十法界事

正元元(1259)

 二乗、三界を出でざれば、即ち十方界の数量を失ふ云云。
 問ふ 十界互具を知らざる者、六道流転の分段の生死を出離して、而も変易の土に生ずべけん乎。
 答ふ 二乗は既に見思を断じ、三界の生因無し。底に由てか界内の土に生ずることを得ん。是の故に二乗は、永く六道に生ぜず。故に玄の第二に云く ̄夫生変易 則有三種。三蔵二乗 通教三乗 別教三十心〔夫れ変易に生ずるにすなわち三種あり。三蔵の二乗、通教の三乗、別教の三十心〕[已上]。此の如き等の人は皆通惑を断じ、変易の土に生ずることを得て界内分段の不浄の国土に生ぜず。
 難じて云く 小乗の教は但是れ心生の六道を談じて、是れ心具の六界を談ずるに非ず。是の故に二乗は六界を顕さず。心具を談ぜず。云何ぞ但六界の見思を断じて六道を出づべきや。故に寿量品に云く_一切世間。天人。及阿修羅。とは、爾前迹門両教の二乗三教の菩薩竝びに五時円人を皆天人修羅と云ふ。豈に未断見思の人と云ふに非ず乎。
 答ふ 十界互具とは、法華の淵底、此の宗の沖微也。四十余年の諸経之中には之を秘して伝へず。但し四十余年の諸経の中に無数の凡夫見思を断じて無漏の果を得、能く二種の涅槃の無為を証し、塵数の菩薩、通別の惑を断じ、頓に二種の生死之縛を超ゆ。無量義経の中に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と説くと雖も、而も猶お爾前三乗之益を許す。法華の中に於て_正直捨方便と説くと雖も、尚お_見諸菩薩。授記作仏。と説く。此の如き等の文、爾前の説に於て当分之益を許すに非ず乎。但し爾前の諸経に二事を説かず。謂く、実の円仏無く、又久遠実成を説かず。故に等覚の菩薩に至るまで、近成を執するの思ひ有り。此の一辺に於て、天人と同じく能く迷ひの門を挙げ、生死煩悩一時に断壊することを証せず。故に唯未顕真実と説けり。六界の互具を明かさざるが故に出づべからずとは、此の難甚だ不可也。六界互具せば即ち十界互具す。何となれば権果心生とは、六凡の差別也。心生を観ずるに、何ぞ四聖の高下無からん乎。第三重の難に云く所立の義、誠に道理有るに似たり。委しく一代聖教の前後を検するに法華本門竝びに観心の智慧を起こさざれば円仏と成らず。故に実の凡夫にして権果をも得ず。所以に彼の外道、五天竺に出でて四顛倒を立つ。如来出世して四顛倒を破せんが為に苦空等を説く。此れ則ち外道の迷情を破せんが為なり。是の故に外道の我見を破して、而も無我に住するは、火を捨て水に随ふが如し。堅く無我を執して、而も見思を断じ六道を出づると謂へり。此れ迷ひの根本なり。故に色心倶に滅之見に住す。大集等の経経に断常の二見と説くは是れ也。例せば有漏外道の自らは得道なりと念へども、無漏智を望むれば未だ三界を出でず。仏教に値はずして、而も三界を出づるといはば、是の処(ことはり)有ること無し。小乗の二乗も亦復是の如し。鹿苑施小之時、外道の我を離れて無我の見に住す。此の情を改めずして四十余年草菴に止宿する之思ひ暫くも離るる時無し。又大乗の菩薩に於て心生の十界を断ずと雖も、而も心具の十界を論ぜず。又或時は、九界の色心を断尽して仏界の一理に進む。是の故に自ら念はく、三惑を断尽して変易の生を離れ、寂光に生まるべしと。然るに九界を滅すれば是れ則ち断見也。進んで仏界に昇れば即ち常見と為す。九界の色心常住を滅すと欲ふは豈に九法界に迷惑するに非ず乎。又妙楽大師云く ̄但言観心 則不称理〔但し心を観ずと言はば、則ち理にかなはず〕[文]。此の釈の意は、小乗の観心は小乗の理に称はざる耳。又天台の文句第九に云く ̄七方便竝非究竟滅〔七方便ならびに究竟の滅にあらず〕[已上]。此の釈は、是れ、爾前の前の三教の菩薩は実には不成仏と云へる也。但し未顕真実と説くと雖も、三乗の得道を許し、正直捨方便を説くと雖も、而も_見諸菩薩。授記作仏。と云ふは、天台宗に於て三種の教相有り。第二の化導の始終之時、過去の世に於て法華結縁之輩有り。爾前の中に於て且く法華のために三乗当分の得道を許す。所謂、種熟脱の熟益の位なり。是れは尚お迹門の説なり。本門観心の時は、是れ実義に非ず。一応許す耳。其の実義を論ずれば、如来久遠之本に迷ひ、一念三千を知らざれば、永く六道の流転を出づべからず。故に釈に云く ̄円乗之外 名為外道〔円乗の外を名づけて外道となす〕[文]。又_諸善男子。~ 楽於小法。徳薄垢重者〔諸の善男子、~小法を楽える徳薄垢重の者~〕と説く。若し而れば、経釈共に道理必然也。
 答ふ 執難有りと雖も、其の義不可也。所以は如来の説教は機に備わりて虚しからず。是れを以て頓等の四教・蔵等の四教は、八機の為に設ける所にて得益無きに非ず。故に無量義経には_是故衆生。得道差別〔是の故に衆生の得道差別して〕と説く。誠に知んぬ。_終不得成。無上菩提〔終に無上菩提を成ずることを得ず〕と説くと雖も、而も三法四果之益無きに非ず。但是れ速疾頓成と歴劫迂回之異なる耳。是れ一向に得道無きに非ざる也。是の故に或は三明六通も有り、或は普賢色身の菩薩も有る。縦ひ一心三観を修して以て同体の三惑を断ぜずとも、既に折智を以て見思を断ず。何ぞ二十五有を出でざらん。是の故に解釈に云く ̄若遇衆生 令修小乗 我則堕慳貪。此為事不可。((低)人→のぎへん)出二十五有〔もし衆生に遇ひて小乗を修せしめば、我すなわち慳貪に堕せん。此の事不可なりとなす。((低)人→のぎへん)二十五有を出づ〕[已上]。当に知るべし。_此為事不可と説くと雖も而も出界有り。但是れ不思議の空を観ぜざるが故に、不思議の空智を顕さずと雖も、何ぞ小分の空解を起さざらん。若し空智を以て見思を断ぜずと云はば、開善の無声聞の義に同ずるに非ずや。況んや今経は正直捨権、純円一実之説なり。諸の爾前の声聞の得益を挙げて諸漏已尽。無復煩悩〔諸漏已に尽くして復煩悩なく〕と説き、又_実得阿羅漢。不信此法<若不信此法>。無有是処〔実に阿羅漢を得たる有って、若し此の法を信ぜずといわば、是の処あることなけん〕と云ひ、又_過三百由旬。化作一城〔三百由旬を過ぎ、一城を化作して〕と説く。若し諸の声聞全く凡夫に同ぜば、五百由旬、一歩も行くべからず。又云く_是人雖生。滅度之想。入於涅槃。而於彼土。求仏智慧。得聞是経〔是の人滅度の想を生じて涅槃に入ると雖も、而も彼の土に於て仏の智慧を求め是の経を聞くことを得ん〕[已上]。此の文既に証果の羅漢、法華の座に来らずして無余涅槃に入り、方便土に生じて法華を説くを聞くと見えたり。若し爾らば、既に方便土に生じて何ぞ見思を断ぜざらん。是の故に、天台・妙楽も彼土得聞〔彼の土において聞くことを得〕と釈す。又爾前の菩薩に於て_始見我身。聞我所説。即皆信受。入如来慧〔始め我が身を見我が所説を聞き、即ち皆信受して如来の慧に入りき〕と。故に知んぬ。爾前の諸の菩薩、三惑を断じて仏慧に入ることを。故に解釈に云く ̄初後仏慧 円頓義斉〔初後の仏慧、円頓の義斉し〕[已上]。或は云く ̄故挙始終 意在仏慧〔故に始終を挙ぐるに 意、仏慧あり〕。若し此れ等の説相経釈共に非義ならば、正直捨権之説、唯以一大事之文、妙法華経皆是真実之証誠皆以て無益也。皆是真実の言は豈に一部八巻に互るに非ず乎。釈迦・多宝・十方分身之舌相至梵天の神力・三世諸仏誠諦不虚之証誠虚しく泡沫に同ぜん。但し小乗の断常の二見に至りては、且く大乗に対して小乗を以て外道に同ず。小益無きに非ざる也。又七方便竝びに究竟の滅に非ざるの釈、或は復但心を観ずと云はば、則ち理に称はずとは、又是れ円実の大益に対して七方便の益を下して、竝究竟滅即不称理と釈する也。
第四重の難に云く 法華本門の観心之意を以て一代聖教を按ずるに、菴羅果を取りて掌中に捧ぐるが如し。所以は何。迹門の大教起れば爾前の大教亡ぼし、本門の大教起れば迹門・爾前の亡ぼし、観心の大教起れば本迹・爾前共に亡ぼす。此れは是れ如来所説の聖教、従浅至深して、次第に迷ひを転ずる也。然れども如来の説、一人の為にせず。此の大道を説きて迷情を除かざれば、生死を出で難し。
若し爾前の中に八教有りとは 頓は則ち華厳。漸は則ち三昧。秘密と不定とは前四味に互る。蔵は則ち阿含方等に互る。通は此れ方等・般若。円・別は、是れ則ち前四味の中に鹿苑の説を除く。此の如く、八機各各不同なれば、教説も亦異なり、四教の教主、亦是れ不同なり。当教の機根、余仏を知らず。故に解釈に云く ̄各各見仏独在其前〔おのおの、仏独りその前にましますと見る〕。人天の五戒・十善、二乗の四諦・十二、菩薩の六度・三祇百劫・或は動喩塵劫・或は無量阿僧祇劫、円教の菩薩の初発心時便成正覚。明らかに知んぬ。機根別なる故に、説教亦別なり。教別なる故に行も亦別なり。行別なる故に得果も別也。此れ則ち各別の利益にして不同也。然るに今、法華方便品に_欲令衆生開仏知見と説きたまふ。爾時、八機竝びに悪趣の衆生、悉く皆同じく釈迦如来と成り、互いに五眼を具し、一界に十界を具し、十界に百界を具せり。是の時、爾前の諸経を思惟するに、諸経の諸仏は、自界の二乗を、二乗は又菩薩界を具せず。三界の人天の如きは、成仏の望み絶えて、二乗・菩薩の断惑即是自身の断惑なりと知らず。三乗・四乗の智慧は、四悪趣を脱るに似たりと雖も、互いに界界を隔てて、而も皆是れ一体なり。昔の経は二乗は但自界の見思を断除すと思ふて、六界の見思を断ずることを知らず。菩薩も亦是の如し。自界の三惑を断尽せんと欲すと雖も、六界・二乗の三惑を断ずることを知らず。真実に証する時、一切衆生即十衆生、十衆生即一衆生也。若し六界の見思を断ぜざれば、二乗の見思を断ずべからず。是の如く説くと雖も、迹門は但九界の情を改め、十界互具を明かす。故に即ち円仏と成る也。爾前当分之益を嫌ふこと無きが故に_三界諸漏已尽〔諸漏已に尽くして〕_過三百由旬〔三百由旬を過ぎ〕_始見我身〔始め我が身を見〕と説けり。又爾前入滅の二乗は、実には見思を断ぜず。故に六界を出でずと雖も、迹門は二乗作仏の本懐なり。故に_而於彼土。~得聞是経〔而も彼の土に於て~是の経を聞くことを得ん〕と説く。既に彼土得聞と云ふ。故に知んぬ。爾前の諸経には、方便土無し。故に実には実報竝びに常寂光無し。菩薩の成仏を明かす。故に実報・寂光を仮立す。然れども、菩薩に二乗を具す。二乗成仏せずんば、菩薩も成仏すべからざる也。衆生無辺誓願度も満せず。二乗の沈空尽滅は、即ち是れ菩薩の沈空滅尽也。凡夫、六道を出でざれば、二乗も六道を出づべからず。尚お、下劣の方便土を明かさず。況んや勝れたる実報・寂光を明さん乎。実に見思を断ぜば、何ぞ方便を明かさざらん。菩薩、実に実報・寂光に至らば、何ぞ方便土に至ること無からん。但断無明と云ふが故に、仮に実報・寂光を立つと雖も、而も上の二土無きが故に、同居の中に於て影現の実報・寂光を仮立す。然るに、此の三百由旬、実には三界を出づること無し。迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて、未だ必ず本覚本有の十界互具を明かさず。故に所化の大衆、能化の円仏、皆是れ悉く始覚也。
 若し爾らば、本無今有の失、何ぞ免ることを得ん乎。当に知るべし、四教の四仏、則ち円仏と成るは、且く迹門の所談也。是の故に、無始の本仏を知らず。故に無始無終之義欠けて、具足せず。又無始色心常住之義無し。但し_是法住法位〔是の法は法位に住して〕と説くことは、未来常住にして、是れ過去常に非ず也。本有の十界互具を顕さざれば、本有の大乗菩薩界無き也。故に知んぬ。迹門の二乗は、未だ見思を断ぜず。迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず。六道の凡夫、本有の六界に住せざれば、有名無実なり。故に涌出品に至りて、爾前・迹門の断無明の菩薩を_五十小劫。~謂如半日〔五十小劫、~半日の如しと謂わしむ〕と説く。是れ則ち寿量品の久遠円仏の非長非短不二之義に迷ふが故なり。
爾前・迹門の断惑とは、外道の有漏の断の退すれば起るが如し。未だ久遠を知らざるを以て、而も或者の本と為す也。故に四十一品断の弥勒、本門立行の発起影向当機結縁の地涌千界の衆を知らず。既に一分の無始無明を断じて、而も十界の一分の無始法性を得たり。何ぞ等覚の菩薩を知らざらん。設ひ等覚の菩薩を知らざれども、争でか当機結縁の衆を知らざらん。_乃不識一人〔乃し一人をも識らず〕之文は最も未断三惑の故歟。是れを以て本門に至り、則ち爾前・迹門に於て随他意の釈を加へ、又天人修羅に摂し、_貪著五欲〔五欲に貧著し〕_妄見網中〔妄見の網の中〕_為凡夫顛倒〔凡夫の顛倒せるを為て〕と説く。釈の文には ̄我坐道場不得一法〔我、道場に坐して一法をも得ず〕と云ふ。蔵通両仏の見思断も、別円二仏の無明断も、竝びに皆見思無明を断ぜず。故に随他意と云ふ。酒家の衆生、三惑を断ずと謂へるは、是れ実の断に非ず。
 答の文に、開善の無声聞の義に同ずる、とは、汝も亦光宅の有声聞の義に同ずる歟。天台は、有無共に破す也。開善は爾前に於て、無声聞を判じ、光宅は法華に於て有声聞を判ず。故に有無共に有り難し。天台は爾前には則ち有り、今経則ち無し。所化の執情には、則ち有り、長者の見には則ち無し。此の如き破文、皆是れ爾前・迹門相対の釈にて、有無共に今の難に非ざるなり。但し七方便竝びに究竟の滅に非ず。又但し心を観ずと言はば、則ち理に称はずとの者は、円益に対し、当分の益を下して、非究竟滅即不称理と云ふ也、といはば、金論には、偏に清浄の真如を指す。尚お小の真を失へり。仏性安ぞ在らんと云ふ釈をば云何が会すべき。但し此の尚失小真の釈は、常には出だすべからず。最も秘蔵すべし。但し妙法蓮華経皆是真実の文を以て迹門に於て爾前得道を許すが故に、所以に無量義経に大荘厳等の菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを、仏の答ふるに_未顕真実の言を以てす。又涌出品の中に弥勒疑ひて云く_如来為太子時。出於釈宮。去伽耶城不遠 乃至 四十余年〔如来太子たりし時釈の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず 乃至 四十余年を過ぎたり。〕[已上]。仏答て云く_一切世間。天人。及阿修羅。皆謂今釈迦牟尼仏。出釈氏宮。去伽耶城不遠。得三菩提<坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。然善男子>我実成仏已来。〔一切世間の天・人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、三菩提を得<道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。然るに善男子>我実に成仏してより已来〕[已上]。我実成仏とは、寿量品已前を未顕真実と云ふに非ず哉。是の故に記の九に云く ̄昔七方便 至誠諦者 言七方便権者 且寄昔権。若対果門 権実倶是随他意也〔昔七方便より誠諦に至るまでは、七方便の権と言ふは、且く昔の権に寄す。もし果門に対すれば、権実倶に是れ随他意なり〕[已上]。此の釈は明らかに知んぬ。迹門をも尚お随他意と云ふ也。
寿量品の皆実不虚〔皆実にして虚しからず〕を天台釈して云く ̄約円頓衆生 於迹本二門 一実一虚〔円頓の衆生に約すれば迹本二門に於て一実一虚なり〕[已上]。記の九に云く ̄故知。迹実於本猶虚〔故に知んぬ。迹の実は本に於て猶お虚なり〕[已上]。迹門既に虚なること論に及ぶべからず。但し皆是真実とは、若し本門に望むれば、迹は是れ虚なりと雖も、一座の内に於て虚実を論ず、故に本迹両門倶に真実と言ふ也。例せば迹門法説之時、譬説・因縁の二周も此の一座に於て聞知せざること無し。故に名づけて顕と為すが如し。記の九に云く ̄若方便教二門倶虚。因門開竟望於果門 則一実一虚。本門顕竟則二種倶実〔もし方便教は二門ともに虚なり。因門開きおわりて果門に望むれば、すなわち一実一虚なり。本門顕れおわれば、すなわち二種ともに実なり〕[已上]。此の釈の意は、本門本門未だ顕れざる以前は、本門に対すれば、尚お迹門を以て名づけて虚と為す。若し本門顕れ已りぬれば、迹門の仏因は、即ち本門の仏果なるが故に、天月水月本有之法と成りて、本迹倶に三世常住と顕るゝ也。一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因と言ひ、一切衆生の本覚を名づけて本門の円果と為す。修一円因 感一円果とは是れ也。是の如く法門を談ずる之時、迹門・爾前は、若し本門顕れざれば六道を出でず。何ぞ九界を耶。