中興入道御消息

弘安二(1279.11・30)


中興入道消息(各別書)
     弘安二年十一月。五十八歳。於身延山作。
     内一八ノ一五。遺二七ノ四九。縮一九一七。類六一五。 鵞目一貫文送給候畢ぬ。妙法蓮華経の御宝前に申上候畢ぬ。抑も日本国と申す国は、須弥山よりは南、一閻浮提の内縦広七千由旬なり、其内に八万四千の国あり。所謂五天竺、十六の大国、五百の中国、十千の小国、無量の粟散国、微塵の島島あり。此等の国国は皆大海の中にあり。たとへば池にこのは(木葉)のちれるが如し。此日本国は大海の中の小島なり。しほ(潮)みてば見へず、ひ(干)ればすこしみゆるかの程にて候しを、神のつき出させ給て後、人王のはじめ神武天皇と申せし大王をはしましき。それよりこのかた三十余代は仏と経と僧とはましまさず、ただ人と神とばかりなり。仏法をはしまさねば地獄もしらず浄土もねがはず。父母、兄弟のわかれ(別)ありしかどもいかんがなるらん。ただ露のきゆるやうに日月のかくれさせ給やうにうちをもいてありけるが、然るに人王第三十代欽明天皇と申す大王の御宇に、此国より戌亥の角に当て百済国と申す国あり。彼国よりせいめい(聖明)王と申せし王、金銅の釈迦仏と此仏の説せ給へる一切経と申すふみ(文書)と此をよむ僧をわたしてありしかば、仏と申す物もいき(生)たる物にもあらず、経と申す物も外典の文にもにず、僧と申す物も物はいへども道理もきこへず、形も男女にもにざりしかば、かたがたあやしみをどろきて、左右の大臣大王の御前にしてとかう僉議ありしかども、多分はもちうまじきにてありしかば、仏はすてられ僧はいましめられて候しほどに、用明天皇の御子聖徳太子と申せし人、びだつ(敏達)二年二月十五日東に向て南無釈迦牟尼仏と唱て御舎利を御手より出し給て、同六年に法華経を読誦し給ふ。それよりこのかた七百余年王は六十余代に及ぶまで、やうやく仏法ひろまり候て日本六十六箇国二の島にいたらぬ国もなし。国国、郡郡、郷郷、里里、村村に、堂塔と申し寺寺と申し、仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり。日月の如くあきらかなる智者代代に仏法をひろめ、衆星のごとくかがやくけんじん(賢人)国国に充満せり。かの人人は自行には或は真言を行じ、或は般若、或は仁王、或は阿弥陀仏の名号、或は観音、或は地蔵、或は三千仏、或は法華経読誦しをるとは申せども、無智の道俗をすゝむるにはただ南無阿弥陀仏と申べし。譬ば女人の幼子をまうけたるに或はほり(堀)或はかわ(河)、或はひとり(独)なるには、母よ母よと申せばききつけぬれば、かならず佗事をすててたすくる習なり。阿弥陀仏も又如是、我等は幼子なり、阿弥陀仏は母なり。地獄のあな餓鬼のほりなんどにをち入ぬれば、南無阿弥陀仏と申せば音と響との如く必ず来てすくひ給なりと一切の智人ども教へ給しかば、我日本国かく申しならはして年ひさしくなり候。然に日蓮は中国都の者にもあらず、辺国の将軍等の子息にもあらず、遠国の者民が子にて候しかば、日本国七百余年に一人もいまだ唱へまいらせ候はぬ、南無妙法蓮華経と唱へ候のみならず、皆人の父母のごとく日月の如く、主君の如く、わたり(渡)に船の如く、渇して水のごとくうえて飯の如く思て候南無阿弥陀仏を、無間地獄の業なりと申候ゆへに、食に石をたひ(炊)たる様にがんせき(巌石)に馬のはねたるやうに、渡りに大風の吹来たるやうに、じゆらく(聚楽)に大火のつきたるやうに、俄にかたきのよせたるやうに、とわりのきさき(后)になるやうにをどろきそねみねたみ候ゆへに、去る建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで、二十七年が間退転なく申しつより候事、月のみつるがごとくしほのさすがごとく、はじめは日蓮只一人唱へ候しほどに、見人、値人、聞人耳をふさぎ眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎりは(歯)をかみ、父母、兄弟、師匠、ぜんう(善友)もかたきとなる、後には所の地頭、領家かたきとなる。後には一国さはぎ、後には万人をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととなへ、或は悪口のためにとなへ、或は信ずるに似て唱へ或はそしるに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経、のこりの九分は或は両方或はうたがひ、或は一向念仏者なる者は父母のかたき主君のかたき宿世のかたきのやうにのゝしる。村主、郷主、国主等は謀叛の者のごとくあだまれたり。かくの如く申す程に大海の浮木の風に随て定なきが如く、軽毛の虚空にのぼりて上下するが如く日本国ををはれあるく程に、或時はうたれ或時はいましめられ、或時は疵をかほふり(蒙)或時は遠流、或時は弟子をころされ或時はうちをはれなんどする程に、去る文永八年九月十二日には御かんき(勘気)をかほりて北国佐渡の島にうつされ(遷)て候しなり。世間には一分のとがもなかりし身なれども、故最明寺入道殿、極楽寺入道殿を地獄に堕たりと申す法師なれば謀叛の者にもすぎたりとて、相州鎌倉龍口と申処にて頸を切んとし候しが、科は大科なれども法華経の行者なれば左右なくうしなひなばいかんがとやをもはれけん。又遠国の島にすてをきたるならばいかにもなれかし。上ににくまれたる上万民も父母のかたきのやうにおもひたれば、道にても又国にても若はころすか、若はかつえしぬ(餓死)るかにならんずらんとあてがはれて有しに、法華経、十羅刹の御めぐみ(恵)にやありけん。或は天とが(失)なきよしを御らんずるにやありけん。島にてあだむ者は多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人ありき。彼人は年ふりたる上心かしこく身もたのし(楽)くて、国の人にも人とをもはれたりし人の此御房はゆへある人にやと申しけるかのゆへに、子息等もいたう(甚)もにくまず。其已下の者どもたいし(大旨)彼等の人人の下人にてありしかば、内内あやまつ事もなく唯上の御計のまゝにてありし程に、水は濁れども又すみ、月は雲かくせども又はるることはりなれば、科なき事すでにあらわれていいし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるす(許)べからざるよし申されけれども、相模守殿の御計ひばかりにてついにゆりて候てのぼりぬ。ただし日蓮は日本国には第一の忠の者なり。肩をならぶる人は先代にもあるべからず、後代にもあるべしとも覚えず。其故は去る正嘉年中の大地震、文永元年の大長星の時、内外の智人其故をうらなひ(占考)しかどもなにのゆへいかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮一切経蔵に入て勘へたるに、真言、禅宗、念仏、律等の権小の人人をもつて法華経をかろしめたてまつる故に、梵天、帝釈の御とがめにて西なる国に仰付て日本国をせむ(攻)べしとかんがへて故最明寺入道殿にまいらせ候き。此事を諸道の者をこつきわらひ(嘲笑)し程に、九箇年すぎて去る文永五年に大蒙古国より日本国ををそう(襲)べきよし牒状わたりぬ。此事のあふ(合)故に念仏者、真言師等あだみて失はんとせしなり。例せば漢土に玄宗皇帝と申せし御門の御后に上陽人と申せし美人あり。天下第一の美人にてありしかば楊貴妃と申すきさきの御らんじて、此人王へまいるならば我がをぼへ(寵)をとりなんとて宣旨なりと申しかすめて、父母、兄弟をば或はながし或は殺し、上陽人をばろう(牢)に入て四十年までせめたりしなり。此もそれにに(似)て候。日蓮が勘文あらわれて大蒙古国を調伏し、日本国かつならば此法師は日本第一の僧となりなん。我等が威徳をとろうべしと思かのゆへに讒言をなすをばしろしめさずして、彼等がことばを用て国を亡さんとせらるるなり。例せば二世王は趙高が讒言によりて李斯を失ひ、かへりて趙高が為に身をほろぼされ、延喜の御門はしへい(時平)のをとど(大臣)の讒言によりて菅丞相を失ひて地獄におち給ぬ。此も又かくの如し。法華経のかたきたる真言師、禅宗、律僧、持斎、念仏者等が申す事を御用ありて日蓮をあだみ給ゆへに、日蓮はいやし(賎)けれども所持の法華経を釈迦、多宝、十方の諸仏、梵天、帝釈、日月、四天、龍神、天照太神、八幡大菩薩。人の眼をおしむ(惜)がごとく、諸天の帝釈をうやまう(敬)がごとく、母の子を愛するがごとくまほりおもん(守重)じ給ゆへに、法華経の行者をあだむ人を罰し給事、父母のかたきよりも朝敵よりも重く大科に行ひ給なり。然に貴辺は故次郎入道殿の御子にてをはするなり、御前は又よめ(嫁)なり。いみじく心かしこかりし人の子とよめとにをはすればや、故入道殿のあとをつぎ国主も御用なき法華経を御用あるのみならず、法華経の行者をやしなはせ給てとしどし(年年)に千里の道をおくり(送)むかへ(迎)、去りぬる幼子のむすめ(娘)御前の十三年に丈六のそとば(卒堵波)をたてて、其面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、北風吹ば南海のいろくづ(魚族)其風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿其風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生れん。況やかのそとばに随喜をなし手をふれ眼に見まいらせ候人類をや。過去の父母も彼そとばの功徳によりて天の日月の如く浄土をてらし、孝養の人並に妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事、水すめば月うつり、つづみ(鼓)をうて(打)ばひびき(響)のあるがごとしとをぼしめし候へ等云云。此より後後の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ。
   弘安二年己卯十一月卅日          身延山 日蓮花押
    中興入道殿女房
(啓二八ノ一。鈔一七ノ五四。註一八ノ二八。音下ノ二四。語三ノ二七。拾四ノ二三。扶一〇ノ四六。記上ノ四六。)