上野殿御返事

執筆年:弘安三
真筆あり
上野殿御返事(上野第三十書)(報南条氏書)      弘安三年三月。五十九歳作。      外八ノ五。遺二八ノ一八。縮一九四三。類一〇〇一。 故上野殿御忌日の僧膳料米一たはら(俵)、たしかに給候畢ぬ。御仏に供しまいらせて自我偈一巻よみまいらせ候べし。孝養と申はまづ不孝を知て孝をしるべし。不孝と申は酉夢と云ふ者父を打しかば天雷身をさく(裂)。班婦と申せし者母をのり(詈)しかば毒蛇来てのみ(呑)き。阿闍世王父をころせしかば白癩病の人となりにき。波瑠璃王は親をころせしかば、河上に火出て現身に無間にをちにき。佗人をころしたるには、いまだかくの如くの例なし。不孝をも(以)て思ふに孝養の功徳のおほきなる事もしられたり。外典三千余巻は佗事なし、ただ父母の孝養ばかりなり。しかれども現世をやしなひ(養)て後生をたすけず。父母の恩のおもき事は大海のごとし。現世をやしなひ(養)後生をたすけざれば一?のごとし。内典五千余巻又佗事なし、ただ孝養の功徳をとけるなり。しかれども如来四十余年の説教は孝養にに(似)たれどもその説いまだあらはれず。孝が中の不孝なるべし。目連尊者の母の餓鬼道の苦をすくひ(救)しは、わづかに人天の苦をすくひていまだ成仏のみち(道)にはいれず。釈迦如来は御年三十の時、父浄飯王に法を説て第四果をえしせしめ給へり。母の摩耶夫人をば御年三十八の時、阿羅漢果をえせしめ給へり。此等は孝養にに(似)たれども還て仏に不孝のとが(失)あり。わづかに六道をばはなれ(離)しめたれども父母をば永不成仏の道に入給へり。譬へば太子を凡下の者となし王女を匹夫にあはせたるが如し。されば仏説て云「我則堕慳貪此事為不可」云云。仏は父母に甘露をおしみて麦飯を与へたる人、清酒をおしみて濁酒をのませたる不孝第一の人也。波瑠璃王のごとく現身に無間大城におち、阿闍世王の如く即身に白癩病をもつきぬべかりしが、四十二年と申せしに法華経を説給て「是人雖生滅度之想人於涅槃而於彼土求仏智慧得聞是経」と。父母の御孝養のために法華経を説給しかば、宝浄世界の多宝仏も実の孝養の仏なりとほめ給ひ、十方の諸仏もあつまりて一切諸仏の中には孝養第一の仏也と定め奉りき。これをもつて案ずるに、日本国の人は皆不孝の仁ぞかし。涅槃経の文に不孝の者は大地微塵よりも多しと説給へり。されば天の日月、八万四千の星、各いかりをなし、眼をいからかして日本国をにらめ給ふ。今の陰陽師の天変頻りなりと奏し申す是也。地夭日日に起て、大海の上に小船をうかべたるが如し。今の日本国の小児は魄をうしなひ、女人は血をはく(吐)是也。貴辺は日本国第一の孝養の人なり。梵天、帝釈をり下て左右の羽となり、四方の地神は足をいただい(頂)て父母とあをぎ(仰)給らん。事多しといへどもとどめ候畢ぬ。恐恐謹言。   弘安三年三月八日              日蓮花押   進上 上野殿御返事 (微上ノ二〇。考三ノ四二。)