一生成仏鈔

建長七(1255)

夫無始の生死を留めて、此度決定して無上菩提を証せんと思はば、すべからく衆生本有の妙理を観ずべし。衆生本有の妙理者妙法蓮華経是也。故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば、衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり。文理真正の経王なれば文字即実相也。実相即妙法蓮華経也。唯所詮一心法界の旨を説き顕を妙法と名く。故に此経を諸仏の智慧とは云ふなり。一心法界の旨者 十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず、ちりも残らず、一念の心に収て、此の一念の心法界に・満するを指て万法とは云なり。此の理を覚知するを一心法界とも云なるべし。
 但妙法蓮華経と唱へ持つと云とも若己身の外に法ありと思はば、全く妙法にあらず、・法なり。・法は今経にあらず。今経にあらざれば方便也。権門也。方便権門の教ならば、成仏の直道にあらず。成仏の直道にあらざれば、多生曠劫の修行を経て、成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶がたし。故に妙法と唱へ蓮華と読ん時は、我一念を指て妙法蓮華経と名くるぞと、深く信心を発すべきなり。都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我心の外に有とはゆめゆめ思ふべからず。
 然れば仏教を習ふといへども、心性を観ぜざれば全く生死を離るゝ事なきなり。若心外に道を求て、萬行万善を修せんは、譬ば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども、半銭の得分もなきが如し。然れば天台の釈の中には ̄若不観心不滅重罪〔若し観心せざれば重罪滅せず〕とて、若心を観ぜざれば、無量の苦行となると判ぜり。故にかくの如きの人をば仏法を学して外道となると恥しめられたり。爰を以て止観には ̄雖学仏教還同外見〔仏教を学ぶと雖も還りて外見と同じ〕と釈せり。
 然間仏の名を唱へ経巻をよみ、華をちらし、香をひねるまでも、皆我が一念に納たる功徳善根なりと、信心を取べきなり。依之浄名経の中には諸仏の解脱を衆生心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃なりと明せり。又衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云も土に二の隔なし。只我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云も仏と云も亦如此。迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬ば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡となるべし。深く信心を発して、日夜朝暮に又怠らず磨くべし。何様にしてか磨くべき。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云なり。
 抑も妙とは何と云ふ心ぞや。只我が一念の心不思議なる処を妙とは云ふなり。不思議とは心も及ばず語も及ばずと云ふ事なり。然ればすなわち、起るところの一念の心を尋ね見れば、有りと云はんとすれば色も質もなし。又無しと云はんとすれば様様に心起る。有と思ふべきに非ず、無と思ふべきにも非ず。有無の二の語も及ばず、有無の二の心も及ばず。有無に非ずして、而も有無に・して、中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名づくるなり。
 此妙なる心を名づけて法とも云ふなり。此法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名づく。一心を妙と知ぬれば、亦変じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云ふなり。然ればすなわち、善悪に付て起り起る処の念心の当体を指て、是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば、成仏の直道とは云ふなり。此旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば、一生成仏更に疑あるべからず。故に経文には於我滅度後 応受持斯経 是人於仏道 決定無有疑〔 我が滅度の後に於て 斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定して疑あることなけん〕とのべたり。努努不審をなすべからず。穴賢穴賢。一生成仏の信心。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。