月十四日に宣旨下る。法華・大日経等の勝劣は漢土にしてしりがたかりけるかのゆへに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻、此疏の心は大日経・金剛頂経・蘇悉地経の義と法華経の義は、其所詮の理は一同なれども、事相の印と真言とに真言の三部経すぐれたりと云云。
 此は偏に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし。然れども我が心に猶不審やのこりけん。又心にはとけ(解)てんけれども、人の不審をはらさんとやをぼしけん。此十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて御祈請ありき。かくは造りて候へども仏意計りがたし。大日の三部やすぐれたる、法華経の三部やまされる、と御祈念有りしかば、五日と申す五更に忽に夢想あり。青天に大日輪かゝり給へり。矢をもてこれを射ければ、矢飛んで天にのぼり、日輪の中に立ちぬ。日輪動転して、すでに地に落んとす、とをもひてうちさめ(打覚)ぬ。悦んで云く 我吉夢あり。法華経に真言勝れたりと造りつるふみ(文)は仏意に叶ひけり、と悦ばせ給ひて宣旨を申し下して、日本国に弘通あり。
 而も宣旨の心に云く ̄遂知。天台止観与真言法義理冥符〔遂に知んぬ。天台の止観と真言の法義とは理冥に符へり〕等云云。祈請のごときんば、大日経に法華経は劣なるようなり。宣旨を申し下すには、法華経と大日経とは同じ等云云。
 智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は大体此国にして学し給ひけり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審に漢土へは渡り給けるか。去る仁寿二年に御入唐、漢土にしては真言宗は法全・元政等にならはせ給ひ、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。天台宗は良・和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には及ばず等云云。七年が間漢土に経て、去る貞観元年五月十七日御帰朝。大日経の旨帰に云く ̄法華尚不及 況自余教乎〔法華尚及ばず、況や自余の教をや〕等云云。此釈は法華経は大日経には劣る等云云。又授決集に云く ̄真言禅門乃至若望華厳・法華・涅槃等経是摂引門〔真言禅門乃至若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是摂引門なり〕等云云。普賢経の記・論の記に云く 同じ等云云。貞観八年丙戍四月二十九日壬申 勅宣申し下して云く ̄如聞 真言止観両教之宗同号醍醐 倶称深秘〔聞くならく、真言止観両教之宗同じく醍醐と号し、倶に深秘と称す〕等云云。又六月三日の勅宣に云く ̄先師既開両業以為我道。代々座主相承莫不兼伝。在後之輩豈乖旧迹。如聞山上僧等専違先師之義成偏執之心。殆似不顧扇揚余風興隆旧業。凡厥師資之道闕一不可。伝弘之勤寧不兼備。自今以後宜以通達両教之人為延暦寺座主立為恒例〔先師既に両業を開いて以て我道と為す。代々の座主相承して、兼ね伝へざること莫し。在後之輩豈旧迹に乖んや。聞くならく、山上の僧等専ら先師之義に違ひて偏執之心を成す。殆ど余風を扇揚し旧業を興隆するを顧みざるに似たり。凡そその師資之道一を闕くも不可なり。伝弘之勤め寧ろ兼備せざらんや。今より以後宜く両教に通達する之人を以て延暦寺の座主と為して立て恒例と為すべし〕云云。
 されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値ひて有りしかども、二宗の勝劣は思ひ定めざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等云云。宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり。
 此等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用ひじとみえて候。但二宗斉等とは先師伝教大師の御義と宣旨に引き載せられたり。
 抑も伝教大師いづれの書にかかれて候ぞや。此事よくよく尋ぬべし。慈覚・智証と日蓮とが伝教大師の御事を不審申すは、親に値ふての年あらそひ、日天に値ひ奉りての目くらべにて候へども、慈覚・智証の御かたふどをせさせ給はん人々は、分明なる証文をかまへさせ給ふべし。詮ずるところは信をとらんがためなり。
 玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞがし。天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき。法護三蔵は印度の法華経をば見たれども、属累の先後をば漢土の人みねども、・といひしぞかし。設ひ慈覚、伝教大師に値ひ奉りて習ひ伝へたりとも、智証、義真和尚に口決せりといふとも、伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加へざらん。
 伝教大師の依憑集と申す文は大師第一の秘書なり。彼書の序に云く ̄新来真言宗者則泯筆授之相承 旧到華厳家則隠影響之軌範。沈空三論宗者忘弾訶之屈恥覆称心之酔。著有法相非撲揚之帰依撥青龍之判経等。乃至 謹著依憑集一巻贈同我後哲。某時興日本第五十二葉弘仁之七丙申之歳也〔新来の真言宗は則ち筆授之相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響之軌範を隠す。沈空の三論宗は弾訶之屈恥を忘れて称心之酔を覆ふ。著有の法相は撲揚之帰依をなみし、青龍之判経等を撥(はら)ふ。乃至謹んで依憑集一巻を著して同我の後哲に贈る。某の時興ること日本第五十二葉弘仁之七丙申之歳なり〕云云。次下の正宗に云く ̄天竺名僧聞大唐天台教迹最堪簡邪正渇仰訪問〔天竺の名僧大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪えたりと聞いて渇仰して訪問す〕云云。次下に云く ̄豈非中国失法求之四維。而此方少有識者。如魯人耳〔豈に中国に法を失て四維に求むるに非ずや。而も此方に識ること有る者少し。魯人の如きのみ〕等云云。
 此書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文也。天台・真言の二宗同一味ならば、いかでかせめ候べき。而も不空三蔵等をば魯人のごとしなんどかかれて候。善無畏・金剛智・不空の真言宗いみじくば、いかでか魯人と悪口あるべき。又天竺の真言が天台宗に同じきも又勝れたるならば、天竺の名僧いかでか不空にあつらへ、中国に正法なしとはいうべき。
 それはいかにもあれ、慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、心は御弟子にあらず。其故は此書に云く ̄謹著依憑集一巻贈同我後哲〔謹んで依憑集一巻を著して同我の後哲に贈る〕等云云。同我の二字は、真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ、同我にてはあるべけれ。我と申し下さるる宣旨に云く ̄専違先師之義成偏執之心〔専ら先師之義に違て偏執之心を成す〕等云云。又云く ̄凡厥師資之道闕一不可〔凡そその師資之道一を闕くも不可なり〕等云云。此宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ、専ら先師にそむく人にては候へ。
 かうせめ候もをそれにては候へども、此をせめずば、大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じて、いのちをまと(的)にかけてせめ候なり。此二人の人々の弘法大師の邪義をせめ候わざりけるは最も道理にて候けるなり。
 されば粮米をつくし、人をわづらはかして、漢土へわたらせ給はんよりは、本師伝教大師の御義をよくよくつくさせ給ふべかりけるにや。
 されば叡山の仏法は但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其主は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給ふは、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事(ひがごと)なり。其故は水火天地なる事は僻事なれども、人用ふる事なければ其僻事成ずる事なし。弘法大師の御義はあまり僻事なれば弟子等も用ふる事なし。事相計りは其門家なれども、其教相の法門は弘法の義いゐにくきゆへに、善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり。慈覚・智証の義こそ真言と天台とは理同なり、なんど申せば皆人さもやとをもう。かうをもうゆへに、事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像木像の開眼の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にをちて、天台宗は一人もなきなり。例せば法師と尼と黒と青とはまがひぬべければ、眼くらき人はあやまつぞかし。僧と男と白と赤とは目くらき人も迷はず。いわうや眼あきらかなる者をや。慈覚・智証の義は法師と尼と黒と青とがごとくなるゆへに、智人も迷ひ愚人もあやまりて候て、此四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州皆謗法の者となりぬ。
 抑も法華経の第五に_文殊師利 此法華経諸仏如来秘密之蔵。於諸経中最在其上〔文殊師利、此法華経は諸仏如来の秘密之蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り〕云云。此の文のごとくならば、法華経は大日経の衆経の頂上に住し給ふ正法なり。さるにては善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は此経文をばいかんが会通せさせ給ふべき。法華経の第七に云く_有能受持是経典者亦復如是。於一切衆生中亦為第一〔能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり〕等云云。此経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。
 伝教大師の秀句と申す書に云く ̄此経亦復如是 乃至 諸経法。中最為第一。有能受持。是経典者。亦復如是。於一切衆生中。亦為第一〔此経も亦復是の如し、乃至、諸経法の中に最もこれ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦これ第一なり〕。已上経文なりと引き入れさせ給ひて次下に云く 天台法華玄に云く 等云云。已上玄文とかかせ給ひて上の心を釈して云く ̄当知。他宗所依経未最為第一。其能持経者亦未第一。天台法華宗所持法華経最為第一故 能持法華者亦衆生中第一。已拠仏説豈自歎哉〔当に知るべし。他宗所依の経は未だ最も為れ第一ならず。其能く経を持つ者も亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に、能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり。已に仏説に拠る豈自歎ならんや〕等云云。次下に譲る釈に云く ̄委曲之依憑具有別巻也〔委曲之依憑具さに別巻有るなり〕等云云。依憑集に云く ̄今吾天台大師説法華経釈法華経特秀於群独歩於唐。明知如来使也。讃者積福於安明、謗者罪開於無間〔今吾天台大師法華経を説き、法華経を釈すること、群に特秀し、唐に独歩す。明に知んぬ如来の使いなり。讃る者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く〕等云云。
 法華経・天台・妙楽・伝教の経釈のごとくならば、今日本国には法華経の行者は一人もなきぞかし。
 月氏には教主釈尊、宝塔品にして、一切の仏をあつめさせ給ひて大地の上に居せしめ、大日如来計り宝塔の中の南の下座にす(居)へ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給ふ。此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。此れ即ち法華経の行者なり。天竺かくのごとし。漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて現身に大師となる。 ̄特秀於群独歩於唐〔群に特秀し、唐に独歩す〕というこれなり。日本国には伝教大師六宗にせめかちて日本の始め第一の根本大師となり給ふ。月氏・漢土・日本に但三人計りこそ、於一切衆生中亦為第一〔一切衆生の中に於て亦これ第一なり〕にては候へ。
 されば秀句に云く ̄浅易深難釈迦所判。去浅就深丈夫之心也。天台大師信順釈迦助法華宗敷揚震旦、叡山一家相承天台助法華宗弘通日本〔浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは丈夫之心なり。天台大師は釈迦に信順して法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承して法華宗を助けて日本に弘通す〕等云云。
 仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人。釈尊を加へ奉りて已上三人なり。外典に云く 聖人は一千年に一(ひとたび)出て、賢人は五百年に一出づ。黄河は・(けい)・渭(い)ながれをわけて、五百年には半河すみ、千年は共に清む、と申すは一定にて候けり。
 然るに日本国は叡山計りに、伝教大師の御時、法華経の行者ましましけり。義真・円澄は第一第二の座主なり。第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円澄は半(なかば)は伝教の御弟子、半は弘法の弟子なり。第三の慈覚大師は始めは伝教の御弟子ににたり。御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其跡をばつがせ給へども、法門は全く御弟子にあらず。而れども円頓の戒計りは又御弟子ににたり。蝙蝠鳥のごとし。鳥にもあらず。ねずみにもあらず。梟鳥禽(きょうちょうきん)・破鏡獣(はけいじゅう)のごとし。法華経の父を食らひ、持者の母をかすめるなり。日をい(射)るとゆめにみしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ。智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山の、・羅と悪龍と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊大講堂もやけぬ。現身に無間地獄をかん(感)ぜり。但中堂計りのこれり。
 弘法大師も又跡なし。弘法大師の云く 東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず等、御いましめの状あり。しかれども寛平法王は仁和寺を建立して、東寺の法師をうつして、我寺には叡山の円頓戒を持たざらん者をば住せしむべからずと、宣旨分明なり。されば今の東寺の法師は鑒真が弟子にもあらず、弘法の弟子にもあらず。戒は伝教の御弟子なり。又伝教の御弟子にもあらず、伝教の法華経を破失す。
 去る承和二年三月二十一日に死去ありしかば公家より遺体をはほ(葬)らせ給ひ、其後誑惑の弟子等集りて、御入定と云云。或はかみ(髪)をそりてまいらするぞといゐ、或は三鈷をかんど(漢土)よりなげたりといゐ、或は日輪夜中に出たりといゐ、或は現身に大日如来となり給ふといひ、或は伝教大師に十八道ををしえまいらせたりといゐて、師の徳をあげて智慧にかへ、我師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり。又高野山に本寺・伝法院といいし二の寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔大日如来なり。伝法院と申すは正覚房が立てし金剛界の大日なり。此本末の二寺昼夜に合戦あり。例せば叡山・園城のごとし。誑惑のつもりて日本に二の禍の出現せるか。糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞の香なり。大妄語を集めて仏とがうすれども但無間大城なり。尼・が塔は数年が間、利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽にくづれぬ。鬼弁婆羅門がとばり(帷)は多年人をたぼらかせしかども、阿・縛・沙〈あすばくしゃ〉菩薩にせめられてやぶれぬ。・留外道は石となつて八百年、陳那菩薩にせめられて水となりぬ。道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。趙高が国をとりし、王莽(おうもう)が位をうばいしがごとく、法華経の位をと(奪)て大日経の所領とせり。法王すでに国に失ぬ。人王あに安穏ならんや。日本国は慈覚・智証・弘法の流なり。一人として謗法ならざる人はなし。
{▽下巻}
 但し事の心を案ずるに、大荘厳仏の末、一切明王仏の末法のごとし。威音王仏の末法には改悔ありしすら、猶千劫阿鼻地獄に堕つ。いかにいわうや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。如是展転至無数劫疑ひなきものか。かゝる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつれば、ふるき守護の善神もほこらをやひ(焼)て寂光の都へかへり給ひぬ。
 但日蓮計り留まり居て告げ示せば、国主これをあだみ、数百人の民に或は罵詈、或は悪口、或は杖木、或は刀杖、或は宅々ごとにせき、或は家々ごとにをう。それにかなはねば、我と手をくだして二度まで流罪あり。
去る文永八年九月の十二日には首を切らんとす。最勝王経に云く_由愛敬悪人治罰善人故他方怨賊来国人遭喪乱〔悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、他方の怨賊来て国人喪乱に遭う〕等云云。大集経に云く_若復有諸刹利国王作諸非法悩乱世尊声聞弟子 若以毀罵刀杖打斫及奪衣鉢種種資具 若他給施作留難者我等令彼自然卒起他方怨敵 及自界国土亦令兵起病疫飢饉非時風雨闘諍言訟。又令其王不久復当亡失己国〔若しは復諸の刹利国王有て諸の非法を作して世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し刀杖をもて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪ひ、若しは他の給施せんに留難を作さば我等彼をして自然に他方の怨敵を卒起せしめん、及び自界の国土にも亦兵起り病疫飢饉し非時の風雨闘諍言訟せしめん。又其王をして久しからざらしめ復当に己が国を亡失す〕等云云。此等の文のごときは日蓮この国になくば、仏は大妄語の人阿鼻地獄はいかでか脱れ給ふべき。
 去る文永八年九月十二日に平左衛門竝びに数百人に向て云く 日蓮は日本国のはしら(柱)なり。日蓮を失ふほどならば日本国のはしらをたをす(倒)になりぬ等云云。此経文に、智人を国主等若しは悪僧等がざんげんにより、若しは諸人の悪口によて、失(とが)にあつるならば、にはかにいくさ(軍)をこり、又大風ふかせ、他国よりせむべし等云云。
 去る文永九年二月のどし(同志)いくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来りしは偏に日蓮がゆへにあらずや。いわうや前よりこれをかんがへたり。誰の人か疑ふべき。弘法・慈覚・智証の・り竝びに禅宗と念仏宗とのわざわい(禍)あいをこりて、逆風に大波をこり、大地震のかさなれるがごとし。
 さればやうやく国をとろう。太政入道がくにををさ(押)へ、承久に王位つきはてゝ世東にうつりしかども、但国中のみだれにて他国のせめはなかりき。彼は謗法の者は国に充満せりといへどもさゝ(支)へ顕はす智人なし。かるがゆへに、なのめ(平)なりき。譬へば師子のねぶれるは手をつけざればほへず。迅(はや)き流れは櫓をさゝへざれば波たかからず。盗人はとめざればいからず。火は薪を加へざればさかんならず。謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。例せば日本国に仏法わたりはじめて候しに、始めはなに事もなかりしかども、守屋仏をやき、僧をいましめ、堂塔をやきしかば、天より火の雨ふり、国にはうさう(疱瘡)をこり、兵乱つづきしがごとし。此はそれにはにるべくもなし。謗法の人々も国に充満せり。日蓮が大義も強くせめかゝる。・羅と帝釈と、仏と魔王との合戦にもをとるべからず。金光明経に云く_時・国怨敵興如是念。当具四兵壊彼国土〔時に・国の怨敵是の如き念を興さん。当に四兵を具して彼国土を壊るべし〕等云云。又云く_時王見已即厳四兵発向彼国欲為討罰。我等爾時当与眷属無量無辺薬叉諸神 各隠形為作護助 令彼怨敵自然降伏〔時に王見已つて即ち四兵をよそおひて彼国に発向し討罰を為さんと欲す。我等爾の時に当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し彼怨敵をして自然に降伏せしむべし〕等云云。最勝王経の文又かくのごとし。大集経云云。仁王経云云。此等の経文のごときんば、正法を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等、・国の賢王の身に入りかわりて其国をせむべしとみゆ。例せば訖利多王を雪山下王のせめ、大族王を幻日王の失ひしがごとし。訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失ひし王ぞかし。漢土にも仏法をほろぼしゝ王、みな賢王にせめられぬ。これは彼にはにるべくもなし。仏法のかたうどなるやうにて、仏法を失ふ法師のかたうどをするゆへに、愚者はすべてしらず、智者なんども常の智人はしりがたし。天も下劣の天人は知らずもやあるらん。
 されば漢土月氏のいにしへ(古)のみだれよりも大きなるべし。法滅尽経に云く_吾般泥・後 五逆濁世魔道興盛魔作沙門壊乱吾道。乃至 悪人転多如海中沙 善者甚少若一若二〔吾般泥・の後、五逆濁世に魔道興盛し魔沙門と作つて吾道を壊乱せん。乃至 悪人転た多く海中の沙の如く、善者は甚だ少して若しは一若しは二〕云云。涅槃経に云く_信如是等涅槃経典 如抓上土 乃至 信是経如十方界諸有地土〔是の如き等の涅槃経典を信ずるものは爪上の土の如し、乃至、是の経を信ぜざるものは十方界の諸有の地土の如し〕等云云。此経文は予が肝に染みぬ。当世日本国には我も法華経を信じたり信じたり。諸人の語のごときんば一人も謗法の者なし。此経文には、末法に謗法の者十方の地土、正法の者爪上の土等云云。経文と世間とは水火なり。世間の人云く 日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云。又経文には天地せり。法滅尽経には善者一・二人。涅槃経には信者爪上の土等云云。経文のごとくならば、日本国は但日蓮一人こそ爪上の土・一・二人にては候へ。経文をか用ふべき、世間をか用ふべき。 問て云く 涅槃経の文には、涅槃経の行者は爪上の土等云云。汝が義には法華経等云云如何。
 答て云く 涅槃経に云く_如法華中〔法華の中の如し〕等云云。妙楽大師云く ̄大経自指法華為極〔大経自ら法華を指して極と為す〕等云云。大経と申すは涅槃経也。涅槃経には法華経を極と指して候なり。而るを涅槃宗の人の法華経に勝ると申せしは、主を所従といゐ下郎を上郎といゐし人なり。涅槃経をよむと申すは法華経をよむを申すなり。譬へば、賢人は国主を重んずる者をば我をさぐれども悦ぶなり。涅槃経は法華経を下げて我をほむる人をば、あながちに敵とにくませ給ふ。此の例をもつて知るべし。華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣るとよむは彼々の経々の心にはそむくべし。此をもつて知るべし。法華経をよむ人の此経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なる(成)とをもうは、此経をよまぬ人なり。
 例せば嘉祥大師は法華玄と申す文十巻造りて、法華経をほめしかども、妙楽かれをせめて云く ̄毀在其中何成弘讃〔毀り其の中に在り、何ぞ弘讃と成さん〕等云云。法華経をやぶる人なり。されば嘉祥は落ちて、天台につかひ(仕)て法華経をよまず。我れ経をよむならば悪道まぬがれがたしとて、七年まで身を橋とし給ひき。
 慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文十巻あり。伝教大師せめて云く ̄雖讃法華経還死法華心〔法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す〕等云云。此等をもつてをもうに、法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなり。嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし。弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや。嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも、猶や已前の法華経誹謗の罪やきへざるらん。不軽軽毀の者は不軽菩薩に信伏随従せしかども、重罪いまだのこりて千劫阿鼻に堕ちぬ。
 されば弘法・慈覚・智証等は設ひひるがへす心ありとも尚法華経をよむならば重罪きへがたし。いわうやひるがへる心なし。又法華経を失ひ、真言教を昼夜に行ひ、朝暮に伝法せしをや。
 世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもて大を破せる罪をば、舌を切らんとせしか。世親菩薩は仏説なれども阿含経をばたわふれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて小乗をやぶり給ひき。
 嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて、百余人の智者の前にして五体を地になげ、・身にあせ(汗)をながし、紅のなんだをながして、今よりは弟子を見じ、法華経をかう(講)ぜじ。弟子の面をまほり法華経をよみたてまつれば、我力の此経を知るにに(似)たりとて、天台よりも高僧老僧にてをはせしが、わざと人のみるときをひ(負)まいらせて河をこへ、かうざ(高座)にちかづきてせなか(背)にのせまいらせ給ひて高座にのぼせたてまつり、結句御臨終の後には、隋の皇帝にまい(参)らせて、小兒が母にをくれたるがごとくに足をすりてなき給ひしなり。
 嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ。此が誹謗の根本にて候か。華厳の澄観も真言の善無畏も大日経と法華経とは理は一とこそかゝれて候へ。嘉祥とが(科)あらば善無畏三蔵も脱れがたし。
 されば善無畏三蔵は中天の国主なり。位をすてて他国にいたり、殊勝・招提の二人にあひて法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば、法華経の行者とこそみへしか。しかれども大日経を習ひしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやをもひけん。始めはいたう其義もなかりけるが、漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ。天台宗をそねみ思ふ心つき給ひけるかのゆへに、忽ちに頓死して、二人の極卒に鉄の縄七つけられて、閻魔王宮にいたりぬ。命いまだつきずといゐてかへされしに、法華経謗法とやをもひけん、真言の観念・印真言等をばなげすてゝ、法華経の今此三界の文を唱へて縄も切れ、かへされ給ひぬ。又雨のいのりををほせつけられたりしに、忽ちに雨は下(ふり)たりしかども、大風吹きて国をやぶる。結句死し給ひてありしには、弟子等集まりて臨終いみじきやうをほめしかども、無間大城に堕ちにき。 問て云く 何をもつてかこれをしる。
 答て云く 彼伝を見るに云く ̄今観畏之遺形漸加縮小黒皮隠々骨其露焉〔今畏の遺形を観るに漸くますます縮小し黒皮隠々として骨其れ露なり〕等云云。彼の弟子等は死後に地獄の相の顕はれたるをしらずして、徳をあぐなどをもへども、かきあらはせる筆は畏が失をかけり。死してありければ、身やふやくつづま(縮)りちひさ(小)く、皮はくろ(黒)し、骨あらわ(露)なり等云云。人死して後、色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし。
 善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ。幼少にして位をすてぬ。第一の道心なり。月氏五十余箇国を修行せり。慈悲の余りに漢土にわたれり。天竺・震旦・日本一閻浮提の内に真言を伝へ鈴をふるこの人の功徳にあらずや。いかにして地獄には堕ちけると、後生ををもはん人々は御尋ねあるべし。又金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり。金剛頂経を漢土にわたす。其の徳善無畏のごとし。又互に師となれり。
 而るに金剛智三蔵勅宣によて雨の祈りありしかば七日が中に雨下る。天子大に悦ばせ給ふほどに忽ちに大風吹き来る。王臣等けうさめ(興覚)給ひて、使ひをつけて追はせ給ひしかども、とかうのべて留まりし也。結句は姫宮の御死去ありしに、いのりをなすべしとて、身の代に殿上の二の女子七歳になりしを、薪につみこめて焼き殺せし事こそ、無漸にはをぼゆれ。而れども姫宮もいきかへり給はず。
 不空三蔵は金剛智と月支より御ともせり。此等の事を不審とやをもひけん。畏と智と入滅の後、月氏に還りて龍智に値ひ奉り、真言を習ひなを(直)し、天台宗に帰伏してありしが、心計りは帰れども身はかへる事なし。雨の御いのりうけ給はりたりしが、三日と申すに雨下る。天子悦ばせ給ひて我と御布施ひかせ給ふ。須臾ありしかば、大風落ち下りて内裏をも吹きやぶり、雲閣月卿の宿所一所もあるべしともみへざりしかば、天子大に驚きて宣旨なりて風をとどめよ。且らくありては又吹き、又吹きせしほどに、数日が間やむことなし。結句は使いをつけて追ふてこそ、風もやみてありしか。
 此三人の悪風は漢土日本の一切の真言師の大風なり。さにてあるやらん。
 去る文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法をすこしもたがへず伝へたりけるか。心にくし心にくし。
 弘法大師は去る天長元年の二月大旱魃のありしに、先には守敏(しゅびん)祈雨して七日が内に雨を下す。但し京中にふりて田舎にそゝがず。次に弘法承取りて一七日に雨気なし、二七日に雲なし。三七日と申せしに、天子より和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば雨下る事三日。此をば弘法大師竝びに弟子等此の雨をうばひとり、我が雨として今に四百余年、弘法の雨という。
 慈覚大師の夢に日輪をい(射)しと、弘法大師の大妄語に云く 弘仁九年の春大疫をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云。成劫より已来住劫の第九の減、已上二十九劫が間に日輪夜中に出でしという事なし。慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に、日輪をいるとゆめにみるは吉夢という事有りやいなや。・羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。其矢かへりて我が眼にたつ。殷の紂王は日天を的にいて身を亡す。日本の神武天皇の御時、度美長(とみのおさ)と五瀬命(いつせのみこと)と合戦ありしに、命の手に矢たつ。命の云く 我はこれ日天(ひのかみ)の子孫(うみのこ)なり。日に向かひ奉りて弓をひくゆへに、日天のせめをかをほれりと云云。阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返りてぎよしん(御寝)なりしが、をどろいて諸臣に向て云く 日輪天より地に落とゆめにみる。諸臣の云く 仏の御入滅か云云。須跋陀羅がゆめ又かくのごとし。我国は殊にいむ(忌)べきゆめなり。神をば天照という。国をば日本という。又教主釈尊をば日種と申す。摩耶夫人日をはらむとゆめにみてまうけ給へる太子なり。
慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となりしゆへに、此夢出現せり。例せば漢土の善導が始めは密州の明勝といゐし者に値ふて、法華経をよみたりしが、後には道綽に値ふて法華経をすて、観経に依りて疏をつくり、法華経をば千中無一、念仏をば十即十生百即百生と定めて、此義を成ぜんがために阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす。仏意に叶ふやいなや、毎夜夢中常有一僧 而来指授(毎夜夢の中常にひとりの僧有り、来りて指授す)と云云。乃至 一如経法〔もっぱら経法の如くせよ〕乃至 観念法門経等云云。法華経には_若有聞法者無一不成仏〔若し法を聞く者有れば一として成仏せざる無し〕。善導は千中無一〔千が中に一も無し〕等云云。法華経と善導とは水火也。善導は観経をば十即十生百即百生と。無量義経に云く_観経は未顕真実〔未だ真実を顕さず〕等云云。無量義経と楊柳房とは天地也。此を阿弥陀仏の僧と成りて来て真なりと証せばあに真事ならんや。抑も阿弥陀は法華経の座に来りて、舌をば出し給はざりけるか。観音・勢至は法華経の座にはなかりけるか。此をもてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり。 問て云く 弘法大師の心経の秘鍵に云く ̄于時弘仁九年春天下大疫。爰皇帝自染黄金於筆端 握紺紙於爪掌 奉書写般若心経一巻。予範講読之撰綴経旨之宗未吐結願之詞蘇生之族彳途。夜変而日光赫々。是非愚身戒徳。金輪御信力所為也。但詣神舎輩奉誦此秘鍵。昔予陪鷲峰説法之筵親聞其深文。豈不達其義而已〔時に弘仁九年の春天下大疫す。爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙を爪掌に握りて、般若心経一巻を書写し奉りたまふ。予講読之撰に範て経旨之宗を綴る、未だ結願之詞を吐かず蘇生之族途に彳〈すむ〉。夜変じて日光赫々たり。是愚身の戒徳に非ず。金輪の御信力の所為なり。但神舎に詣でん輩は此の秘鍵を誦し奉れ。昔予鷲峰説法之筵に陪して親しく其の深文を聞きたてまつる。豈其の義に達せざらんや〕等云云。
又孔雀経の音義に云く ̄弘法大師帰朝之後 欲立真言宗 諸宗群集朝廷矣。疑即身成仏義。大師結智拳印向南方 面門俄開成金色毘盧遮那 即便還帰本体。入我我入之事 即身頓証之疑 此日釈然。然真言瑜伽宗 秘密曼荼羅道 従彼時建立矣〔弘法大師帰朝之後、真言宗を立てんと欲し、諸宗を朝廷に群集す。即身成仏の義を疑ふ。大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄に開いて金色の毘盧遮那と成り、すなわち本体に還帰す。入我我入之こと、即身頓証之疑ひ、此の日釈然たり。然るに真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道、彼時従り建立しぬ〕。
又云く ̄此時諸宗学徒帰大師 始得真言請益習学。三論道昌・法相源仁・華厳道雄・天台円澄等皆其類也〔此の時に諸宗の学徒大師に帰して、始めて真言を得請益し習学す。三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄等皆其の類なり〕。弘法大師の伝に云く ̄帰朝泛舟之日発願云 我所学教法若有感応之地者此三鈷可到其処。仍向日本方抛上三鈷。遥飛入雲。十月御帰朝〔帰朝泛舟之日発願して云く 我所学の教法若し感応之地有らば、此三鈷其の処に到るべしと。仍て日本の方に向て三鈷を抛げ上ぐ。遥かに飛んで雲に入る。十月に御帰朝す〕云云。
又云く ̄高野山下占入定所。乃至 彼海上之三鈷今新在此〔高野山の下に入定の所を占む。乃至 彼の海上之三鈷今新たに此に在り〕等云云。大師の徳無量なり。其の両三を示す。かくのごとくの大徳あり。いかんが此人を信ぜずして、かへりて阿鼻地獄に堕つるといはんや。
 答て云く 予も仰いで信じ奉る事かくのごとし。但し古の人々も不可思議の徳ありしかども、仏法の邪正は其にはよらず。外道が或は恒河を耳に十二年留め、或は大海をすひ(吸)ほし、或は日月を手ににぎり、或は釈子を牛羊となしなんどせしかども、いよいよ大慢ををこして、生死の業とこそなりしか。此をば天台云く ̄邀名利増見愛〔名利をもとめ見愛を増す〕とこそ釈せられて候へ。光宅が忽ちに雨を下し須臾に花を感ぜしをも、妙楽は ̄感応若此猶不称理〔感応此ごとくなれども、猶理にかなはず〕とこそかかれて候へ。さらば天台大師の法華経をよみて須臾に甘雨を下せ、伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしてをはせしも、其をもつて仏意に叶ふとはをほせられず。弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域とかゝせ給へる御ふで(筆)は、智慧かしこからん人は用ふべからず。いかにいわうや、上にあげられて候徳どもは不審ある事なり。弘仁九年の春天下大疫等云云。春は九十日、何れの月何れの日ぞ。是一。
 又弘仁九年には大疫ありけるか。是二。
 又夜変而日光赫々たりと云云。此事第一の大事なり。弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり。左史右史の記に載せたりや。是三。
 設ひ載せたりとも信じがたき事なり。成劫二十劫・住劫九劫、已上二十九劫が間にいまだ無き天変也。夜中に日輪の出現せる事如何。又如来一代の聖教にもみへず。未来に夜中に日輪出べしとは三皇五帝の三墳五典にも載せず。仏経のごときんば、減劫にこそ二つの日三つの日乃至七つの日は出べしとは見えたれども、かれは昼のことぞかし、夜日出現せば東西北の三方は如何。設ひ内外の典に記せずとも、現に弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に日出づるという。公家・諸家・叡山等の日記あるならば、すこし信ずるへんもや。次下に ̄昔予陪鷲峰説法之筵親聞其深文〔昔予鷲峰説法之筵に陪して親しく其の深文を聞きたてまつる〕等云云。此筆を人に信ぜさせしめんがために、かまへ出す大妄語か。されば霊山にして法華は戯論、大日経は真実と仏の説き給ひけるを、阿難・文殊が・りて妙法華経をば真実とかけるか、いかん。いうにかいなき婬女・破戒の法師等が歌をよみて雨(ふら)す雨を、三七日まで下さざりし人はかゝる徳あるべしや。是四。
 孔雀経の音義に云く ̄大師結智拳印向南方 面門俄開成金色毘盧遮那〔大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄に開いて金色の毘盧遮那と成る〕等云云。此又何れの王、何れの年時ぞ。漢土には建元を初めとし、日本には大宝を初めとして、緇素の日記、大事には必ず年号のあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。又次に云く 三論道昌・法相源仁・華厳道雄・天台円澄等云云。抑も円澄は寂光大師天台第二の座主なり。其時何ぞ第一の座主義真、根本の伝教大師をば召さざりけるや。円澄は天台第二の座主、伝教大師の御弟子なれども、又弘法大師の弟子なり。弟子を召さんよりは、三論・法相・華厳よりは、天台の伝教・義真の二人を召すべかりけるか。
而も此日記に云く ̄真言瑜伽宗 秘密曼荼羅道 従彼時而建立矣〔真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道、彼時従り建立しぬ〕等云云。此筆は伝教・義真の御存生かとみゆ。弘法は平城天皇大同二年より弘仁十三年までは盛んに真言をひろめし人なり。其時は此二人現にをはします。又義真は天長十年までおはせしかば、其時まで弘法の真言はひろまらざりけるか。かたがた不審あり。孔雀経の疏は弘法の弟子真済が自記なり。信じがたし。又邪見者か。公家・諸家・円澄の記をひかるべきか。又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし。 ̄面門俄開成金色毘盧遮那〔面門俄に開いて金色の毘盧遮那と成る〕等云云。面門とは口なり。口の開けたりけるか。眉間開くとかゝんとしけるが、・りて面門とかけるか。ぼう(謀)書をつくるゆへにかゝるあやまりあるか。
 ̄大師結智拳印向南方 面門俄開成金色毘盧遮那〔大師智拳の印を結んで南方に向かふに、面門俄に開いて金色の毘盧遮那と成る〕等云云。
涅槃経の五に云く_迦葉白仏言世尊我今不依是四種人何以故。如瞿師羅経中仏為瞿師羅説 若天魔梵為欲破壊変為仏像具足荘厳三十二相八十種好円光一尋面部円満猶月盛明眉間毫相白踰珂雪 乃至 左脇出水右脇出火〔迦葉仏に白して言さく、世尊我今是の四種の人に依らず、何を以ての故に。瞿師羅経の中の如き、仏瞿師羅の為に説きたまはく、若し天魔梵破壊せんと欲するが為に変じて仏の像と為り、三十二相八十種好を具足し荘厳し、円光一尋面部円満なること月の盛明なるがごとく、眉間の毫相白きこと珂雪に踰え、乃至、左の脇より水を出し右の脇より火を出す〕等云云。
又六巻に云く_仏告迦葉 我般涅槃 乃至 後是魔波旬漸当沮壊我之正法。乃至 化作阿羅漢身及仏色身 魔王以此有漏之形作無漏身壊我之正法〔仏迦葉に告げたまはく、我般涅槃して、乃至、後是の魔波旬漸く当に我之正法を沮壊すべし。乃至、化して阿羅漢の身、及び仏の色身と作り、魔王此有漏之形を以て無漏の身と作り、我之正法を壊らん〕等云云。
弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云。而も仏身を現ず。此涅槃経には魔有漏の形をもつて仏となつて我正法をやぶらんと記し給ふ。涅槃経の正法は法華経なり。故に経の次下の文に云く_久已成仏〔久しく已に成仏す〕。又云く_如法華中〔法華の中の如し〕等云云。釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して法華経は真実、大日経等の一切経は不真実等云云。弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。又三鈷の事、殊に不審なり。漢土の人の日本に来りてほり(堀)いだすとも信じがたし。已前に人をやつかわしてうづみ(埋)けん。いわうや弘法は日本の人、かゝる誑乱其数多し。此等をもつて仏意に叶ふ人の証拠とはしりがたし。
 されば此真言・禅宗・念仏等やうやくかうなり来る程に、人王八十二代尊成(たかなり)隠岐の法王 権の太夫殿を失はんと年ごろはげませ給ひけるゆへに、国主なればなにとなくとも、師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそあるべかりし上、叡山・東寺・園城・奈良・七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間、或は調伏、或は神に申させ給ひしに、二日三日だにもさゝへかねて、佐渡国・阿波国・隠岐国等にながし失せて終にかくれさせ給ひぬ。調伏の上首御室(おむろ)は但東寺をかへらるゝのみならず、眼のごとくあひ(愛)せさせ給ひし第一の天童勢多伽(せいたか)が首切られたりしかば、調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見へて候へ。
 これはわづかの事なり。此後定んで日本の国臣万民一人もなく、乾草を積みて火を放つがごとく、大山のくづれて谷をうむがごとく、我国他国にせめらるる事出来すべし。
 此事日本国の中に但日蓮一人計りしれり。いゐいだすならば、殷の紂王の比干が胸をさきしがごとく、夏の桀王の龍蓬が頚を切りしがごとく、檀彌羅王の師子尊者が首を刎ねしがごとく、竺の道生が流されしがごとく、法道三蔵のかなやき(火印)をや(焼)かれしがごとくならんずらんとはかねて知りしがども、法華経には我不愛身命但惜無上道〔我身命を愛せず、但無上道を惜む〕ととかれ、涅槃経には寧喪身命不匿教者〔寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれ〕といさめ給えり。今度命をおしむならば、いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切りて申し始めしかば、案にたがはず、或は所をおひ、或はのり、或はうたれ、或は・(きず)をかうふるほどに、去る弘長元年辛の酉五月十二日に御勘気をかうふりて、伊豆の国伊東にながされぬ。又同じき弘長三年癸の亥二月二十二日にゆりぬ。
 其後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起るがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も、此には及ばじとをぼゆ。日本六十六箇国嶋二つの中に、一日片時も何れの所にすむべきやうもなし。古は二百五十戒を持ちて忍辱なる事羅云のごとくなる持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も、日蓮に値ひぬれば悪口をはく。正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も、日蓮を見ては理をまげて非とをこなう。いわうや世間の常の人々は犬のさる(猿)をみたるがごとく、猟師が鹿をこめたるににたり。日本国の中に一人として故こそあるらめという人なし。
 道理なり。人ごとに念仏を申す、人に向ふごとに念仏は無間に堕つるというゆへに。人ごとに真言を尊む、真言は国をほろぼす悪法という。国主は禅宗を尊む、日蓮は天魔の所為というゆへに。我と招けるわざわひなれば人ののるをもとがめず。とがむとて一人ならず。打つをもいたまず、本より存ぜしがゆへに。
 かういよいよ身もをしまずせめしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人(権家)につき、或はきり女房(権閨)につき、或は後家尼御前等につきて無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事日本国を失はんと呪そ(咀)する法師なり。故最明寺殿・極楽寺殿・を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし。但須臾に首をめせ。弟子等をば又或は首を切り、或は遠国につかはし、或は篭に入れよと、尼ごぜんたちいからせ給ひしかば、そのまゝ行はれけり。
 去る文永八年辛の未九月十二日の夜は相模の国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其夜はのびて依智というところへつきぬ。又十三日の夜はゆり(許)たりとどゞめき(多口)しが、又いかにやありけん、さど(佐渡)の国までゆく。今日切る、あす切る、といひしほどに四箇年というに、結句は去る文永十一年太歳甲戌二月の十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉に入り、同じき四月の八日、平左衛門尉に見参して、やうやうの事申したりし中に、今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ。同じき五月の十二日にかまくら(鎌倉)をいでて、此山に入れり。
 これはひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩をほう(報)ぜんがために、身をやぶり、命をすつれども、破れざればさてこそ候へ。又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ひずば、山林にまじわれということは、定るれい(例)なり。此功徳は定めて上三宝・下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶かり給ふらん。
 但疑ひ念ふことあり。目連尊者は扶けんとをもいしかども母の青提女は餓鬼道に堕ちぬ。大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちぬ。これは力のまやすく(救)はんとをぼせども自業自得果のへん(辺)はすくひがたし。故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといゐ、提婆・瞿伽利にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしを、あながち(強)にをそれて、いとをしとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにも、すてられし人なれば後生はいかんがと疑ふ。
 但一の冥加には景信と円智・実城とがさきにゆきしこそ、一のたすかりとはをもへども、彼等は法華経の十羅刹のせめをかほりてはやく失ぬ。後にすこし信ぜられてありしは、いさかひの後のちぎりきなり。ひるのともしび(燈)なにかせん。其上いかなる事あれども子・弟子なんどという者は不便(ふびん)なる者ぞかし。力なき人にもあらざりしが、さど(佐渡)の国までゆきしに、一度もとぶら(訪)はれざりし事は信じたるにはあらぬぞかし。
 それにつけてもあさましければ、彼人の御死去ときくには、火にも入り、水にも沈み、はしり(走)たちてもゆひて、御はか(墓)をもたゝいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ、心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出づるならば、末へもとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。
 但し各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが、かへりて御弟子とならせ給ひしがごとし。日蓮が景信にあだまれて清澄山を出しに、をひ(追)てしのび出られたりしは、天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑ひおぼすべからず。 問て云く 法華経一部八巻二十八品の中に何物か肝心なる。
 答て云く 華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経。かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目、其経の肝心なり。大は大につけ、小は小につけて、題目をもて肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等、亦復かくのごとし。仏も又かくのごとし。大日如来・日月燈明仏・燃燈仏・大通仏・雲雷音王仏、是等も又名の内に其仏の種々の徳をそなへたり、今の法華経も亦もつてかくのごとし。如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即ち一部八巻の肝心。亦復一切経の肝心。一切諸仏・菩薩・二乗・天人・・羅・龍神等の頂上の正法なり。
 問て云く 南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱ふると、南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱ふると斉等なりや。浅深の功徳差別せりや。
 答て云く 浅深等あり。
 疑て云く 其心如何。
 答て云く 小河は露と涓と井と渠と江とをば収むれども、大河ををさめず。大河は露乃至小河を摂むれども、大海ををさめず。阿含経は井江等露涓ををさめたる小河のごとし。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小河ををさむる大河なり。法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一・ももらさぬ大海なり。譬へば身の熱き者の大寒水の辺にいねつればすずしく、小水の辺に臥しぬれば苦しきがごとし。五逆謗法の大一闡提人。阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さん(散)じがたし。法華経の大雪山の上に臥しぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽ちに散ずべし。されば愚者は必ず法華経を信ずべし。各各経々の題目は易き事同じといへども、愚者と智者との唱ふる功徳は天地雲泥なり。譬へば大綱は大力も切りがたし。小力なれども小刀をもてたやすくこれをきる。譬へば堅き石をば鈍き刀をもてば大力も破りがたし。利剣をもてば小力も破りぬべし。譬へば薬はしらねども服すれば病やみぬ。食は服せども病やまず。譬へば仙薬は命をのべ、凡薬は病をいやせども、命をのべず。
 疑て云く 二十八品の中に何か肝心ぞや。
 答て云く 或は云く 品々皆事に随ひて肝心なり。或は云く 方便品・寿量品肝心なり。或は云く 方便品肝心なり。或は云く 寿量品肝心なり。或は云く 開・示・悟・入肝心なり。或は云く 実相肝心なり。
 問て云く 汝が心如何。答ふ、南無妙法蓮華経肝心なり。其証如何。
 答て云く 阿難・文殊等、如是我聞等云云。
 問て云く 心如何。
 答て云く 阿難と文殊とは八年が間、此法華経の無量の義を一句一偈一字も残さず聴聞してありしが、仏の滅後に結集の時、九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに、妙法蓮華経とかゝせて如是我聞と唱へさせ給ひしは、妙法蓮華経の五字は一部八巻二十八品の肝心にあらずや。されば、過去の燈明仏の時より法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は如是者将伝所聞前題挙一部也〔如是とは将に所聞を伝えんとして、前題に一部を挙るなり〕等云云。霊山にまのあたりきこしめしてありし天台大師は、如是所聞法体也〔如是とは所聞の法体なり〕等云云。章安大師の云く ̄記者釈曰 蓋序王者叙経玄意 玄意述於文心〔記者釈して曰く 蓋し序王とは経の玄意を叙し、玄意は文心を述ぶ〕等云云。此釈に文心者(とは)題目は法華経の心也。妙楽大師云く ̄収一代教法出法華文心〔一代の教法を収ること法華の文心より出づ〕等云云。
天竺は七十箇国なり。・名は月氏国。日本は六十六箇国、・名は日本国。月氏の名の内に七十箇国乃至人畜珍宝みなあり。日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽(は)も奥州の金も、乃至国の珍宝人畜乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂まれり。天眼をもつては、日本と申す二字を見て、六十六国乃至人畜等をみるべし。法眼をもつては、人畜等の死此生彼〔ここに死し、かしこに生る〕をもみるべし。譬へば、人の声をきいて体をしり、跡をみて大小をしる。蓮をみて池の大小を計り、雨をみて龍の分斉をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。
阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏ありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし。例せば華さいて菓ならず。雷なつて雨ふらず。鼓あて音なし。眼あて物をみず。女人あて子をうまず。人あて命なし、又神(たましい)なし。大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし。彼の経々にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども、法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず、皆各々当体の自用を失ふ。例せば衆星の光の一の日輪にうばはれ、諸の鉄の一の磁石に値ふて利精のつ(尽)き、大剣の小火に値ふて用を失ひ、牛乳・驢乳等の師子王の乳に値ふて水となり、衆狐が術一犬に値ふて失ひ、狗犬が小虎に値ふて色を変ずるがごとし。南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も一切の諸仏諸経諸菩薩の用、皆悉く妙法蓮華経の用に失はる。彼経々は妙法蓮華経の用を借ずば皆いたづらのもの(徒物)なるべし。当時眼前のことはりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひる(干)がごとく、秋冬の草のかるゝがごとく、冰の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。
 問て云く 此法実にいみじくばなど迦葉・阿難・馬鳴・龍樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、善導が南無阿弥陀仏とすゝめて漢土に弘通せしがごとく、慧心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとくすゝめ給はざりけるやらん。
 答て云く 此難は古の難なり。今はじめたるにはあらず。馬鳴・龍樹菩薩等は仏滅後六百年七百年等の大論師なり。此人々世にいでゝ大乗経を弘通せしかば、諸々の小乗者疑て云く 迦葉・阿難等は仏の滅後二十年四十年住寿し給ひて、正法をひろめ給ひしは如来一代の肝心をこそ弘通し給ひしか。而るに此人々は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給ひしに、今馬鳴・龍樹等はかしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず是一。迦葉は仏にあひ(値)まいらせて解をえたる人なり。此人々は仏にあひたてまつらず是二。外道は常楽我浄と立てしを、仏世に出させ給ひて苦・空・無常・無我と説かせ給ひき。此ものどもは常楽我浄といへり是三。
されば仏も御入滅なりぬ。又迦葉等もかくれさせ給ひぬれば、第六天の魔王が此ものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり、外道の法となさんとするなり。されば仏法のあだをば頭をわれ、頚をきれ、命をた(断)て、食を止めよ、国を追へと、諸の小乗の人々申せしかども、馬鳴・龍樹等は但一二人なり。昼夜に悪口の声をきき、朝暮に杖木をかうふ(被)りしなり。而れども此二人は仏の御使ぞかし。正しく摩耶経には六百年に馬鳴出て、七百年に龍樹出んと説かれて候。其上、楞伽経等にも記せられたり。又付法蔵経には申すにをよばず。されども諸の小乗のものどもは用ひず。但理不尽にせめしなり。如来現在猶多怨嫉況滅度後の経文は此時にあたりて少しつみしられけり。提婆菩薩の外道にころされ、師子尊者の首をきられし、此事をもつておもひやらせ給へ。
又仏滅後一千五百余年にあたりて、月氏よりは東に漢土といふ国あり。陳・隋の代に天台大師出現す。此人の云く 如来聖教に大あり小あり。顕あり密あり。権あり実あり。迦葉・阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・龍樹・無著・天親等は権大乗を弘めて、実大乗の法華経をば或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず。或は迹門をのべて本門をあらはさず。或は本迹あつて観心なしといひしかば、南三北七の十流が末、数千万人時をつくりどつとわらふ。世の末になるまゝに不思議の法師も出現せり。時にあたりて我等を偏執する者はありとも、後漢の永平十年丁卯の歳より今陳・隋にいたるまでの三蔵人師二百六十余人を、ものもしらずと申す上、謗法の者なり、悪道に堕つといふ者出来せり。あまりのものくるはしさに、法華経を持て来り給へる羅什三蔵をも、ものしらぬ者と申す也。
漢土はさてもをけ、月氏の大論師龍樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給はずといふなり。此をころしたらん人は鷹をころしたるものなり。鬼をころすにもすぐべしとのゝしりき。又妙楽大師の時、月氏より法相・真言わたり、漢土に華厳宗の始まりたりしを、とかくせめしかば、これも又さはぎしなり。
 日本国には伝教大師が仏滅後一千八百年にあたりていでさせ給ひ、天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給ひしかば、在世の外道・漢土の道士、日本に出現せりと謗ぜし上、仏滅後一千八百年が間、月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野小野寺の戒壇・中国大和の国東大寺の戒壇は、同じく小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其を持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありしかば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫(いなむし)、国に出現せり。仏教の苗一時にうせなん。殷の紂・夏の桀、法師となりて日本に生まれたり。後周(こうしゅう)の宇文(うぶん)・唐の武宗、二たび世に出現せり。仏法も但今失せぬべし。国もほろびなんと。大乗小乗の二類の法師出現せば、・羅と帝釈と、項羽と高祖と、一国に竝べるなるべし。諸人手をたゝき、舌をふるふ。在世には仏と提婆が二の戒壇ありてそこばくの人々死ににき。されば他宗にはそむくべし。我師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ。あらをそろしをそろしとのゝし(罵)りあえりき。されども経文分明にありしかば、叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ。
されば内証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・龍樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。世末になれば、人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病には仙薬、弱人には強きかたうど(方人)有りて扶くるこれなり。
 問て云く 天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。
 答て云く 有り。
 求めて云く 何物乎。
 答て云く 三あり。末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。
 求めて云く 其形貌如何。
 答て云く 一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・竝びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。此事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声もをしまず唱ふるなり。例せば風に随つて波の大小あり。薪によて火の高下あり。池に随つて蓮の大小あり。雨の大小は龍による。根ふかければ枝しげし。源遠ければ流れながしというこれなり。周の代の七百年は文王の礼孝による。秦の世ほどもなし、始皇の左道なり。
日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此功徳は伝教天台にも超へ、龍樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむる耳。春は花さき、秋は菓なる、夏はあたゝかに、冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。
_我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶悪魔魔民諸天龍夜叉鳩槃荼等得其便也〔我滅度の後、後の五百歳中に、広宣流布して、閻浮提に於て断絶して悪魔魔民諸の天龍夜叉鳩槃荼等、其便りを得せしむること無けん〕等云云。此経文若しむなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならじ。迦葉尊者は光明如来とならじ。目・は多摩羅跋栴檀香仏とならじ。阿難は山海慧自在通王仏とならじ。摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生憙見仏とならじ。耶輸陀羅は具足千万光相仏とならじ。三千塵点も戯論、五百塵点も妄語となりて、恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十六の苦をうくべし。いかでかその義あるべき。其義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。
されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。建治二年[太歳丙子]七月二十一日 記之
自甲州波木井郷蓑歩嶽奉送安房国
東條郡清澄山浄顕房義浄房本
〔甲州波木井の郷蓑歩の嶽より安房の国東條の郡清澄山浄顕房義浄房の本へ奉送す〕
天台妙楽伝教等は善導が南無阿弥陀仏とすゝめて漢土に
なれり。而るに金剛智と