さじき女房御返事
建治元年(1275.05・25) 真筆あり
女人は水のごとし、うつわ物にしたがう。女人は矢のごとし、弓につがはさる。女人はふねのごとし、かぢ(楫)のまかするによるべし。しかるに女人はをとこ(夫)ぬす人なれば、女人ぬす人となる。をとこ王なれば、女人きさきとなる。をとこ善人なれば、女人仏になる。今生のみならず、後生もをとこによるなり。しかるに兵衛のさゑもんどの(左衛門殿)は法華経の行者なり。たとひいかなる事ありとも、をとこのめ(妻)なれば、法華経の女人とこそ、仏はしろしめされて候らんに、又我とこゝろををこ(発)して、法華経の御ために御かたびらをくりたびて候。
法華経の行者に二人あり。聖人は皮をはいで文字をうつす。凡夫はただひとつきて候かたびらなどを、法華経の行者に供養すれば、皮をはぐうちに仏をさめさせ給ふなり。此の人のかたびらは法華経の六万九千三百八十四の文字の仏にまいらせさせ給ひぬれば、六万九千三百八十四のかたびら也。又六万九千三百八十四の仏、一々六万九千三百八十四の文字なれば、此のかたびらも又かくのごとし。たとへばはるの野の千里ばかりにくさのみちて候はんに、すこしきの豆ばかりの火をくさひとつにはなちたれば、一字に無量無辺の火となる。このかたびらも又かくのごとし。一のかたびらなれども法華経の一切の文字の仏にたてまつるべし。此の功徳は父母・祖父母乃至無辺の衆生にもをよぼしてん。まして我がいとをしとをもふをとこごは申すに及ばずと、おぼしめすべし。恐恐謹言。
五月二十五日 日 蓮 花押
さじき女房御返事