兵衛志殿御書

執筆年:建治三年
真筆あり
 久しくうけ給はり候はねばよくおぼつかなく候。何よりもあはれにふしぎなる事は大夫志殿と、とのとの御事ふしぎに候。つねさまによ代すえになり候へば賢人聖人もみなかくれ、ただざんじん・ねいじん(讒人・佞人)・わざん(和議)・きよくり(曲理)の者のみこそ国には充満すべきと見へて候へば、喩へば水すくなくなれば池さわがしく風ふけば大海しづかならず。代の末になり候へばかんぱちえきれい(旱魃疫癘)大雨大風ふきかさなり候へば、広き心もせばくなり、道心ある人も邪見になるとこそ見へて候へ。  されば他人はさてをきぬ。父母と夫妻と兄弟と諍ふ事れつし(猟師)としか(鹿)と、ねことねずみと、たかときじとの如しと見へて候。良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら(和殿原)二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二つのわ(輪)の車をたすけ二つの足の人をになへるが如く、二つの羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひぬる御計らひ、偏に貴辺の御身にあり。  又真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちにみだれば大聖人世に出づべしと見へて候。喩へば松のしも(霜)の後に木の王と見へ、菊は草の後に仙草と見へて候。代のおさまれるには賢人見へず。代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ。あはれ平左衛門殿・さがみ殿の日蓮をだにも用ひられて候ひしかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびはよも切らせまいらせ候はじ。くやしくおはすならん。  人王八十一代安徳天皇と申す大王は天台の座主明雲等の真言師等数百人かたらひて、源の右将軍頼朝を調伏せしかば、還著於本人とて明雲は義仲に切られぬ。安徳天皇は西海に沈み給ふ。人王八十二三四 隠岐の法皇・阿波の院・佐渡の院・当今、已上四人、座主慈円僧正・御室・三井等の四十余人の高僧等をもて、平の将軍義時を調伏し給ふ程に、又還著於本人とて上の四王島々に放たれ給ひき。此の大悪法は弘法・慈覚・智証の三大師、法華経最第一の釈尊の金言を破りて、法華経最第二最第三、大日経最第一と読み給ひし僻見を御信用有りて、今生には国と身とをほろぼし、後生には無間地獄に堕ち給ひぬ。今度は又此の調伏三度なり。今我が弟子等死したらん人々は仏眼をもて是れを見給ふらん。命つれなくて生きたらん眼に見よ。国主等は他国へ責めわたされ、調伏の人々は或は狂死、或は他国、或は山林にかくるべし。教主釈尊の御使を二度までこうぢをわたし、弟子等をろう(牢)に入れ、或は殺し、或は害し、或は所国をおひし故に、其の科必ず国々万民の身に一々かゝるべし。或は又白癩黒癩重病の人々おほかるべし。我が弟子等此の由を存ぜさせ給へ。恐恐謹言。 九月九日 日 蓮 花押 此の文は別して兵衛の志殿へ・じては一門の人々御覧有るべし。他人に聞かせ給ふな。