四条金吾殿御書

建治四(1278.01・25)


四条金吾御書(四条第廿一書)
     建治四年正月。五十七歳作。
     内三九ノ三一。遺二四ノ二八。縮一六九四。類八九〇。 鷹取のたけ(岳)、身延のたけ、なゝいた(七面)がれのたけ、いゝだに(飯谷)と申し木のもと(本)かや(萱)のね(根)、いわ(巌)の上、土の上いかにたづね候へども、をひ(生)て候ところなし。されば海にあらざればわかめ(海藻)なし、山にあらざればくさびら(茸)なし。法華経にあらざれば仏になる道なかりけるか。これはさてをき候ぬ。なによりも承はりてすずしく(爽)候事は、いくばくの御にくまれ(憎)の人の御出仕に人かずにめしぐ(召具)せられさせ給て、一日二日ならず御ひまもなきよし、うれしさ申ばかりなし。えもんのたいう(右衛門大夫)のをや(親)に立あひて、上の御一言にてかへりてゆり(許)たると殿のすねん(数年)が間のにくまれ、去年のふゆ(冬)はかうとききしに、かへりて日日の御出仕の御ともいかなる事ぞ。ひとへに天の御計、法華経の御力にあらずや。其上円教房の来て候しが申候は、えま(江馬)の四郎殿の御出仕に御とものさふらひ二十四、五、其中にしう(主)はさてをきたてまつりぬ。ぬし(主)のせい(身長)といひ、かを(面)たましひ(魂)、むま(馬)、下人までも中務のさえもんのじやう(左衛門尉)第一なり。あはれ(天晴)をとこ(男)やをとこやと、かまくらわらはべ(童)はつじち(辻)にて申あひて候しとかたり候。これにつけてもあまりにあやしく候。孔子は九思一言、周公旦は浴する時は三度にぎり、食する時は三度はかせ給ふ。古の賢人なり今の人のかがみなり。されば今度はことに身をつゝしませ給べし。よる(夜)はいかなる事ありとも一人そと(外)へ出させ給べからず。たとひ上の御めし有ともまづ下人をごそ(御所)へつかわして、なひなひ一定をききさだめて、はらまきをきてはちまき(鉢巻)し、先後左右に人をたてて出仕し、御所のかたわらに心よせのやかたか、又我がやかたかにぬぎをきてまいらせ給べし。家へかへらんにはさき(前)に人を入て、とのわき(戸側)はしのした(橋下)むまや(厩)のしり、たかどの(高殿)一切くらきところをみせて入べし。せうまう(焼亡)には我が家よりも人の家よりもあれ。たから(財)ををしみてあわてて火をけすところへづつとよるべからず。まして走出る事なかれ。出仕より主の御ともして御かへりの時はみかど(御門)より馬よりをりて、いとまのさしあうよしはうくわんに申ていそぎかへるべし。上のをゝせなりともよ(夜)に入て御ともして御所にひさかるべからず。かへらむには第一心にふかきえうじん(用心)あるべし。ここをばかならずかたきのうかがうところなり。人のさけ(酒)たばん(賜)と申ともあやしみて、あるひは言をいだし、あるひは用ることなかれ。又御をとゝ(舎弟)どもには常はふびんのよしあるべし。つねにゆせに(湯銭)ざうりのあたい(艸履値)なんど心あるべし。もしやの事のあらむにはかたきはゆるさじ。我ためにいのちをうしなはんずる者ぞかしとをぼして、とがありともせうせう(少々)の失をばしらぬやうにてあるべし。又女るひはいかなる失ありとも一向に御けうくん(教訓)までもあるべからず。ましていさかう(争)ことなかれ。涅槃経に云「罪雖極重不及女人」等云云。文の心はいかなる失ありとも女のとがををこなはざれ。此賢人なり、此仏弟子なりと申文なり。此文は阿闍世王父を殺すのみならず、母をあやまたむとせし時、耆婆、月光の両臣がいさめたる経文なり。我母心ぐるしくおもひて、臨終までも心にかけしいもうと(女弟)どもなれば、失をめん(免)じて不便というならば、母の心やすみて孝養となるべしとふかくをぼすべし。佗人をも不便というぞかし、いわうやをとをとどもをや。もしやの事の有には一所にていかにもなるべし。此等こそとどまりいてなげ(歎)かんずれば、をもひで(思出)にとふかくをぼすべし。かやう申は佗事はさてをきぬ。双六は二ある石はかけられず、鳥は一の羽にてとぶことなし。将門、さだたふ(貞任)がやうなりしいふしやう(勇将)も、一人は叶はず。されば舎弟等を子とも郎等ともうちたのみてをはせば、もしや法華経もひろまらせ給て世にもあらせ給わば、一方のかたうど(方人)たるべし。すでにきやう(京)のだいり(内裏)、院のごそ(御所)、かまくらの御所並に御うしろみ(後見)の御所、一年が内二度正月と十二月とにやけ(焼失)候ぬ。これ只事にはあらず、謗法の真言師等を御師とたのませ給上、かれら法華経をあだみ候ゆへに天のせめ、法華経十羅刹の御いさめあるなり。かへりて大さんげ(懺悔)あるならばたすかるへんもあらんずらん。いたう天の此国ををしませ給ゆへに大なる御いさめあるか。すでに佗国が此国をうちまきて国王、国民を失はん上、仏神の寺社百千万がほろびんずるを、天眼をもつて見下てなげかせ給なり。又法華経の御名をいういう(優々)たるものどもの唱を、誹謗正法の者どもがをどし候を天のにくませ給ふ故なり。あなかしこあなかしこ。今年かしこく(賢)して物を御らんぜよ。山海空市まぬかるるところあらばゆきて今年はすぎぬべし。阿私陀仙人が仏の生れ給しを見ていのちををしみしがごとし、を
しみしがごとし。恐恐謹言。
  正月二十五日             日蓮花押
  中務左衛門尉殿
(啓三六ノ九七。鈔二五ノ七六。語五ノ三七。扶一五ノ四七。)