三三蔵祈雨事

建治元年(1275.06・22) 真筆あり

 夫れ木をうへ候には、大風ふき候へども、つよきすけ(扶介)をかひぬればたうれず。本より生て候木なれども、根の弱きはたうれぬ。甲斐無き者なれども、たすくる者強ければたうれず。そこし健の者も独りなれば悪きみちにはたうれぬ。又、三千大千世界のなかには舎利弗・迦葉尊者をのぞいては、仏よ(世)にいで給はずば、一人もなく三悪道に堕つべかりしが、仏をたのみまいらせし強縁によりて、一切衆生はをほく仏になりしなり。まして阿闍世王・あうくつまら(鴦堀摩羅)なんど申せし悪人どもは、いかにもかなうまじくて必ず阿鼻地獄に堕つべかりしかども、教主釈尊と申す大人にゆきあはせ給ひてこそ仏にはならせ給ひしか。
 されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わが智慧なにかせん。ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たいせちなり。而るに善知識に値ふ事が第一のかたき事なり。されば仏は善知識に値ふ事をば一眼のかめの浮木に入り、梵天よりいとを下げて大地のはりのめに入るにたとへ給へり。
 而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく、善知識は爪上の土よりもすくなし。補陀落山の観世音菩薩は善財童子の善知識、別円二教ををしへていまだ純円ならず。常啼菩薩は身をう(賣)て善知識を求めしに、曇無竭菩薩にあへり。通別円の三教をならひて、法華経ををしへず。舎利弗は金師が善知識、九十日と申せしかば闡提の人となしたりき。ふるな(富楼那)は一夏の説法に大城の機を小乗の人となす。大聖すら法華経をゆるされず、証果のらかん(羅漢)機をしらず。末代悪世の学者等をば此れをもつてすひしぬべし。天を地といゐ、火を水とをしへ、星は月にすぐれたり、ありづかは須弥山にこへたり、なんど申す人々を信じて候はん人々はならわざらん(不習)悪人にはるかをとりてあしかりぬべし。
 日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。而るに去る文永五年の比、東には俘囚をこり、西には蒙古よりせめつかひ(責使)つきぬ。
 日蓮案じて云く 仏法を信ぜざればなり。定んで調伏ををきなわれずらん。調伏は又真言宗にてぞあらんずらん。月氏・漢土・日本三箇国の間に且く月氏はをく。漢土・日本の二国は真言宗にやぶらるべし。
 善無畏三蔵、漢土に互りてありし時は、唐の玄宗の時なり。大旱魃ありしに祈雨の法ををほせつけられて候ひしに、大雨ふらせて上一人より下万民にいたるまで大に悦びし程に、須臾ありて大風吹き来りて国土をふきやぶりしかば、けを(興)さめてありしなり。又、其の世に金剛智三蔵わたる。又雨の御いのりありしかば、七日が内に大雨下り、上のごとく悦んでありし程に、前代未聞の大風吹きしかば、真言宗はをそろしき悪法なりとて月支へをわ(追)れしが、とかうしてとどまりぬ。又、同じ御世に不空三蔵雨をいのりし程、三日が内に大雨下る。悦ぶことさきのごとし。又大風吹きてさき二度よりもをびただし、数十日とどまらず。不可思議の事にてありしなり。此れは日本国の智者愚者一人もしらぬ事なり。
 しらんとをもわば、日蓮が生きてある時くはしくたづねならへ。日本国には天長元年二月に大旱魃あり。弘法大師は神泉苑にして祈雨あるべきにてありし程に、守敏と申せし人すゝんで云く 弘法は下臈なり。我は上臈なり。まづをほせをかほるべしと申す。こう(請)に随ひて守敏をこなう。七日と申すには大雨下る。しかれども京中計りにて田舎にふらず。弘法にをほせつけられてありしかば、七日にふらず、二七日にふらず、三七日にふらざりしかば、天子我といのりて雨をふらせ給ひき。而るを東寺の門人等、我が師の雨とがうす。くはしくは日記をひいて習ふべし。
 天下第一のわうわく(誑惑)あるなり。これより外に弘仁九年の春のえきれい、又三古(鈷)をなげたる事に不可思議の誑惑あり、口伝すべし。
 天台大師は陳の世に大旱魃あり、法華経をよみて須臾に雨下り王臣かうべをかたぶけ、万民たなごころをあはせたり。しかも大雨にもあらず、風もふかず、甘雨にてありしかば、陳王大師の御前にをはしまして、内裏へかへらんことをわすれ給ひき。此の時、三度の礼拝ありしなり。
 去る弘仁九年の春の大旱魃ありき。嵯峨の天皇、真綱と申す下臣をもつて冬嗣のとり申されしかば、法華経・金光明経・仁王経をもつて伝教大師祈雨ありき。三日と申せし日、ほそきくも(細雲)、ほそきあめ(微雨)しづしづと下りしかば、天子あまりによろこばせ給ひて、日本第一のかたこと(難事)たりし大乗の戒壇はゆるされしなり。伝教大師の御師、護命と申せし聖人は南都第一の僧なり。四十人の御弟子あひぐして仁王経をもつて祈雨ありしが、五日と申せしに雨下りぬ。五日はいみじき事なれども、三日にはをとりて而も雨あらかりしかば、まけにならせ給ひぬ。此れをもつて弘法の雨をばすひせさせ給ふべし。
 かく法華経はめでたく、真言はをろかに候に、日本のほろぶべきにや、一向真言にてあるなり。隠岐の法王の事をもつてをもうに、真言をもつて蒙古とえぞ(俘囚)とをでうぶく(調伏)せば、日本国やまけんずらんとすひせしゆへに、此の事いのちをすてていゐてみんとをもひしなり。いゐし時はでしら(弟子等)せい(制)せしかども、いまはあひ(合)ぬれば心よかるべきにや。
 漢土・日本の智者五百余年が間一人もしらぬ事をかんがへて候なり。善無畏・金剛智・不空等の祈雨に雨は下りて而も大風のそひ候は、いかにか心へさせ給ふべし。外道の法なれども、いうにかひなき道士の法にも雨下る事あり。まして仏法は小乗なりとも、法のごとく行ふならば、いかでか雨下らざるべき。いわうや大日経は華厳・般若にこそおよばねども、阿含にはすこしまさりて候ぞかし。いかでかいのらんに雨下らざるべき。
 されば雨は下りて候へども、大風のそいぬるは大なる僻事のかの法の中にまじわれるなるべし。弘法大師の三七日に雨下らずして候を、天子の雨を我が雨と申すは、又善無畏等よりも大にまさる失のあるなり。第一の大妄語には弘法大師の自筆に云く 弘仁九年の春、疫れいをいのりてありしかば、夜中に日いでたりと云云。かゝるそらごとをいう人なり。此の事は日蓮が門下第一の秘事なり。本分をとりつめ(取詰)ていうべし。
 仏法はさてをきぬ。上にかきぬる事天下第一の大事なり。つで(伝)にをほせあるべからず。御心ざしのいたりて候へばをどろかしまいらせ候。日蓮をばいかんがあるべかるらんとをぼつかなしとをぼしめすべきゆへにかゝる事ども候。むこり(蒙古)国だにもつよくせめ候わば、今生にもひろまる事も候なん。あまりにはげしくあたりし人々は、くゆるへんもやあらんずらん。
 外道と申すは仏前八百年よりはじまりて、はじめは二天三仙にてありしがやうやくわかれて九十五種なり。其の中に多くの智者神通のものありしかども、一人も生死をはなれず。又帰伏せし人々も、善につけ悪につけ皆三悪道に堕ち候ひしを、仏出世せさせ給ひてありしかば、九十五種の外道、十六大国の王臣諸民をかたらひて、或はのり、或はうち、或は弟子或はだんな等無量無辺ころせしかども、仏たゆむ心なし。我粉の法門を諸人にをどされていゐやむほどならば、一切衆生地獄に堕つべしとつよくなげかせ給ひしゆへに退する心なし。此の外道と申すは先仏の経々を見てよみそこなひて候ひしより事をこれり。
 今も又かくのごとし。日本の法門多しといへとも源は八宗・九宗・十宗よりをこれり。十宗の中に華厳等の宗々はさてをきぬ。真言と天台との勝劣に、弘法・慈覚・智証のまどひしによりて、日本国の人々、今生には他国にもせめられ、後生にも悪道に堕つるなり。漢土のほろび、又悪道に堕つることも、善無畏・金剛智・不空のあやまりよりはじまれり。又、天台宗の人々も慈覚・智証より後は、かの人々の智慧にせか(塞)れて天台宗のごとくならず。さればさのみやわあるべき。いやうや日蓮はかれにはすぐべきとわが弟子等をぼせども、仏の記文にはたがはず、末法に入て仏法をはう(謗)じ、無間地獄に堕つべきものは大地微塵よりも多く、正法をへたらん人は爪上の土よりもすくなしと、涅槃経にはとかれ、法華経には設ひ須弥山をなぐるものはありとも、我末法に法華経を経のごとくにとく者ありがたしと、記しをかせ給へり。大集経・金光明経・仁王経・守護経・はちなひをん(般泥・)経・最勝王経等に、末法に入て正法を行ぜん人出来せば、邪法のもの王臣等にうた(訴)へてあらんほどに、彼の王臣等、他人がことばにつひて一人の正法のものを、或はのり、或はせめ、或はながし、或はころさば、梵王・帝釈・無量の諸天、天神地祇等、りんごく(隣国)の賢王の身に入りかわりて、その国をほろぼすべしと記し給へり。今の世は似て候者哉。
 抑そも各々はいかなる宿善にて日蓮をば訪はせ給へるぞ。能々過去を御尋ね有らば、なにと無くとも此の度生死は離れさせ給ふべし。すりはむどく(須利槃特)は三箇年に十四字を暗にせざりしかども、仏に仏りぬ。提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ。是れ偏に末代の今の世を表する也。敢えて人の上と思し食すべからず。事繁ければ止め置き候ひ了んぬ。
 抑そも当時の忽々に御志申す計り候はねば、大事の事あらあらおどろかしまひらせ候。さゝげ・青大豆給候ひぬ。
六月二十二日 日 蓮 花押
西山殿御返事六月廿二日 日 蓮 花押
西山殿御返事
夫れ木をうへ候には、大風ふき候へども、つよきすけをかひぬればたうれず。《本より生て候木》なれども、