八宗違目鈔

文永九(1272.02・18) 真筆あり

 記の九に云く ̄若其未開法報非迹。若顕本已本迹各三〔若し其れ未だ開せざれば法報は迹に非ず。若し顕本し已れば本迹おのおの三なり〕。文句の九に云く ̄仏於三世等有三身 於諸教中秘之不伝〔仏三世に於て等しく三身あり。諸教の中に於て之を秘して伝へず〕。・・法身如来
 仏・・・ 報身如来
・・応身如来
  ・・・小乗経不論仏性有無
  衆生仏性・・・華厳・方等・般若・大日経等 衆生本有正因仏性 無了因仏性
・・・法華経自本有三因仏性
・・正因仏性
 衆生・・ 了因仏性
    ・・縁因仏性 文句の十に云く ̄正因仏性[法身性也]通亙本当。縁了仏性種子本有非適今也〔正因仏性は[法身の性なり]本当に通亙す。縁了仏性は種子本有今に適むるに非ざる也〕。法華経第二に云く_今此三界 皆是我有[主国王世尊也] 其中衆生 悉是吾子[親父也] 而今此処 多諸患難 唯我一人[導師] 能為救護。寿量品に云く_我亦為世父[文]。   主  国王  報身如来
   師      応身如来
   親      法身如来 五百門論に云く ̄若不知父寿之遠復迷父統之邦。徒謂才能全非人子〔若し父の寿之遠きを知らざれば、復父統之邦に迷いなん。徒らに才能と謂うとも全く人の子に非ず〕。又云く ̄但恐才当一国不識父母之年〔但恐らくは才一国に当るとも父母之年を識らず〕。古今仏道論衝[道宣作]に云く ̄三皇已前未有文字 ○但其識母不識其父同禽[鳥等也]獣〔三皇已前は未だ文字有らず。○但其の母を識りて其の父を識らず禽[鳥等なり]獣に同じ〕等云云。[慧遠法師周武帝に詰めて語る也] 倶舎宗
 成実宗   一向以釈尊為本尊。雖爾但限応身
 律宗
 華厳宗
 三論宗   以釈尊雖為本尊 法身無始無終 報身有始無終 応身有始有終
 法相宗
 真言宗   一向以大日如来為本尊
 二義有り。一義に云く 大日如来は釈迦の法身。一義に云く大日如来は釈迦の法身には非ず、但し大日経には大日如来は釈迦牟尼仏と見えたり。人師の僻見也。 浄土宗   一向以阿弥陀如来為本尊 法華宗より外の真言等の七宗、竝びに浄土宗等は釈迦如来を以て父と為すことを知らず。例せば三皇已前の人禽獣に同ずるが如し。鳥の中に小了鳥(鷦鷯鳥)も鳳凰鳥も父を知らず。獣の中には兎も師子も父を知らず。三皇已前は大王も小民も共に其の父を知らず。天台宗より之外真言等の諸宗は大乗宗は師子・鳳凰の如く、小乗宗は鷦鷯・兎等の如く、共に父を知らざる也。
 華厳宗に十界互具一念三千を立つること、澄観之疏に之有り。真言宗に十界互具一念三千、大日経の疏に之を出だす。天台宗と同異如何。天台宗已前にも十界互具一念三千を立つるや。
 記の三に云く ̄然攅衆釈既許三乗及以一乗三一倶有性相等十。何為不語六道十[如此釈者 天台已前五百余年人師三蔵等 依法華経者 不立一念三千の名目歟]〔然るに衆釈を攅むるに既に三乗および一乗、三一倶に性相等の十有りと許す。何すれぞ六道の十を語らざらんや〕[此の釈の如きんば、天台已前の五百余年の人師三蔵等、法華経に依て、一念三千の名目を立てざるか]
 問て云く 華厳宗は一念三千の義を用ひるや[華厳宗、唐の則天皇后の御宇に之を立つ]。
 答て云く 澄観[清凉国師]の疏三十三に云く ̄止観第五明十法成乗中 第二真正発菩提心 ○釈曰 然此経上下発心の義文理淵博見其撮略。故取而用之引而証之〔止観の第五に十法成乗を明かす中に、第二真正発菩提心 ○釈して曰く 然も此の経の上下発心の義文理淵博なれども其の撮略を見る。故に取りて之を用ひ、引いて之を証す〕。
二十九に云く ̄法華経云 唯仏与仏等。天台云 ○便成三千世間。彼宗以此為実 ○一家之意理無不通〔法華経に云く 唯仏与仏等。天台云く ○便ち三千世間を成ずと。彼の宗に此れを以て実と為す ○一家の意理として通ぜざる無し〕[文]。
華厳経に云く[功徳林菩薩之を説く。新訳、覚林菩薩之を説く。弘決に如来林菩薩と引く]_心如工画師画種種五陰。一切世間中無法而不造。如心仏亦爾。如仏衆生然。心仏及衆生是三無差別。若人欲了知三世一切仏 応当如是観。心造諸如来〔心は工画師の如く種種の五陰を画く。一切世間の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。心と仏と及び衆生、是の三差別無し。若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば、まさに是の如く観ずべし。心は諸の如来を造ると〕。
法華経に云く[略開三の文。仏の自説也]_所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等〔所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり〕。
又云く_唯以一大事因縁故。出現於世。諸仏世尊。欲令衆生。開仏知見〔唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもうと名くる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう〕。
蓮華三昧経に云く_帰命本覚心法身 常住妙法心蓮臺。本来具足三身徳 三十七尊[金剛界三十七尊也]住心城。心王大日遍照尊 心数恒沙諸如来 普門塵数諸三昧 遠離因果法然具。無辺徳海本円満 還我頂礼心諸仏〔本覚心法身、常に妙法の心蓮臺に住して、本より来三身の徳を具足し、三十七尊[金剛界の三十七尊なり]心城に住したまへるに帰命したてまつる。心王大日遍照尊、心数恒沙諸の如来、普門塵数諸の三昧、因果を遠離し法然として具す。無辺の徳海もとより円満、還りて我心の諸仏を頂礼す〕。
仏蔵経に云く_仏見一切衆生心中皆有如来結跏趺坐〔仏、一切衆生の心の中に皆如来ましまして結跏趺坐すと見る〕[文]。
 問て云く 真言宗は一念三千を用ふるや。
 答て云く 大日経の義釈[善無畏・金剛智・不空・一行]に云く[此の文に五本有り。十巻本は伝教・弘法之を見ず。智証之を渡す] ̄此経是法王秘宝不妄示貴賎之人。如釈迦出世四十余年因舎利弗慇懃三請 方為略説妙法蓮華義。今此本地之身又是妙法蓮華最深秘処。故寿量品云 常在霊鷲山 及余諸住処 乃至 我浄土不毀 而衆見焼尽。即此宗瑜伽之意耳。又因補処菩薩慇懃三請方為説之〔此の経は是れ法王の秘宝、妄りに貴賎の人に示さず。釈迦出世の四十余年に舎利弗慇懃の三請に因りて方に為に略して妙法蓮華の義を説くが如し。今此の本地の身又是れ妙法蓮華最深秘の処なり。故に寿量品に云く 常に霊鷲山 及び余の諸の住処にあり 乃至 我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて、と。即ち此の宗瑜伽の意なるのみ。又補処の菩薩の慇懃の三請に因りて方に為に之を説く〕。
又云く ̄此経横一切統仏教。如説唯蘊無我出世間心住於蘊中 即摂諸部小乗三蔵。如説観蘊阿・耶覚自心本不生 即摂諸経八識三性無性義。如説極無自性心十縁生句 即摂華厳般若種種不思議境界皆入其中。如説如実知自心名一切種智 則仏性[涅槃経也] 一乗[法華経也] 如来秘蔵[大日経也]皆入其中。於種種聖言無不統其精要〔此の経横まに一切の仏教を統ぶ。唯蘊無我、出世間心住於蘊中と説くが如きは、即ち諸部の小乗三蔵を摂す。蘊の阿・耶を観じて自心の本不生を覚ると説くが如きは、即ち諸経の八識三性無性の義を摂す。極無自性心十縁生の句を説くが如きは、即ち華厳・般若種種の不思議の境界を摂して皆其の中に入る。如実知自心と説くが如きは一切種智と名づく。則ち仏性[涅槃経なり]、一乗[法華経なり]、如来秘蔵[大日経なり]と皆其の中に入る。種種の聖言に於て其の精要を統べざること無し〕等云云。
・盧遮那経の疏[伝教・弘法之を見る]第七の下に云く ̄謂天台之誦経是円頓数息〔天台の誦経は是れ円頓の数息なりと謂ふ〕。是れ此の意也。
大宋の高僧伝巻の第二十七、含光の伝に云く ̄代宗[玄宗代宗御宇ニ真言ワタル]重光[含光ハ不空三蔵弟子也]如見不空。勅委往五臺山修功徳。時天台宗学湛然[妙楽天台第六師也]解了禅観深得智者[天台也]膏腴。嘗与江准僧四十余人入清凉境界。湛然与光相見問西域伝法之事。光云 有一国僧体解空宗。問及智者教法。梵僧云 嘗聞 此教定邪正暁偏円 明止観功推第一。再三嘱光。或因縁重至為飜唐為梵附来。某願受持。屡屡握手叮嘱。詳其南印度多行龍樹宗見故有此願流布也〔代宗[玄宗・代宗の御宇ニ真言ワタル]光を重んずること[含光は不空三蔵の弟子なり]、不空を見るが如し。勅委して五臺山に往いて功徳を修せしむ。時に天台の宗学湛然[妙楽、天台第六師なり]禅観を解了して深く智者[天台なり]の膏腴を得たり。嘗て江准の僧四十余人と清凉の境界に入る。湛然光と相見て、西域伝法の事を問ふ。光に云く 一国の僧空宗を体解する有りと。問ふて智者の教法に及ぶ。梵僧云く 嘗て聞く、此の教邪正を定め偏円を暁め、止観を明かして功第一と推す。再三光に嘱す。或は因縁ありて重ねて至らば、為に唐を飜じて梵と為して附し来れ。某願はくは受持せんと。しばしば手を握りて叮嘱す。詳にするに其の南印度には多く龍樹の宗見を行ずる故に此の流布を願ふこと有るなり、と〕。
菩提心義の三に云く ̄一行和尚元是天台一行三昧禅師。能得天台円満宗趣。故凡所説文言義理動合天台。不空三蔵門人含光帰天竺日 天竺僧問 伝聞彼国有天台教。理致可須飜訳将来此方云云。此三蔵旨亦合天台。今或阿闍梨云 欲学真言先共天台学。而門人皆嗔〔一行和尚は元是れ天台一行三昧の禅師なり、能く天台円満の宗趣を得たり。故に凡そ説く所の文言義理、ややもすれば天台に合す。不空三蔵の門人含光、天竺に帰るの日、天竺の僧問はく、伝へ聞く、彼の国に天台の教へ有りと。理致須ゆべくば飜訳して此の方に将来せんか、云云。此の三蔵の旨も亦天台に合す、今或阿闍梨の云く 真言を学ばんと欲せば、先づ共に天台を学せよと。而して門人皆嗔る〕云云。
 問て云く 華厳経に一念三千を明かすや。
 答て云く 心仏及衆生〔心と仏と及び衆生〕等云云。止観に云く ̄此一念心不縦不横不可思議。非但己爾仏及衆生亦復如是。華厳経云 心仏及衆生是三無差別。当知 己心具一切法〔此の一念の心は、縦ならず横ならず不可思議なり。但己の爾るに非ず、仏及び衆生も亦復是の如し。華厳経に云く 心と仏と及び衆生、是の三差別無し、と。当に知るべし、己心に一切の法を具することを〕[文]。弘の一に云く ̄華厳下引証理斉。故華厳歎初住心云 如心仏亦爾。如仏衆生然。心仏及衆生是三無差別。諸仏悉了知一切従心転。若能如是解 彼人真見仏。身亦非是心。心亦非是身。作一切仏事自在未曾有。若人欲具知三世一切仏 応作如是観。心造諸如来。若無今家諸円文意 彼経偈旨理実難消〔華厳より下は引いて理の斉しきことを証す。故に華厳に初住の心を歎じて云く 心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。心と仏と及び衆生、是の三差別無し。諸仏は悉く一切心に従ひて転ずと了知したまへり。若し能く是の如く解すれば、彼の人真に仏を見たてまつる。身、亦是れ心に非ず。心も亦是れ身に非ず。一切仏事を作すこと自在にして未曾有なり。若し人三世一切の仏を知らんと欲求せば、応に是の如き観を作すべし。心、諸の如来を造すと。若し今家の諸の円文の意無くんば、彼の経の偈の旨理、実に消し難からん〕小乗四阿含経
・・・三蔵教・・・・・・・・・心生六界・・不明心具六界
・ 大乗
・・・通教・・・・・・・・・・心生六界・・亦不明心具
・・・別教・・・・・・・・・・心生十界・・不明心具十界
・ 思議十界
・ 爾前華厳等ノ円
・・・円教・・・・・・・・・・不思議十界互具
法華ノ円 止観に云く ̄心如工画師造種種五陰。一切世間中莫不従心造。種種五陰者 如前十方界五陰也〔華厳に云く 心は工画師の如く種種の五陰を造る。一切世間の中に心より造らざること莫し。種種五陰とは、前の十方界の五陰の如きなり〕。
又云く ̄亦十種五陰一一各具十方。謂如是相性体力作因縁果報本末究竟等〔亦十種の五陰一一におのおの十方を具す。謂く 如是相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等なり〕[文]。
又云く ̄夫一心具十法界。一法界又具十法界百法界。一界具三十種世間百法界即具三千種世間。此三千在一念心〔夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千一念の心に在り〕[文]。
弘の五に云く ̄故大師覚意三昧・観心食法及誦経法・小止観等諸心観文 但以自他等観推於三仮。竝未云一念三千具足。乃至観心論中亦只以三十六問責於四心 亦不渉一念三千。唯四念処中略云観心十界。故至止観正明観法竝以三千而為指南。乃是終窮究竟極説。故序中云説己心中所行法門。良有以也。請尋読者心無異縁〔故に大師、覚意三昧・観心食法及び誦経法・小止観等の諸の心観の文に、但自他等の観を以て三仮を推せり。竝びに未だ一念三千具足を云はず。乃至観心論の中に亦只三十六問を以て四心を責むれども、亦一念三千に渉らず。唯四念処の中に略して観心の十界を云ふのみ。故に止観に正しく観法を明かすに至りて、竝びに三千を以て指南と為せり。乃ち是れ終窮究竟の極説なり。故に序の中に説己心中所行法門と云ふ。良に以有る也。請ふ、尋ね読まん者心に異縁無かれ〕
止の五に云く ̄此十重観法横竪収束微妙精巧。初則簡境真偽 中則正助相添 後則安忍無著。意円法巧該括周備規矩初心 将送行者到彼薩雲[初住也]。非闇証禅師誦文法師所能知也。蓋由如来積劫之所懃求 道場之所妙悟 身子之所三請 法譬之所三説 正在茲乎〔此の十重の観法は横竪に収束し微妙精巧なり。初めは則ち境の真偽を簡び、中は則ち正助相添ひ、後は則ち安忍無著なり。意円かに法巧みに、該括周備して、初心に規矩し、行者を将送して、彼の薩雲に到らん[初住なり]。闇証の禅師、誦文の法師の能く知る所に非ざるなり。蓋し如来積劫の懃求したまへる所、道場の妙悟したまへる所、身子の三請する所、法譬の三説する所、正しく茲に在るに由るか〕。
弘の五に云く ̄遍於四教一十六門 乃至八教一期始終。今皆開顕束入一乗 遍括諸経備一実。若当分者 尚非偏教教主所知。況復世間闇証者。 ○蓋如来下称歎也。十法既是法華所乗。是故還用法華文歎。迹説即指大通智勝仏時以為積劫 寂滅道場以為妙悟。若約本門指我本行菩薩道時以為積劫 本成仏時以為妙悟。本迹二門只是求悟此之十法。身子等者 寂場欲説物機未宜 恐其堕苦更施方便 四十余年種種調熟 至法華会初略開権 動執生疑慇懃三請。五千起去方無枝葉。点示四一演五仏章 被上根人名為法説。中根未解猶・譬喩 下根器劣復待因縁。仏意聯綿在茲十法。故十法文末皆譬大車。今文所馮意在於此。惑者未見尚指華厳 唯知華厳円頓之名 而昧彼部兼帯之説。全失法華絶待之意 貶挫妙教独顕之能。験迹本二文・五時之説 円極不謬。何須致疑。是故決曰正在茲乎。
〔四教の一十六門、乃至八教の一期の始終に遍せり。今皆開顕して束ねて一乗に入れ、遍く諸経を括りて一実に備へり。若し当分をいはば、尚お偏教の教主の知る所に非ず。況んや復世間闇証の者をや。 ○蓋如来より下は称歎なり。十法既に是れ法華の所乗なり。是の故に還りて法華の文を用て歎ず。迹の説は即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し、寂滅道場を以て妙悟と為す。若し本門に約せば我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し、本成仏の時を以て妙悟と為す。本迹二門只是れ此の十法を求悟せるなり。身子等とは寂場にして説んと欲するに物の機未だ宜しからず、其の苦に堕せんことを恐れて更に方便を施し四十余年種種に調熟し、法華の会に至りて初めて略して権を開するに、動執生疑して慇懃に三請す。五千起去して方に枝葉無し。四一を点示して五仏章を演べ、上根の人に被るを名づけて法説と為す。中根未だ解せずして猶お譬喩を・ひ、下根は器劣にして復因縁を待つ。仏意聯綿として茲の十法に在り。故に十法の文の末に皆大車に譬へたり。今の文の馮る所、意此に在り。惑者未だ見ず、尚お華厳を指して、唯華厳円頓の名を知りて而して彼の部の兼帯の説に昧〈くら〉し。全く法華絶待の意を失ひて妙教独顕の能を貶挫す。迹本の二文を験して五時の説を検すれば、円極謬らず。何ぞ須らく疑ひを致すべし。是の故に決して正在茲乎と曰ふ〕
又云く ̄初引華厳者 重牒初引示境相文。前云心造即是心具。故引造文以証心具。彼経第十八中如功徳林菩薩偈説云 心如工画師造種種五陰。一切世間界中無法而不造。如心仏亦爾。如仏衆生然。心仏及衆生是三無差別。若人欲求知三世一切仏 応当如是観。心造諸如来。不解今文如何消偈心造一切三無差別〔初めに華厳を引くことをいはば、重ねて初めに引いて境相を示す文を牒す。前に心造と云ふは即ち是れ心具なり。故に造の文を引いて以て心具を証す。彼の経第十八の中に功徳林菩薩の偈を説て云ふが如く、心は工画師の如く種種の五陰を造る。一切世間界の中に法として造らざること無し。心の如く仏も亦爾なり。仏の如く衆生も然なり。心と仏と及び衆生、是の三差別無し。若し人三世一切の仏を知らんと欲求せば、まさに是の如く観ずべし。心は諸の如来を造ると。今の文を解せずんば如何ぞ偈の心造一切三無差別を消せん〕[文]。
恐恐謹言
 諸宗之是非、之を以て之を糾明する也。
二月十八日 日 蓮 花押