佐渡御書
此の文は富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵たう(塔)のつじ(辻)十郎入道殿等、さじきの尼御前、一一に見させ給ふべき人人の御中へ也。京・鎌倉に軍に死せる人人を書き付けてたび候へ。[10→p0611]外典鈔・文句の二・玄の四の本末・勘文・宣旨等これへの人人もち(持)わたらせ給へ。
世間に人の恐るゝ者は火炎の中と刀剣の影と此の身の死するとなるべし。牛馬猶ほ身を惜しむ、況んや人身をや。癩人猶ほ命を惜しむ。何に況んや壮人をや。
仏説きて云く_以七宝布満三千大千世界 不如以手小指供養仏経〔七宝を以て三千大千世界に布き満ちるとも、手の小指を以て仏経を供養せんにはしかず〕[取意]。雪山童子の身をなげし、楽法梵志が身の皮をはぎし、身命に過ぎたる惜しき者のなければ、是れを布施として仏法を習へば必ず仏となる。
身命を捨つる人、他の宝を仏法に惜しむべしや。又、財宝を仏法におしまん物、まさる身命を捨つるべきや。世間の法にも重恩をば命を捨てて報ずるなるべし。又、主君の為に命を捨つる人はすくなきやうなれども其の数多し。男子ははぢ(恥)に命を捨て、女人は男の為に命をすつ。魚は命を惜しむ故に池にすむ(栖)に、池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ。しかれどもゑ(餌)にばかされて釣をのむ。鳥は木にすむ。木のひきゝ(低)事をおぢて木の上枝に住む。しかれども、ゑにばかされて網にかゝる。人も又、是の如し。世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし。
仏法は摂受・折伏時によるべし。譬へば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は時によりて法を行ず。雪山童子・薩王子は身を布施とせば法を教へん、菩薩の行となるべしと責めしかば身をすつ。肉をほしがらざる時身を捨つべし乎。紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし。破戒無戒を毀り、持戒正法を用ひん世には、諸戒を堅く持つべし。儒教・道教を以て釈教を制止せん日には、道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽くすべし。釈教の中に小乗・大乗・権経実教雑乱して妙珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし。
畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる。諛臣と申すは是れ也。強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪正の僧等が方人をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し。
これおごれるにはあらず。正法を憎む心の強盛なるべし。おごる者は必ず強敵に値ひておそるゝ心、出来する也。例せば脩羅のおごり、帝釈にせめられて、無熱池の蓮の中に小身と成りて隠れしが如し。
正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道なる(成)べし。千経万論を修学すれども時機に相違すれば叶ふべからず。
宝治の合戦すでに二十六年、[2→p0613]今年二月十一日、十七日、又合戦あり。外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等、必ず仏法を破るべし。獅子身中の虫の師子を食む等云云。大果報の人をば他の敵やぶりがたし、親しみより破るべし。薬師経に云く_自界反逆難、是れ也。仁王経に云く_聖人去時七難必起〔聖人去らん時は七難必ず起こらん〕云云。金光明経に云く_三十三天各生瞋恨由其国王縦悪不治〔三十三天、おのおの瞋恨を生ずるは、其の国王、悪をほしいままにして治せざるによる〕等云云。
日蓮は聖人にあらざれども、法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。又、世間の作法、兼ねて知るによて、注し置くこと、是れ違ふべからず。現世に云ひをく言の違はざらんをもて、後生の疑ひをなすべからず。
日蓮は此の関東の御一門の棟梁也、日月也、亀鏡也、眼目也日蓮捨て去る時、七難必ず起るべしと、去る九月十二日、御勘気を蒙りし之時、大音声を放ちてよばはりし事これなるべし。纔かに六十日乃至百五十日に此の事起る歟。是れは華報なるべし。実果の成ぜん時、いかがなげかはし(歎)からんずらん。
世間の愚者の思ひに云く 日蓮智者ならば何ぞ王難に遇ふ哉なんと申す。日蓮兼ねて存知也。父母を打つ子あり、阿闍世王なり。仏・阿羅漢を殺し血を出す者あり、提婆達多、是れ也。六臣これをほめ、瞿伽利等これを悦ぶ。日蓮、当世には此の御一門の父母也。仏・阿羅漢の如し。然るを流罪して主従共に悦びぬる。あはれに無慚なる者也。
謗法の法師等が自ら禍の已に顕るゝを歎き志賀、かくなるを一旦は悦ぶなるべし。後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず。例せば泰衡がかせると(弟)を討ち、九郎判官を討ちて悦びしが如し。既に一門を亡ぼす大鬼の此の国に入るなるべし。法華経に云く_悪鬼入其身、是れ也。
日蓮も又かくせめ(責)らるゝも先業なきにあらず。不軽品に云く_其罪畢已等云云。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし。何に況んや、日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ、旃陀羅(漁者)が家より出でたり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身也。魚鳥を混丸して赤白二とせり。其の中に識神をやどす。濁水に月のうるれるが如し。糞嚢に金をつゝめる(包)なるべし。心は法華経を信ずる故に、梵天・帝釈をも猶ほ恐ろしと思はず。身は畜生の身なり。色心不相応の故に愚者のあなづる道理也。心も又、身に対すればこそ月金にもたとふ(譬)れ。
又、過去の謗法を案ずるに誰か知る。勝意比丘が魂にもや、大天が神にもや。不軽軽毀の流類歟、失心の余残なる歟。五千上慢の眷属なる歟、大通第三の余流にもやあるらん。宿業はかりがたし。
鉄は炎打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし。我、今度の御勘気は世間の失、一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし。
[→36等p0614]般泥経に云く_有当来之世仮被袈裟 於我法中出家学道 懶惰懈怠誹謗 此等方等契経。当知此等皆是今日諸異道の輩〔当来の世、仮に袈裟をこうむりて我が法の中に於て出家学道し、懶惰、懈怠にして、此れ等の方等契経を誹謗すること有らん。当に知るべし、此れ等は皆是れ今日の諸の異道の輩なり〕等云云。
此の経文を見ん者、自身をはづべし。今、我等が出家して袈裟をかけ、懶惰懈怠なるは、是れ仏在世の六師外道が弟子也と仏記し給へり。法然が一類・大日が一類・念仏宗・禅宗と号して、法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加へて権経の弥陀称名計りを取り立て、教外別伝と号して法華経を月をさす指、只文字を数ふるなんど笑ふ者は、六師が末流の仏経の中に出来せるなるべし。うれへなるかなや。
涅槃経に、仏、光明を放ちて地の下一百三十六地獄を照らし給ふに、罪人一人もなかるべし。法華経の寿量品にして皆成仏せる故也。但し一闡提人と申して謗法の者計り地獄守に留められたりき。彼等がうみ(生)ひろげ(広)て、今の世の日本国の一切衆生となれる也。日蓮も過去の種子、已に謗法の者なれば、今生に念仏者にて数年が間、法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑ひし也。今謗法の酔いさめて見れば、酒に酔へる者、父母を打ちて悦びしが、酔いさめて後、歎きしが如し。歎けども甲斐なし。此の罪消しがたし。何に況んや過去の謗法の心中にそみ(染)けんをや。
経文を見候へば、烏の黒きも鷺の白きも先業のつよく(強)そみけるなるべし。外道は知らずして自然と云ひ、今の人は謗法を顕して扶けんとすれば、我が身に謗法なき由をあながち(強)に陳答して、法華経の門を閉ぢよと法然が書けるをとかく(左右)あらかひ(争)なんどす。念仏者はさてをきぬ。天台・真言等の人人、彼が方人をあながちにする也。
今年正月十六日、十七日に佐渡の国の念仏者等数百人、印性房と申すは念仏者の棟梁也。日蓮が許に来りて云く 法然上人は法華経を抛てよとかゝせ給ふには非ず。一切衆生に念仏を申させ給ひて候。此の大功徳に御往生疑ひなしと書き付けて候を、山僧等の流されたる並びに寺法師等、善哉善哉とほめ候を、いかがこれを破し給ふと申しき。鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ。無慚とも申す計りなし。
いよいよ日蓮が先生・今生・先日の謗法おそろし。かゝりける者の弟子と成りけん、かゝる国に生まれけん。いかになるべしとも覚えず。
般泥経に云く_〔善男子、過去に無量の諸罪、種種の悪業を作らんに、是の諸の罪報、或は形状醜陋〕善男子過去作無量諸罪種種悪業。是諸罪報 或被軽易 或形状醜陋 衣服不足 飲食疎 求財不利 生貧賎家及邪見家 或遭王難〔善男子、過去に無量の諸罪種種の悪業を作る。是の諸の罪報は、○或は軽易せらる 或は形状醜陋 衣服足らず 飲食・疎{そそ} 財を求むるに利あらず 貧賎の家・及び邪見の家に生まれ 或は王難に遭う〕等云云。又云く_及余種種人間苦報。現世軽受斯由護法功徳力故〔及び余の種種の人間の苦報あらん。現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由るが故なり〕等云云。
此の経文は日蓮が身なくば殆ど仏の妄語となりぬべし。一には或被軽易、二には或形状醜陋、三には衣服不足、四飲食疎、五には求財不利、六には生貧賎家、七には及邪見家、八には或遭王難等云云。此の八句は只日蓮一人が身に感ぜり。高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば、還りて我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる。[4→p0617]持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ。是れは常の因果の定まれる法也。
日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下して嘲弄せし故に、此の八種の大難に値へる也。此の八種は尽未来際が間一つづつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚まり起こせる也。譬へば民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭におほせ(債)たれども、いたく(甚)せめ(責)ず、年年にのべゆく。其の所を出づる時に競ひ起るが如し。斯由護法功徳力故等は是れ也。
法華経には_有諸無智人 悪口罵詈等〔諸の無智の人 悪口罵詈等し〕。加刀杖瓦石〔刀杖瓦石を加うとも〕。乃至向国王大臣 婆羅門居士〔国王大臣 婆羅門居士 ~向って〕。数数見擯出〔数数擯出せられ〕。等云云。獄卒が罪人を責めずば地獄を出づる者かたかりなん。当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し。日蓮は過去の不軽の如く、当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し。人は替われども因は是れ一也。父母を殺せる人、異なれども、同じ無間地獄に堕つ。いかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき。又、彼の諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや。但、千劫阿鼻地獄にて責められん事こそ不便にはおぼゆれ。是れをいかんとすべき。彼の軽毀の衆は始めは謗ぜしかども、後には信伏随従せりき。罪、多分は滅して少分有りしが、父母千人殺したる程の大苦をうく。当世の諸人は翻す心なし。譬諭品の如く無数劫をや経んずらん。三五の塵点をやおくらんずらん。これはさてをきぬ。
日蓮を信ずるやうなりし者どもが、日蓮がかくなれば、疑ひををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし。脩羅が、仏は十八界、我は十九界と云ひ、外道が云く 仏は一究竟道、我は九十五究竟道と云ひしが如く、日蓮御房は師匠にておはせども余りにこは(剛)し。我等はやはらかに法華経を弘むべしと云はんは、螢火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、鳥鵲〈かささぎ〉が鸞鳳〈らんほう〉をわらふなるべし、わらふなるべし。南無妙法蓮華経。
文永九年[太歳壬申]三月二十日 日 蓮花押
日蓮弟子檀那等御中
佐渡の国は紙候はぬ上、面面に申せば煩ひあり、一人ももるれば恨みありぬべし。此の文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ、料簡候て心なぐさませ給へ。世間に勝る歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず当時の軍に死する人人、実不実は置く、幾ばくかかなしかるらん。いざは(伊沢)の入道さかべ(酒部)の入道いかになりぬらん。かはのべ(河辺)の山城得行寺殿等の事いかにと書き付けて給ふえし。外典の書の貞観政要すべて外典の物語、八宗の相伝等、此れ等がなくしては消息もかゝれ候はぬに、かまへてかまへて給候べし。