三世諸仏総勘文教相廃立

弘安二(1279.10)


三世諸仏総勘文教相廃立(原文漢文)
     弘安二年十月。五十八歳著。
     内一四ノ二四。遺二七ノ二八。縮一八九二。類一三三三。 夫れ一代聖教とは総て五十年の説教なり。是を一切経とは言うなり。此を分って二となす。一には化佗二には自行なり。一には化佗の経とは法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり。此をば権教と云い亦は方便と名く。此は四教の中には三蔵教と通教と別教との三教なり。五時の中には華厳と阿含と方等と般若となり。法華より前の四時の経教なり。又十界の中には前の九法界なり。又夢と寤との中には夢中の善悪なり。又夢をば権と云い寤をば実と云うなり。是の故に夢は仮に有りて体性なきが故に名けて権と云うなり。寤は常住にして不変の心の体なるが故に之を名けて実と為す。故に四十二年の諸の経教は生死の夢の中の善悪の事を説く故に権教と言う。夢中の衆生を誘引し、驚覚して法華経の寤と成さんと思食しての支度方便の経教なり、故に権教と言う。斯に由って文字の読みを糾して心得べきなり。故に権をば権と読むなり。権なる事の手本には夢を以て本となす。又実をば実と読む。実事の手本は寤なり、故に生死の夢は権にして性体なれば権なる事の手本なり。故に妄想と云う。本覚の寤は実にして生滅を離れたる心なれば真実の手本なり、故に実相と云う。是を以て権実の二字を糾して一代聖教の化佗の権と自行の実との差別を知るべきなり。故に四教の中には前の三教と五時の中の前の四時と十法界の中の前の九法界は、同じく皆夢中の善悪の事を説くなり、故に権教と云う。此の教相をば無量義経に「四十余年未顕真実」文と説き給う。未顕真実の諸経は夢中の権教なり。故に釈籤に云く「性殊なること無しと雖も、必ず幻に藉て幻の機と幻の感と、幻の応と幻の赴とを発す。能応と所化と並びに権実に非ず」文。此れ皆夢幻の中の方便の教なり。性雖無殊等とは夢見る心性と寤の時の心性とは、只一の心性にして総て異なること無しと雖も、夢の中の虚事と寤の時の実事との二事一の心法なるを以て、見るも思うも我心なりと云う釈なり。故に弘決(弘会五之三三)に云く「前の三教の四弘の能所を泯す」文。四弘とは衆生の無辺なるを度せんと誓願し、煩悩の無辺なるを断ぜんと誓願し、法門の無尽なるを知らんと誓願し、無上菩提を証せんと誓願す。此を四弘と云う。能とは如来なり。所とは衆生なり。此四弘は能の仏も所の衆生も前三教は皆夢中の是非なりと釈し給えるなり。然れば法華以前の四十二年の間の説教たる諸経は未顕真実の権教なり方便なり。法華経に取り寄るべき方便なるが故に真実には非ず。此は仏自ら四十二年の間説き集め給いて後に、今の法華経を説かんと欲して先ず序分の開経の無量義経の時、仏自ら勘文し給える教相なれば人の語も入るべからず。不審をも生すべからず。故に玄義に云く「九界を権となし仏界を実となす」文。九法界の権は四十二年の説教なり。仏法界の実は八箇年の説、法華経これなり。故に法華経をば仏乗と云うなり。九界の生死は夢の理なれば権教と云い、仏界の常住は寤の理なれば実教と云う。故に五十年の説教一代の聖教、一切の諸経は化佗の四十二年の権教と、自行の八箇年の実経と合して五十年なり。権と実との二の文字を以て鏡に懸けて陰りなし。故に三蔵教を修行すること、三僧祇、百大劫を歴て終りに仏に成んぬと思えば、我身より火を出して灰身入滅とて灰と成て失せるなり。通教を修行すること七阿僧祇、百大劫を満てゝ仏に成んぬと思えば、前の如く同様に灰身入滅して跡形も無く失せぬるなり。別教を修行すること二十二大阿僧祇、百千万劫を付くして終わりに仏に成んぬと思えば、生死の夢の中の権教の成仏なれば、本覚の寤の法華経の時には別教には実仏なし。夢中の果なり、故に別教の教道には実の仏無きなり。別教の証道には初地に始めて一分の無明を断じて一分の中道の理を顕し、之を見れば別教は隔歴不融の教と知って円教に移り入りて、円人と成り已って別教には留まらざるなり。上中下の三根の不同有るが故に初地、二地、三地乃至等覚までも円人となる。故に別教の面には仏なきなり。故に有教無人と云うなり。故に守護国界章(下之中初)に云く「有為の報仏は夢の中の権果前三教の修行の仏、無作の三身は覚の前の実仏なり後の円教の観心の仏」。又云く「権教の三身は未だ無常を免れず前三教の修行の仏。実教の三身は倶体倶用なり後の円教の観心の仏。此釈を能能意得べきなり。権教は難行、苦行して適仏に成ぬと思えば夢の中の権の仏なれば、本覚の寤の時には実の仏なきなり。極果の仏なければ有教無人なり。況や教法実ならんや。之を取て修行せんは聖教に迷えるなり。此の前三教は仏に成らざる証拠を説き置き給いて末代の衆生に恵解を開かしむるなり。九界の衆生は一念の無明の眠の中に於て生死の夢に溺れて本覚の寤を忘れ、夢の是非に執じて冥き従り冥きに入る。是の故に如来は我等が生死の夢の中に入て、顛倒の衆生に同じで夢中の語を以て夢中の衆生を誘い、夢中の善悪の差別の事を説いて漸漸に誘引し給うに、夢中の善悪の事重畳して様様に無量無辺なれば、先づ善事に付て上中下を立つ。三乗の法是なり。三三九品なり。此の如く説き已て後に又上上品の根本善を立てゝ上中下三三九品の善と云う。皆悉く九界生死の夢の中の善悪の是非なり。今是をば総じて邪見外道と為す授要記の意。此上に又上上品の善心は本覚の寤の理なれば、此を善の本と云うと説き聞かせ給いし時に、夢中の善悪の悟の力を以ての故に寤の本心の実相の理を始めて聞知せられし事なり。是時に仏説て言く、夢と寤との二は虚と実との二の事なれども心法は只一なり。眠の縁に値ぬれば夢なり。眠去ぬれば寤の心なり。心法は只一なりと開会せらるべき下地を造り置かれし方便なり此は別教の中道の理也。是故に未だ十界互具、円融相即を顕さざれば成仏の人なし。故に三蔵教より別教に至るまでの四十二年の間の八教は皆悉く方便なり。夢中の善悪なれば只暫く之を用いて衆生を誘引し給う支度方便なり。此の権教の中にも分分に皆悉く方便と真実と有りて権実の法闕けざるなり。四教一一に各四門有て差別有ることなし。語も只同じ語なり、文字も異なることなし。斯に由て語に迷うて権実の差別を分別せざる時を仏法滅すと云う。是の方便の教は唯穢土に在て総じて浄土にはなし。法華経に云く「十方仏土中唯有一乗法、無二亦無三、除仏方便説」文。故に知ぬ十法の仏土になき方便教を取て往生の行と為し、十法の浄土に有る一乗の法をば之を嫌て取らずして成仏すべき道理有るべしや、否や。一代の教主釈迦如来一切経を説き勘文し給いて言く、三世の諸仏同様に一つ語、一つ心に勘文し給へる説法の儀式なれば、我も是の如く一言も違わざる説教の次第なり云云。方便品に云く「如三世諸仏説法之儀式、我今亦如是説無分別法」文。無分別の法とは一乗の妙法なり。善悪を簡ぶことなく草木樹林、山河大地にも一微塵の中にも各互に十法界の法を具足す。我心の妙法蓮華経の一条は十方の浄土に周偏して闕ること無し。十方浄土の依報、正報の功徳荘厳は我心の中に在て、片時も離るゝことなき三身即一の本覚の如来にて是の外には法なし。此一法計り十方の浄土にありて余法有ること無し。故に無分別法と云う是なり。此の一乗妙法の行をば取らずして、全く浄土にも無き方便の教を取て成仏の行と為さんは迷の中の迷なり。我仏に成りて後に穢土に立還りて、穢土の衆生を仏法界に入らしめんが為に、次第に誘入して方便の教を説くを化佗の教とは云うなり。故に権教と言い又方便とも云う。化佗の法門の有様大体略を存して斯の如し。二に自行の法とは是法華経八箇年の説なり。是経は寤の本心を説き給う。唯衆生の思い習わせる夢中の心地なるが故に夢中の言語を借て寤の本心を訓るなり。故に語は夢中の言語なれども意は寤の本心を訓ゆ。法華経の文と釈との意此の如し。之を明め知らずんば経の文と釈の文とに必ず迷うべきなり。但し此化佗の夢中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば、夢中の教を取て寤の心に摂るが故に、四十二年の夢中の化佗方便の法門も、妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり。此を法華経の開会とは云うなり。譬へば衆流を大海に納るが如きなり。仏の心法妙と衆生の心法妙と此二妙を取て、己心に摂むるが故に心の外に法なきなり。己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり。是を経に説て云く「如是相随身如来如是性報身如来如是体法身如来」。此を三如是と云う。此三如是の本覚の如来は十方法界を身体となし、十方法界を心性となし十方法界を相好となす。是故に我身は本覚三身如来の身体なり。法界に周偏して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時、其座席に列りし諸の四衆、八部も畜生も、外道等も一人も漏れず皆悉く妄想の僻目僻思立所に散止して、本覚の寤に還て皆仏道を成ず。仏は寤の人の如く衆生は夢見る人の如し。故に生死の虚夢を醒して本覚の寤に還るを、即身成仏とも平等大恵とも無分別法とも皆成仏道とも云う。只一の法門なり。十方の仏土は区に分れたりと雖も通じて法は一乗なり。方便なきが故に無分別法なり。十界の衆生は品品に異なりと雖も実相の理は一なるが故に無分別なり。百界、千如、三千世間の法門殊なりと雖も十界互に具するが故に無分別なり。夢と寤と虚と実と各別異なりと雖も一心の中の法なるが故に無分別なり。過去と未来と現在とは三なりと雖も一念の心中の理なれば無分別なり。一切経の語は、夢中の語とは譬へば扇と樹との如し。法華経の寤の心を顕す言とは譬へば月と風との如し。故に本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照し、実相般若の智恵の風は妄想の塵を払う。故に夢の語の扇と樹とを以て寤の心の月と風とを知らしむ。是故に夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり。故に止観に云く「月重山に隠るれば扇を挙て之を類し、風大虚に息ぬれば樹を動して之を訓ゆるが如し」文。弘決に云く「真常性の月煩悩の山に隠る。煩悩一に非ず故に名けて重と為す。円音の教風は化を息て寂に帰す、寂理無礙なること猶大虚の如し。四依の弘教は扇と樹との如し(乃至)月と風とを比知するなり」文。「夢中の煩悩の雲重畳せること山の如く其数八万四十の塵労にて、心性本覚の月輪を隠す。扇と樹との如くなる経論の文字、言語の教を以て月と風との如くなる本覚の理を覚知せしむる聖教なり。故に文と語とは扇と樹との如し」文。上の釈は一住の釈とて実義に非ざるなり。月の如くなる妙法の心性の月輪と、風の如くなる我心の般若の恵解とを訓え知らしむるを妙法蓮華経と名く。故に釈籤に云く「声色の近名を尋ねて無相の極理に至ると」文。声色の近名とは扇と樹との如くなる夢中の一切の経論の言説なり。無相の極理とは月と風との如くなる寤の我身の心性の寂光の極楽なり。此極楽とは十方法界の正報の有情と、十方法界の依報の国土と和合して一体三身即一なり、四土不二にして法身の一仏なり、十界を身と為るは法身なり、十界を心と為るは報身なり、十界を形と為るは応身なり、十界の外に仏なし、仏の外に十界無くして依正不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるを以て寂光土と云う。是故に無相の極理とは云うなり。生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり。法性の淵底、玄宗の極地なり。故に極理と云う。此無相の極理なる寂光の極楽は一切有情の心性の中に在て清浄無漏なり、之を名けて妙法の心蓮台とは云うなり。是故に心外無別法と云う。此を一切法は皆是仏法なりと通達解了すとは云うなり、生と死と二の理は生死の夢の理なり、妄想なり転倒なり。本覚の寤を以て我心性を糾せば、生ず可き始めも無きが故に死すべき終りも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず水災にも朽ちず、剣刀にも切られず弓箭にも射られず。芥子の中に入るれども芥子も広からず、心法をも縮めず。虚空の中に満れども虚空も広からず、心法も狭からず。善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う。故に心の外に善なく悪なし。此善と悪とを離るゝを無記と云うなり。善悪無記此外には心無く心の外には法無し。故に善悪も浄穢も凡夫、聖人も大地も大小も東西も、南北も四維も上下も言語道断し心行所滅す。心に分別して思い言い顕す言語なれば心の外に分別も無し、言と云うは心の思を響かして声に顕すを云うなり。凡夫は我心に迷うて知らず覚えらざるなり。仏は之を悟り顕し給うを神通と名くるなり。神通とは神の一切の法に通じて礙り無きなり。此自在の神通は一切の有情の心にて有るなり。故に孤狸も分分に通を現ずる事、皆心の神の分分の悟なり。此心の一法より国土世間も出来する事なり。一代聖教とは此事を説きたるなり。此を八万四千の法蔵とは云うなり。是皆悉く一人の身中の法門にて有るなり。然れば八万四千の法蔵は我身一人の日記文書なり。此の八万法蔵を我身中に孕み持ち懐き持ちたり。我が身中の心を以て仏と法と浄土とを我身より外に思い願い求むるを迷とは云うなり。此の心が善悪の縁に値いて善悪の法をば造り出せるなり。華厳経に云く「心如工画師造種種五陰、一切世間中無法而不造。如心仏亦爾如仏衆生然、三界唯一心心外無別法、心仏及衆生是三無差別」文。無量義経に云く「従無相不相一法出生無量義」文。無相不相の一法とは一切衆生の一念の心是なり、文句(文会五ノ五十四)に釈して云く「生滅無常の相なきが故に無相と云うなり。二乗の有余、無余の二つの涅槃の相を離るゝが故に不相と云うなり」云云。心の不思議を以て経論の詮要とするなり。此の心を悟り知るを名けて如来と云う。之を悟り知っての後は、十界は我身なり我心なり我が形なり、本覚の如来は我身心なるが故なり。之を知らざる時を名けて無明と為す、無明は明らかなることなしと読むなり。是れ我心の有様を明かに覚らざるなり。之を悟り知る時を名けて法性と云う。故に無明と法性とは一心の異名なり。名言は二なりと雖も心は只一つ心なり。斯に由て無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば、寤の心を失うべきが故に、総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に一切の法は皆是仏法なりと云うなり。法華経に云く「如是相一切衆生の相好。本覚の応身如来。如是性一生衆生の心性。本覚の報身如来。如是体一切衆生の身体。本覚の法身如来。」。此三如是より後の七如是出生して合して十如是となれるなり。此十如是は十法界なり。此十法界は一人の心より出で八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なる事是の如し。三世の諸仏の総勘文にして御判慥に印る正本の文書なり。仏の御判とは実相の一印なり。印とは判の異名なり。余の一切の経には実相の印なければ正本の文書に非ず。全く実の仏なし、実の仏無きが故に夢中の文書なり。浄土に無きが故なり。十法界は十なれども十如是は一なり。譬へば水中の月は無量なりと雖も虚空の月は一なるが如し。九法界の十如是は夢中の十如是なるが故に水中の月の如し。仏法界の十如是は本覚の寤の十如是なれば虚空の月の如し、是故に仏界の一の十如是顕れぬれば、九法界の十如是の水中の月の如くなるも一も闕減なく、同時に皆顕れて体と用と一具にして一体の仏となる。十法界を互に具足して平等なる十界の衆生なれば、虚空の本月も水中の末月も一人の身中に具足して闕る事無し。故に十如是は本末究竟して等しく差別なし。本とは衆生の十如是なり、末とは諸仏の十如是なり。諸仏は衆生の一念の心より顕れ給えば、衆生は是本なり諸仏ほ是末なり。然るを経に「今三界皆是我有、其中衆生悉是吾子」文と云うは、仏成道の後に化佗の為の故に迹の成道を唱えて、生死の夢中にして本覚の寤を説き給うなり。知恵を父に譬え愚痴を子に譬えて是の如く説き給えるなり。衆生は本覚の十如是なりと雖も、一念の無明眠の如く心を覆うて生死の夢に入て本覚の理を忘れ、髪筋を切る程に過去、現在、未来の三世の虚夢を見るなり。仏は寤の人の如くなれば生死の夢に入て衆生を驚かし給える知恵は夢の中にての父母の如く、夢の中なる我等は子息の如くなり。此道理を以て悉是吾子と言い給うなり。此理を思い解けば諸仏と我等とは本の故にも父子なり末の故にも父子なり、父子の天性は本末是同じ。斯に由って己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に、生死の夢を覚して本覚の寤に還るを即身成仏と云うなり。即身成仏は今我身の上の天性、地体なり。煩も無く障もなき衆生の運命なり、果報なり冥加なり。夫れ以れば夢の時の心を迷に譬え、寤の時の心を悟に譬う。之を以て一代聖教を覚悟するに跡形も無き虚夢を見て心を苦め、汗水と成って驚きぬれば我身も家も臥所も一所にて異ならず、夢の虚と寤の実との二事を目にも見心にも思えども所も只一所なり。身も只一身にて二の虚と実との事あり。之を以て知んぬべし。九界生死の夢みる我心も仏界常住の寤の心も異ならず。九界生死の夢みる所が仏界常住の寤の所にて変らず。心法も替らず在所も差わざれども、夢は皆虚事なり寤は皆実事なり。止観(止会五三ノ四十三)に云く「昔荘周というものあり。夢に胡蝶と成って一百年を経たり。苦は多く楽は少く、汗水と成って驚きぬれば胡蝶にも成らず、百年も経ず、苦もなく楽もなく、皆虚事なり皆妄想なり」巳上取意。弘決に云く「無明は夢の蝶の如く、三千は百年の如し。一念実無きこと猶蝶に非ざるが如く、三千も亦無きこと年を積むに非ざるが如し」文。此釈は即身成仏の証拠なり。夢に蝶と成る時も荘周は異ならず。寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周なし。我身を生死の凡夫なりと思う時は夢に蝶と成るが如く僻目僻思なり。我身は本覚の如来なりと思う時は本の荘周なるが如し、即身成仏なり。蝶の身を以て成仏すと云うに非ざるなり。蝶と思うは虚事なれば成仏の言なし、沙汰の外の事なり。無明は夢の蝶の如しと判じつれば、我等が僻思は猶し昨日の夢の如く性体無き妄想なり。誰の人か虚夢の生死を信受して疑を常住涅槃の仏性に生ぜんや。止観(止観五四ノ七)に云く「無明の痴惑本是法性、痴迷を以ての故に法性変じて無明と作り、諸の顛倒の善、不善等を起す。寒来って水を結んで変じて堅冰と作るが如く、又眠来って心を変じて種々の夢有るが如し。今当に諸の顛倒は即ち是法性なり。一ならず異ならずと体すべし。顛倒起滅すと雖も旋火輪の如し。顛倒の起滅を信ぜずして唯此の心但だ是法性と信ず。起は是法性の起、滅は是法性の滅なり。其を体するに実に起滅せざるを妄りに起滅すと謂えり。只妄想を指すに悉く是法性なり。法性を以て法性に架け、法性を以て法性を念ず。常に是法性なり、法性ならざる時なし」文。是の如く法性ならざる時の隙も無き理の法性に、夢の蝶の如くな無明に於て実有の思を生じて之に迷うなり。止観の九(止会九三の四十二)に云く「譬へば眠の法、心を覆うて一念の中に無量の世事を夢みるが如し。乃至寂滅真如には何の次位か有らん。乃至一切衆生即大涅槃なり。復滅すべからず、何の次位高下、大小有らんや。不性不性不可説、因縁あるが故に亦説くことを得べし。十因縁の法、生の為に因と作る、虚空に画き方便して樹を種るが如し。一切の位を説くのみ」文。十法界の依報、正報は法身の仏一体三身の徳なりと知って、一切の法は皆是仏法なりと通達し解了する、是を名字即と為く。名字即の位より即身成仏す。故に円頓の教には次位の次第なし。故に玄義(玄会五上ノ三十二)に云く「末代の学者多く経論の方便の断伏を執じて諍闘す。水の性の冷かなるが如き飲まずんば安ぞ知らん」文。天台の判に云く「次位の網目は仁王、瓔珞に依り、断伏の高下は大品、智論に依る」文。仁王、瓔珞、大品、大智度論、是経論は皆法華已前の八教の経論なり。権教の行は無量劫を経て昇進する次位なれば位の次第を説けり。今法華は八経に虚えたる円なれば速疾頓成にして、心と仏と衆生と此三は我一念の心中に摂めて、心の外に無しと観ずれば下根の行者すら尚一生の中に妙覚の位に入る。一と多と相即すれば一位に一切の位皆是具足せり。故に一生に入るなり。下根すら是の如し、況や中根の者をや。何に況や上根をや。実相の外に更に別の法無し、実相には次第なきが故に位無し。総じて一代聖教は一人の法なれば、我身の本体を能能知るべし。之を悟るを仏と云い、此は華厳経の文の意なり。弘決の六(弘会六二ノ四十五)に云く「此身の中に具に天地に倣うことを知る。頭の円なるは天に像り、足の方なるは地に像る、身内の空種なるは即ち是虚空なり。腹の暖かなるは春夏に法り、背の剛きは秋冬に法り、四体は四時に法り、大節の十二は十二月に法り、小節の三百六十は三百六十日に法り、鼻の息の出入は山沢渓谷の中の風に法り、口の息の出入は虚空の中の風に法り、眼は日月に法り、開閉は画夜に法り、髪は星辰に法り、眉は北斗に法り、脈は江河に法り、骨は玉石に法り、皮肉は地上に法り、毛は叢林に法り、五臓は天に在っては五星に法り、地に在っては五岳に法り、陰陽に在っては五行に法り、世に在っては五常に法り、内に在っては五神に法り。行を修するには五徳に法り、罪を治するには五刑に法ることを知る。謂く、墨(いれずみ)、?(はなきる)、?(あしきる)、宮(かくしどころきる)、大辟(くびきる)。此五刑は人を様様に之を傷ましむ。其数三千の罰有り、此を五刑という。主領には五官と為す。五官は下の第八の巻に博物誌を引くが如し。謂く苟萠等なり。天に昇りては五雲と曰い化して五龍と為る。心を朱雀と為し、腎を玄武と為し、肝を青龍と為し、肺を白虎と為し脾を勾陳と為す。又云く、五音、五明、六芸皆此より起る、亦復当に内治の法を識るべし。覚心内に大王となっては百重の内に居り、出でゝは即ち五官に侍衛せらる。肺をば司馬となし、肝をば司徒となし、脾をば司空となし、四支をば民子となし、左をば司命と為し、右をば司録となし、人命を主司す、乃至臍をば太一君等と為すと。禅門の中に広く其相を明す」文。人身の本体委く検すれば是の如し。然るに此金剛不壞の身を以て生滅無常の身なりと思う僻思いは、譬へば荘周が夢の蝶の如しと釈し給えるなり。五行とは地水火風空なり。五大種とも五蘊とも五戒とも五常とも五方とも五智とも五時とも云う。只一物にて経経の異説なり。内典、外典の名目の異名なり。今経に之を開いて一切衆生の心中の五仏性、五智の如来の種子と説けり。是即ち妙法蓮華経の五字なり。此五字を以て人身の体を造るなり。本有常住なり。本覚の如来なり。是を十如是と云う。是を唯仏輿仏乃能究尽と云う。不退の菩薩と極果の二乗と少分も知らざる法門なり。然るを円頓の凡夫は初心より之を知る故に即身成仏するなり。金剛不壞の体なり。是を以て明かに知んぬべし。天崩れば我身も崩るべし。地裂けば我身も裂くべし。地水火風滅亡せば我身も亦滅亡すべし。然るに此五大種は過去、現在、未来の三世は替ると雖も、五大種は替ること無し。正法と像法と末法との三時殊なりと雖も、五大種は是一にして盛衰転変なし。薬草喩品の疏(文会十八之三十二)には円教の理は大地なり。円頓の教は空の雨なり。又蔵通別の三教は三草と二木となり。其故は此草木は円理の大地より生じて、円教の空の雨に養はれて五乗の草木は栄れども、天地に依て我栄えたりと思ひ知らざるに由るが故に、三教の人天、二乗、菩薩をぱ草木に譬へて説くなり不知恩の故に草木の名を得たり。今法華に始めて五乗の草木は円理の母と円教の父とを知るなリ。一地の所生なれぱ父の恩を知るが如く、一雨の所潤なれば父の恩を知るが如し。薬草喩品の意是の如くなり。釈迦如来五百塵天劫の当初凡夫にて御座せし時、我身は地水火風空なりと知て即座に悟を門き給ひき。後に化佗の為に世世番番に出世成道し、在在処処に八相作仏し王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らせて、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す。其の後方便の諸の経教を捨てゝ、正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して、其中に四十余年の方便の諸経を丸かし納れて、一仏乗と丸し人一の法と名く。一人が上の法なり。他人の綺えざる正しき文書を造りて慥なる御判の印あり。三世諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に、三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に満ち塞がれる若干の菩薩達の頂を摩で尽して、時を指して末法近来の我等衆生の為に慥に此由を説き聞かせて、仏の譲状を以て末代の衆生に慥に授与すべしと、慇懃に三度まで同じ御語に時給ひしかば、若干の菩薩達各々数を尽して身を曲げ頭を低れ、三度まで同じ言に各々我も劣らじと事請を申し給ひしかば、仏心安くをぼしめして本覚の都に還り給ふ。三世諸仏の説法の儀式、作法には、只同じ御言に時を指たる末代の譲状なれぱ、只一向に後五百歳を指して此妙法蓮華経を以て成仏すべき時なりと、譲状の表に載せたる手継経文なり。安楽行品には末法に入て近来初心の凡夫、法華経を修行して成仏すべき様を説き置かれしなり。身も安楽行、口も安楽行、意も安楽行なる自行の三業も、誓願安楽の化他の行も同じく「於後末世法欲滅時」と云云。此は近来の時なり、已上四所に有り。薬王品には二所に説かれ勧発品には三所に説かれたり。皆近来を指して譲り置かれたる正しき文書を用ひずして、凡夫の言に付き愚痴の心に任せて三世諸仏の譲状に背き奉り、永く仏法に背かば三世の諸仏、何に本意無く口惜しく心憂く歎き悲みをぼしめすらん。涅槃経に云く「依法不依人」云云。痛しい哉悲しい哉。末代の学者仏法を習学して還つて仏法を滅す。弘決(弘会一、五之二)に之を悲しんで曰く「此の円頓を聞いて崇重せざるものは、良に近代大乗を習ふ者の雑濫するに由るが故なり。況や像、末情澆く信心寡薄、円頓の教法蔵に溢れ函に盈れども暫くも思惟せず、使ち瞑目に至る。徒らに生じ徒らに死す。一に何ぞ痛しき哉」文。同四(弘会四、四之二十)に云く「然るに円頓の教は本凡夫に被らしむ。若し凡に益するに擬せずんぱ仏何ぞ自ら法性の土に住して、渋性の身を以て諸の菩薩の為に此の円頓を説かざる、何ぞ諸の法身の菩薩のために凡身を示して、此の三界に現ずることを須ひんや。乃至一心凡に在つて即ち修習すべし」文。所詮己身と仏身と一なりと観ずれば速に仏に成るなり。故に弘決(弘会二、一之三十一)に又云く「一切の諸仏は己心は仏心に異ならずと観ずるに由るが故に成仏することを得」文。此を観心と云ふは、実に己心と仏心と一心なりと悟れぱ臨終を礙はるべき悪業もあるまじ。生死に留まるべき妄念もあるまじ。一切の法は皆是仏法なりと知ぬれば教訓すべき善知識も入るべからず。思ふと思ひ、言ふと言ひ、為すと為し、儀ひと儀ふ。行、住、座臥の四威儀の所作は、皆仏の御心と和合して一体なれば、過も無く障もなき自在の身となる。此を自行と云ふなり。此の如く白在なる自行の行を拾て、跡行もあるまじき無明、妄想なる僻思の心に住して、三世の諸仏の教訓に背き奉れば冥きより冥きに人り、永く仏法に背くこと悲しむべく悲しむべし。只今こそ打返し思ひ直して悟りぬれば返て即身成仏は我身の外には無しと知りぬれ。我心の鏡と仏の心の鏡とは只一鏡なりと雖も、我等は裏に向つて我性の理を見ず、故に無明と云ふ。如来は面に向つて我性の理を見給へり。故に明と無明とは其体只一なり、鏡は一の鏡なりと雖も向ひ様に依つて明昧の差別あり。鏡に裏ありと雖も面の障りとは成らず。只向ひ様に依つて得失の二あり。相即融通して一法の二義なり。化化の法門は他鏡の裏に向ふが如し。化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我心性の鏡は只一にして替ることなし。鏡をば即身に譬へ、面に向ふをば成仏に譬へ、裏に向ふをぱ衆生に譬へ、鏡に裏あるをば性悪を断ぜざるに譬へ、裏に向ふ時に面の徳無きをば化佗の功徳に譬ふるなり。衆生の仏性の顕れざるに譬ふるなり。自行と化佗とは得失の力用なり。玄義の一(玄会一上ニ十)に云く「薩婆悉達、祖王の弓を彎て満るを名けて力と為す。七つの鉄鼓に中り、一つの鉄囲山を貫き、地を洞し水輪に徹するが如き、名けて用と為す自行のカ用なり。諸の方便教は力用の微弱なること凡人の弓箭の如し。何んとなれば昔の縁は化佗のニ智を禀て理を照すこと遍からず、信を生ずること深からず、疑を除くこと尽さず、已上化佗。今の縁は自行の二智を禀て仏の境界を極め、法界の信を越し円妙の道を増し、根本の惑を断じ曳易の生変を損ず。但だ生身及び生身得忍の両種の菩薩のみ倶に益するのみに非ず、法身と法身の後心との両種の菩薩も亦以て倶に益す。化の功広大に利澗弘深なる蓋し此の経の力用なり、已上化佗。自行と化佗との力用勝劣分明なること勿論なり。能能之を見よ。一代聖教を鏡に懸たる経相なり。極仏境界とは十如是の法門なり。十界互に其足して十具界十如の因果、権実の二智、二境は我身の中に有って、一人も漏るゝことなしと通達し解了して仏語を悟り極るなり。起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し、十法界を形と為し給へる本覚の如来は、我が身の中に増しましけりと信ず。増円妙道とは自行と化佗との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は、只一の珠の徳なるが如し。片時も相離れず仏法に不足なし、一生の中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり。断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば、生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形もなきなり。損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人、彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間、因移果易して次第に進み昇り劫数を経て、成仏の待遠なるを変易の生死と云ふなり。下位を拾つるをば死と云ひ上化に位進むをば生と云ふ。是の如く変易する生死は浄土の苦悩にてあるなり。爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれぱ、十界互具、法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損じ、仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促て仏道を成ず。故に生身及び生身得忍の菩薩の増道損生するなり。法身菩薩とは生身を拾てゝ実報土に居するなり。後心菩薩とは等覚の菩薩なリ。但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり。木門には法身と後身との菩薩を利益す。但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す。故に凡夫の我等穢土の修行の行力を以て、浄土の十地、等覚の菩薩を利益する行なるが故に化の功広大なり、化他の徳用。利澗弘深とは自行の徳用、円頓の行者は自行と化佗と一法をも漏さず一念に具足して、横に十方法界に遍するが故に弘きなリ。豎には三世に亙つて法性の淵底を極むるが故に深きなり。此経の自行の力用是の如し。化佗の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばんとするが如し、故に成仏の人もなし。今法華経は自行、化佗の二行を開会して具せざること無きが故に、鳥の二つの翼を以て飛ぷに障りなきが如く、成仏滞りなし、薬王品には十喩を以て自行と化佗との力用の勝劣を判ぜり。第一の譬に云く、諸経は諸水の如く法華は大海の如し云云、取意。実に自行の法華経の大海には化佗の諸経の衆水を入るゝこと昼夜に絶えず。入ると雖も増ぜず減ぜず不可思議の徳用を顕す。諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納むることなし自行と化佗との勝劣是の如し。一を以て諸を例せよ。上来の譬喩は皆仏の所説なり。人の語を入れず。此旨を意得れば一代聖教鏡に懸けて陰りなし、此文釈を見て誰の人か迷惑せんや。三世の諸仏の総勘文なり。敢て人の会釈を引き入るべからず。三世諸仏の出世の本懐なり。一切衆生成仏の直道なり。四十二年の化佗の経を以て立つる所の宗宗は、華厳、真言、達磨、浄土、法相、三論、律宗、倶舎、成実等の諸宗なり。此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり。皆是方便なり、兼、但、対、帯の方便誘引なり。三世諸仏の説教の次第なり。此次第を糾して法門を談ずべきなり。若し次第を違はゞ仏法に非ざるなり。一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違へず、我も亦是の如しとて、経に云く「如三世諸仏説法之儀式我今亦如是説無分別法」文。若し之に違へば永く三世の諸仏の本意に背く。佗宗の祖師各々我が衆を立てゝ法華宗と争ふこと、誤の中の誤り迷の中の迷ひなり。徴佗学の決(授決集下四十四)に之と破して云く、山王院「几そ八万法蔵、共行相を統るに四教を出でず。頭辺に示すが如く蔵、通、別、円は即ち声門、縁覚、菩薩、仏乗なり。真言、禅門、華厳、三論、唯識、律業、成具三諭等の能と所と教と理とは争か此四を過ぎん。若し過ぐと言はゞ豈に外邪に非ずや。若し山でずと言はゞ便ち佗の所期を問ひ得よ、即ち四条の果なり。然して後に答に随つて推徴して理を極めよ。我が四教の行相を以て並べ検へて彼の所期の果を決定せよ。若し我と違はゞ随つて即ち之を詰めよ。且らく華厳の五教の如き各各に修因向果あり。初、中、後の行一ならず、一教一果是れ所期なるべし。若し蔵、通、別、円の因と果とに非ずんぱ、是れ仏教ならざるのみ。三種の法輪、三時の教等、中に就て定むべし。汝何者を以てか所期の乗とする。若し仏乗なりと言はゞ未だ成仏の観行を見ず。若し菩薩と言はゞ此亦即離の中道の異なりあるなり。汝正く何れをか取る。設離の辺を取らば果として成ずべきなし。如即是を要せば仏に例して之を難ぜよ、誤つて真言を誦すとも三観一心の妙趣に会せずんぱ、恐らくは歴別の人に同じて妙理を証せじ。所以に他の所期の極に遂ひて理に準じて、我宗の理なり、徴すべし。因明の道理は外道と対す、多くは小乗及以別教に在り。若し法華、華厳、涅槃等の経に望むれば是れ接引門なり。権に機に対して設けたり、終に以て引進するなり。邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり。所以に論ずる時は、四依撃目の志を存して之を執着すること莫れ。又須らく佗の義を将て自義を対検して随つて是非を決すべし。執して之を怨むこと莫れ、大底他は多く三教にあり。円旨至つて少き耳。先徳、大師の所判是の如し。諸宗の所立鏡に懸て陰りなし。末代の学者何ぞ之を見ずして妄に教教門を判ぜんや。大綱の三教を能能学すべし。頓(空)と漸(仮)と円(中)との三教なり。是一代聖教の総の三諦なり。頓漸のニは四十二年の説なり、円教の一は八箇年の説なり、合して五十年なり。此外に法なし、何に由てか之に迷はん。衆生にある時には此を三諦と云ひ、仏果を成ずる時には此を三身と云ふ、一物の異名なり。之を説き顕すを一代聖教と云ふ。之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す。此を開会と云ひ此を自行と云ふ。又佗宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す。各各に宗を立つるに円満の理闕て成仏の理なし。是の故に余宗は実仏なきなり。故に之を嫌ふ、意は不足を嫌ふなり。円教を取つて一切諸法を観ずれぱ円融円満して十五夜の月の如く、不足なくして満足し究竟すれぱ、善悪をも嫌はず折節をも選ばず、静処をも求めず人品をも択ぱず、一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば、諸法を通達し非道を行ふとも即ち仏道を成ずるが故なり、天(妙)地(法)水(蓮)火(華)風(経)は是五智の如来なり。一初衆生の身心の中に住在して、片時も離るゝことなきが故に世間と出世と和合して心中にあつて、心外には全く別の法なきなり。故に之を聞く時立ち所に速かに仏果を成ずること滞なき道理至極するなり。総の三諦とは譬へば珠(中)と光(空)と宝(仮)との此三諦あるに由て如意宝珠と云ふが如し。故に総の三諦に譬ふ。若し亦珠の三徳を別別に取り放てば何の用にも叶ふ可からず。隔別の方使教の宗宗も亦是の如し。珠をぱ法身に譬へ、光をば報身に譬へ、実をば応身に譬ふ。此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌ふなり、之を丸して一と為すを総の三諦と云ふ。此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。又寂光をぱ鏡に譬へ、同居と方便と実報の三土をば鏡に遷る像に譬ふ。四土も一土なり。三身も一仏なり。今は此の三身と四土と和合して仏の一体の徳なるを寂光の仏と云ふ。寂光の仏を以て円教の仏と為し、円教の仏を以て寤の実仏と為す。余の三土の仏は夢中の権仏なり。此は三世の諸仏の只同じ語に勘文し給へる総の教相なれば、人の語も入るまじ会釈もあるまじ。若し之に違はゞ三世の諸仏に背き奉る大罪の人々なり、天魔外道なり。永く仏法に背くが故に之を秘蔵して佗人には見せざれ。若し秘蔵せずして妄りに之を披露せば、仏法に証理なくして二世の冥加なからん。謗する人出来せば三世の諸仏に背くが故に、二人乍ら倶に悪道に堕ちなんと識るが故に之を戒むるなり。能能秘蔵して深く此理を証し三世諸仏の御本意に相叶ひニ聖、二天、十羅刹の擁護を蒙り、滞りなく上上品の寂光の往生を遂げ、須臾の間に九界生死の夢の中に還り来つて、身を十方法界の国土に遍じ、心を一切有情の身中に入れて、内よりは観発し外よりは引導し内外相応し因縁和合して、自在神通の慈悲の力を施し広く衆生を利益すること滞りあるべからず。三世の諸仏は此を一大事の因縁とおぼしめして世間に出現し給へり。一とは、中道なり法華なり。大とは、空諦なり華厳なり。事とは、暇諦なり阿含と方等と般若となり。已上一代の総の三諦なり。之を悟り知る時仏果を成ずるが故に出世の本懐、成仏の直道なり。因とは一切衆生の身中に総の三諦あつて常仕不変なり。此を総じて因と云ふなり。縁とは三因仏性は有りと雖も、善知識の縁に値はざれば悟らず、知らず、顕れず。善知識の縁に値へば必ず顕るゝか故に縁と云ふなり。然るに今此の一と大と事と因と縁との五事和合して、値ひ難き善知識の縁に値ひて五仏性を顕さんこと何の滞りかあらんや。春の時来つて風雨の縁に値ひぬれぱ、無心の草木も皆悉く萌え出生して、華敷き栄へて世に値ふ気色なり。秋の時に至つて月光の縁に値ひぬれば、草木皆悉く実成熟して一切の有情を養育し、寿命を続き長養し、終に成仏の徳用を顕す。之を疑ひ之を信ぜざる人あるべけんや。無心の草木すら猶以て是の如し、何に況や人倫に於てをや。我等は迷の几夫なりと雖も一分の心もあり解もあり、善悪を分別し折節を思い知る。然るに宿縁に催されて生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値ひなば因果を分別して、成仏すべき身を以て、善知識の縁に値ふと雖も猶草木にも劣りて、身中の三因仏性を顕さずして黙止せる言あるべきや。此度必ず必ず生死の夢を覚し、本覚の寤に還つて生死の紲を切るべし。今より已後は夢中の法門を心に懸くべからざるなり。三世の諸仏と一心と和合して、妙法蓮華経を修行し、障りなく開悟すべし。自行と化佗との二教の差別は鏡に懸て陰りなし。三世諸仏の勘文是の如し。秘すべし秘すべし。
 弘安二年己卯十月 日
                    日蓮花押
(啓二五ノ三五。鈔一五ノ一。註一五ノ三六。語二ノ五七。拾三ノ三三。扶九ノニ七。音下ノ一五。)#0349-300 持妙尼御前御返事(妙心尼御前御返事)弘安二(1279.11・02)
持妙尼御前御返事(第四書)(報妙心尼書)
     弘安二年十一月。五十八歳作。
     外九ノ一四。遺二七ノ一七。縮一八七九。類一〇八四。 御そう(僧)、ぜんれう(膳料)送り給畢ぬ。すでに故入道殿のかくるる日にておはしける歟。とかうまぎれ候けるほどにうちわすれて候ける也。よもそれにはわすれ給はじ、蘇武と申せしつわものは漢王の御使に胡国と申す国に入りて十九年、め(妻)もおとこ(夫)をはなれ、おとこもわするる事なし。あまりのこひし(恋)さにおとこの衣を秋ごとにきぬた(碪)のうへにてうちけるが、おもひやとをり(通)てゆきにけん、おとこのみゝ(耳)にきこへけり。ちんし(陳子)というしものは、めおとこはなれ(夫婦別)けるに、かがみ(鏡)をわりてひとつづつとりにけり。わするる時は鳥いでて告げけり。さうし(相思)といいしものはおとこをこひてはか(墓)にいたりて木となりぬ。相思樹と申すはこの木也。大唐へわたるにしが(志賀)の明神と申す神をはす(御座)。おとこのもろこし(唐)へゆきしをこひて神となれり。しま(島)のすがたおうな(女)ににたり。まつら(松浦)さよひめ(佐保姫)といふ是也。いにしへよりいまにいたるまでをやこ(親子)のわかれ、主従のわかれいづれかつらからざる。されどもおとこをんな(男女)のわかれほど、たとへなかりけるはなし。過去遠遠より女の身となりしが、このおとこ娑婆最後のぜんちしき(善知識)なりけり。ちりしはな(散花)、をちしこのみ(落果実)もさきむすぶ、などかは人の返らざるらむ。こぞ(去年)もうく(憂)ことしも(今年)つらき月日かな。おもひはいつもはれぬものゆへ、法華経の題目をとなへまいらせ(進)て、まいらせ。
   十一月二日                     日蓮花押 
    持妙尼御前御返事
(微上ノ二〇。考四ノ四。)