一代聖教大意

正嘉二(1258)

 四教は一には三蔵教・二には通教・三には別教・四には円教なり。 始めに三蔵とは阿含経之意也。此の経の意は六道より外を明かさず。但六道「地餓畜修人天」之内の因果の道理を明かす。但し正報は十界を明かす也。地・餓・畜・修・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏也。依報が六にて有れば六界と申す也。此の教の意は六道より外を明かさざれば三界より外に浄土と申す生処ありと云はず。又三世に仏は次第次第に出世すとは云へども、横に十方に列べて仏有りとも云はず。
 三蔵とは一には経蔵[亦云く 定蔵]、二には律蔵[亦云く 戒蔵]、三には論蔵[亦云く 慧蔵]。但し経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒と云ふ事ある也。
 戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒也。定蔵とは味禅[定名]・浄禅・無漏禅也。慧蔵とは苦・空・無常・無我之智慧也。戒定慧の勝劣を云ふは、但上の戒計りを持つ者は三界之内欲界の人天に生を受くる凡夫也。但し上の定計りを修する人は戒を持たずとも特定の力に依てうえの戒を具する也。此の底の内に味禅・浄禅は三界の内の色無色界へ生ず。無漏禅は声聞・縁覚と成りて見思を断じ尽くし、灰身滅智する也。慧は又、苦・空・無常・無我と色心を観ずれば、上の戒定を自然に具足して声聞・縁覚とも成る也。故に戒より定勝れ、定より慧は勝れたり。而れども、此の三蔵教の意は戒が本体にてある也。されば阿含経を總結する遺教経には戒を説ける也。此の教の意は依報には六界、正報には十界を明かせども、依報に随て六界を明かす経と名づくる也。又正報に十界を明かせども、縁覚・菩薩・仏も声聞の覚りを過ぎざれば但声聞教と申す。されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教也。声聞に付けて七賢七聖之位あり。六道は凡夫なり。
    ┌─ 一五停心
┌云智事也 ┌─三賢──┼─ 二別想念処
│   │  └─ 三總想念処
   七賢 ────┤
  │ ┌─ 一・法
  │ ├─ 二頂法
  └─四善根─┤
├─ 三忍法
└─ 四世第一法  此の七賢の位は六道の凡夫より賢く、生死を厭ひ煩悩を具しながら発さざる賢人也。譬へば外典の許由・巣父が如し。  ┌─ 一 数息 ── 息を数へて散乱を治す
  ├─ 二 不浄 ── 身の不浄を観じて貪を治す
  五停心─┼─ 三 慈悲 ── 慈悲を観じて疾妬を治す
  ├─ 四 因縁 ── 十二因縁を観じて愚癡を治す
└─ 五 界方便── 地水火風空識の六界を観じて障道を治す   [亦云 念仏]   ┌─ 一 身 ── 外道は身を浄と云ひ、仏は不浄と説きたまふ   │
  ├─ 二 受 ── 外道は三界を楽と云ひ、仏は苦と説きたまふ   │
別想念処四─┤
  ├─ 三 心 ── 外道は心を常と云ひ、仏は無常と説きたまふ   │
└─ 四 法 ── 外道は一切衆生に有我と云ひ、仏は無我と説きたまふ  外道は常心・楽受・我法・浄身、仏は苦・不浄・無常・無我と説く。
 總想念処──先の苦・不浄・無常・無我を調練して観ずる也。
 ・法────智慧の火、煩悩の籬を蒸せば煙の立つ也。故に・法と云ふ。
 頂法────山の頂に登りて四方を見るに雲無きが如し。世間・出世間の因果の道理を委しく知りて闇無き事に譬へたる也。始め五停心より此の頂法に至るまで、退位と申して、悪縁に値へば悪道に堕つ。而れども此の頂法の善根は失せずと習ふ也。
 忍法────此の位に入る人は永く悪道に堕ちず。
 世第一法──此の位に至るまでは賢人也。但し今に聖人となるべし。    ┌─ 随信行──鈍根
   ┌─ 一に見道   二 ─┤
   │     └─ 随法行──利根
 ┌正ト云事也│  
 │    │     ┌─一、信解──鈍根
七聖者 ───┼─ 二に修道   三 ─┼─二、見得──利根
   │ └─三、身証──利鈍に亘る
   │
   │ ┌阿羅漢 ┌─ 慧解脱──鈍根
   └─ 三に無学道  二 ─┤
└─ 倶解脱──利根  見思の煩悩を断ずる者を聖と云ふ。此の聖人に三道あり。見道とは見思の内の見惑を断じ尽くす。此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す。此の人は欲界の人天に生まるとも、永く地・餓・畜・修の四悪趣には堕ちず。天台云く ̄破見惑故離四悪趣〔見惑を破るが故に四悪趣を離る〕[文]。此の人は未だ思惑を断ぜず、貪瞋癡身に有り。貪欲ある故に妻を帯す。而れども他人の妻を犯さず。瞋恚あれども物を殺さず。鋤を以て地をすけば虫自然に四寸去る。愚痴なる故に我が身初果の聖者と知らず。婆沙論に云く ̄初果聖者妻八十一度一夜犯〔初果の聖者は妻を八十一度一夜に犯すと〕[取意]。天台の解釈に云く ̄初果耕地虫離四寸道共力也〔初果、地を耕すに虫四寸離るは道共の力なり〕と。第四果の聖者阿羅漢を無学と云ひ、亦は不生と云ふ。永く見思を断じ尽くして三界六道に此の生の尽きて後生ずべからず。見思の煩悩無きが故也。
又此の教の意は三界六道より外に処を明かさざれば外の生処有りと知らず。身に煩悩有りとも知らず。又生因無く但灰身滅智と申して身も心もうせ虚空の如く成るべしと習ふ。法華経にあらずば永く仏になるべからずと云ふは二乗是れ也。此の教の修行の時節は声聞は三生[鈍根]六十劫[利根]。又一類の最上の利根の声聞一生の内に阿羅漢の位に登る事有り。縁覚は四生[鈍根]百劫[利根]菩薩は一向凡夫にて見思を断ぜず。而も四弘誓願を発し、六度萬行を修し、三僧祇百大劫を経て三蔵教の仏と成る。仏と成る時始めて見思を断尽する也。見惑とは、一には身見[亦云 我見]・二には辺見[亦云 断見常見]・三には邪見[亦云 撥無見]・四には見取見[亦云 劣謂勝見]・五には戒禁取見[亦云 非因計因。非道計道見]なり。見惑は八十八有れども此の五が本にて有る也。思惑とは、一には貪・二には瞋・三には癡・四には慢なり。思惑は八十一有れども此の四が本にて有る也。
此の法門は阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・倶舎論に具さに明かせり。別して倶舎宗と申す宗有り。又諸の大乗に此の法門少々明かしたる事あり。謂く方等部の経・涅槃経等なり。但し華厳・般若・法華には此の法門無し。 次に通教とは[大乗の始め也]。又戒定慧の三学あり。此の経のおきて、大旨は六道を出でず。少分利根なる菩薩六道より外を推出だすことあり。声聞・縁覚・菩薩共に一つ法門を習ひ、見思を三人共に断じ、而も声聞・縁覚は灰身滅智の意に入る者もあり、入らざる者もあり。此の教に十地あり。  ┌─ 一 乾慧地 ──── 三賢 \
  │       >賢人
  ├─ 二 性地 ───── 四善根/
  │    ┌─見道位
  ├─ 三 八人地 ─────── 聖人
  │ >見惑断
  ├─ 四 見地 ──────── 初果聖人
  │
  十地  ├─ 五 薄地  \  
  │  \
  ├─ 六 離欲地 ──> 思惑断
  │ /
  ├─ 七 已弁地 ──阿羅漢── 見思断尽
  │
  ├─ 八 辟支仏地 ────── 見思尽
  │
  ├─ 九 菩薩地 
  │
  └─ 十 仏地 ──────── 見思断尽  此の通教の法門は別して一経に限らず、方等経・般若経・心経・観経・阿弥陀経・双観経・金剛般若等の経に散在せり。此の通教の修行の時節は動踰塵劫を経て仏に成ると習ふなり。又一類疾く成ると云ふ辺もあり。
 已上、上の蔵通二教は六道の凡夫本より仏性ありとも談ぜず。初めて修すれば声聞・縁覚・菩薩・仏とおもひおもひ成ると談ずる義也。 次に別教。又戒定慧の三学を談ず。此の教は但菩薩の計り(許り)にて声聞・縁覚を雑えず。菩薩戒とは三聚浄戒也。五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒。梵網の五十八戒・瓔珞の十無尽戒・華厳の十戒・涅槃経の自行の五支戒・護他の十戒・大論の十戒。此等は皆菩薩の三聚浄戒の内、摂律儀戒也。摂善法戒とは八万四千の法門を摂す。饒益有情戒とは四弘誓願也。定とは観・練・薫・修の四種の禅定なり。慧とは心生十界の法門也。五十二位を立つ。五十二位とは、一に十信・二に十住・三に十行・四に十回向・五に十地・等覚[一位]・妙覚[一位]已上五十二位。  ┌─ 一 十信  ────── 退位
  │     \──── 凡夫菩薩未断見思
  │
  ├─ 二 十住  \───── 不退位
  │ \ / /
  ├─ 三 十行  ──×─<
  │         / \ \
五十二位  ├─ 四 十回向 ────── 見思塵沙断菩薩
  │
  ├─ 五 十地  ────\  
  │     > 無明断菩薩
  ├─ 六 等覚  ────/
  │
  └─ 七 妙覚  ────── 無明断尽仏  此の教は大乗なり。戒定慧を明かす。戒は前の蔵通二教に似ず、尽未来際の戒、金剛法戒也。此の教の菩薩は三悪道をば恐れとせず。二乗道を三悪道と云ひて、地・餓・畜等の三悪道は仏の種子を断ぜず、二乗道は仏の種子を断ず。大荘厳論に云く ̄雖恒処地獄 不障大菩提。若起自利心 是大菩提障〔恒に地獄に処すと雖も、大菩提を障らず。若し自利の心を起さば、是れ大菩提の障りなり〕と。此の教の習ひは真の悪道とは三無畏の火坑なり。真の悪人とは二乗を立てる也。されば悪をば造るとも二乗の戒をば持たじと談ず。故に大般若経に云く_若菩薩設 恒河沙劫((歹+克)河沙) 受妙五欲 於菩薩戒 猶不名犯。若起一念 二乗之心 即名為犯〔若し菩薩設ひ恒河沙劫((歹+克)河沙)に妙なる五欲を受くるとも、菩薩戒に於て猶お犯すと名づけず。若し一念にも二乗の心を起さば、即ち名づけて犯となす〕[文]。此の文に妙なる五欲とは、色声香味触の五欲なり。色欲とは青黛・珂雪・白歯等。声欲とは絲竹管絃。香欲とは沈檀芳薫。味欲とは猪鹿等の味。触欲とは軟膚等なり。此の五欲には、恒河沙劫((歹+克)河沙)の間著すとも菩薩戒は破れず。一念にも二乗の心を起さば菩薩戒は破ると云へる文也。
 太賢古跡に云く ̄雖貪所汚 不尽大心 無無余犯 故名無犯〔貪に汚さると雖も、大心尽きず。無余の犯なきが故に無犯と名づく〕[文]。二乗の戒に趣くを菩薩の破戒とは申す也。華厳・般若・方等、總じて爾前の経にはあながちに二乗をきらうなり。定慧此れを略す。
 梵網経に云く_戒謂為平地 定謂為室宅。智慧為燈明〔戒をば謂て平地となし、定をば謂て室宅となす。智慧はこれ燈明なり〕[文]。此の菩薩戒は人・畜・黄門・二形の四種を嫌はず。但一種の菩薩戒を授く。此の教の意は五十二位を一々の位に多倶低劫を経て衆生界を尽くして仏に成るべし。一人として一生に仏に成る物無し。又一行を以て仏に成る事無し。一切行を積みて仏と成る。微塵を積みて須弥山と成るが如し。華厳・方等・般若・梵網・瓔珞等の経に此の旨分明也。但し二乗界の此の戒を受くる事を嫌ふ。妙楽の釈に云く ̄遍尋法華已前諸教 実無二乗作仏之文〔遍く法華已前の諸教を尋ぬるに実に二乗作仏の文なし〕[文]。 次に円教。此の円教に二有り。一には爾前の円・二には法華・涅槃の円也。爾前の円に五十二位又戒定慧あり。
 爾前の円とは華厳経の法界唯心の法門。文に云く_初発心時便成正覚〔初発心の時便ち正覚を成ず〕と。又云く_円満修多羅[文]。浄名経に云く_無我無造無受者 善悪之業不敗亡〔無我無造にして受者なけれども、善悪の業敗亡せず〕[文]。般若経に云く_従初発即坐道場〔初発心より即ち道場に坐す〕[文]。観経に云く_韋提希応時 即得無生法忍〔韋提希、時に応じて即ち無生法忍を得〕[文]。梵網経に云く_衆生受仏戒 位同大覚位 即入諸仏位 真是諸仏子〔衆生、仏戒を受くれば、位、大覚位に同じ、即ち諸仏の位に入り、真に是れ諸仏の子なり〕[文]。此れは皆爾前の円の証文也。此の教の意は又五十二位を明かす。名は別教の五十二位の如し。但し義はかはれり。其の故は五十二位が互いに具して浅深も無し、勝劣も無し。凡夫も位を経ずとも仏に成る。又往生する也。煩悩も断ぜざれども仏に成るに障り無く、一善一戒を以ても仏に成る。少々開会の法門を説く処もあり。所謂、浄名経には凡夫を会す。煩悩悪法も皆会す。但し二乗を会せず。般若経の中には二乗の所学の法門をば開会して二乗の人と悪人をば開会せず。観経等の経に凡夫一亳の煩悩をも断ぜずして往生すと説くは、皆爾前の円教の意也。法華経の円経は後に至りて書くべし[已上四教]。 次に五時。五時とは一には華厳経[結経ハ梵網経]別円二教を説く。二には阿含経[結経ハ遺教経]但三蔵教の小乗の法門を説く。三には方等経・宝積経・観経等の説時を知らざる大乗経也[結経ハ瓔珞経]。蔵通別円の四教を皆説く。四には般若経[結経ハ仁王経]通教・別教・円教の後三教を説く。三蔵教を説かず。華厳経は三七日の間の説。阿含経は十二年之説。方等・般若は三十年之説。已上、華厳より般若に至る四十二年也。山門之義には方等は説時定まらず。説処定まらず。般若経三十年と申す。寺門の義には方等十六年般若十四年と申す。秘蔵之大事之義には方等・般若は説時三十年。但し方等は前、般若は後と申す也。
 仏は十九出家、三十成道と定むる事は大論に見えたり。一代聖教五十年と申す事は涅槃経に見えたり。法華経已前四十二年と申す事は無量義経に見えたり。法華経八箇年と申す事は涅槃経の五十年の文と無量義経の四十二年之文の間を勘ふれば八箇年也。已上、十九出家、三十成道、五十年之転法輪、八十入滅と定むべし。
 此等の四十二年之説教は皆法華経之汲引之方便也。其の故は、無量義経に云く_我先道場。菩提樹下。端坐六年。得成阿耨多羅三藐三菩提〔我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり〕 ○以方便力。四十余年。未顕真実〔方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず〕。初説四諦〔初め四諦を説いて〕[阿含経也]。次説方等。十二部経。摩訶般若。華厳海空。〔次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて〕[文]。私に云く 説の次第に順ずれば、華厳・阿含・方等・般若・法華・涅槃なり。法門の浅深之次第を列ねば、阿含・方等・般若・華厳・法華・涅槃と列ぬべし。されば法華経・涅槃経に爾の如く見えたり。
 華厳宗と申す宗は、智儼法師・法蔵法師・澄観法師等の人師華厳経に依て立てたり。倶舎宗・成実宗・律宗は、宝法師・光法師・道宣等の人師、阿含経に依て立てたり。法相宗と申す宗は、玄奘三蔵・慈恩法師等、方等部の内に上生経・下生経・成仏経・深密経・解深密経・瑜伽論・唯識等の経論に依て立てたり。三論宗と申す宗は、般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依て吉蔵大師立てたり。華厳宗と申す宗は、華厳と法華・涅槃は同じく円教と立つ。余は皆列と云ふなるべし。法相宗には深密・解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云ふ。三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経也。但し法相之依経の諸小乗経は劣也と立つ。此等は皆法華已前の諸教に依て立てたる宗也。爾前の円を極として立てたる宗ども也。宗々の人々の諍いは有れども、経々に依て勝劣を判ぜん時はいかにも法華経は勝れたるべき也。人師之釈を以て勝劣を論ずる事無し。
 五には法華経と申すは開経には無量義経[一巻] 法華経八巻 結経には普賢経[一巻]。上の四教四時の経論を書き挙ぐる事は此の法華経を知らん為也。法華経の習ひとしては前の諸経を習はずして永く心得こと莫き也。
 爾前の諸経は一経一経を習ふに又余経を沙汰せざれども苦しからず。故に天台の御釈に云く ̄若弘余経不明教相於義無傷。若弘法華不明教相者文義有闕〔もし余経を弘むるには教相を明らめざれども、義に於て傷むことなし。もし法華を弘むるには教相を明かさずんば文義闕けることあり〕[文]。法華経に云く_雖示種種道 其実為仏乗〔種々の道を示すと雖も 其れ実には仏乗の為なり〕[文]。種種道と申すは爾前一切の諸経也。為仏乗とは法華経之為に一切之経を説くと申す文也。
 問ふ 諸経の如きは或は菩薩の為、或は人天の為、或は声聞・縁覚の為、機に随て法門もかわり益もかわる。此の経は何なる人の為ぞや。
 答ふ 此の経は相伝に有らざれば知り難し。悪人善人・有智無智・有戒無戒・男子女人・四趣八部。総じて十界之衆生の為也。所謂、悪人は提婆達多・妙荘厳王・阿闍世王。善人は韋提希等の人天の人。有智は舎利弗、無智は須利槃特。有戒は声聞・菩薩、無戒は龍・畜也。女人は龍女也。総じて十界の衆生円の一法を覚る也。此の事を知らざる学者、法華経は我等凡夫の為には有らずと申す。仏意恐れ有り。此の経に云く_一切菩薩。阿耨多羅三藐三菩提。皆属此経〔一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此の経に属せり〕[文]。此の文は菩薩とは九界之衆生、善人悪人女人男子、三蔵教の声聞・縁覚・菩薩、通教之三乗、別教之菩薩、爾前之円教之菩薩、皆此の経の力に有らざれば仏に成るまじと申す文也。又此の経に云く_薬王。多有人。在家出家。行菩薩道。若不能得。見聞読誦。書持供養。是法華経者。当知是人。未善行菩薩道。若有得聞。是経典者。乃能善行。菩薩之道。〔薬王、多く人あって在家・出家の菩薩の道を行ぜんに、若し是の法華経を見聞し読誦し書持し供養すること得ること能わずんば、当に知るべし、是の人は未だ善く菩薩の道を行ぜざるなり。若し是の経典を聞くこと得ることあらん者は、乃ち能善菩薩の道を行ずるなり〕。此の文は顕然に権教之菩薩の三祇百劫・動踰塵劫・無量阿僧祇劫之間之六度萬行四弘誓願は此の経に至らざれば菩薩之行には有らず、善根を修したるにも有らずと云ふ文也。
 又菩薩の行無ければ仏にも成らざる事も顕然也。天台・妙楽の末代之凡夫を勧進する文。文句に云く ̄好堅処地牙已百囲。頻伽在殼声勝衆鳥〔好堅、地に処して牙已に百囲せり。頻伽、かこいに在りて声衆鳥に勝れたり〕[文]。此の文は法華経の五十展転の第五十之功徳を釈する文也。仏苦(ねんごろ)に五十転々にて説き給ふ事、権教之多劫之修行、又大聖之功徳よりも此の経之須臾結縁、愚人之随喜之功徳、百千万億勝れたる事教に見えつれば、此の意を大師譬へを以て顕し給へり。好堅樹と申す木は一日に百囲にて高くをう。頻伽と申す鳥は、幼きだも諸の大小之鳥之声に勝れたり。権教之修行之久しき諸の草木の遅く生長するを譬へ、法華之行速やかに仏に成る事を一日に百囲なるに譬ふ。権教の大小の聖をば諸鳥に譬へ、法華之凡夫之はかなきを殼の声の衆に勝るに譬ふ。
 妙楽大師重ねて釈して云く ̄恐人謬解者不測初心功徳之大 而推功上位蔑此初心。故今示彼行浅功深以顕経力〔恐らくは人謬り解せん者初心の功徳之大なることを測らずして、功を上位に推り此の初心を蔑にせん。故に今彼の行浅く功深きことを示して以て経力を顕はす〕[文]。末代之愚者は法華経は深理にしていみじけれども、我が下機に叶はずと云ひて法を挙げ機を下して退する者を釈する文也。又妙楽大師末代に此の法を捨てられん事を歎ひて云く ̄聞此円頓不崇重者 良由近代習大乗者雑濫故也〔此の円頓を聞いて崇重せざる者は良に近代大乗を習う者の雑濫に由るば故也〕。況んや ̄像末情澆信心寡薄 円頓教法溢蔵盈函不暫思惟。便至瞑目。徒生徒死。一何痛哉〔像末は情澆く、信心寡薄にして 円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず。便ち目を瞑くに至る。徒に生じ徒に死す。一に何ぞ痛き哉〕。
有人云く 聞いて而も行わずんば、汝に於て何ぞ預からん。此れは未だ深く久遠之益を知らず。善住天子経の如き、文殊、舎利弗に告ぐ。法を聞き謗を総じて地獄に堕つるは恒沙の仏を供養する者に勝れたり。地獄に堕つると雖も、地獄より出でて還りて法を聞くことを得ると。此れは仏を供し法を聞かざる者を以て校量せり。聞いて而も謗を生ずる、尚お遠種と為る。況んや聞いて思惟し勤めて修習せんを耶と。
 又云く ̄一句染神咸資彼岸。思惟修習永用舟航。随喜見聞恒為主伴。若取若捨経耳成縁。或順或違終因斯脱〔一句も神に染みぬれば咸く彼岸を資く。思惟修習、永く舟航に用たり。随喜見聞、恒に主伴と為る。若しは取、若しは捨、耳に経ては縁を成ず。或は順、或は違、終に斯れに因て脱す〕[文]。私に云く ̄若取若捨 或順或違之文は肝に銘ずる也。法華翻経後記に云く ̄「釈僧肇記」 什[羅什三蔵也] 対姚興王曰 予昔在天竺国時 遍遊五竺 尋討大乗 従大師須利耶蘇摩(冫+食)受理味 摩頂此経属累言 仏日西山隠遺耀照東北。茲典有縁東北諸国。汝慎伝弘〔姚興王に対して曰く 予、昔天竺国に在りし時、遍く五竺に遊んで、大乗を尋討し、大師須利耶蘇摩に従て理味を(冫+食)受するに、頂を摩でて此の経を属累して言く 仏日西山に隠れ遺耀東北を照らす。茲の典東北の諸国に有縁なり。汝、慎んで伝弘せよ〕[文]。私に云く 天竺よりは此の日本は東北之州也。慧心之一乗要決に云く ̄日本一州円機純一 朝野遠近同帰一乗 緇素貴賎悉期成仏。唯一師等 若不信受 為権為実。為権者可貴。浄名云 覚知衆魔事而不随其行 以善力方便 随意而度。為実者可哀。此経云 当来世悪人 聞仏説一乗 迷惑不信受 破法堕悪道〔日本一州円機純一なり。朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賎悉く成仏を期す。唯一師等あて、若し信受せざれば権とや為ん実とや為ん。権と為さば貴むべし。浄名に云く ̄衆の魔事を覚知して而も其の行に随はず、善力方便を以て意に随て而も度すと。実と為さば哀れむべし。此の経に云く 当来世の悪人は 仏説の一乗を聞いて 迷惑して信受せず 法を破して悪道に堕せん〕[文]。
妙法蓮華経。
妙は天台玄義に云く ̄所言妙者妙名不可思議也〔言ふ所の妙とは、妙は不可思議に名づくるなりと〕。又云く ̄発秘密之奥蔵称之為妙〔秘密の奥蔵を発く、之を称して妙と為す〕。又云く ̄妙者最勝修多羅甘露門也。故言妙也〔妙とは最勝修多羅甘露の門なり。故に妙と言ふなり〕。
法は玄義に云く ̄所言法者 十界十如 権実之法也〔言ふ所の法とは十界十如、権実の法なり〕。又云く ̄示権実之正軌故号為法〔権実の正軌を示す故に号して法と為す〕。
蓮華は玄義に云く ̄蓮華者譬権実之法也〔蓮華とは権実の法を譬ふるなり〕。又云く ̄指久遠本果 喩之以蓮 会不二之円道 譬之以華〔久遠の本果を指す、之を喩ふるに蓮を以てし、不二の円道に会す、之を譬ふるに華を以てす〕[文]。経は又云く ̄声為仏事 称之為経〔声、仏事を為す、之を称して経と為す〕[文]。
 私に云く 法華以前之諸経に、小乗は心生ずれば六界、心滅すれば四界也。通教以て是の如し。爾前の別円の二教は心生の十界也。小乗之意は六道四生之苦楽は衆生之心より生ずと習ふなり。されば心滅すれば六道の因果は無き也。大乗の心は心より十界を生ず。華厳経に云く_心如工画師造種種五陰。一切世間界中無法而不造〔心は工画師の如く種種の五陰を造る。一切世間界の中に法として造らざること無し〕[文]。_造種種五陰とは、十界之五陰也。仏界をも心法をも造ると習ふ。心が過去・現在・未来の十方之仏と顕ると習ふ也。華厳経に云く_若人欲了知三世一切仏 応当如是観。心造諸如来〔若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば、まさに是の如く観ずべし。心は諸の如来を造ると〕。
 法華已前之経之おきては上品之十悪は地獄之引業、中品之十悪は餓鬼の引業、下品之十悪は畜生の引業、五常は修羅の引業、三帰・五戒は人の引業、三帰・十善は六欲天の引業也。有漏の坐禅は色界・無色界の引業、五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒・五百戒之上に苦・空・無常・無我之観は声聞・縁覚之引業。五戒・八戒・乃至三聚浄戒之上に六度・四弘之菩提心を発すは菩薩也。仏界の引業也。蔵通二教には仏性之沙汰無し。但菩薩之発心を仏性と云ふ。別円二教には衆生に仏性を論ず。但し別教之意は二乗に仏性を論ぜず。爾前之円教は別教に附して、二乗之仏性之沙汰無し。此れ等は皆・法也。
 今の妙法蓮華経とは此れ等の十界を互いに具すと説く時、妙法と申す。十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し、十界互いに具すれば百法界なり。玄義二に云く ̄又一法界具九法界 即有百法界〔又一法界に九法界を具すれば即ち百法界千如是有り〕。法華経とは別の事無し。十界之因果は爾前の経に明かす。今は十界之因果互具をおきてたる計り也。爾前之経意は菩薩をば仏に成るべし、声聞は仏に成るまじなんど説けば、菩薩は悦び声聞はなげき人天等はおもひもかけずなんとある経も有り。或は二乗は見思を断じて六道を出でんと念ひ、菩薩はわざと煩悩を断ぜずして六道に生まれて衆生を利益せんと念ふ。或は菩薩の頓悟成仏を見、或は菩薩の多倶低劫の修行を見、或は凡夫往生之旨を説けば菩薩・声聞の為には有らずと見て、人之不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏、凡夫の往生は我が往生、聖人の見思断は我等凡夫の見思断とも知らずして、四十二年は過ぎし也。
 而るに今の経にして十界互具を談ずる時、声聞之自調自度之身に菩薩界を具すれば六度万行も修せず、多倶低劫も経ぬ声聞が諸の菩薩のからくして修したりし無量無辺の難行道が声聞に具する間、をもはざる外に声聞が菩薩と云はる。人をせむる獄卒、慳貪なる凡夫も亦菩薩と云はる。仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ、妙覚ながら等覚也。薬草喩品に声聞を説いて云く_汝等所行 是菩薩道〔汝等が所行は 是れ菩薩の道なり〕。又我等六度をも行ぜざるが、六度満足の菩薩なる文。経に云く_雖未得修行。六波羅蜜。六波羅蜜。自然在前〔未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し〕。我等一戒をも受けざるが、持戒の者と云はる文。経に云く_是則勇猛 是則精進 是名持戒 行頭陀者〔是れ則ち勇猛なり 是れ則ち精進なり 是れを戒を持ち 頭陀を行ずる者と名く〕[文]。
問て云く 諸経にも悪人成仏。華厳経の調達之授記、普超経の闍王の授記、大集経の婆籔天子之授記。又女人成仏。胎経の釈女之成仏。畜生成仏。阿含経の鴿雀之授記。二乗成仏。方等だらに経・首楞厳経等也。菩薩の成仏は華厳経等。具縛の凡夫の往生は観経之下品下生等。女人の女身を転ずるは双観経之四十八願之中の三十五之願。此れ等は法華経之二乗・龍女・提婆・菩薩の授記に何なるかわりめかある。又設ひかわりめはありとも諸経にても成仏はうたがひなし、如何。
 答ふ。予之習ひ伝ふる処の法門、此の答に顕るべし。此の答に法華経の諸経に超過し、又諸経の成仏を許し、許さぬは聞こふべし。秘蔵之故に顕露に書さず。
 問て曰く 妙法を一念三千と云ふ事、如何。
 答ふ 天台大師此の法門を覚り給ひて後、玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等之多くの法門を説き給ひしかども、此の一念三千をば談義し給はず。但十界・百界・千如の法門ばかりにておはしましし也。御年五十七之夏四月の比、荊州之玉泉寺と申す処にて、御弟子章安大師と申す人に説き聞かせ給ひし止観十巻あり。上の四帖に猶おをしみ給ひて但六即・四種三昧等計りの法門にてありしに、五の巻より十境十乗を立てて一念三千の法門は書し給へり。此れを妙楽大師末代之人に勧進して言く ̄竝以三千而為指南 ○請尋読者心無異縁〔竝びに三千を以て指南と為せり ○請ふ、尋ね読まん者心に異縁無かれ〕[文]。六十巻三千丁之多くの法門も由無し。但此の初めの二三行を意得べき也。止観の五に云く ̄夫一心具十法界。一法界又具十法界百法界。一界具三十種世間百法界即具三千種世間。此三千在一念心〔夫れ一心に十法界を具す。一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千一念の心に在り〕[文]。妙楽承け釈して云く ̄当知身土一念三千。故成道時称此本理一身一念遍於法界〔当に知るべし、身土は一念三千なり。故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍ねし〕[文]。
日本之伝教大師、此の叡山建立の時、根本中堂之地を引き給ひし時、地中より舌八ある鑰を引き出したりき。此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代妙楽大師の御弟子道邃和尚に値ひ奉りて天台の法門を伝へし時、天機秀発の人たりし間、道邃和尚悦んで天台之造り給へる十五之経蔵を開き見せしめ給ひしに、十四を開いて一の蔵を開かず其の時伝教大師云く 師此の一蔵を開き給へと請ひしに、邃和尚云く 此の一蔵は開くべき鑰無し。天台大師自ら出世して開く給ふべしと云云。其の時、伝教大師、日本より随身の鑰を以て開き給ひしに、此の経蔵開きたりしかば、経蔵之内より光室に満ちたりき。その光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりし也。ありがたかりし事也。其の時邃和尚は返りて伝教大師を礼拝し給ひき。天台大師の後身と云云。依て天台之経蔵の所釈は遺り無く日本に互りし也。天台大師之御直筆の観音経、章安大師之直筆之止観、今比叡山の根本中堂に収めたり。  ┌─ 一 自性 ─── 自力 ─── 伽毘羅外道
  │  二 他性 ─── 他力 ─── ・楼僧伽外道
  四性計─┤
  │  三 共性 ─── 共力 ─── 勒沙婆外道
  └─ 四 無因性─── 無因力─── 自然外道  外道に三人あり。一には仏法外の外道[九十五種之外道]・二には仏法成の外道[小乗]・三には附仏法之外道[妙法を知らざる大乗の外道也]。今の法華経は自力も定めて自力にあらず。十界の一切衆生を具する自なる故に。我が身に本より自の仏界、一切衆生の他の仏界我が身に具せり。されば今仏に成るに新仏にあらず。又他力も定めて他力に非ず。他仏も我等凡夫の自ら具せる故に。又他仏が我等の如き自に現同する也。共と無因は略す。
 法華経已前之諸経は十界互具を明かさざれば仏に成らんと願ふには必ず九界を厭ふ。九界を仏界に具せざる故也。されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると断ず。凡夫の身を仏に具すと云はざるが故に。されば人天・悪人之身をば失ひて仏に成ると申す。此れをば妙楽大師は厭離断九之仏と名づく。されば爾前之経之人々は仏之九界之形を現ずるをば、但仏之不思議之神変と思ひ、仏の身に九界が本よりありて現ずるとは云はず。されば実を以てさぐり給ふに、法華経已前には但権者の仏のみ有りて、実の凡夫が仏に成りたりける事は無き成り。煩悩を断じ九界を厭ひて仏に成らんと願ふには、実には九界を離れたる仏無き故に、往生したる実の凡夫も無し。人界を離れたる菩薩界も無き故に、但法華経之仏の爾前にして十界の形を現じて、所化とも能化とも悪人とも善人とも外道とも云はれし也。実の悪人・善人・外道・凡夫は方便之権を行じて真実の教えとうち思ひなしすぎし程に、法華経に来りて方便にてありけり、実には見思無明も断ぜざりけり、往生もせざりけりなんと覚知する也。一念三千は別に委しく書すべし。
 此の経には二妙あり。釈に云く ̄此経唯論二妙。一相待妙・二絶待妙〔此の経はただ二妙を論ずと。一には相待妙・二には絶待妙なり〕。相待妙の意は前の四時の一代聖教に法華経を相対して爾前と之を嫌ひ、爾前をば当分と云ひ法華を跨節と申す。絶待妙之意は一代聖教は即法華経なりと開会す。又法華経に二事あり。一には所開・二には能開なり。開・示・悟・入之文、或は皆已成仏道等の文。一部八巻二十八品六万九千三百八十四字。一一之字の下に妙之字あるべし。此れ能開之妙也。此の法華経は知らずして習ひ談ずる物は、但爾前の経の利益也。阿含経開会の文は、経に云く_我此九部法 随順衆生説 入大乗為本〔我が此の九部の法は 衆生に随順して説く 大乗に入るに為れ本なり〕と云云。華厳経開会の文は安楽行品之十八空之文。観経等之往生安楽開会之文は_於此命終。即往安楽世界〔此に於て命終して、即ち安楽世界〕等の文。散善開会之文は_一称南無仏 皆已成仏道〔一たび南無仏と称せし 皆已に仏道を成じき〕文。一切衆生開会之文は_今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子〔今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり〕。外典開会之文は若説俗間経書。治世語言。資生業等。皆順正法〔若し俗間の経書・治世の語言・資生の業等を説かんも、皆正法に順ぜん〕[文]。兜率開会の文、人天開会の文、しげきゆへにいださず。此の経を意得ざる人は、経の文に、此の経を読みて人天に生ずと説く文を見、或は兜率・・利なんどにいたる文を見、或は安養に生ずる文を見て、穢土に於て法華経を行せば、経はいみじけれども行者不退の地には至らざれば、穢土にして流転し、久しく五十六億七千万歳之晨を期し、或は人畜等に生まれて隔生する間、自らの苦み限りなしなんと云云。或は自力の修行なり、難行道なり等云云。此れは恐らくは爾前法華之二途を知らずして、自ら癡闇に迷ふのみにあらず、一切衆生之仏眼を閉じる人也。兜率を勧めたる事は小乗経に多し。少しは大乗経にも勧めたり。西方を勧めたる事は大乗経に多し。此れ等は皆所開之文也。法華経之意は、兜率に即して十方仏土中、西方に即して十方仏土中、人天に即して十方仏土中云云。法華経は悪人に対しては十界の悪を説くは悪人五眼を具しなんどすれば悪人の極まりを救ひ、女人に即して十界を談ずれば十界皆女人なる事を談ず。何にも法華円実之菩提心を発さん人は迷ひの九界へ業力を引かるゝ事無き也。此の意を存じ給ひけるやらん。
 法然上人も一向念仏之行者ながら、選択と申す文には雑行・難行道には法華経・大日経等をば除かれたる処も有り。委しく見よ。又慧心の往生要集にも法華経を除きたり。たとい法然上人・慧心、法華経を雑行・難行道として末代之機に叶はずと書し給ふとも、日 蓮は全くもちゆべからず。一代聖教之おきてに違ひ、三世十方之仏陀之誠言に違する故に。いわうやそのぎ無し。而るに後の人々の消息に法華経を難行道、経はいみじけれども末代之機に叶はず。謗ぜばこそ罪にても有るらめ、浄土に至りて法華経をば覚るべしと云云。日蓮之心はいかにも此の事はひが事と覚る也。かう申すもひが事にや有らん。能々智人に習ふべし。
   正嘉二年二月十四日
日 蓮 撰